9 / 55

8月8日(土)

8月8日(土) 「星ちゃん…おはよう…また目が覚めちゃった。外でバイオリン弾いて来るね…」 まだ朝の5時なのに…俺はまた目が覚めて、眠れなくなった。 「どこまで行くの?」 目が開けられない星ちゃんが、俺に聞くから言った。 「ネッシーに聴かせる。」 そう言うと、星ちゃんは少しだけ笑って、すぐに寝た。 可愛いな… 彼の髪をフワフワと撫でて、寝顔にキスする。 星ちゃんにこんな事できるの…今の所…俺だけなのに… この先、女が彼の隣で目覚めるのかと思うと、胸糞悪いよ。 高価なバイオリンを手に持って、玄関に向かう。 外は昨日の曇りが嘘みたいに快晴で、空気が澄んでいる。 深呼吸して、まだ日が昇っていないこの時間を楽しむ。 ベンチまで行って、ケースからあめ色のバイオリンを取り出す。 朝のぼやけた光の中でも、綺麗に輝いて、俺の心をくすぐる。 「お前は理久と何年一緒に居るの?今まで何回、他人に預けられたの?」 そんな事を独り言で呟きながら、チューニングして、音を出す。 綺麗だ…背骨が痺れてくる。 まるでセックスしてる時の様に、興奮するよ… そっと首に挟んで、弓を構える。 「ネッシーにショパンを贈ろう…」 そう呟いて深呼吸すると、息をする様に音を出して、体を音に乗せて揺らした。 気持ちいいな… 美しいバイオリンの音に身を任せてユラユラと揺れる。 空気になって、風の様に音が流れて、一緒に揺られる。 このまま消えてしまいたい…跡形もなく… 消えてしまいたい。 弾き終えて、弓を美しく弦から離す。 呼吸して、人間に戻る。 そのまま一呼吸おいて、弓を構える。 愛は…悲しい… 今までこんな気持ちになった事は無い… 彼を思いながら、クライスラーを弾く。 風にならないで…人のままで、愛の悲しみを弾く… それはとても悲しいから。 ネッシーにも伝わるかな。 俺の悲しさが… きっとネッシーは星ちゃんみたいに優しいから 俺の為に泣いてくれるかもしれない… それも、また、悲しいよね。 弾き終えると、涙が頬を伝っている事に気が付いた。 感情がこもった事に喜んで、弓を持つ手で拭う。 2、3回ジャンプして、体を揺らして、頭を真っ白にして、バイオリンを首に挟む。 弓を美しく構えて、ネッシーに贈る。本日の最後の曲だ… サラサーテ… ピアノの伴奏を頭の中で再生させて、弦を鳴らす。 激しく、ピチカートして、感情を乗せる。 美しく、指をスライドさせて弾く。 体が簡単に動いて、難しい曲を弾ける自分の力に感嘆する。 これまでの犠牲のなせる業だ… これは才能なんかじゃない… もう楽器なしでは生きていけない…そんな人生になってしまったみたいで 観念する様に、最後まで熱心に弾きならす。 感情を乗せて…悲しくも激しい旋律をネッシーに届ける。 指も弓も簡単に早い旋律をこなして、驚くほどの技巧を使って、簡単に弾く自分に酔いしれて、おかしいよ…こんなものが弾けるなんて… わらけてくる。 弾き終わって、止めていた息を再開する。 俺は弓をゆっくりと美しく戻して、ネッシーにお辞儀をする。 後ろで誰かの拍手が聞こえて、振り返る。 まもちゃんが俺に拍手しながら近付いて来るのが見えた。 トレーニングウェアを着て、汗を拭きながら、俺に優しいあの笑顔で微笑んでいる。 その顔が堪らなく素敵で。 今にも抱きついて、キスを浴びせたいくらいに込み上げてくる感情に飲まれる。 体が固まって動けない… 湖面を鳥が羽ばたいて、大嫌いな水の音がして、我に返る。 俺はバイオリンをケースにしまって、抱えると、逃げる様にその場から離れた。 「北斗…待って!」 背中に彼の声を受けて、大好きな声に体が痺れる。 そのまま別荘の玄関に戻り、扉を閉めて、鍵をかける。 しゃがみ込んで両手で顔を覆って呼吸を整える。 見られたくなかった… 彼を思って弾いた曲を聴かれたくなかった… ガキの甘酸っぱい悲しさを聴かれたくなかった… 外の静けさを感じて… 呼吸が落ち着くと立ち上がり、靴を脱いで、寝室へと戻る。 そのまま星ちゃんのうつ伏せの体に自分の体を乗せる。 「ネッシーは喜んでいたよ?」 俺がそう言うと、下敷きになった星ちゃんは小さく呻き声をあげた。 ゴロンと彼の体から転がって、天井を見る。 そして、すくっと体を起こして、バイオリンのケースを開ける。 弓を取り出して、松脂をさっと塗る。 緩めて戻して、ケースを閉じる。 さっき咄嗟にしまったから弓を緩めていなかったんだ… そうしてまた隠すようにしまって、星ちゃんを見る。 彼は俺の一連の動作を見ていたみたいに、じっとこちらを見ていた。 「壊さないようにね…」 そう言って俺の方に手を伸ばすから、俺は星ちゃんの手を握って、傍に座った。 「昔、両親に言われた。練習が辛くても、いつか、それがお前の武器となり、糧になるって…さっき、それが分かった気がした…」 そう言って星ちゃんの顔を覆う様に覗いて、話す。 「星ちゃん?今日は二人でどこかに行こう?」 星ちゃんは俺の目を見て、目を細めるとコクリと頷いた。 