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8月6日(木)_01

「北斗?北斗、朝だよ?」 体がだるくて起きれない… 8月6日(木) 「ん…今、何時?」 「もうすぐ9時になるよ。今日はみんなで遊びに行くって、昨日決めただろ?」 そうだ…今日はみんなでちょっと遠くまで遊びに行くんだ… 俺は重たい下半身を持ち上げて、ベッドから降りると、顔を洗いに洗面所に行った。 もうみんなは服も着替え終わって、出かける準備を終えていた。 「北斗~おっせ~よ。」 渉に蹴られる。 「おねむのバブちゃんだな。」 博に罵られる。 洗面所で歯ブラシを咥えて、適当に歯を磨く。 すぐに顔を洗って、髪の毛はキャップをかぶるから、このままでいい… 服を着替えて、キャップをかぶって、ヘッドホンを上から付けて、星ちゃんがくれたパンをかじる。 「準備出来た~!」 俺がそう言うと、文句を言いながらみんな玄関に向かう。 「あれ?春ちゃんと歩は?」 「もう外で待ってんだよ!」 渉に怒鳴られた~! 俺は誰よりも早く靴を履くと、先に外に出て歩と春ちゃんを見つける。 二人に走って駆け寄って、一番に合流する。 「みんな~、早く~!」 俺がゾロゾロと玄関から出てくる、星ちゃんと渉と博に声を掛けると、後ろから頭をポンと叩かれる。 「北斗…お前が寝坊するから、みんな待ってたんだぞ?」 後ろを振り返ると春ちゃんが意味深に笑って俺に言う。 「んふ、ごめ~ん。」 俺はみんなに謝罪をして、正式に部隊に合流する。 「春ちゃんは仁義だね…」 隣を歩く歩を覗き込んで言う。 歩は少し悩んでから、俺に言った。 「いや、不義理だよ。」 そうか…そうなんだ。 俺は歩と手を繋ぎながら、道路沿いのバス停まで向かった。 途中、車が猛スピードで側を通り過ぎて行くから、少し怖かった… こっち側には遊歩道が無いんだ。 だから、申し訳程度に惹かれた白線の内側を、一列に並んで歩いて行く。 俺は歩に手を引いて貰って、フラフラと足場の悪い所を歩いて付いて行く。 「お店が沢山ある所に行くよ。」 前を歩く星ちゃんが、俺の方を振り返って教えてくれる。 お店が沢山ある所か~。 何かお土産買えるかな…? バス停に着くと、意外とすぐにバスが来て、俺達はゾロゾロと乗り込んだ。 地元の子かな…? バスの中で、同年代と思われる制服を着た子たちと出会う。 手には大きなチューバのケース… 吹奏楽部なのかな…良いな。 管楽器… サックスのケースと、フルートのケース。バイオリンのケースまであるから、管弦楽部かもしれない…。 「今、コンクールの練習?」 俺は彼らにそう声を掛ける。 驚いた渉が俺を小突く。 制服の子たちは顔を見合わせて笑うと、俺の方を向いて教えてくれた。 「そうです。コンクールがもうすぐあるから、自宅でも練習できるように、楽器を持ち帰るんです。」 そうなんだ…良いな。 「何の曲を演奏するの?」 俺が聞くと、俺と同じ目線の背の高い女の子が教えてくれた。 「課題曲の宝島と、自由曲のたなばたです。」 へぇ…吹奏楽の定番だね。で、バイオリンは? 俺が不思議そうにバイオリンのケースを見ると、それを抱えた女の子が言った。 「私は弦楽部なんです…」 そうなんだ… 恥ずかしそうにする女の子の姿が妙に可愛い。 「可愛いね~。」 俺がそう言って笑うと、女の子は顔を赤くして俯いた… 「ごめんね。こいつ馬鹿なんだ…」 そう言って博が俺の頭を叩く。 良いな、吹奏楽部か…俺も入ればよかった… 途中のバス停で彼らは降りていく。 「コンクール頑張ってね…!」 俺はガッツポーズで応援する。 ありがとうございます!なんて、元気に返事をされて…年寄になった気分だ。 「北斗も管楽器、演奏したかった?」 星ちゃんが俺の顔を覗いて聞く。 俺は視線を合わせないで、窓の外を見ながら、それを無視した。 だって、悲しくなるから… 家の両親は、学校の部活に俺が入るのを嫌がった… その時間をレッスンに使うためだって…。 何って…チェロだの、バイオリンだの…ピアノだの…のレッスンだ。 友達とやるから楽しいのに… 両親にとったら、それは時間の無駄に映るみたいだ。 俺の意見なんて…聞いてもらえない。 聞いて貰った試しなんて無いんだ。 俺の頭を撫でて、星ちゃんはそれ以上聞かなかった。 部活に入れないって、泣いたのを慰めてくれたのは…星ちゃんだったから。 星ちゃんには、俺の言い知れぬ悔しさが分かったんだ…。 頭の中で、彼らの課題曲の宝島が流れる。 パーカッションが効いた曲で、軽快にアルトサックスがメロディを頑張る。 トロンボーンも素敵だ…もちろんその他だって、何一つ要らない物なんて無いんだ…それが、合奏…1人じゃない。 合奏。 良いな…俺も誰かと演奏したい… 1人でぽつんと演奏なんて…寂しい。 「着いたぞ~!」 春ちゃんの声が聞こえて、窓の外を見る。 おぉ、何か…風情のある建物が並んでいるね。 「星ちゃん、一緒に居ようね?」 隣の星ちゃんを見上げて聞いた。 早めに彼を予約する必要があるんだ。 そうしないと、他の人に連れてかれちゃうから… 「いいよ。」 そう言って笑って、俺と手を繋いでくれる。 良かった… 星ちゃんの手のぬくもりを感じて、ホッとして彼の腕に顔を付ける。 バスから降りて、時間と集合場所を決めたら別行動をする。 「星ちゃん、アイス!」 バスの中から見つけたのぼりに…アイスと書かれた文字を見つけていたんだ! 「着いてすぐ食べるの?」 呆れた顔の星ちゃんを無視して、彼と繋いだ手を引っ張ってアイスを買いに行く。 俺は王道のバニラを一つ買って、ベンチに座ってニコニコ顔で食べる。 星ちゃんと一緒に一つのアイスを食べる。 「一杯のかけそばみたいだね。」 星ちゃんがつまんない事言って、一人で笑ってる。 変なの。 スプーンですくって星ちゃんの口に運びながら聞く。 「お昼ご飯は何食べる?」 朝ご飯をまともに食べていないからか、俺はお腹が既に空いている。 「見て決めよう…?」 そうだ、星ちゃんはいつも見てから考える。 コーンの下の部分をかじって、下からアイスを吸ってると、星ちゃんが笑った。 「上から見ると、お前の口の中が見える。」 