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第74話 さらば、怖がり虫
「いつ声をかけようかってずっと見てたんだ」
そのスーツの男が持っていたのスマホ。音は限りなく小さなボリュームになっているけれど――。
「そ、そしたら、君がカウンターから出てきてくれたから、俺っ、俺っ」
そこに映ってるのは俺だった。
「へへ、これいいよね」
愚かな子どもだった俺が酔っ払ってる。自分に、酔っ払って、脚を広げて――。
「なんか急に君の動画全部見られなくなっちゃってさ。けど、これだけ最高だったから、俺、保存してたんだ。よかった。保存しておいて。君の動画、全部画質が粗くてわかりにくいのが最悪だけど。でも、これは最高だったから、保存してた。でもやっぱりこれも画質は粗いんだ。それがすごい嫌でさ」
声なんて出ない。
「この前さ、偶然、君に出会ったんだよ。ぶつかって、なんだよって思ったけど、なんかマスクしてても美人だなぁなんて思ってたら、君、あの時、職員証落としたでしょ? 写真付いてて、ホクロとかさ、あと、どこの市役所とかさ、見えちゃってさ。運命っていうかさ」
恐怖で、声なんて。
「ね、ね、とりあえずさ。この動画、画像粗いんだよ。最悪なんだよ」
出ない。叫ぶこともできない。
「だから撮り直して欲しいんだよ。これで何回さ」
ゾッとして、気持ち悪くて、汚くて。
「抜いたか」
声なんか出ないんだ。
『あ、あ、あっ……や、だぁ、見られてるっ』
その声にビクッと飛び上がった。
甲高い声は音量が小さくても公共のトイレで聞こえてはならない異質な音はやたらと際立って聞こえた。男の手の中、スマホに映っているのはいつも撮影に使っていた自分の部屋の白い壁。そこなら何も私物が映らないから、毎回撮影するのはここだった。それだけで身バレはしないだろうって愚かな子どもは思ったんだ。
「ね、これ、最高でしょ?」
こうしてずっと誰かの手の中で鑑賞される恐怖も知らずに。
「ふふふ」
見知らぬ誰かの性欲を満たす道具になることもわからずに。
「あー! 最高!」
「!」
あの日と同じだ。
あの日、カラオケ屋で店員に声をかけられた。ソウだろう? と呼び止められて、それまではただのシルエットだけだったフォロワーが、人間の顔をくっつけてこちらにふらりと近寄ってきた感覚。
一瞬なんだ。たったの五秒前までならあった現実が跡形もなく消えてしまう。本当に映画の、場面が切り替わるように。そして、その早さに体も頭もついていかなくて、感覚がなくなる。手も足も上手に動いてくれやしない。
『見ちゃ、やだぁ』
「マジで最っ高!」
怖いのに。
「けど、画質は最悪、だから、これ、撮り直して」
手が動かない。
「わかってるよ! もちろん! ここでは無理だよね? 知ってる知ってる。だから、後でいいんだ。断らないよね? ……これ拡散させちゃおうかな。困るでしょ? こんなの拡散されてさ、みんなに知られたら大変でしょ? 市役所の職員が未成年だった頃にこんなのをって、なったらさ、大変でしょ?」
足が動いてくれない。
「動画撮り直しさせてくれるだけでいいんだよ。ちょっと……あの時よりも歳取っちゃったけど……まぁ、そこは……ソウ君は元がいいから、美人だよね。あのホクロがさぁ、エロいんだよねぇ」
恐怖で。
「ちょっと見せて? ね、ね、見せて? あ、そうだ。これ、ちょっとだけ撮らせてよ。マスクさ……取って素顔をさ」
男は今まで見せていたスマホの画面をひっくり返し、カメラのレンズをこっちへ向けた。
「!」
「いいでしょ? 撮られるの大好きでしょ?」
いやだ。
「えへへへ。新規動画」
やめろ。
怖い。
助けて。
「顔見せてよ、へへ」
助けて、誰か。
「ソーウ君」
助けて。
助けて、正嗣。
「まさつ、」
「この人に触るな」
「なっ、なんだっお前っ」
ヌッと伸びてきた手に掴まれるところだった。上手に動いてくれない体をどうにかして動かそうと必死になって力を入れて、マスクを取られてしまわないように、触れられないようにって必死で。
「なんだじゃねぇよ。お前こそ、なんなんだ」
「なっ、うっ……ぐっ」
大きな手が俺を守ってくれて、男は気がつくと、まるで人形みたいにその腕に組み伏せられて、トイレの床に顔を押し付けるように寝かせられていた。
「か、返せっ」
「は? 返すわけがないだろうが。脅迫罪、暴行未遂罪、それと……そうだな。どうしようか。とりあえず、今も撮ってるこの動画であんたの顔、もろ見えてるからさ、このままこれ、世界中に拡散してやろうか?」
「なっ」
