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第75話 台無し

 大事にはしたくなかったから、警察には連絡しなかった。  警察を呼べば、ソウのことを話さないといけなくなるだろうから。俺は、それは嫌だったんだ。  一緒に遅番をしていた女性職員にも気が付かれることなく、正嗣のことは仕事終わりに近くで食事をして、ふざけて職場に顔を出したってことで誤魔化した。  バスに乗ってうちへ帰り、今日は正嗣の部屋に泊まることに。 「すみません。今、エアコン入れますね」  コートを脱ぎながら、正嗣はテーブルの上に置いてあったエアコンをオンにすると、慌ただしくキッチンへと向かう。 「コーヒー、インスタントですけど飲みます?」 「あぁ」  エアコンをつけたばかりの部屋はまだ冷え切っていて、淹れたばかりのコーヒーからは勢いよく湯気が立ち込めていた。  その一つを受けとり、そのマグカップで暖を取るように両手で抱えると、ほぅ、と自然と溜め息が零れ落ちた。 「八代から連絡もらってたんです」  緊張がほぐれて、そこで気がついたんだ。ずっと肩に力が入っていたことに。 「え? いつ?」 「この間、俺が遅番だった時に。俺の好きなバー、あいつが貴方を連れて行ったでしょう?」  その時、コンビニで俺にぶつかった男性がいた。ただのアクシデント。けれど、俺が職員証を拾って会釈をして、その場を俺が駆け足で離れた後の男の様子がおかしかった。じっと俺を見つめて、その背中を舐めるように眺めて、慌ててスマホを取り出していたから。八代君は何か嫌な感じがして、そのことを正嗣に伝えてくれていた。 「そんで、ゴミが漁られてる。貴方の住んでいるマンションのだけ。うちの方は道路の向かいにあるのに手付かず。猫やカラスじゃない。だから」  用心してくれていた。今日が俺の遅番担当の日だから、外で見張ってくれていた。ブラインドがしてあるから、昼間は中の様子が見えないけれど、夜になればよく見える。俺のいる子育て課をそこから眺めていた。 「そしたら、貴方がカウンターから出てきて」  そこに男が駆け寄った。 「やばいってすぐに思ったんです」  急いで所内に駆け込んだら、俺とその男性はもうそのキッズスペースにはいなかった。 「あの瞬間、ホント、血の気が引きました」  トイレかもと急いで向かって、そして、俺に手を伸ばす見知らぬ男を見て、心臓が止まるかと思ったと、冷たい指先で俺の頬を撫でながら教えてくれた。 「けど、よかった」  三時間だ。  三時間も外で見守ってくれていた。 「貴方が無事で」  三時間だぞ? 十二月の夜に外で三時間も。  寒いのに。  冷たい。  コーヒー一杯じゃ温まらないくらい、手も指も、何もかも凍ってしまいそうなくらいに、こんなに冷たくなってるのに。 「……ありがとう」  正嗣のジャケットを掴んで引き寄せ、その懐に入り込むと、胸に額をくっつけた。 「怖かった」  心臓の音がする。 「怖くて、声が出なかった」  少し早い心臓の音。 「……さっき、俺、貴方がソウさんのことですごく怖い思いをしてるって話したじゃないですか」  トクントクンって。 「あの男にはあんなこと言っておいて、それに、きっと、荘司にはソウさんっていう名前ごとなかったことにしたいんだろうってわかってるんですけど」  その心臓の音が少しずつゆっくりになっていく。  俺を抱えて、触れられて、ホッとしたと安堵するみたいに。 「今、これ言っても微妙かもしれないんですけど、でも」 「……」 「ソウさんのおかげで今の俺がいます。だから、俺には感謝しかない。ソウさんがいてくれて、あそこに動画をあげてくれてよかったって思ってます」  俺は馬鹿なことをしたとずっと後悔していた。 「ぶっちゃけ、初恋の人ですから。ソウさんは」  けれど、正嗣はありがとうと言ってくれた。そして、心臓がまた少し早くなった。 「だから、俺にとってはソウさんはすごい大事な人なんです」 「……」 「そんで、貴方は、ソウさんじゃない貴方は、もっと大事な人です」  ゆっくりになったり、早くなったり、忙しない心臓。 「正嗣が」 「?」 「君が、ソウを大事にしてくれるなら」  その忙しない心臓の音まで愛おしいから、ギュッと抱きしめて。 「あの過去を、そのうち大事にできるかもしれない」  消したくて仕方のない過去だった。毎日毎日後悔をしていた。どうしてあんなことしたんだろうって。自分はとても愚かだと。何度もどこかに残ってやしないかと探して、不安に胸が苦しくなって、いつか誰かに暴かれやしないかと。いつか誰かにひどく怖いことをされるんじゃないかと怯えていた。  けれど、ソウを君の手の中に届けられたのなら、あの愚かだったと後悔と不安ばかりしかなかった過去も。 「……荘司」  愛おしくなれる日が来るのかもしれない。 「正嗣」  ギュッと、こんなふうに抱きしめて大事にしたいと思える日が――。 「あぁ、もうダメだ」 「正嗣?」 「あー、もう、明後日までなんて我慢できそうにないです。無理だ」 「あの」  何? なんで急に怒ってるんだ。そんな悔しそうな顔をして。 「最高のシチュで言うつもりだったんです。綺麗な夜景の見える一流レストランの特等席。やっぱ、一発くらいぶん殴ればよかった。台無しだ」 「なっ、おまっ」  なんてことを言うんだ。暴力なんていいわけないだろう。 「荘司」  危ないし、何より、俺は大事な正嗣にそんなことして欲しくない。 「一緒に住みませんか?」  とても大事な人なんだから。 「俺と一緒にいてください」

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