そらそうだ。 そのままコーンをバリバリ食べて、口の端を拭いてもらう。 「ねぇ、次は何処に行くの?」 俺が尋ねると、星ちゃんは言った。 「とりあえず、ここの通りを向こうまで行ってみよう?」 俺はベンチから立って、頷くと、星ちゃんの手をまた握った。 「すごいね、この並び…和風の遊園地みたい。」 “星ちゃんと和風の遊園地”を写真に収める。 まるで城下町の様にメインストリートを挟んで両サイドに“和風の建物”が並ぶこの場所は、星ちゃんにはとっても魅力的に映るみたいだ。 建物を見上げては、俺に“星ちゃんと建物”の写真をねだるから、面白い。 アクセントとして、建物の入らない星ちゃんだけの写真を撮ってあげよう。 んふふ。 「北斗…良いの撮れた?」 「撮れた~。」 俺はそう言って写真モードを終了してから、彼に携帯を返した。 「ねぇ、この染物屋さんに入ってみよう?」 そう言って星ちゃんは軒先に反物のかかった“染物屋さん”を指さした。 星ちゃんはこういうの好きなんだ…伝統の、とか名産、とか…そういうもの。 店の中に入ると、裏で染物でもしているのか生成りの独特の匂いがする。 店内の壁には様々な柄の手ぬぐいが掛けられていて、奥の方には浴衣も見えた。 「北斗、これ見てみて?」 そう言って星ちゃんが一角に俺を誘う。 彼が指さしたそれは、綺麗な糸で紡がれたミサンガ。 「あ~、綺麗だね~。」 俺はそう言って、一つ手に取ってみる。 小さすぎず、大きすぎない太さに、星ちゃんが言った。 「これ、お互いに贈ろうよ。」 「え…!」 俺は嬉しくなって頷くと、星ちゃん用のミサンガを探した。 星ちゃんは星空…青か…黒…白も良いなぁ… 星ちゃんぽいのを沢山あるミサンガから探していく。 「ん~…良いのが無いなぁ。」 そうポツリと呟いて星ちゃんを見ると、彼の手の上には束になったミサンガが置かれている。 一体それ…何人に贈るの? 丁度良いのが見つからなくて…俺はお店のお姉さんに声を掛けた。 「すいません。黒と青と白が入ったミサンガ、無いですか?」 お姉さんは俺を見て微笑むと一緒に探してくれた。 「あぁ…その色のは…無いみたいね。」 そう言って俺の顔を見ると、お姉さんはにっこり笑って聞いて来た。 「作ってみる?」 悪くない。 俺は頷いて答えると、星ちゃんの為にミサンガを作ることにした。 だって、どこを探しても無いんだ…星空のミサンガが… 店内の一角に置かれたアクティビティー用のテーブルに、俺の希望した糸をお姉さんが出してくれる。 そんな俺の様子を見て、星ちゃんが寄ってきた。 「北斗、作るの?俺も作りたい…」 そう言って、手に乗せた多くのミサンガのお会計をしに行く。 「一体何人にあげるの?それともスペアなの?」 俺はお会計をする星ちゃんの背中にそう言って、自分の目の前に置かれた糸を手に取った。 こんなの編むの? 細すぎだよ… 星ちゃんはお会計を済ませて、俺の隣に座ると、希望の糸をお姉さんに伝えて出してもらってる。 さて…言ったからにはやるしかないよね… 手元の糸と睨めっこして、隣の星ちゃんと見つめ合う。 彼は余裕の表情だ… 糸を3本、三つ編みにしていく。 動かない様にテープで止めたはずなのに、すぐに剥がれて取れてしまう… 「上手くいかないよぉ…星ちゃん…」 俺はそう言って星ちゃんの方を見る。 星ちゃんはあっという間に半分以上出来上がってる! おかしいよ… 「北斗は繊細じゃないから…こういうのが苦手なんだ…」 そう言って仕上げにかかるから、俺はお姉さんに剥がれるセロハンテープを手で止めてもらって、一生懸命三つ編みをする。 「あ、護(まもる)…来たの?」 お姉さんが誰かに声を掛けてるけど、俺は今、どこまで編んだのか…分からなくなって固まっている… 「ね、お姉さん…次は?次はどの糸?」 俺はそう言って、お姉さんの顔を見る。 お姉さんは俺の手元をじっと見て言った。 「次は…青!」 「はい~。」 補助を受けて、やっと編み終える。 「出来た!出来た!」 最後の留める所をお姉さんにやってもらって、ミサンガが完成した。 俺は喜んで、星ちゃんの腕に付けてあげる。 「健康、長寿祈願!切れたら、その時、星ちゃんは死ぬ。」 そう言って笑いながら、右手に結んであげた。 星ちゃんの顔を見ると、俺の顔を見てニヤニヤしてる… なぁに~、そぉんなに、嬉しいの~? 「本当に…超が付くほど、鈍感なんです…すみません…」 誰かに向かってそう頭を下げるから、俺は星ちゃんの視線の先を見た。 「あ…まもちゃん…」 そこには黒いTシャツ姿のまもちゃんがいた。 「何?まもちゃんって?」 星ちゃんが聞いて来るから教えてあげた。 「この人、名前が護って言うんだって、だから、まもちゃんって呼んでる。」 そう言って、左手を差し出して、星ちゃんにミサンガのおねだりをする。 「付けて~?」 星ちゃんは俺の左手にミサンガを付けてくれる。 紫と、黄色と、水色…補色の入った上級者の色使いに笑う。 「何か、星ちゃんの汚い色だね…」 星ちゃんは俺の肩を叩いて笑って言った。 「そんな事無いだろ!」 いつも思うんだ。星ちゃんは色彩センスが無いって… この前の美術の時間に描いたイラストだって、色を塗る前はよかったのに… 色を塗った後は散々だった。 手先が器用でも色を見る目が悪いんだ。 「護、もうすぐさっちゃん来るから、待ってて。」 「分かった…」 会話を盗み聞きしてる訳じゃない。 耳に入ってくるから…仕方なく聞いただけ。 「お姉さん、お会計したい。」 俺はそう言って、まもちゃんに星ちゃんのミサンガを見せつける。 左手を彼の目の前に持っていって、どや顔でずっと見せつける。 「汚いけど、星ちゃんが作ってくれたの。良いでしょ?」 まもちゃんは俺の手を掴んで、まじまじとミサンガを見て微笑んでいる。 伏せた二重の目元に、長いまつ毛が印象的だ… やっぱり…かっこいいな… 「北斗のだって、不思議な色だよ?」 「ちがう。それは夜空なんだ。」 感性が死んでんだな…この色使いで、夜空を連想しないなんて… 「2000円だよ。ありがとうね~。」 千円ずつ支払って、まもちゃんにまたミサンガを見せつける。 「汚い色だけど…」 俺が言いかけると星ちゃんが俺の肩を押して、店の外に押し出す。 