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ハメ!撮り!編 1 オーマイガッ
それは奈落の底に突き落とされたような落胆。
「嘘でしょ……嘘って言って、荘司」
凍てつく氷の扉で、出口も、入り口も、窓さえ閉ざされてしまったような孤独。
「だって、俺、荘司がいない世界なんて」
世界が灰色になってしまうような失望
「貴方がいない世界なんて耐えられない!」
真っ暗闇の中をどうしたらいいのかもわからない、絶望。
「うわああああああん」
「そんなわけあるか。ちょっ、お前っ、今、ここは休憩室だぞ!」
冬が過ぎて、春が来て、そして夏になった。外は猛暑日というより極悪酷暑日っていう、恐ろしい漢字をいくらでも並べたくなるような暑さが続いている。それでも、今までの俺だったら、あの日陰のジメジメとした休憩所でアイスコーヒーを飲んでいただろう。
今は、まぁ、休憩中なんだが、その、室内のエアコンが効いた、でも、地球環境に配慮して温度設定が少し高めな休憩所でアイスコーヒーを飲んでいる。
「く、くっつくな、しがみつくな、暑いし、ここは職場だ」
「いやです! もう一生離さないっ」
「離せ」
「やだー!」
どこの駄々っ子だ。
「まったく」
今日は普段以上に年下らしさを出してくる正嗣に、クスリと笑ってしがみつく頭を撫でた。
「……仕方がないだろう?」
「……」
落胆も孤独も失望も、もちろん絶望だって、しやしない。
奈落の底にも突き落とされないし、凍てつく氷の部屋に閉じ込められることもないし、世界は灰色になんてならない。真っ暗にもならない。
「仕事なんだから」
そんな、たかが三日間のセミナーなんかでは。
朝礼の後、正嗣が課長に呼ばれた。子育て即進課の課長に、ひょいひょいと手招かれて、何か話をされて、そこから、ずっと正嗣は背丈のあるモデル体型が台無しの今のこの状況になった。
社会人としてのマナー研修から法務関係の講義がみっちりなのが初日、二日目は今時って感じの地球環境問題など未来のまちづくりに関しての学び、取り組み方について、それから最終日は幹部候補育成セミナー。朝から晩まで。みっちりぎっちり。
「たかが三日だ。勉強になるぞ? 俺も新人の時に参加した」
泊まりで。
「荘司も参加したんですか? このセミナー? 泊まりで?」
「あぁ、和牛が美味しいんだ。楽しみだな」
新人は大概行くんだ。まぁ、色々学べる部分も多し、新人同士の交流会も兼ねてるんだろう。
この極悪酷暑日続きの地球にとって、環境問題への取り組みはとても大事なことだし、それを若手に任せるというのはとても良いことだ。
「ええええ? 和牛? 荘司が? 誰と食べたんですか!」
「誰って、そんなの同期に決まってるだろう」
「そんなの危険すぎる!」
「ちゃんと焼いてある」
「お肉のことじゃなくて!」
じゃあ、どういうことなんだと、バカって小さく頭をポカンと叩いて笑ってやった。
何を心配しているんだ。全部が全部、正嗣が初めてなのに。
うちの子育て促進課だけじゃなく、この市役所全体にとってとてもいいことだし、とても重要な仕事だ。だからこそ、遠かろうが、なんだろうが、泊まりになっても研修に参加するんだろう。
まぁ、どうしてそんな遠い場所で行われるのかは、近くでもやっていそうだけれど…………そこは、神のみぞ知る、な訳だから。
「頑張ってこい」
柔らかい髪を撫でながら、そっと優しく言った。
本心をぶちまけてしまえば、寂しいさ。三日も一緒にいられないなんて。婚約者なんだぞ? 両親にだって話してあるんだぞ? 今年のお盆には二人で挨拶をしようって話しているくらいなんだ。三日も離れるなんて寂しいに決まってる。
実家は電話であの大騒ぎだったんだ、挨拶に行くとなれば、ものすごいことになるかもしれない。
ゲイだと告げた。
その瞬間は空気が張り詰めたのが電話越しでもわかった。
けれど、それでも勇気を振り絞り、いつかで構わない、今じゃなくていいから、でもいつかは会って欲しい人がいると話したら、空気が一変した。
俺が初めて、自分のことを包み隠さず、俺はこうなんだと告げることのできた瞬間、電話の向こうで母が笑っているのがわかった。
『まぁ、そんな人がいるの?』
そう言った声が震えていた。
俺は少し怖かったっけ。母がどんな反応をするのかって。一生、ここへは戻るなと言われるのかと。けれど。予想は外れたんだ。
『是非是非、連れてらっしゃい』
そう言ってもらえたんだ。
なぁ、そんなふうに言ってもらえるようになれた。そんなふうに俺を変えてくれた君と離れるのは俺だってとても寂しい。
「正嗣……」
一瞬、ほんの一瞬だけだけれど、あまりに離れ難くて、有給を使ってついて行ってしまおうかと考えたくらいだ。
でも、俺たちの仲はパートナーシップ実現化の活動などもあって、周りが知るところだ。正嗣がセミナーに行っている間、ずっと俺が有給を使っていたら、どんな巧妙な言い訳を考えたって、同行したんだろうとすぐにバレてしまう。
俺たちのことを認めてくれただけでなく、パートナーシップの獲得に尽力してくれている役所のみんなのためにも、仕事はちゃんとしなければ、だろう?
だから、俺は良い子にお留守番だ。
「一皮剥けた正嗣に会えるのを楽しみにしている」
出発はすぐなんだ。
来週からの三日間。
「……ましょう」
「へ?」
俺にぎゅっとしがみついたままだった正嗣が、そのしがみついた格好のまま何かを喋った。ずっと微動だにしないし、ぎゅううううっとしがみついたまま一言も発しないから、セミナーが嫌で嫌で仕方がないと時間を止めてしまったのかと思った。
ほら、俺みたいなのをこんなに変えてしまった正嗣なら、魔法の一つや二つ変えられるかもしれないって。
「今、何? 正嗣」
「ハメ撮り! しましょう!」
「…………は、はあああああああ?」
セミナーと、奈落の底と、孤独と失望、それから絶望と、愛を足してみたら、なぜか、愛しい人の口からぽろりととんでもない言葉が飛び出した。
「ハメ撮り、です!」
どうしてそんなわけのわからない言葉が出てきたのかなんて、神のみぞ知る、だ。
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