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第58話 花火の如く愛しき寝癖

 四千五百脚の並んだパイプ椅子、満席御礼の観覧者が空高くを見上げて、歓声を上げていた。 「うわぁ……」  俺も、綺麗だなぁと歓声を上げていた。  毎年ここで観てるんだ、観覧席をパイプ椅子並べて作って、へっとへとになりながら、とにかく喉が渇いて仕方のない中、見上げて、すごいなぁって思っただけだった。少し、この後の片付けに憂鬱さを感じながら、それでも子育て課には俺しか男性職員がいないのだから頑張らないとって、溜め息をこっそりと足元に落っことして。 「わ! 次の大きそうだっ」  けれど今年零したのは感嘆の溜め息。 「すご。火花が降り注ぐって感じですね」 「……あぁ、あっ! ほら、、また大きいのが来るぞ」 「おおおおお…………!」  疲弊した深呼吸じゃなくて、大きな、大きな花火の音に鼓動のところをドーンと叩かれた。その衝撃に、少し驚いて、ちょっと息が詰まって。 「すげっ、わー!」  隣で正嗣の上げる歓声に気持ちが弾んだ。 「綺麗ですね」 「……あぁ」  隣で微笑みながら夜空を見上げる彼の横顔に、ドキドキして。 「花火すごいな……」  毎年見ていた花火と変わらないのに、今年の花火はなんだかとても。 「わー! またデカイの来ますよ」  とても綺麗な気がした。 「って、俺、今気がついたんですけど」 「んー? どうした?」  正嗣が何かホラー映画でも観ているような顔をして、空席になった観覧席に目をやる。 「あ、あの」 「?」  始まる前は一糸乱れぬことなく並んでいたパイプ椅子たちも、今はもう見る影もなくあっちこっちとずれている。そのぐっちゃりと並ぶパイプ椅子を指さす、その指が心なしか震えてる。 「あの……これ」 「あぁ」 「出して並べたってことは、畳んで仕舞うってことですよね?」 「あぁ、そりゃそうだ」 「ひぃ!」  当たり前だろう? ここに置いておいて、ちちんぷいぷいで消えて、市役所倉庫に瞬間移動なんてするわけないんだから。 「マジでえええええ!」  もう花火の上がらない、さっきまで渦巻くようにここにあったワクワクが消え、祭りの後の淡々とした空気を正嗣の叫び声が切り裂く。 「ほら、叫んでないで、運ぶぞ」  そして、大丈夫、片付けは設置よりも案外楽だから、と話す自分の声が花火に慣れた耳には少し馴染まなくて不思議だった。  とても綺麗な花火だったけれど。でもそれが特別今年綺麗に思えた理由はわかってるんだ。正嗣が隣で見ていたからで、正嗣と見れたからで、正嗣がいたから。 「ふぅ」  風呂から出ると、安堵の溜め息が溢れた。  正嗣の部屋のバスルームは狭い。鏡も小さくて、そこに映る自分に毎回少し嬉しくなっていたりする。自分が今、彼の部屋にいるんだっていう実感が湧いて。もちろん、そんなだから、歯ブラシを一緒に置かせてもらえてることにも嬉しくなっている。  ――今夜は俺の部屋に泊まってください。  そう、バス停からの散歩、所要時間五分程度の中、耳元で少しセクシーな掠れ声で言われて、それにも、もちろん嬉しくなって。 「正嗣、風呂のスイッチ切ってしまうぞ」  嬉しくなっていたんだけど。  風呂から上がって、まだ濡れ髪のまま出てくると。 「……」  正嗣が寝ていた。  うつ伏せで。テレビでも見ていたのかもしれない。その手にはリモコンが握られていて、テレビは今、お笑い芸人たちが何か騒がしくしている様子が映し出されていた。 「……正嗣」  小さく呼んでみたけれど、起きる気配はない。疲れていたんだろう。そりゃ、そうか。暑い中、ほぼ一日長袖長ズボンで汗だくになっていたんだから。  寝顔が、可愛かった。うつ伏せで寝ているものだから、下敷きになっている方の頬が潰れて、いつもはとてもかっこいい彼の顔がとても台無しになってしまっていて、すごく愛おしい。  今夜は抱きあうだろうって思ったけれど。 「……おやすみなさい、正嗣」  こういう風に「抱き合って」眠る夜もとてもとても心地が良くて、気持ちが良くて、いいものだなって、そっと静かに彼の隣で目を閉じた。 「え……嘘……嘘でしょ」  少し遠くで、そしてだんだんと近くで聞こえた正嗣の声。  何か慌ててる? いや、困ってる? 「はぁ……マジか」  いやいや、なんだか溜め息をついて怒っている? 「あぁ、もう! なんで」  後悔しているようでもある。 「なんで寝てんの? グースカ」  俺のことだろうか。狸寝入りなんだと打ち明けるべきか? それとも、今、起きましたと、狸寝入りしながら正嗣の様子を盗み見ていたことは隠すべきか? 「荘司が一緒にいたのにー! バカか!」  あぁ、どうやら自分のことを叱っているらしい。 「……正嗣はバカじゃないよ」 「! 荘司!」  つい、そう訂正をしてしまった。 「おはよう、正嗣」 「んもー! どうして起こしてくれないんですか?」 「? 正嗣の方が先に起きたじゃないか」 「そーじゃなくて! 昨日ですよ! 俺、寝落ちして」 「あぁ」  俺はくすくす笑いながら、昨日の正嗣のようにうつ伏せに寝直して、手を自分の口元に持っていく。 「抱いてもらえると思って、期待してたのに……」  少し残念そうにしながら。 「寝てしまうんだもんな……」  わざと、寂しそうにしながら。 「ちょ! 荘司っ」 「なんてな。いや、期待はしてたけれど、でも、楽しかったよ」 「?」 「ヘトヘトな正嗣の観察は」 「ちょ! あのっ」  もう外は昨日の花火で彩られた夜空ではなく、燦々と太陽が輝く夏の元気な空で。 「今からでも!」 「また夜な」 「え? ちょっ。荘司!」 「昨日、帰りが遅かったから洗濯物回せなかったんだ。汗だくだっただろ? 洗わないと。これならすぐに乾くし」  あまりにも元気な夏空だから、それはまた後で、だ。 「えええええ!」 「いいだろ。だって、今夜もあるんだから」  抱き合える夜は昨日だけじゃなくて、今日でも明日でも、来週のいつだって、たくさんあるのだから。 「ほら、起きるぞ」 「…………っぷ」 「?」 「今、貴方に騎乗位してもらったら確かに笑っちゃって、なんかダメかも」 「は? な、何を朝からっ、っていうか笑うってなんでだ」 「だって、髪型、荘司、爆発してる」 「へ? あ!」  俺も疲れてたんだろう。 「寝癖?」  確かに濡れ髪のまま寝てしまったんだ。だから、きっと髪型は今、昨日の花火の如く四方八方に毛先が飛び散ってるに違いない。 「めちゃくちゃ可愛いです」 「た、ただのボサボサ頭だ」 「えぇ」  くすくす笑う正嗣が抱きしめてくれて、俺もまたくすくす笑いながら抱き返して。しばらく、その燦々と振りそそくさ元気な夏の太陽の下、笑い合って、抱き合って、寝癖を直しあっていた。

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