そんな俺の様子を見て、口元を緩めて彼が笑う… ねぇ、まもちゃん…さっちゃんって誰? 気になってる訳じゃない…別に、俺には関係のない事だし… それでも、店の外に出た後も、彼が誰と一緒に出てくるのか…気になって、目が離せなかった。 「良い買い物をしたね~!」 星ちゃんはこういう特別感のあることも好きなんだ。 昔、こけしを作った事もある。 そのこけしは今、俺の実家の部屋に飾ってある。 気持ち悪い顔をしたこけしだ… 母さんが言うには、とても強力な呪いがかかっているらしい… そんな風に言われちゃうくらい、独特なこけしなんだ。 「あ…」 まもちゃんが店から出てきた… 俺は気付かれない様に、さり気なく確認する。 線の細い…水色の、ノースリーブワンピースを着た…髪の毛が長い…THE・女って感じの女の人だ…まもちゃんがその人をエスコートするみたいに、腰に手を当ててる… 何だか分からないけど、胸の奥がチクッとして… 視線を逸らして、星ちゃんの手をギュッと握った。 俺を見下ろす星ちゃんが、不思議そうに顔を覗いて来る。 彼が何かを察する前に、俺は取り繕う様に星ちゃんを見上げて明るく言った。 「…ね、向こうの方で美味しそうな匂いがするよ!」 そう言って、星ちゃんと、ここから離れる。 まるで、逃げるみたいに… この場を離れた。 何だ…彼女がいるんだ。 そら、そうか…あんなにかっこいいんだもん… 俺だって、別に好きな訳じゃないし… 相手だって、そうだ。 それだけのことだよ… エッチしたからって…そんな事。 大人にとったら、大したことなんて無いんだ。 俺を大事にする振りも、愛してる様に見せる事も… きっとあの人にとったら… 大した事じゃ無いんだ。 たこ焼きのお店に並んで、順番を待ってる。 …可愛らしい人だったな…細くて、髪の毛がサラサラで… さっき目撃したまもちゃんの彼女の姿が頭から離れない。 あの人と…どんな風に愛し合うのかな。 俺にしたよりも、もっと大切に、愛してあげるのかな… 手元に握ったお金が歪んでいく。 「いらっしゃい、何個にする?」 「ん、2つ…」 たこ焼きを2つ買って、テーブルで待ってる星ちゃんに持って行ってあげる。 彼はお水を二つ用意して、準備万端で待っていてくれた。 「さてさて、このたこ焼きは…星何点かなぁ~?」 笑ってそう言いながら、星ちゃんと一緒に口に入れる。 俺がまだモグモグしているのに、星ちゃんはあっという間に食べてしまった。 そして、俺の顔をまじまじと見つめて、小さい声で強く言った。 「星3点!」 厳しい! 俺はそんなに悪くないよ? 「ん、星4点かなぁ~?」 そう言って首を傾げて星ちゃんを見る。 甘い!と怒られるけど…全然美味しいのに。 星ちゃんが厳しいんだ。 「何、食べてるの?」 声を掛けられて顔を上げて見ると、博と渉が俺達のたこ焼きを狙っていた。 俺はたこ焼きを自分の方に抱えて、星ちゃんの方を指さした。 「こっちからもらえば良いじゃん…」 その様子に渉も博も呆れた顔して言った。 「みんなが北斗みたいに食いしん坊じゃないし…。それに、向こうで牛串食べたから要らないし…」 牛串!? お祭りでたまに見る、あの牛肉を串に刺したやつ?! 「ね、これ食べたら行こうか?」 俺がそう言うと、星ちゃんは明らかに嫌そうな顔をした。 そして案内マップを取り出して、俺の目の前に広げて言った。 「それじゃ、食べ歩きじゃん、やだよ。次は何処に行くか、北斗も考えて?」 もう…がっかりだよ… 俺は肩を落として、星ちゃんの持ってる案内マップを見た。 「じゃあ…ここは?」 適当な場所を指さしてそう言った。 星ちゃんは俺をじっと見て、首を横に振る。 「ほんとに、もう!食べ物の事からいったん離れてよ!」 星ちゃんが怒りそうなので、俺は一生懸命案内マップを見て、次に行く場所を考えることに注力した。 2人でジッと案内マップを見て、考えてる。 たまに星ちゃんがブツブツ言ってる声を聴きながら、考えてるふりを続ける。 ふと、向こうの方からサックスの音が聴こえて来て、耳を澄ました。 「あ、星ちゃん…誰か演奏してる。」 俺はそう言って、最後のたこ焼きを食べると、席を立って星ちゃんの手を引っ張った。 俺の顔を見上げて、星ちゃんは肩を落とした。 「あ~、もう…一曲だけだよ?」 そう言って、渋々星ちゃんは俺について来てくれた! こういう所って、たまにブラスバンドが演奏してる。 ここもそうみたいで、どこからかサックスとトロンボーンの音がしてきたんだ。 癖の強い、演奏の仕方だけど… 慣れた様子の音に少し興味が出た。 人だかりが出来ている場所に到着して、奥の方を背伸びして見てみる。 サックスの演奏はジャズ風で、アレンジが効きすぎてる。 トロンボーンは意外と単調で、クラシックだ… バランス悪いな…合わせないの?仲が悪いの? 「北斗…」 後ろから名前を呼ばれて、俺は振り返った。 「あ、まもちゃん…」 そこには俺を見下ろす黒いTシャツ姿の…まもちゃんがいた。 隣を見てもあの女の人はいない。 少し安心した自分がいて、変な気持ちになった。 「見たいの?こっちにおいで…」 そう言って俺の手を握ると、ゆっくりと歩き出した。 俺の手に伸びる彼の腕を見て、胸がドキドキする。 彼の後頭部を見上げて、髪の流れを見て、胸が苦しくなるのは…何でなんだ。 そうしてぐるっと人だかりを回って、奏者側のスペースに連れて来てくれた。 俺の手を繋いだままの星ちゃんも、もれなく付いて来た。 「北斗…まもちゃんさんは、関係者なのかな?」 耳打ちして聞いて来る星ちゃんの言葉を無視して、自分の手をまだ握ったままの、まもちゃんの手を見つめる。 大きい手…俺は昨日、この手に抱かれた。 ドキドキして…胸が苦しい。 「さっちゃん、この子。歩のお友達だよ。」 そう言って、まもちゃんは俺の事をさっきの女の人に紹介する。 俺は彼と繋いだ手の平から視線を徐々に上げていく… 水色のワンピースの裾が、風に揺らめいてなびいている。 左手に茶色のバイオリンをぎこちなく持って、俺を見て、さっちゃんはツンと鼻を高く上げた。 その見下したような高慢ちきな表情に、少しムッとする。 