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第70話 濃い味、恋味

「えっと、まず、チキンに塩胡椒、それで……」  レシピを読むのが止まった。どうしたんだ? と正嗣を見ると、少し、いや……とても微妙な顔をしている。 「正嗣?」 「あ、いえ、これ……えっと、トマトの水煮、トマトペーストでも可、を大さじ二」 「大さじ二」  ほう……結構入れるな。 「次に……ヨーグルトを……大さじ三」  ほうほう、ヨーグルトを大さじ三。そして、カレー粉を大さじ一。これをチキンに混ぜ込んで揉み込んで、しばし置くこと三十分。  もしも、今、そうだな、ここに八代君がいて、さて今俺たちは何を作っているのでしょう? とクイズを出してみる。正嗣の表情を見たら、なんだかとてもまずいものを作っているような感じだろう。なんとも言えない、すごく苦手な、なんでもいい、とても苦手なものを目の前にしている、みたいな顔をしてるから。 「きっと、美味いぞ」  けれど大丈夫。全然苦手じゃないだろ? 正解はタンドリーチキンだ。 「えー、マジですか? 微妙じゃありません? 調味料の合わせ方が絶妙に不味そうです」 「そうか?」 「えー、そこは怖気付かないんですか?」 「いや……まぁ」  都会っ子の正嗣は少々変な気がするのかもしれない。鶏肉にヨーグルトに、トマトペーストに、カレー粉、今、混ぜ込んで肉をつけている見た目は確かにそう美味そうには見えないから。 「出来上がってからのお楽しみだな」  にやりと笑うと、正嗣が少し身構えたのが面白かった。いつでもどこか飄々としていて、怖がったり、何かを躊躇うことがないから、こういうところを見られるのは珍しくて、楽しい。 「あ、正嗣の好きなクイズ番組がやってる」  恋人になる前、よく見ていたやつだ。 「ほら、正嗣」  すごい一生懸命見ていたからとても好きなクイズ番組なんだと思ってた。 「もう、からかわないでください」 「いやいや」  けれど、実はクイズ番組を好きだったわけじゃなくて、ただ、気を紛らわせていただけ。俺と二人っきりの空間に。今は……気を紛らわせなくていいから、クイズ番組でも天気予報でもドラマでも、前みたいに難しい顔をして眺めることがなくなった。 「今日は夕飯の支度遅くなっちゃいましたね」 「あぁ、でも正嗣は明日が遅番だろ?」 「いや、俺じゃなくて、荘司が眠くなっちゃうじゃないですか」 「あのな、俺は社会人としては先輩なんだぞ。正嗣よりも七年も多く社会人としてやってきたんだ。一人暮らしで。無遅刻無欠席。寝坊なんてするわけないだろ?」 「そう、ですけど」  不思議だ。ずっと一人だったんだ。ずっとずっと。そしてそれはこの先も変わらないと思ってたのにな。 「……今日は、戻ります?」 「部屋に?」 「えぇ」 「だって、じゃないと正嗣が寝てるのを邪魔してしまうだろう?」  ずっと一人で過ごすんだと思っていたのに、今はずっと一緒にいたいと思うようになったなんて。同じ胸の内にこんなにも違うものを感じるなんて。 「俺は別に……」  少し寄りかかると受け止めてくれた。俺が正嗣の懐に背中を預けるように、まるでソファで寛ぐかのように寄りかかり、そんな俺を抱えて全部受け止めてくれる。 「もっと寄りかかっていいですよ。うちソファないから。荘司の部屋はありますよね。ソファ」  だって、一人でずっと暮らしていくんだ。寛ぎたい時、こうしてゆったりできる家具があった方がいいだろう? それに、ソファっていうのは。 「田舎者の憧れだからな」 「ソファが?」 「あぁ」 「そうなんですか?」  そうなんだ。田舎の一軒家っていうのは居間があってキッチンではなく台所があって、勝手口があって、仏壇がある。そういう家にはソファじゃなくてこたつなんだ。掘り炬燵。フロアじゃなくて畳なんだよ。だから、ソファはドラマで見かける憧れの家具第一位だったんだぞ、と教えてやった。  もちろん、一人暮らしを始めるにあたり兎にも角にもソファは真っ先に買った家具だった。 「じゃあ、ソファは必須なんですね」 「あぁ」 「なるほど」  何かに頷きながら、正嗣がもっと寄りかかって構わないと俺の肩を抱いてくれる。 「重くないか?」 「ぜーんぜん、どうぞソファ代わりにこの身体を使ってください」  くすくすと笑ってる。 「なんだか言い方がやらしい」 「そりゃ、男ですから。恋人とこうしてたら色々と……」 「色々?」  背後にいる正嗣の顔を見ようと真後ろを覗き込むとキスが待っていた。舌が入ってくる濃くて深いキス。唇の隙間からわずかに吐息を溢して、抱えられるまま深いキスに少しだけ眩暈を感じながら、もっと全てを預けるように正嗣に寄りかかる。これじゃ、社会人の先輩としての威厳は全くないけれど、でも、恋人同士だから。 「泊まっていけばいいのに、そしたら」 「そしたら?」  恋人同士だからずっと、ずっと一緒にいたいなぁって、思ってしまうものなのだろうか。 「……ん」 「意外に美味いですね」 「あぁ、そうだろう?」 「まさかのタンドリーチキンがレンチンでできるとは。橋本さんに教えてあげよう」 「そしたらたくさん作ればよかったな。明日、持って行けたのに」 「確かにそうですね。でも……」 「あぁ……」  少し、濃くなってしまったかもしれない。 「次の機会に、ですかね」 「そう、だな」  少しだけ漬け込み時間が長くなってしまったから。少しだけ、ね。ちょっと三十分以上漬け込んでしまったから。  互いに笑いながら、ちょっと濃い味になったタンドリーチキンにやたら箸が進んでいた。

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