彼の背中に頭を乗せて、ヘッドホンを耳に付ける。 一度深い呼吸をさせて、星ちゃんはまた眠りだしたようだ。 俺は音楽を大音量で流して、まもちゃんの事を頭から追い出す。 次、会う事があったら、逃げたりしないでちゃんと話そう。 逃げるなんて、俺がまるで傷ついているみたいだ… 俺は傷ついてなんかいない。 割り切って、セックスしたんだ。 だから、逃げるなんて…ダサい。 多少心が痛くなったとしても、格好つけないと… 負けたみたいで…嫌だ。 「北斗、おはよ~」 「ん~」 みんなに挨拶して、リビングのソファに寝転がる。 ヘッドホンを首に下げて、支度を済ませた俺は春ちゃんに言う。 「今日は俺と星ちゃんでお出かけしてくる~。」 「どこに?」 「まだ決めてない~。」 そう言って春ちゃんを見ると、春ちゃんは俺を見て言った。 「歩に虐められてるの?」 そう言った春ちゃんの表情は…どことなく悲しそうに見えた。 「そうだよ?誰のせい?」 俺はそう言って春ちゃんを見て目を見開いて見せた。 「ぷふっ!俺のせいか…」 俺の顔に少し笑うと、春ちゃんは言った。 「あんまり触らない様にする…」 そうしてくれたまえ!! 全く、どうしようもない性欲だ。 俺は、分かった。と春ちゃんに伝えて、ソファを立ち上がった。 やりたがりには困ってるんだ。 ちょっと大人びてるからって…強引で、困ってるんだ! キッチンに向かう途中、星ちゃんとすれ違う。 俺は彼を後ろから抱きしめて、彼の背中にスリスリと顔を擦り付けた。 「星ちゃん、今日どこ行く?バスに乗る?」 「ここに行ってみようよ。食べ歩きしよう。」 まじか~!嬉しい。 食べ歩きと言うワードを聞いて、俺は嬉しくなって飛び跳ねて喜んだ。 「たっべあっるき~!たっべあっるき~!」 口ずさんでスキップして、理久のバイオリンを手に持つ。 「北斗、それ持っていくの?」 星ちゃんが驚いて聞いて来るから、俺は体に抱えて言った。 「持っていく。だって、何かあったら大変だから。」 400万のバイオリンなんて、気が気じゃないよ… 俺はそう言って、星ちゃんをみて笑った。 彼はそれを聞くと、不安そうに表情を曇らせて言った。 「落としそうで怖いよ…」 今までバイオリンを持ち運んで落とした事なんて一度もない! 置いていく方が心配だ。 「星ちゃん、食べ歩き。楽しみだね~」 そう言って服を着替える彼にもたれると、バイオリンのケースが星ちゃんにあたる。 「星ちゃん、バスは何時に来るかな~」 そう言って靴下を履く星ちゃんに覆いかぶさると、彼の顔面にあたる。 …あぁ 俺はバイオリンを持っていく事を諦めた。 別荘に付いていた南京錠をクローゼットの扉に付け直して、その中にバイオリンを保管することにした。 俺達の部屋を内側からカギをかけて、俺は窓から外に出る。 「そんなに友達を信用してないの?」 星ちゃんが怒るけど、信用できない。 400万だぞ? 人はお金で簡単に変わるもんだ… バス停に向かって二人で歩く。 大きめの麦わら帽子をかぶった俺と、キャップをかぶった星ちゃん。 熱中症対策は完ぺきとは言えないけど、濡れたタオルとヘッドホンを首に巻く。 食べ歩きリストを携帯で見ながら歩く。 「星ちゃん、これ、絶対食べようね~?」 携帯の画面を星ちゃんに見せて、約束する。 バス停について、二人で並んで待つ。 だいぶお日様が昇ってきて、じりじりと俺の顔を焦がしていく。 俺は靴で土を掘りながら、星ちゃんのお尻を見てる。 「ちっさいお尻だね。かわいいね。」 俺がそう言うと、星ちゃんは俺の方を軽く振り返って笑った。 日に焼けた肌が綺麗で、見とれてしまう… 目の前にバスじゃない車が停まって、中から声を掛けられる。 「北斗ちゃん!今日はまもちゃんのお店で働かないの?楽しみにしてたのに~!」 まもちゃんのお店の常連さん、変態の後藤さんだ。 「今日はお友達と食べ歩きする~」 麦わら帽子を斜めにして、後藤さんに顔を見せてそう言うと、彼は言った。 「どこまで行くの?送ってあげるよ。」 俺は星ちゃんの顔を見て確認する。 彼は俺の顔を見て、頷いて答えるから、俺は後藤さんの方を向いて言った。 「じゃあ、乗せてって?」 そう言って、俺と星ちゃんは後藤さんの車に乗せてもらった。 涼しいクーラーのかかった車内で、快適に移動する。 後藤さんはルームミラーで俺をずっと見ていたけど、気が付かないふりをした。 する必要も無いのに、愛想を良くして、終始笑顔でいた… 「北斗ちゃん、お友達と同い年なの?随分年齢が違って見えるよ。お友達の方がお兄さんに見える。」 後藤さんはそう言って、俺の方をじっと見つめる。 俺は星ちゃんを見て、体を乗り出して後藤さんに言った。 「同い年だよ?同じ14歳だよ?」 俺が近くに来たことが嬉しいのか…後藤さんはハァハァして喜んだ。 目的地に到着して、後藤さんにお礼を言う。 「北斗ちゃん…明日は?明日はお店に居る?」 キャバ嬢みたいだと自分でも思った。 「分かんない。まもちゃんに聞いてみたら?…もう必要ないと思うよ。」 