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第3話

「ただいま」 待つ者もいないのにと思いながらも、いつもの癖で口から出る。 靴を脱ぎ、暗い廊下を進みリビングの扉を開けて中へ入る。 壁際のスイッチを押し、部屋が明るくなると、無人と思っていたのでソファーに座る同居人に優輔は驚きの声を上げた。 「寛也?!」 「……お帰り、優輔」 仕事はどうした?と聞くよりも早く、恋人の顔色の悪さが気になり素早くソファーへと移動する。 「寛也、具合悪いのか?寝てないと……」 隣に座り、肩に手を掛け顔を覗き込めば弱々しい笑顔が帰って来た。 仕事は休んだのか、いつものスーツ姿ではなくスエットの上下という普段着のままだ。 「……大丈夫だよ……優輔、ご飯は……あぁ、今日はいらないって言ってたっけ……」 「あぁ、食べてきてる、それより寛也寝た方がいいぞ、顔色悪い……熱は……」 白いのはいつもの事だが血色が悪い、とでも言うのか青白い顔色は貧血でも起こしたかのようだ。これなら熱はないかもしれないが、気が動転している優輔は寛也の額に手の平をかざした。 「大丈夫……」 声に力はないが、優輔の手を振り払う寛也の手は思いの外強かった。 「……」 「僕の事はいいから、お風呂入ってくれば?」 「は?」 「ほら、行って……着替えは出しておくよ」 「……いや、でも……」 「優輔」 「……分かったよ……でも、ベッドに行ってくれよ寛也……ちゃんと休んだ方がいい」 本当は連れ添って寝室へ行きたかったが、寛也は自分を拒んでいるように感じられ、優輔は一人立ち上がった。 「……じゃあ、オレは風呂入ってくるけど……」 「うん」 「……」 「行って……」 「……」 後ろ髪を引かれながら優輔はリビングから出ると、そのまま浴室へと向かった。 風呂から出て念のためリビングを覗くが、寛也の姿はなかった。寝室だろうとそのまま短い廊下を歩く。 「……寛也、寝てるか……?」 軽くノックをして寝室へ入る。廊下の薄明かりが寝室に差し込み、窓際にあるのベッドの半分が盛り上がっているのを見てもう一度小さく声を掛ける。 「……寛也」 「……優輔」 もぞりと塊が動き、寛也が半身を起こす。 「寝てていいよ、大丈夫か?」 「……具合、悪くないよ……」 「無理しなくていい、さっき顔色悪かったぞ……」 「……」 電気はつけていないので、部屋の中は廊下の明かりが漏れ入るだけだ。だから、寛也の今の顔色は正直分からない。 「今日はもう寝よう、一人の方がいいなら……」 「優輔」 「……一緒に寝ようか……」 ベッドは一つしかないが、布団は出してくれば客用の布団がある。だが、それは必要なさそうだ。 「……うん」 もぞもぞと寛也は優輔の場所を開けるように壁際にずれる。その空いたスペースに入ろうとして、廊下の電気がついたままなのを思い出す。 「そうだ……」 「いいよ、優輔」 「え……」  優輔がベッドに乗り上げると、逆に寛也はするりと抜け出し部屋のドアへと足を進めた。  廊下の電気を消すと、代わりに部屋の明かりを点ける。照明の明るさに、優輔は一瞬目を細めた。 「……優輔」 「……ん?」  ベッドに戻って来ると思っていたのに、寛也はベッドの手前で立ち止まると表情のない顔で優輔を見つめた。 「ネクタイ……してなかった、どこにあるの?」 「え?……あぁ……上着のポケットに……たぶん……」  何故そんな事を聞かれたのか、分からないままに答える。お菓子作りの邪魔になると、背広のポケットに仕舞ったような気がする。 「そう……」  寛也はクローゼットを開けると、優輔が今日着ていた背広のポケットを探りネクタイを取り出した。そのまま仕舞ってくれるのかと思っていると、寛也はそのまま手に持ちベッドへと腰かけた。 「今日暑くはなかったよね……」 「ん?そうだな……寒かったよ」  さっきから無表情のままの寛也に違和感を覚える。具合は悪くないと言っていた。それを信じるにしても、寛也の表情も態度もいつもと違い過ぎる。  いつもだったらもっと寛也からのスキンシップがある筈なのに、今日は自分に触れてこようとしない。  普段から感情を面に出すにしても、控え目な寛也ではある。だけど、表情以上に態度以上に優輔に対しては感情を、愛情をいつだって表してくれていたのに。それが今はない。 「ご飯食べる時に外したの?」 「え?」 「ネクタイ」 「あー……うん、そうだ……」  寛也の声はいつものように甘く心地良いのに、感情を乗せずに喋っている。もしかして。  ……心当たりは全くないが、これは自分に対して怒っているのではないだろうか……。 「じゃあ、ワイシャツも?」 「え……?」 「ご飯食べる時に脱いだの?」 「……いや……あれは……汚して、な、それで……」 「それで?誰のシャツを着て帰ってきたの?」  口元に美しい笑みを浮かべているが、寛也の目は笑ってない。  ぞっとするような寒気を覚えたが、こんな時でも寛也は綺麗だなと思ってしまう自分に優輔は呆れてしまった。

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