彼と繋いだ手をギュッと握って、彼女を見る。 何だよ…そんな顔で見て。 意地悪な感じだ… そして彼女が手に持っているバイオリンを見る。 茶色の年季の入った、くたびれたバイオリン… 彼女の右手に持つバイオリンの弓を見て… 一気に不愉快になった。 まもちゃんの手を離して、詰め寄る様にさっちゃんに近付く。 「その弓で、演奏しないよね。」 弓を指差して、そう言った。 「…は?どうして?」 不愉快そうな顔をして聞き返してくるから、言ってやった。 「弓毛、張り替えたばかりなんでしょ?松脂が足りない。そんな弓で弾いても音は出ないよ。」 そう言って彼女の弓に手を伸ばして、ひったくる様に奪う。 表面を見ると、ツルツルしていて、これでは弦が引っかからない… バイオリンの弓は、馬の毛で出来ている。 ピンと張っただけだと音は出ないんだ。 この表面に松脂を塗って、ざらざらにして、弦を引っかけて音を出している。 「最初は松脂をたっぷりつけないと…これでは…音が出ない。」 苦々しい気持ちで、弓の背を指先でなぞって、反りを確かめる様に片目を瞑って弓を見る。 「北斗…止めろ。」 星ちゃんがそう言って俺の服を引く。 「こんなに年季が入った良い弓を使ってるのに…そんな事も分からないの?弓も左に反っている…かわいそうだ。なぁ…頼むから、今すぐ、バイオリンを手放せよ…」 そう言って、まもちゃんに弓を返して渡す。 まもちゃんは俺から弓を受け取ると、呆気にとられた様子で俺を見る。 「俺は間違ってない。」 俺は彼を見上げて、睨みつけるような目つきでそう言いきった。 俺は正しい事を言ってるよ? 管理が出来ないなら手放せ。 これって、単純だろ? 「北斗、止めろよ…すみません。ほら、行くぞ。」 星ちゃんが俺の手を引っ張る。 「何よ!あなたみたいな子供に…バイオリンの何が分かるの?」 さっちゃんはそう言ってまもちゃんから弓を奪うと、俺に向けて振り回した。 バイオリンの何が分かる? 全部だよ。 「だいたい、歩のお友達にしては、品のかけらも無いわ。こんな子と付き合わない様に、彼のお父様に伝えておかないとね…」 そう言って弓の背を手のひらにパシパシ当てて、俺を見下して笑う。 「あなたなんて…楽器の一つも弾けないでしょ?だって、育ちが悪そうだもの。お猿さんみたいに外でも駆け回っていれば良いじゃない…」 「さっちゃん…」 まもちゃんがそう言ってさっちゃんを止める。 それでも彼女は鼻息を荒くして俺を見下した。 俺とさっちゃんの間に体を入れて、星ちゃんが俺をその場から無理やり遠ざける。 「北斗…もう止めろ…!」 そう言った星ちゃんの声は、静かに怒っている様だった。 星ちゃんの肩越しに見えたまもちゃんが、悲しそうな目で俺を見送る… でも、そんな弓、使うなんてありえないんだ。 だから言っただけだ… 「なんで!あんな事言うの!」 星ちゃん、怒ったの? だって、弓があんなコンディションなのに…演奏するなんておかしいから。 俺の腕を痛く引っ張って、星ちゃんが怒り心頭になってる… 彼らの演奏が始まって、俺の背中に、音の鳴らないバイオリンを力ずくで弾く…バイオリンの悲鳴が聞こえて、背筋が凍る! 「ピチカートしろよっ!」 振り返ってそう怒鳴って周りを騒然とさせる。 まもちゃんが俺を見て、信じられない!って、そんな顔をしてる… …そうだよね… 見ないでよ…俺のこんな姿、見ないで… 「酷い音だ…信じられない…!」 俺はそう吐き捨てて、踵を返した。 あんなのが、彼の彼女だと思うと気分が悪い。 見る目が無いんだ! 聴く耳を持っていないんだ! あぁ…一気に幻滅したよ!! きっと…向こうも…俺に幻滅しただろう。 「お前は少しヘッドホンを付けていろ…」 星ちゃんが怒った顔でそう言って、俺の耳にヘッドホンを付ける。 眺めのいい展望エリアのベンチに座って、空気でぼやけた景色を見る。 汚い音を忘れるために美しいバイオリンの“愛のあいさつ”を聴く。 「ふ~、生き返る~!」 俺がそう言って両手を上げて伸びをすると、星ちゃんがまた怒った顔をする。 「あの人、まもちゃんさんの彼女っぽかったよ?あんな事言って、失礼じゃないか…」 俺は顔を背けて、遠くに見える山を見る。 「道具を大事に出来ない奴が、どうして褒められる?」 そう言って星ちゃんの体にもたれて弓を持つように手を構える。 「星ちゃんを弾いてやろう…うしし」 まずはバイオリンの様に弾いて、首を傾げる。 そのあと、彼の後ろに移動して、抱える様に座って、見えない弓を構えて弾く。 そのまま彼の背中におぶさって、顎を肩に乗せて言う。 「星ちゃんはチェロだよ…可愛いチェロ。」 そうして、彼を弾きながら頭の中で無伴奏チェロ組曲を弾く。 口で口ずさみながら、左手で星ちゃんのわき腹を指で抑えて、弓を引いて、星ちゃんを奏でる。 「…北斗は演奏してる時は別人になるからね…今もきっと綺麗な顔してんだろうね…」 そう言って、ジッと俺に奏でられる星ちゃん。 「星ちゃんは可愛いチェロだ…」 「さっきも聞いた…」 何度も言おう…だって、とっても綺麗な音が鳴るんだ… そのまま彼の背中に抱きついて、遠くの薄い色の景色を眺める。 「いつも上を見なさいって、母さんが言った。小さい所で満足するなと父さんが言った。それってこういう事なのかな…?満足すると、こういう所で、手入れの行き届かない楽器を奏でても、平気でいられるようになってしまうのかな…」 そう言って星ちゃんの背中に顔をもたれさせる。 「そんなの…絶対、嫌だ…」 俺の手のひらをそっと握って、星ちゃんが言う。 「北斗は、そんな風にはならないよ…絶対ならない。」 なぜか目から涙が落ちて、星ちゃんの水色のシャツを濡らした。 まだらに模様を作ってしまった… 星ちゃんには伝えないでおこう… 幼少期から楽器が傍にあることが当たり前だった。 相手をしてくれない大人…両親と、楽器、そして音が鳴るスピーカー… 美味しくないご飯と、楽譜、家に居ない大人と、楽器… あるのが当然な楽器を演奏するのは当然で…自然と音が鳴らせるようになった。 耳が繊細で、音を聴き分けられた。 下手くそと、そうでないもの。 自分はそうでないものに憧れて、熱心に何度も何度も弾いた。 