男はその言葉に床にくっつけていた顔をねじって、組み伏せている正嗣を睨んだけれど、スマホのカメラが自分に向けられていることに気がついて、慌てて顔を床に伏せて隠した。
「一生残るぜ? 動画。トイレの床に這いつくばってるところも、その変態顔も全部、どこかで誰かに見られる。そんで、あれは誰だと探されて、身バレして、どうだろうな。職場に見つかるかもよ? 友人知人に知られるかもな。ご近所さんから言われるぜ? それこそ、有る事無い事プラスされて、自分じゃどうにもならないくらいに色々付け加えられて、ただの性犯罪者になるかもな。ほら」
「!」
「動画、探してもなかっただろ? そういうの詳しい奴を知ってんだ。全部完全消去されてる。それができるんなら世界中への拡散だって、ヨユーでできると思わねぇ? あんたの今のこの無様な動画も」
男の顔は真っ青だった。
「こういうの、みんな大好物だから」
かざされた画面いっぱいに広がる自分の姿に。
「やめっ」
「そういう思いをこの人はしてたんだよ」
はっきりと、そしてピシャリと空気を切るような鋭い声だった。
「とりあえず、この動画は今、俺にメールで転送させてもらった。もちろんそのメールは削除したからあんたは見えないよ。それからご丁寧にフォルダ分けしてる動画も削除させてもらったから。きれいに」
「はぁっ?」
「はぁ、じゃねーよ。人襲っておいて何言ってたんだ」
「なっ」
「なんだ、じゃねぇ。今度」
「うぐっ」
「今度、この人に近寄ったらこの動画、即拡散させるからな」
「うっ」
「わかってんだろ? ネットのそういうのがどんだけ怖いか」
さらに強い力で押さえつけられた男は痛みに顔を歪めながら、小さく埋めいた。
「もう二度とこの人に近づくな」
そう低い声で告げられて、僅かに頷いた。それを確認して正嗣が手を離すと急いで四つん這いで距離を取り、放り投げられたスマホを握ってトイレから飛び出していく。
「ごめん。荘司」
「……」
「怖かったでしょう?」
「……」
「つか……はぁ……俺も怖かったです」
俺を抱きしめてくれた正嗣の手が震えてる。
「荘司……」
「正嗣、怖かった」
すごく怖かったんだ。声も出なくて、身が竦んで、怖くて、怖くて。
「正嗣」
とても怖かった。
「怖いの、を、たくさん克服しただろう?」
ジェットコースターにお化け屋敷、夜道のドライブに目を瞑って歩くの、とか、たくさん、克服した。
「これは、俺がしでかしたバカなんだ」
きっと一生、これから先も遭遇するかもしれないこと。どこに動画が残ってるのかなんてわからない。またいつか声を掛けられるかもしれない。
「克服、しないと」
大丈夫だ。怖いけれど、でも、怖がっているばかりじゃ、ダメなんだ。
「荘司? 荘司!」
だから立ち向かわないと。自分で言わないと。
―― 怖いからって、知らない、やらない、ままでいるのは、もったいないです。
君がいてくれるから。
「あのっ!」
「ヒッ」
男はスマホを操作しながら、よろよろと走っていた。大きな俺の声に飛び上がって、そのスマホを地面に放り出してしまった。カシャン! って音を立てて、コンクリートに打ち付けられたスマホを慌てて拾って、ぎゅっと、奪われなように握り締めている。動画を送った先、正嗣のメールをどうにか探し出せないかと試していたのかもしれない。もう拡散されてるのじゃないだろうかと、目ぼしいサイトを漁って確かめていたのかもしれない。
「あの……拡散はしないです。俺もその怖さを知っているので。でも、もし何かまたしようとしたら、脅迫の証拠として警察に提出します」
「……」
「ソウ、のこと、馬鹿なことをしたと今は後悔しています。すごく。なので、どうか、もう近寄らないでください」
そして、頭を下げてお願いをした。これが怖がりな俺が今できる精一杯だ。胸の内に住み着いている怖がり虫に頭を下げて、いなくなってくれって頼むのが。
男は小さく悲鳴を上げて、その場を駆け足で去っていった。きっと家に戻ってもずっと探すんだろう。自分の動画が上がってやしないかと、それこそ高校生の俺が毎日毎日怖がりながら探し回っていたみたいに。
「……荘司」
「怖、かった……」
俺は怖がりなんだ。だから立ち向かうのはこれでいっぱいいっぱい。もう、ほら腰を抜かしてしまうくらいに。
「かっこよかったですよ」
地べたにぺたりと座り込んでしまうほどに。
「荘司」
そして差し伸べられた大きな手のおかげでどうにかやっと立ち上がれるほどに、とっても怖がりなんだ。
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