そう言って後藤さんの腕にちょっとだけ触れて、サービスした。 ありがとう。変態。 おかげで暑い中、待たなくて済んだし、座ってここまで来れた。 そのお礼に、少しだけ、彼の腕を撫でた。 「おやじキラーなんだね…」 星ちゃんはそう言うと、意味深な表情で俺を見つめて来る。 呆れているのか、感心しているのか…そんな表情で俺を見て…全く。 「そっち系の店で働いたら、儲かりそうだ。」 俺は星ちゃんとそんなことを話しながら、観光地を歩いた。 「北斗、彫り物だって…」 まただ…また星ちゃんが伝統に引っかかる。 俺はそれに付き合って、一緒に彫り物のお店に入る。 ちょっと外を歩いただけなのに、吹き出してくる汗に困る。 「星ちゃん、今日はまた一段と日が強くない?」 俺が聞くと、星ちゃんは俺の方を見て言った。 「暑いのに慣れると、気にならなくなるって…本当かな?」 んな訳無いよ… だとしたら、クーラーなんてものは要らなくなるからね… 「北斗、見て?凄いね、これ。」 どれも高価だ… 写真立てがこんな値段するなんて… 工賃を取りすぎだ… 「これなら買えそうだ。お土産に買っていこう。」 そう言って星ちゃんは箸置きを手に取ると、嬉しそうにお会計をしに行った。 俺は星ちゃんのお尻を見て、他の人のお尻と比べて待った。 袋を持って、ニコニコしながら戻って来る星ちゃん… 本当に好きなんだな…こういうの。 俺は店の外に出て、星ちゃんに言う。 「あれ、食べに行くよ?」 目星をつけたお店に向かって、手を繋いで歩いた。 あちこちのお店を食べ歩きをしながら、汗を拭いて、お水を飲んだ。 日陰に入って、ベンチで休憩する。 「やっぱり、あれはいまいちだったね…」 食べ物への評価が厳しい星ちゃん。 俺はそれなりに美味しいと思ったのに、さっき食べたお饅頭は星3点だと言った。 「星ちゃんは厳しいんだよ。ここの土地では、あれが饅頭なんだ。」 俺はそう言って、麦わら帽子を外すと、髪の毛の汗を拭いた。 「暑い!どこか、涼しい所に入ろうよ…」 時間も気付けば午後3時過ぎになっていて驚いた。 確かに…星ちゃんの手元には、伝統の袋がいくつもぶら下がっている。 あっという間に楽しい時間は流れていくから、俺だけ取り残されていたみたいだ。 「アフターヌーンティーしようよ。涼しい中で。」 俺はそう言って、奥に見える高級そうなカフェに向かって星ちゃんの腕を引っ張った。 「ケーキも食べたい。」 そう言って、腕を組むと、汗がにじんで気持ちが悪かった。 でも、離したく無くて、そのまま腕を組んで歩いた。 お店の前に着いて、入り口に置いてあるメニューを見る。 ケーキセット…2、850円… 何これ… 隣の星ちゃんを見ると、彼も俺を見ていた。 「違う所に入る?高すぎる。」 俺はそう言って、そのカフェの前に広がる池のほとりに向かった。 散歩できるように舗装された小道を通って、池の鯉を眺める。 よく太った鯉が、このカフェの繁盛を教えてくれてるみたいで、笑える。 「星ちゃん、見て!凄いデカい鯉が居る!」 俺はそう言って星ちゃんと手を繋いで池を覗いた。 星ちゃんが俺の背中を押すから、落ちそうになって慌てる。 その時、気持ちのいい風が吹いて、麦わら帽子が俺の頭から飛んで行った。 「あっ!」 俺が慌てて振り返ると、星ちゃんがすぐにキャッチしてくれて俺の頭に麦わら帽子を乗せてくれる。顔が見える様に、少し斜めに被せて俺の鼻を触る。 「北斗、鼻の頭、焼けたよ?」 確かに、さっきからヒリヒリしてたんだ…。 にへへ。と笑って星ちゃんを見ると、彼も俺を見て笑った。 「北斗!」 どこからか名前を呼ばれて驚く、星ちゃんは目線の先を俺の肩の向こうに向けて笑ってる。 俺は振り返ってその方向を見た。 「理久~!」 池を挟んで、星ちゃんに、ひさしぶり~!と理久が手を振る。 高級カフェのテラス席。 落ち着いた上品な白い石畳とこじゃれた木製の手すり… 大きく開いた店内への開き扉には紺色の上等なタープが広げられて、大きな日陰を作っている。 丸いテーブルに一つずつ日傘を設けられて、池を眺めながら、向かい合う様に座って紅茶を嗜むお客さんが見える。 それはまさに…優雅。の一言だ。 なんだか、池を挟んで、貧乏人と金持ちの構図に思えて、笑える。 「北斗、星ちゃん、こっちにおいで?」 手すりのぎりぎりまで来て、理久が俺達を呼ぶ。 俺は星ちゃんと顔を見合わせて確認する。 「行ってみる?」 「高いお店に?」 俺は理久に振り返って確認した。 「お前が奢ってくれるなら行く~!」 大きな声でそう言うと、テラス席に居た高級な客がクスクスと笑う。 理久がおいでおいでと手招きするから、俺と星ちゃんは高級なカフェの入り口に再び向かった。 「俺、チョコケーキと紅茶にする~。星ちゃんは?」 俺が尋ねると、星ちゃんは、見てから決める。と言った。 手を繋いで店の入り口で待っていると、奥から理久が来た。 今日はお洒落なベストを着こなしている理久。 不覚にも少しだけ格好よく見えた。 「意外とすぐに会えたね。」 