そして、両親もそれを俺に求めた… 自分の弾く弦が美しい音を出すと、体の芯が痺れて持っていかれそうになる。 その快感が、たまらなく好きで… うっとりと美しい音に酔いながら弾き続けた。 まるで満たされない思いを忘れて、没頭する何かを求める様に、夢中になって弾いたんだ… バイオリンも、チェロも…ピアノも…出来て当然で、この先、俺の進路もその方向に向かうだろう…それは良い。 ただ、あまりに繊細で… 不寛容な自分の感受性に振り回されてしまうのが気がかりだ。 だって、弓一本でもあんなに苛つくんだ… この先出会うであろう、色々なタイプの人間と、上手くやって行けるのか… 同じ楽器奏者として、相手を尊重できない自分は、一生…合奏なんて出来ないのかもしれない。 このままヘッドホンを付けて、自分だけの世界の中で…生きて、死ぬのかな。 ゾッとする。 「北斗、ここ行ってみようよ…」 星ちゃんがそう言って俺に地図を見せる。 「いいよ」 俺はそう言って星ちゃんの背中から離れる。 そして、手を繋いで歩く。 俺のチェロと、歩く。 ガラス工房に来た。 熱い… 星ちゃんは額から汗を垂らしながら、頑張ってガラスを膨らましている。 俺はやらない。 だって、あそこはすごく熱そうだから… まん丸の形に膨らんだガラスを、工房の人がトントンと外す。 星ちゃんはそれを満足そうに受け取ると、色を付ける。 「北斗、何色が良いかな?」 「あんまり塗らないのが良い。ガラスの透明感が残る位に塗った方が良い。」 細かく注文して、出来上がりを待つ。 どうせ、俺の部屋にまた飾ることになるんだ。 「出来た~!」 「わ~!風鈴だ~!」 星ちゃんが満足そうに笑うから、俺はそれをすかさず写真に撮って収めた。 だって、凄い可愛い笑顔だったんだ…!! たいそうな箱にしまってもらって、お店を後にする。 「それ、俺にくれるの?」 「欲しいの?」 「欲しい~。」 俺がそう言うと、星ちゃんは風鈴の入った袋を俺にくれた。 「わぁ~!ありがとう。」 そう言って笑うと、星ちゃんとまた手を繋ぐ。 目の前に春ちゃんの背中が見えて、俺は駆け寄って思いきり膝カックンをした。 ガクンとなって、およよっ!とよろける春ちゃんが、間抜けで大笑いする。 「あははは!わ~い、わ~い!」 俺が喜ぶと、一緒に居た歩が俺を見て手招いた。 「この子?」 歩がそう言って、近付いて行った俺を、誰かの前に差し出す。 「そう…その子。」 水色ワンピースのまもちゃんの彼女が俺を見て、憮然とした顔をする。 俺は歩の方を見て言った。 「歩、知り合いなの?」 「僕のいとこだよ…」 いとこ…なんだ。 それを聞いて少し安心した…自分がいた。 「ピチカートで弾けって怒鳴られたの…初対面の相手に本当に失礼だわ。謝って頂きたいの…!それにこんなサルみたいなお友達、あなたの為に良くないわ。早く縁を切った方が良いと思うの。お父様には私からお伝えするわ。帰ってもらいなさい。」 そう言って俺の目の前で手を払う様にして、さっちゃんは止まらず話す。 「人前で相手を侮辱するような品の無い人は、あなたには相応しくないわ。そうは思わない?歩。」 何でこんな風に言われなきゃいけないんだよ… 馬鹿みたいだ… 俺は不愉快になって踵を返そうと体を返した。 歩は逃がす気が無いみたいに、俺の体を羽交い絞めにする。 こんな事するなんて…歩らしくないぞ! 「なぁんだ!離してよ!」 俺はそう言って体を捩って抵抗する。 「この舌っ足らずなしゃべり方も、本当に…不愉快なのよ。」 さっちゃんの俺への悪口が止まらない。 何でここまで言われるの…あったま来る! 俺は春ちゃんの方を見て言った。 「この人は、楽器を持つ資格の無い人だ!」 俺がそう言うと、まもちゃんの彼女で、歩のいとこが、俺の頬を思いきり引っ叩いた。 「うわん!」 俺は痛くて星ちゃんに手を伸ばして助けを求める。 でも、星ちゃんは俺を見て笑うばかりで、助けてくれそうにもない。 みんなには楽しそうに見えるの? まもちゃんの彼女に俺が酷い事されるのが、楽しそうに見えるの? それとも、女の人が相手だから… 星ちゃんは、男の俺の方を見捨てるの? 俺は歩に羽交い絞めにされたまま、びんたされて、悪口を浴びせられて、晒し者になった… 「おい!何だ、何だ、北斗が可哀想じゃないか…!」 まもちゃんが手にアイスクリームを持って慌てて近づいて来る。 さっちゃんにアイスを渡すと、俺にそっと手を伸ばした。 すかさず、春ちゃんが俺の腕を引っ張って、自分の体に抱く。 さっきは助けてくれなかったのに!! 何だよ! 「そうだ、俺が可哀想だ~!」 そう言って、俺は威張った。 今の所、この場の権力者2人に守られてるからな! 強気になったんだ。 歩に頭を叩かれて、星ちゃんの所に逃げ帰る。 「星ちゃん、俺、引っ叩かれた!」 星ちゃんの体に抱きついて、鼻をスンスン言わせると、星ちゃんが言った。 「可愛い女の人だよ?それに、痛くないだろ?」 俺は星ちゃんの顔を見上げて固まった。 本気か? アーユーシリアス? 俺のほっぺの心配よりも…さっちゃんの方を優先させるの? それは…あの人が女だから? 「星ちゃん…見損なったよ…大嫌いだ!」 そう言って星ちゃんから離れると、一人でぽつんと立った。 「冗談だよ…」 そう言って、星ちゃんが手を伸ばすけど、俺は星ちゃんを見損なったから、無視する。 「北斗…機嫌直せって…」 そう言って、俺の手を掴んで引っ張るけど、俺は星ちゃんを無視した。 「…何でこんな事になったの?」 まもちゃんがいじける俺を見て、怒った顔をして歩に説明を求めてる。 歩はまもちゃんと一緒に俺を見て、ため息をつくと話した。 「さっちゃんが、バイオリンを演奏しようとしたら、北斗が脇から来て、文句を言ったんだって…それで、さっちゃんが怒っているから、北斗に謝らせようとした。こいつはすぐに逃げるから、僕が抑えて、謝らせようとした。」 「北斗は無理やりが嫌なだけだよ…」 春ちゃんがそう言って、俺の方を見る。 春ちゃんは俺の味方だ! もっと言って!もっと言ってやってよ! 心の中で春ちゃんを応援しながら、俺はずっと星ちゃんを無視してる。 「今怒ってる理由は知らない。どうせ、星ちゃんが言った何かが気に入らなかったんだ。