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第73話 いつもどおりの……だったんだ。

 ―― レストラン予約してます。  あれは何か……特別な感じがした。  ―― なので、空けておいてください。  正嗣の頬が少し赤かった。  クリスマスだから、週末だから、でももっとすごく特別なことが待っているような、何かなんて思いつかないけれど、でもすごく。 「……」  別れ……。 「っ」  な、ないないない。それはきっとない。出てくるな。俺の中の怖がり虫。あれはそんな感じじゃなかった。だから怖がらなくていいんだ。もっとすごく良いことに違いない。正嗣の頬が赤かったんだから。  けれど、すごく気になってしまう。  正嗣にそれを言われたのは昨日のこと。昨日の夜はそれ以上詳しい内容というか、何をどうしてどうするのかを教えてくれなかったし。今日は毎週木曜にある延長受付の日で、俺は当番だから朝が一緒じゃなかったんだ。日中は年末年始の市役所休館前ということもあって忙しくて、ほとんど話せなかったし。だから、ものすごく気になる。ものすごーく。 「最上さんどうかしました?」 「え? あ、いや」 「顔真っ赤です」  話しかけて来たのは、今日一緒に遅番になっている女性スタッフだった。 「そ、そうですか?」  慌ててマスクを顎まで下げて頬に手のひらを当てた。確かに少し熱いから、真っ赤になってしまってるのかもしれない。 「なんでもないです。すみません」 「いえ大丈夫ならよかったです」 「いえいえ……」  恥ずかしい。何を一人で、デスクで真っ赤になってるんだ。 「エアコン止めましょうか」 「いえいえ! 大丈夫です!」  後で、正嗣に言ってやろう。クリスマスのことが気になって、頬が赤くなって心配されてしまったんだぞって。そしたら責任を感じて明後日の詳細な予定を教えてくれるかもしれないし。 「お、お構いなく」 「なんだか、最上さんって、イメージ違ってました」 「え?」  いきなりそんなことを言われて、というか、彼女とは何度か一緒に遅番になったことがあるけれど、こうして話をするのは初めてで、びっくりしてしまった。いつもは互いに黙々と残務を片付けつつ、受付に来た方の対応をして終わっていたから。  彼女は目が合うと、パッと視線を逸らしてながら、話を続けてくれた。 「いつもマスクしてるから、表情が分からなくて……その、話しかけにくいというか、ごめんなさい! 気を悪くしないでください! でも、今は、あの樋野さんと朝、来る時、が、印象違ってて、なんか……」 「あ、あのお……すみません」 「は、はい!」  その時、声をかけられてパッと顔を上げた。  カウンターのところにいたのは小さな子どもを連れたお母さんだった。子どもは「わーい」と喜んで受付手前にあるキッズスペースへと飛び込む。  俺が行って来ますと伝え、慌ててカウンターへ向かうと彼女が提出書類をカバンから取り出した。その書類の不備がないことを確認して、受理。彼女は小さくお辞儀をするとキッズスペースで遊ばせていた子どもへ声をかけた。保育園児だろうか、けれどその子は予想外に早く終わってしまったと、お母さんの帰ろうの声に膨れっ面で、せっかく今から遊ぼうとしていたのに、と文句を零しつつ、出したばかりのブロックたちをしまい始めた。 「一緒に片付けようか?」  ずいぶんと盛大にブロックを広げたものだ。バケツに入っていたのを全部ひっくり返してしまったから。カウンターの中を女性スタッフに任せると、外へと出て、お母さんと子ども、それから俺の三人で片付けをした。  すみませんと慌ててしまうお母さんに大丈夫ですと告げて。  きっとこれからうちへ帰って食事の支度とか忙しいのだろうから。職員の中にも結婚して子どもがいる人もいるから、その忙しさの片鱗は理解できる。とても大忙しなのだろう。しかもこの時間だ。受付は八時まで。今はもう七時半に近い。けれど彼女はスーツ姿だから仕事の帰り、子どもをお迎えに来た足でここに来たのだと思う。 「ありがとうございました」 「いえ、お気をつけて」  頭を下げて見送った。後、三十分だなと思いながら。  後、三十分したら、仕事を終えて、正嗣に電話をして、何か買ってきて欲しいものがあるか聞いてみよう。何かあるようなら買い物をして、一緒に食事をして、明日は金曜で、明後日が、そのクリスマスだから、そしたら――。 「あの……すみません」  手元が陰った、と思った。  人が立っていた。  声をかけられ、見上げると男性が、そこにいた。 「はい」 「あの……トイレは……」  スーツ姿の男性。 「トイレはあちらです」 「……」  すぐそこにトイレがあるんだ。子育て課は授乳室とかが近くにある、役所の端にあって、だからトイレもすぐそこにある。フロアを出て右の廊下のすぐそこ。プレートが設置してあるからここからでも場所はわかる。 「トイレはあそこの」  指差しているのにその人は一向に動こうとしない。見てわかる場所なのに、どうしてこの人は行かないのだろうと不思議だった。けれど気がつかないのかもしれない、とも思った。 「あちらですよ」  今、カウンターに来客はいないから彼女、女性職員一人でも大丈夫だろう。そう思って、少しだけ案内をしようと立ち上がった。本当に目の前だから。  そこまではいつも通り。 「こちらです」 「あの……これ」  いつもそうだ。 「ぇ?」  いつも、怖いものは急に目の前に現れる。 「……これ、へへっ」  そして心臓が止まってしまうくらいにひどく俺を驚かすんだ。  たったの五秒前までは普通だったんだ。いつもどおり、人もまばらな延長受付の時間のうちに、普段なら忙しくて後回しになってしまう雑務をこなして、たまにやってくる人への対応をする。していた。たったの数秒前まで。カウンターの中にいた。小さなお子さんをつれたお母さんとブロックを片付けていた。  普段どおり。  いつもどおり。  だったんだ。 「これ、貴方ですよね? ソウ、くん……」  けれど、一瞬で、襲いかかるんだ。俺を怖いものの中に放り投げて、真っ暗な底へ、あっという間に落っことすんだ。

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