俺が笑ってそう言うと、理久は俺の頬にキスしてハグした。 理久と俺が手を繋いで、俺と星ちゃんが手を繋いで、高級なカフェの奥へ連れて行かれる。 首元のタオルとヘッドホンを取りたいけど、両手が塞がれていて取れない… 星ちゃんに目で訴えると、急いで2つとも外してくれた。 「見て…星ちゃん、貴族みたいだね。」 ロココ調の装飾があしらわれた店内は、なぜか作り物感が無く、まるでタイムスリップしたような…そんな気にさえなってくる不思議な空間だった。 和洋折衷…明治の色が濃い店内は、居るだけで華やかで…キョロキョロしながら手を引かれるままに歩いた。 さっき理久が手を振っていたテラス席に出ると、奥に並ぶ大きな日傘の並んだテーブルに連れて行かれる。 10人くらいの座れそうなテーブルに、日陰が落ちる様に日傘が並んでる。 まるでシチリアの様だ。 白い石畳の床がそう思わせるのか… 「北斗…」 また誰かに名前を呼ばれて、声の相手を見る。 「まもちゃん…」 そこには、まもちゃんがいた。 俺を見て驚いた様子で口を開けている。 片手に持った紅茶が零れて行きそうだ… 今朝見たトレーニングウェアではなく、いつものTシャツ姿でも無い。 ちゃんとした服を着た、映画に出て来そうなくらいに素敵なまもちゃん。 腕まくりをした胸元が開いた白いシャツと、素敵なグレーのベスト。 目を奪われて立ち尽くす。 見つめ合う様に時間が止まって、動きも止まった。 彼の隣にはさっちゃんがヒラヒラのブラウスを着て、こちらを睨みつけて見てくる… 「何で…あなたがここに居るの?」 そう呟く口元は、可愛い顔に似合わなく、歪んで醜かった。 ふぅん…二人は仲良しなんだね。 だって…エッチする関係だものね… こんな大きなテーブルでも、隣同士で座って、紅茶の一つも飲むよね。 眉をひそめて視線を外す。 これ以上見たら、もっと酷い顔になりそうだったんだ… だから、視線を外した。 「北斗、こっちだよ。」 理久に手を引かれて、そのテーブルに座る一番の年寄に紹介される。 まるで長老の様にお誕生日席に座る様から、俺はこいつを長老と、心の中で呼んだ。 「この子は私の教え子で飛びぬけて上手でした。」 そう言って俺を紹介すると、長老は開かない目で俺を見て笑った。 「どうぞ、よろしく…」 そう言われて、俺はよく分からないけどお辞儀した。 そんな俺の様子を、心配そうに見つめるまもちゃんの視線に気が付く。 …心配なんて、する必要無いのに… 理久が俺と星ちゃんを近くの池側の二人席に座らせる。 「理久、俺、チョコレートケーキセット!紅茶も!」 理久は俺の座った椅子に強引にお尻を滑らせると、顔を寄せて小さな声で言った。 「あのテーブルに居る人たちは、ここら辺の土地持ち、財閥、金持ちだ。お前が一曲弾けば、たちまちお前のパトロンになるだろう。どうだ?北斗、弾かないか?」 理久は興奮してそう言うけど、俺はバイオリンを持ってきていない…しかも、あの人たちは正装だけど、俺はダメージの入った黒パンとブカブカで汗だくのTシャツ姿だ… 頭には釣りキチの様な麦わら帽子… 俺は気に入ってるよ?涼しいし、可愛いからね。 でも、フォーマルじゃない。 「弾くにも何を弾くのさ…バイオリンも無いのに…」 彼のお洒落なベストを指で弄りながら俺がそう言うと、彼は笑って言った。 「俺の2番目のやつを貸してやろう…」 …理久は俺に演奏させたがってる。 星ちゃんの顔を見る。 お前は、どう思う? 「一曲位なら、お礼に弾いても良いんじゃないか?」 そう言って微笑むから、俺は理久の言う事を聞くことにした。 理久の方を向いて、頷いて答えた。 「分かった。では理久の言う通りにしよう。」 理久は興奮して俺を抱きしめると、自分の座っていたであろう場所からバイオリンのケースを2つ持ってきた。 1つは自分が、もう1つを俺に渡して、俺の顔を見て言う。 「北斗…一緒にハンガリー舞曲を思いきり弾こうか…?」 激しいな… 俺は頷いてバイオリンを取り出して、弓を張った。 音を鳴らして耳で確認して、チューニングする。 目の前で楽器を準備する俺と理久を見て、大きなテーブルを囲う金持ちは興味津々の様子だ… 俺は麦わら帽子を外して、星ちゃんに持ってもらうと、少しだけ手櫛で髪を整えて、星ちゃんに見てもらった。 「うん。大丈夫!」 本当?汗だくだよ? 「北斗…俺の可愛い北斗…!」 理久が激しく興奮して俺の名前を連呼している。 金持ちたちはその様子に常軌を逸したと困惑しているけど… 俺はそれを黙って見て、彼が整うのを待つ。 これは、毎度のことで…一緒に弾く時、理久は必ずこうなった。 その後、ハグして、キスして、整うんだ。 「では、一曲。愛する北斗と一緒に…ハンガリー舞曲を。」 そう言って理久がバイオリンを構える。 その立ち姿は、先ほどの狂人の様子とは違い、落ち着いてかっこいい。 特にベストから覗くシャツが妙に色っぽく見えるんだ。 俺は理久が見える場所に斜めに立つと、バイオリンを首に挟んで、弓を美しく構えた。 