こうやって拗ねて、全て自分の思い通りにするんだ。」 酷くないか…歩。そこまで言うなんて… ちょっとショックだった。 俺は星ちゃんの伸ばした手を繋いで、瞬時に元さやに納まった。 自分の思い通りになんて、してないし、なってない。 何一つ、自分の思い通りになんて、なっていない… 悔しくて、涙が出そうになったけど、堪えて星ちゃんの腕に抱きつく。 「俺が…謝れば良いんだろ…」 そう言って、さっちゃんの目の前に行って、あっちの方向を向いて言った。 「あ~、ごめんね~。」 そう言って星ちゃんの所に走って戻る。 「偉い?俺、偉い?」 俺の頭を撫でて、もう言うな、と言わんばかりに手で押して、星ちゃんは俺を背中に隠す。 渉と博も来て、何だ何だと騒ぐ。 「私、その子、大嫌い。…護、行こう…」 そう言って、まもちゃんの手を取ると、さっちゃんはどこかに行った。 まもちゃんがほんの少しだけど、俺を守ってくれた… だから…俺はさっちゃんに謝った。 本当は嫌だったけど、謝った。 「歩って俺の事そこまで酷いやつだと思ってたんだ…ちょっとショックだ~。」 俺が苦笑いしながら言うと、歩が言った。 「さっちゃんは家の家系の本家っていうの?偉いとこの子なんだよ。だから、ああでも言わないと、もっと虐められるから…ごめんね。」 そう言って俺に申し訳なさそうな顔を向けるけど… なんだか、本心の気がしてならないよ。 「僕の父さんは3兄妹で、長男の所の子供がさっちゃん。20歳。女子大生。それで、僕の父さんが次男なのね。で、妹の理恵おばさんが居たんだけど…5年前に、病気で亡くなった。理恵おばさんが、叔父さんの奥さんだったんだ。夫婦でレストランしてたんだけどね…病気がひどくなって、一時畳んだんだ…今は、前よりも気楽に営業してるけど…当時はひどく落ち込んで可哀想だった。」 まもちゃん。結婚してたんだ… しかも、奥さんは死んでるんだ…可哀そう 「さっちゃんは叔父さんが大好きで、あぁやって連れて歩いてるんだ…」 歩はそう言って、両手を上げて肩を揺らした。 …彼女じゃないんだ… 俺は少しほっとした… だって、あんなやな女と付き合えるような奴…絶対嫌だから… 「あのバイオリンは誰の物なの?」 年季の入った感じから、さっちゃんの物とは到底思えなかった。 軽く10年は経過してそうなボディの色は、美しく剥げて見えた。 「あれは…亡くなった理恵おばさんの物だよ。形見分けした時、さっちゃんが貰ってた。」 まもちゃんはあのバイオリン…きっと欲しい筈なのに… まるで人質みたいに持ってるんだ…嫌な女。 「可哀想だね。まもちゃん…」 俺はそう言って星ちゃんの手を繋ぐと、みんなと別れた。 「歩の家も大変だね。」 星ちゃんがそう言って、俺の手を握る。 「どこも、おんなじだよ…人がいると、必ずもめるんだ…」 俺はそう言って、我関せずを決め込んだ。 そして、星ちゃんと牛串のお店に並ぶ。 「また食べるの?」 星ちゃんがそう言って嫌な声を出す。 でも、さっきから良い匂いをさせているこいつを無視することなんて…俺には出来ないよ! 「牛串一本下さい。」 1つの牛串を買って、二人で食べる。 「美味しい。やっぱりお肉って最高だね~。」 俺はそう言って、笑った。 その後も、いくつかお店をめぐって、楽しんだ。 星ちゃんはこの日、ミサンガを作り、風鈴を作り、変な手提げまで作った… アクティビティーが好きなの? 物より思い出を両立させてるの? そう思う程に、星ちゃんは貪欲に体験型のお土産を欲しがった。 帰りにまもちゃんのお店に寄って、夜ご飯を食べて帰る事になった。 春ちゃんは反対したけど、俺はもう料理を作りたくないから賛成した。 大体、料理なんて面倒くさいんだよ。 「暗いね~、もう夜だね~。」 バスの中、隣に座る博に話しかける。 博はなにやら大物を購入した様子で、俺はその大きな袋の中身が気になって仕方が無かった。 「ちょ~っと、見せてよ。」 俺が指先で袋を弄ると、博が怒って俺の手を叩く。 一体何を買ったんだろう…誰かにあげるのかな? 「プレゼント?」 俺が聞くと、黙って首を横に振った。 俺は諦めてヘッドホンを耳に付けると、大音量で音楽を聴いた。 袋の中は気になるけど、今はこれを聴いていよう… だって、手を叩く勢いが凄く強いんだもん。 バス停に着いて、みんなでゾロゾロと降りる。 そのまま列になって車道の脇を歩いて下る。 道路の向こう、右側に俺達の別荘が見えて、湖の湖面が黒く揺れているのが見えた。 そのままどんどん下ると、左側にまもちゃんのお店が見えてくる。 ライトが付いて明るく光るからか、虫が集まって来ている。 まもちゃんに話を付けるため、歩が先に、一人で入って行った。 俺は明かりに集まる虫が、こちらに向かってこないか心配で、星ちゃんの傍に居た。 しばらく待っていると、お店のドアが開いた。 「良いって、でも、今日は少し大人な感じだって。」 そう言って歩は、俺達をお店に手招きした。 「わぁ、ジャズだ!」 店の中に入ると、ジャズの生演奏中だった。 「今日は大変だったね、北斗は、もういじけて無いの?」 まもちゃんが厨房から出てきて、俺の髪を撫でると、そっと顔を覗き込んで来る。 俺はまもちゃんを無視して、奥から聞こえる音楽に耳を傾ける。 「あぁ…いいなぁ、俺も弾きたい。」 そう言ってまもちゃんを見る。 「行っても良い?」 「ん?」 なんで、まもちゃんに許可を得ようと思ったのか…自分でも分からないけど、俺はそう彼に尋ねた。 「良いよ。」 そう言って微笑むから、俺はそそくさと演奏する大人の近くに行って、様子を見た。 知ってる曲、でも、ピアノがあるのに、弾く人が居ないようだった。 「おじさん、俺がピアノを弾こう。コードを教えて。」 そう言って、俺はピアノに座る。 椅子の調整なんて要らない。だって、このテンポのジャズに、ペダルは要らないから。 気の良いトランペッターから使用コードを教えてもらい、ピアノを合わせて弾く。 ジャズではミ、ソ、シを半音下げるのも加えるんだって、お母さんが言ってた。 それをブルーノートって言うらしい。 凄いよね…そうすると、こんなにかっこよくなるんだから… 俺が可愛いからか…場が盛り上がって、高揚していくのが分かる。 ピアノを弾きながら、まもちゃんを見る。 彼は俺を見て、嬉しそうに笑っている。 やっぱり、俺が可愛いから、盛り上がるんだな… 「美少年、他に何をやる?」 アルトサックスがそう言ってくる。 アルトサックス、トランペット、コントラバス、それにピアノ… 「じゃあ、俺が目立つ様に…モー〇ン。ソロはペット、サックス、コントラ、最後は俺で!」 そう言って笑うと、頭を撫でられて大笑いされる。 「お前はとんでもない大物だな!」 そう言って笑うトランペットのおじさんが、ここのボスみたいだ。 足で調子を取るから、それに合わせて俺はピアノを弾く。 楽しい…! めちゃめちゃ楽しいじゃん。 サックスって…最高にかっこいいんだ… コントラバスの低音に痺れて、気持ち良くなってくる。 「北斗、何食べるの?」 まもちゃんが俺の顔を覗いて聞いて来るけど、無視して自分のソロを弾く。 8小節、即興で作曲して演奏する、32小節を一区切りと考えて、その中でみんなで回してソロを演奏する。よくあるジャズの演奏スタイルだ。俺は最後だから、このまま主題に戻る様につなげよう…。 俺のソロ、かっこいいだろ? 自分の演奏に一番痺れるなんて…さすが俺だ…!! ボレロみたいに戻る合図を出して、主題に一緒に戻る。 あぁ…決まった…!! ここがグタグタになるとがっかりするけど、どうやら、このオジジ達と息が合ったみたいで、最高に気持ちよく合わせられた。 見せ場が終わったので、傍らで、俺を見つめ続けるまもちゃんに言う。 「俺は、オムライスが食べた~い。」 そう言って、彼に笑うと、彼は俺の頭にキスして笑った。 さぞ痺れたんだろう。 俺のこの超絶技巧に… チップは椅子の下にお願いします。 「あぁ、楽しかった。混ぜてくれて、ありがとう~!」 俺は椅子から立ち上がると、トランペットのオジジにお礼を言った。 「美少年、他に何が出来る?」 そう聞かれて、ひときわ大きなコントラバスに視線が行く。 「じゃあ…これで俺が無伴奏チェロ組曲を弾いてやろう。」 「ふふ、大きいから、疲れちゃうよ?」 バス弾きのオジジが笑って言うから、言ってやった。 「ハン!俺は疲れないんだ。」 本当はチェロで弾くこの曲。 チェロより大きなコントラバスで弾くと、何が違うかと言うと、まず、弦の間が広くてこの弓の角度を微妙に変えて、均等に力を当てて演奏しなくてはいけない事と。抑える指が死ぬということ以外…すこしテンポが遅く、音が低い仕上がりとなる。形が似てるから、ちょろいなんて思うと音すら出ない…。コントラバスは奥が深いんだ…。 普通の椅子より高い、バス椅子に腰掛けて、コントラバスを後ろから抱く。 おっきい…まもちゃんみたいだ…可愛いな… 指を少し弦にあてて、感覚を確かめる。 ビョンビョン音が出て、このコントラバスがピチカート仕様になってると気付いて、ペグを絞る。弦を張らせて、チューニングして弓仕様に戻す。 コントラバスの弓を弦にあてて、一音出してみる。 コントラバスを抱いて触れる部分から、振動が伝わって、俺まで震える。 あぁ…体中が振動して痺れる…たまんない… 俺は弓をチェロの様に構えて、美しくポーズを取った。 そして、指を動かして、コントラバスで無伴奏チェロ組曲を弾く。 オジジ達が息を飲んで見ている。 シンと静まる室内にコントラバスの低音が、美しく一音一音正確に音を刻んでいく。 空気の振動が壁に跳ね返って、増長していく… お客が固唾を飲んで俺を見つめてる… きっと俺が飛び切り、可愛いからだ… どんなに大変な演奏でも、澄ました顔して、弾くと上手く弾ける。 大きなコントラバスを優しく抱いて、太い玄をしっかり押さえて、指が死んでも絶対音は外さない。正確に、丁寧に、繊細に、最後まで美しく弾きあげる。 曲が終わると、俺は目を開けて顔を上げる。 固まって静まる店内で、一人、椅子から降りると、丁寧にお辞儀した。 「美少年!凄いぞ!ブラボー!」 その瞬間ワーと歓声が上がって、指笛がどこからか飛ぶ。 バンドのオジジ達も、ジャズを聴きに来たお客も、スタンディングオベーションだ。 俺はコントラバスをオジジに返すと、お礼を言った。 久しぶりに弦に触れられて、弓を引いて、とても楽しかったんだ… 「メンバーに入る?」 そうスカウトされたけど、年齢が平均よりも下だから、止めておいた。 楽しく演奏をして、星ちゃんの元に戻った。 星ちゃんは俺を見て、嬉しそうに笑って迎えてくれる。 「あ~、楽しかった!」 俺が席に座ると、まもちゃんの運ぶオムライスが、ナイスタイミングで出てきた。 「わぁ、いただきます。」 「北斗、凄かった…あんなに上手な演奏を聴いた事がない。素晴らしかった!」 そう言って、まもちゃんは、オムライスを食べる俺の頭を優しく撫でた。 そして、俺の肩に両手を置くと、モミモミと肩を揉み始めた。 オムライスは俺の好きな半熟卵になっていて、とっても美味しかった。 やっぱり卵は半熟だよ?星ちゃん。 「北斗は何回も高い評価を頂いてるんです。そんじょそこらの奏者じゃ無い。本当に努力したからこんなに上手なんです。これは北斗の努力の結果だよね。」 星ちゃんは、まもちゃんにそう言うと、俺の方を見てにっこり笑う。 俺は嬉しくなって、星ちゃんを見て目を潤ませて頷いた。 本当にそうなんだ… これらは全て…努力の結果なんだ… こんな事…普通には出来ないよ。 毎日、毎日、馬鹿みたいに楽器を練習して、その中で得た経験を使っただけなんだ。 そこにはとびぬけた物なんて…なに一つもない。 そんなあやふやな物の上に成り立つような物じゃない。 それは影の努力を知らない人から見たら、抜群のセンスに見えて。 そして、その苦労を知らない人が見たら、生まれ持った才能に見えるんだ。 でも、それらは沢山の犠牲の上に成り立ったれっきとした技術なんだ。 俺はそう、しみじみしながら、美味しいオムライスを食べた。 本当に美味しい…!これも一つの技術だ。 「北斗は、おやじキラーだな。」 渉がそう言って、俺の肩の向こう側を指差した。 差された指の先を見ると、オジジと、お客が集まってきて、次から次へと俺にチップをくれた。 「わぁ!…ありがとう。これでご飯代に困らないで済むよ~。」 