理久の言った“思いきり弾こう”…この言葉の意味。 彼の自由に弾く曲に上手く合わせてついて来いって…そういう意味だ。 だから、俺は気が抜けない。 彼は演奏も自由だ。 編曲もしながら、自由に弾く事だろう。 だから俺は彼の様子が見て取れる場所に待機する。 そうして、少しの変化に対応して一緒に弾きあげるんだ。 旋律を乱すことなく。 まるでそういう物であるかの様に、即興で合わせて行くんだ。 気の抜けない合奏は、興奮するよ? でも、失敗したらダサくて…恥ずかしいんだ。 目で合図して、彼の弓の動きで曲の導入を合わせる。 この曲はただでさえ途中でリズムがよくよく変わる。 その度に理久の目を見て、確認しながら弾く。 彼は放蕩する性格と同じで、自由に旋律を漂って…弾く。 まるで一人で歌うオペラ歌手の様に、その旋律は伸びて、自由だ。 しかし、要所要所でアイコンタクトを取ってくれる。 だから、俺も要所までは彼に合わせて自由に弾く。 体を揺らして、激しく…時に繊細に息を合わせて弾く。 搔き鳴らされる音色を生かす様に、旋律をずらして俺は弾く。 彼の表現したい音色を察して、共に弾く。 その2人を固唾を飲んで見つめる大きなテーブルに座る金持ちたち… まるで貴族のお抱え奏者にでもなった気分だね… 理久が極まって動きが激しくなってくるから、俺はおかしくて笑いながら演奏した。 あんまり暴れると…そのまま池に落ちていきそうだ… 最後まで弾き終えると、俺はゆっくり弓を弦から離して、澄ましてお辞儀をした。 拍手喝采いただいて、池の向こうのお客じゃない観光客からも声援を頂いた。 全方向にお辞儀をして紳士的に振舞い、心の中でチップをせがんだ。 「あぁ…北斗…北斗…良い…良いよぉ…」 燃え尽きた様にしゃがみ込む理久にバイオリンを返す。 「理久…チョコレートケーキと紅茶のセットと、あと、星ちゃんは…」 俺は理久の正面にしゃがみ込んで、注文を始めた。 「後で…後で…」 そう言って俺の手を掴むと、先ほどの長老の所に連れて行った。 「素晴らしい!」 さっきは開いていなかった長老の目が大きく見開いて、俺を見ると立ち上がって握手を求められた。 俺はちょっと気持ち悪いな…と思ったけど、理久の手前、長老と握手をした。 「他にも弾いて聴かせてはくれないか?」 そう言われて、返答に困る。 だって、俺はアフターヌーンティーを星ちゃんと取るために来たんだから… 「理久…俺はチョコレートケーキと紅茶のセット…後は星ちゃんに聞いて注文しておいてよ…」 小さい声で理久に言うと、彼は頷いて星ちゃんの方に向かって歩いて行った。 理久が星ちゃんの注文を聞いているのを確認して、俺は長老に聞いた。 「では、後一曲だけ…何が良いですか?」 澄ました顔で聞くと、長老は目をキラキラさせていった。 「愛のあいさつを…聴かせてくれ…」 俺は頷いて答えると、少し離れて姿勢よく立った。 そしてバイオリンを首に挟んで、上目遣いにまもちゃんを見る。 目が合って、彼が俺を見ているのを確認する。 さっちゃんは悔しそうに俺とまもちゃんを交互に見てる… そんな分かりやすく妬くなよ…アニメじゃあるまいし… ダサい女だ。 視線を下げて、弓を美しく構えると、頭の中でピアノを再生させて前奏を弾かせる。 伸びるような音で美しくメロディを弾き始める。 体を一緒に連れて行くように、のびやかに、流れる様に、繊細に強弱をつけて… 優しく、強く…歌う様に、美しく弾きあげる。 誰よりも美しく…また、そうある様に弾く。 この愛のあいさつは、まもちゃんにあげる。 綺麗だろ…これがバイオリンの音色なんだよ? 優しく弦を擦るだけで、こんなに美しい音色を出してくれるんだ。 俺は…傷ついてなんかいない。 傷ついてなんていないよ…まもちゃん。 だからそんな悲しい顔しないで… 俺は勘違いをしてしまったんだ。 余りに優しくされて… 勘違いをしてしまったんだ。 だから、そんな俺の事をもう気にしないで…。 放っておいていいんだよ。 そう、もう見なくて…良いんだよ… そんなに悲しい目で見なくて、良いんだ。 俺はガキだから… また勘違いしてしまうから。 どうかそんな目で見ないでくれ…。 弾き終えて、余韻を持って、弓をゆっくりと弦から離すと笑顔でお辞儀をした。 「素晴らしい!」 長老は大層喜んで、周りの大人も過剰に俺を褒めた。 まもちゃんの方は見なかった… 彼が俺に拍手をするのが視界に見えたから… それで十分だった。 「とても美しかった…俺の北斗…」 俺はお前のじゃない… そう言う理久に向かい合って、彼の顔を見上げる。 俺と目が合うと、ドギマギして視線が泳ぐ。 「理久…ハンガリー舞曲、とても素晴らしかった。一緒に出来て嬉しかったよ。」 俺はそう言って、彼のベストを指で弄った。 「北斗の演奏も素晴らしかった…お前くらいだ。俺に付いて来てくれるのは。」 それって他の人が嫌がってるだけだよ。 自由過ぎるのに、落し処を知ってる彼のセンスに嫉妬するんだ。 師弟関係のある俺だから、それを受け入れて見習えるけれど、そうでなければ理久のそれは、羨ましいと思える程のセンスだ。 彼にバイオリンを返すと、俺は星ちゃんの元に戻った。 笑顔で、彼の元に行って目の前に座って…おしゃべりをする。 長老が気持ち悪かったことも伝えて、クスクス笑う。 「パトロンってなんだろうね?」 そんな話題に入る頃、俺の前に上品なチョコレートケーキが来て、甘い匂いを出す。 「星ちゃん、紅茶入れて?」 上品に星ちゃんが紅茶を入れて俺に出してくれる。 ウケる。 俺は上品にフォークを持って、星ちゃんに微笑むと、チョコレートケーキを上から刺して、丸ごと持ち上げた。 吹き出して笑う星ちゃんを見ながら、そのまま噛り付く。 口の端に割れたチョコが刺さって溶ける。 酷い口元になった俺に、星ちゃんが上品な手つきでおしぼりをあてて綺麗にしてくれるから、おかしくて吹き出した。 池の鯉が俺達の方へ集まってくる。 「きっと北斗が食べこぼすと知ってるみたいだね。」 星ちゃんはそう言ってクスクスと笑う。 まさか! そうなの? キャッキャと楽しむ俺達は場違いなくらい、落ち着いたカフェだ。 「居心地悪いね。食べて飲んだら早く出よう?」 俺がそう言うと、星ちゃんも頷いて笑った。 俺は大変満足していた。 まもちゃんに聴かせてあげられたから… 美しくて儚い俺の愛のあいさつを…気持ちを込めて、彼に聴かせてあげられたから。 満足して、気分が良かった。 それ以外の感情が無くなったみたいに… 自分の演奏を聴かせて満足するんだ… 俺も大概…頭のおかしいガキだよな。 「理久、俺達、帰る。」 未だにテーブルで談笑するこの大人たちは、一体何をこんなに長時間、話す事があるのだろうか…金持ち、喧嘩も仕事もせずか? 俺はそのうちの一つの席に歩いて行き、そう伝えた。 「北斗…また会おうね。」 そう言って、理久は立ち上がると、うっとりと俺の手の甲にキスをする。 彼の熱い視線を受けて、俺は微笑んでそれを受け流す。 変なんだ。 理久は昔から、少し変な人だ。 「理久先生。その子。本当に失礼なんですよ…先生の教え子って言っても…限度があります。どうぞ、節度のある行いをするようにご指導ください。」 ずっと黙ってまもちゃんの隣に居た、さっちゃんが俺の方を見て、話し始める。 その目つきは完全に俺を射る目つきだ。 鋭くて、嫌悪感を帯びた、殺しに来る目つき。 まもちゃんは俯いて、彼女を放ったらかしにする… 止められないの? この無礼な女を止められないの? ダン! 俺がまもちゃんを見つめることが相当嫌みたいに、俺の視線を奪う様に彼女は机を強く叩いた。 周りの客がシンと沈黙を始める。 「まるで発情期の猫みたいに、手当たり次第に色目を使うのも…見ていて不愉快だわ。バイオリンを弾いてるんじゃなくて…何か別の目的でもあるのかしら…?」 俺がまもちゃんに色目を使ったって…そう言ってんのかな。 口元を歪ませて、俺を見上げながら、まもちゃんの体に寄り掛かっていく彼女を、子供の俺はどうしたら良いの… ただ無表情で見つめ返すしか出来ない。 こんな修羅場…踏んだこと無いからな。 周りの大人を見回しても、俺の事を助けてくれる人はいなさそうだ。 金を持ってる頭の程度の良い大人なら、そろそろ気付けよ。 俺は子供で、不当に彼女に侮辱されている事にさ…。 「…バイオリンが出来ても、無教養のお猿さん。それが、あなたよね?」 理久は驚いた顔で、俺の手を握ったままさっちゃんを見ている。 そして、俺に視線を戻すと、笑って言った。 「北斗…東京に帰ったら、一緒にディナーでもどうだい?」 俺はさっちゃんから視線を外して、理久の頬を撫でると言った。 「奢ってくれるなら、良いよ?」 これ見よがしに色目ってやつを使って、彼女を挑発してやる。 人前で不当に人を侮辱する、お前の方がよっぽどお猿さんだ。 そして長老に丁寧に挨拶して、その場を後にする。 本当にくだらない女… みっともない女だ。 俺は色目なんて使わない… そんな事をするのは、ズルい大人だけだろ… まもちゃんは見る目が無い。 本当に、見る目が無い… ひと時の貴族を味わった俺と星ちゃんは、外に出ると体を動かして暴れた。 「うひゃ~。もう日が沈み始めてるよ?」 かれこれ2時間は居た事になる…優雅だな。 そろそろ帰らないと、まもちゃんはお店が開く時間なのに…大丈夫なのかな。 そんな事を考えて我に返る。 俺には関係のない事なのに… 本当に、馬鹿みたいだ。 もう、吹っ切れよ… 俺があんなにさっちゃんに言われてるのを放ったらかしにするような大人だぞ? 俺なんて、端から相手にされていないのさ。 遊び相手が本命にディスられて、まいったな~。くらいだろ…。 感情をむき出しにして、淑女とは程遠い彼女に残念な気持ちでいっぱいだ。 見た目はそこそこ可愛いのに…本当、育ちって大切だと思った。 だって、あんなみっともない女。 俺は絶対ごめんだね! 「星ちゃん、涼しくなったから、また食べ歩きしよっ?」 俺はそう言って星ちゃんの手を引っ張って、たこ焼きを買いに向かう。 さて、この店のたこ焼きは…星幾つかなぁ? 