両手に余る現金に、驚きながらお礼を言った。 「美少年。ベースを弾いていた時の顔が、とても美人だったよ?」 そう言って、俺の親と同い年位のお客が、俺の顎を指でツイと撫でた。 「知ってる。澄まして弾くと上手に弾けるんだよ。今度あんたも試せばいい。」 俺はそう言って、その人の手を指で退かすと、にっこり笑った。 その人は俺を見て笑うと大人しく帰って行った。 何てことだ!変態だな! 「北斗様様だな~」 博がそう言って、みんなが笑う。 おやじキラーの称号を得た俺は、沢山貰ったチップで今夜のご飯をおごる羽目になった… まもちゃんはお代は要らないと言ったけど、せっかく稼いだお金なので、彼にあげた。 「ごちそうさま~!」 みんなで店を出て、家路につく。 湖沿いの遊歩道を歩いて、歩の別荘までみんなで歩いて帰る。 「北斗はどうして演奏するときはあんなにビシッと出来るのに…普段はふにゃふにゃしてるんだろうね~。もったいない。」 歩がそう言って俺のほっぺを摘まむ。 「いてて…母さんに、いつも恰好だけは付けなさいって言われてたからかなぁ~。」 俺がそう言うと、星ちゃんが言った。 「北斗の本当の姿は、あれなんだよ。」 その言葉がすごく胸に残って、そう言った彼の顔をじっと見た… 寂しそうな…しみじみしている様な…そんな複雑な表情だった。 俺は星ちゃんと手を繋ぐと、ブンブン振りながら別荘に帰った。 「博は料理が上手で、俺は楽器が上手で、星ちゃんはお世話が上手だね。」 そう言って星ちゃんの背中によじ登る。 「ねぇ、北斗?」 「なぁに?」 「北斗は、随分…歩の叔父さんに懐いているけど、気を付けるんだよ?」 「どうして~?」 「あの人、お前を見る目が少し、気になるから…」 星ちゃんの背中に頬を付けておぶられながら、俺はコクリと頷いた。 もう遅いけど… 頷いて、答えた。 別荘について、星ちゃんが一番風呂に入る。 俺はヘッドホンを付けてソファに寝転がる。 歩と春ちゃんは、コソコソどこかに行った。 渉が大きな袋を持ってきて、俺に見せる。 「ひ、ひ、博がくれた!」 なんだ、なんだ、あれは渉への贈り物だったのか! 俺は体を起こして、ヘッドホンを首に降ろすと興味津々に聞いた。 「な、な、何が入っていたの?」 渉が袋の中に手を入れて、取り出す。 「え、何これ…」 大きな金魚の被り物…ぬいぐるみの様に綿が入ってる…なんだ、これは… 「わはは~!」 博が笑いながら渉の所に来て、言った。 「お前にピッタリだ。」 どゆこと~? 俺は心の中で突っ込んだけど、イチャイチャし始めたので、ヘッドホンを耳に付けて横になった。 なんか、カップリングされてる… 小学生からの馴染みの友達たちが、不思議とカップルの様にくっ付いていく… 歩と春ちゃん…博と渉…俺は星ちゃん… に、拒否されて…まもちゃんとした… 俺の友達はみんな男で済ませるんだ…星ちゃん以外は… 「イチャイチャするなら他所でやれよ~!」 無性にムカついてそう言うと、頭を叩かれる。 「だ、だ、だだだ誰がイチャイチャしたよ!イチャイチャするっていうのは、お前と星ちゃんみたいな事だろ?」 そう言って激しく抗議を受ける。 俺は星ちゃんとイチャついたって…その先には何もないんだ… 「エッチの仕方を教えてあげようか?」 俺はそう言って2人に詰め寄った。 「北斗はサイテーだな!ば~か!」 そう捨て台詞を吐かれて、一人、ソファに残った。 どうせ、春ちゃん達もよろしくエッチしてるんだ。 毎日毎日、よくも飽きずにエッチするよね… その内、合体しちゃうんじゃない? あ~、大変だ~!取れなくなっちゃった~!って言って泣くんだ。 フン! そうだ、面白そうだから、覗きに行こう。 俺はヘッドホンをそのままに、音量だけ下げて、春ちゃんと歩を探しにリビングを出た。 「そういう事は~見つからない所でやるんだよね~?」 そう言いながら、おもむろに風呂場に入って、浴室のドアを開ける。 「星ちゃんのおちんちん、み~ちゃった!」 そう言って、笑って浴室を出る。 後ろで怒った声がしたけど、俺はヘッドホンをしてるから、聞こえないよ。 どこかな~どこかな~? 意外と外だったりして… そう思って外に出ると、やっぱりいた。 別荘から少し離れた、湖の近くのボートの陰で、絡み合う二つの影を発見した。 俺は嬉しくなって気付かれない様にこっそりと二人に近づいた。 そして、近くまで行くと、わざと大きなあくびを出しながら、二人の傍を何食わぬ顔で通り過ぎた。 そして、おもむろにボートに乗る。 「マイケル、ロウ、ザ、ボーダショウ~ハ~レ~ル~ヤ~」 歌を歌いながら、繋がれて陸に上がっているボートをこぐ。 楽しすぎる…! ヘッドホンは消音にしてある。 2人の焦る声が聞こえて笑いをこらえる。 「気付いてないから…」 「早く…服着て…」 もう俺は一回見てるのに…まだ恥ずかしいんだ… そういう問題じゃないのかな…? よく分からないや… そのままボートの上に仰向けに寝転がる。 そして、右から聞こえる声を聞きながら、大きな月と満天の星空を見上げる。 「なのは~なばたけ~に、い~り~ひうすれ~」 大好きなこの歌を、心を込めて熱唱する。 春ちゃんが蹴飛ばしたのか、ボートがガンと揺れて、びっくりして起き上がる。 「うほほ…怖い…ネッシーが、来る…!!」 俺はそう呟いて、別荘に戻るふりをして、物陰に隠れて二人を見た。 「可哀想だ…北斗、本気で怖がってるぞ…?」 春ちゃんがそう言って、歩を睨む。 歩は春ちゃんにキスすると、言った。 「北斗が邪魔だ…いつもいつも、邪魔ばかりして…」 ほら…やっぱりね。 歩は俺の事、疎ましく感じていたんだ… 「春ちゃんは、まだ北斗の事が好きなの?確かに、あの子は天真爛漫で可愛いけど、ヘッドホンが無くなった時の姿見たでしょ?あれがあの子の本質だよ…」 そう言って春ちゃんの体に自分を寄せると彼をうっとり見つめて、キスする… 俺の本質…自己中で凶暴…? 星ちゃんは澄まして楽器を弾く俺を、本当の姿と言った… 二人に気付かれない様にその場を後にする。 酷く落ち込む…

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