帰りのバスの中、俺と星ちゃんは一番後ろの窓際に座ってガタゴト揺られていた。 彼の手を握って、指と指を絡めて、恋人繋ぎしてみる。 嫌がらない彼に頭を持たれさせて、目を瞑る。 このまま遠くまで行って、結婚したいな… 「ねぇ、北斗…さっちゃんはどうしてあんなに酷い事をお前に言うの?」 「さぁ…俺がバイオリンの事を言ったの、根に持ってるんじゃない?」 星ちゃんの問いかけにそう答えて、開いた目をまた閉じる。 「それにしても…言いすぎだろ。」 そう言って俺の手をギュッと握る星ちゃん。 悔しかったよ… あんな風に言われて、悔しかった。 でも、あの時感情的になったらおしまいだ。 女のヒステリーには慣れている。 俺の母さんはもっと感情的に俺を罵る。 だから、ああいう時に黙っているのが正解だって、経験上知ってるんだ。 それに周りから見たら、ギャーギャー言うさっちゃんよりも、 俺の方が断然賢く見えるって、俺は知ってるんだよ。 「机叩くとか…ちょっと異常だよ。」 星ちゃんはそう言って、俺の顔を覗いて来る。 俺はそれを無視して、居眠りを決め込んだ。 彼女は明らかに俺がまもちゃんを見ることを嫌がった。 それはつまり、そう言う事だ。 俺が彼を見ると、彼が俺を見る… さっちゃんは、それが嫌なんだ。 そして、この話題を深追いすることは、俺がまもちゃんとエッチしたって… 星ちゃんに言わなきゃいけなくなるから… だから、俺は目を閉じて居眠りを決め込んだ。 星ちゃんが俺の頭をポンポンと叩いて、慰めてくれる。 星ちゃん…俺は意外とズルくて汚いんだ。 俺とさっちゃんのいがみ合いが、決して一方的じゃ無い事を俺は知ってる。 わざとさっちゃんを挑発している事。 そう、俺は確信犯なんだ。 彼女を煽って、挑発してる。 ものの見事に引っかかるから、ダサいと心の中で嘲笑ってるんだ。 手に入れられない彼を勝手に必死に守ってる、さっちゃんを見て、笑ってるんだよ。 嫉妬だ。 俺の…醜い嫉妬なんだ。 バス停に到着して、星ちゃんと降りて、彼のお土産袋を一緒に運んであげる。 こんなに沢山…家族思いなんだな… 別荘が見えて、外でみんながバーベキューをしていた。 「ただいま~、お土産買ってきたよ~?」 そう言って星ちゃんはお土産袋を持ち上げた。 あぁ…これはみんなへのお土産だったんだ。 「考えが及ばなかったよ…気配り上手なんだね。」 そう言ってみんなにお土産を渡している星ちゃんを見る。 「バーベキュー、俺も食べたい。」 俺はそう言って、席について箸を持った。 隣に星ちゃんも座って、みんなと夕飯を食べる。 渉と博は相変わらずラブラブで、歩と春ちゃんもどことなく甘い雰囲気になっている。 そうか…俺達だけ… いや、俺達だって。 「星ちゃん、お肉取ってきて~?」 俺がそう言うと、無条件に星ちゃんは肉を取りに行ってくれる。 そうだ… 誰よりも、ラブラブなんだ…ずっと、ずっと前から。 人目も憚らず、抱きついたって、星ちゃんは怒らない。 当たり前すぎて、慣れてしまっていたけど… 俺は星ちゃんに大事にされている。 俺達の友情は…ラブラブと同程度に…熱いんだ。 お肉をお皿にとって戻ってきた星ちゃんに言う。 「ん、玉ねぎも~」 腰かけて間もないのに、また立ち上がって玉ねぎを取りに行ってくれる… なんて優しいんだ… 俺は星ちゃんの所に行って、一緒に鉄板から野菜を取った。 「星ちゃん?ありがとう。」 俺がそう言うと、彼は俺をチラッと見て口元を緩めて笑った。 可愛いんだ。 あんなにさっちゃの事を言ったのも、星ちゃんが俺を気にしてくれているからだ。 俺が傷つかない様に、いつも守ってくれているんだ。 そんな彼に、まもちゃんの事なんて言ってはいけない。 だって、彼は俺を傷つけるから… 言ってはいけないんだ。 ご飯を食べ終わって、片付けをする。 一日だけだけど、まもちゃんの所で働いたおかげか、労働が苦じゃなくなった。 お皿を手際よく集めて、キッチンへ運んでいく。 お水につけて、洗剤を付けて一枚一枚洗っていく。 拭きあげて、戸棚にしまう。 ほら、こんなに上手に出来るようになった! 1人で威張って仁王立ちする。 誰かに背中を叩かれて、驚いて振り返る。 「歩…」 俺の後ろに神妙な表情の歩が立っていた… 俺は耳に付けたヘッドホンを首に落として、聞いた。 「どうしたの…?」 ヘッドホンから天国と地獄が軽快に流れてる… 流れ作業に丁度いいBGMなんだ。 「北斗に話したい事があって…ちょっと、良いかな…」 俺は頷いて、先を歩く歩の後を付いて行く。 ベランダに出て、夜空に星が瞬く綺麗な空を見上げる。 歩が俺を振り返って頭を下げた。 「北斗…ごめんなさい!」 彼の下げた頭ごしにポタポタと涙が落ちるのが見えた。 ヘッドホンから流れる曲が変わって、ピアノの旋律が聞こえ始める… 俺は手を伸ばして、歩の肩を触る。 そのまま体を起こして、彼の顔を見る。 歪んで、可愛くなくなった顔を見て、彼の真剣さを感じた… 「歩は…俺が嫌いだったの?」 俺の目から涙が落ちて、彼の目に映る。 「違うっ!違うっ!!北斗…ごめんね…嫉妬したんだ…お前に…」 歩はそう言うと俺の目から流れる涙を拭って、無かった事にしようとする。 俺はじっと彼を見て、悲しかったと伝えるために沢山の涙を落とす。 「優しいお兄さんだと思っていたんだ…大好きだった。だから…悲しかった。あんな風に言われて、悲しかった…。だって、俺は何も自由に出来ない、思い通りになんて…ならない生活をしてきたの、分かってると思っていたから…。いつもいつも、練習をしろと言われて、母親に殺されかけても、練習させられて…。遊ぶことも出来ない子供時代を過ごして…この先だって、きっと俺の思い通りの生活なんて出来ない。親の選んだ道を行くしかない、どうしようもない人生なんだ。」 そう言って歩に赤裸々に伝える。 「好きな人にも拒絶されて…誰も俺を抱いてくれないんだよ…、ね?全然思った通りなんかに出来ていないだろ。…だから、あんまりだ…あんまりだって、そう思ったんだ。」 拭いきれない涙を落として、俺が訴えると、歩は口を歪めて泣き崩れた。 「ごめん…北斗…本当にごめんなさい…」 俺は歩の事を許した…。 ちゃんと謝ってくれたから。 それに…大好きな歩とこんな風に険悪な状態を続けるのは、俺はもう耐えられなかった…。 甘えたかった。笑いたかった。話したかったもん。 「…もう良いよ。」 そう言って歩の体を抱きしめて、静かに涙を落とした。 俺も、さっちゃんに嫉妬している… 身を焦がれるような…激しい激情が起こる事を知ってる。 自分がどんどん意地悪になっていく… 醜くなっていく姿を…一番見せたくない、大好きな人に見せてしまう。 その恐怖がまた嫉妬に変わって…堂々巡りする。 俺が今日さっちゃんに向けた視線を…まもちゃんはどう感じただろう。 俺の事…意地悪なやつだと…軽蔑しただろうか。 それが怖くて…どんどん卑屈になって行ってしまうんだ… そして…ついには自滅していく。 勝手に…1人で。 1人ぼっちで… 「歩、もう俺は怒ってない…もう、仲直りしたい…」 そう言って、彼の胸で泣く。 「ごめんね…北斗、大好きだよ…本当に。」 そう言って俺の目に流れる涙を拭くと、優しいキスをくれて、俺はやっと落ち着く。 「うわぁん…うわぁん…」 声を上げて泣いて…ヘッドホンから何も音がしなくなって…湖の向こうから鳥の鳴き声が聞こえた。 「いつまでやってんだよ~、トランプしようぜ?」 そう言って春ちゃんが俺達に声を掛ける。 もとはといえば、お前がいけないんだ! 俺は歩と手を繋いで、一緒にリビングに向かった。 星ちゃんが俺を見ると、そっと手を伸ばして、足の間に入れて背中を抱きしめてくれる。大きな体で温めてくれるから、心地よくて満たされる。 まるで歩を許したことを褒めてくれるみたいに、何度も頭を撫でて、何度も俺の名前を呼んでくれる。 6人…みんなでババ抜きしながら楽しく過ごす。 いつぶりだろう…こんなに素直に楽しかったのは… 歩を見る目も、渉と博を見る目も…まるで悪い魔法が解けた様に普通に戻ってる… 捻くれていたのは…俺の方だったのかな… 星ちゃんを見て、彼の目を見つめる。 俺の方を見て、俺の目を見つめ返して、微笑んでくれる。 こんなに近いのに…遠くに感じて、寂しい。 でも、それでも…良い。 それでも、彼に一番近いのは、俺だから… それは間違いのない事実だから…良いんだ。 セックスしなくても… まもちゃんが居なくても… 俺は…大丈夫なんだ。 「北斗?今日さ、まもちゃんさん…泣いてたね?」 ベッドに入ってうとうとし始めた頃…星ちゃんが天井を見ながら言った。 俺はぼんやり、天井を見ながら答えた。 「まもちゃんの事…そんなに見てないから…分からなかったよ…愛のあいさつで泣いていたの?」 それは奥さんとの思い出の曲…だと、俺は思っている。 でも、本当の事は知らない。 もしかしたら、ウソ泣きだったかもしれない… 嘘つきの大人の本当なんて…俺には見抜けないよ。 いや…と言うと、星ちゃんは続けて言った。 「お前がバイオリンを持った姿を見た時から、泣いていたよ?」 それを聞いて不思議だった。 星ちゃんのわき腹に頭を突いて、呟いた。 「何でだろうね…」 俺がそう言うと、星ちゃんは俺の方に体を向けて、俺の髪の毛を撫でた。 そして、顔を落として、俺に優しいキスをくれた。 一瞬時が止まったみたいに感じて、星ちゃんの顔をぼんやり見上げる。 「星ちゃん…今、俺にキスしたよ?」 彼にそう伝えると、星ちゃんは優しく微笑んで、俺にまたキスしてくれた。 そして言った。 「お前が今日、とても頑張ったから…友情のキスだ。」 そうなんだ… 俺は笑って星ちゃんに言った。 「ありがとう…」 このまま友情のセックスになるかな…なんて少しだけ期待した。 それは予想を外れても、傷つかない程度の期待だ。 明日から、歩と普通に出来る事が嬉しい。 そっと目を瞑って星ちゃんの大きな呼吸に合わせて呼吸して、 ゆっくりした時間を味わって眠りに落ちた。

ともだちにシェアしよう!