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8月9日(日)_01

8月9日(日) 「北斗、おはよう…朝だよ?」 星ちゃん、今日は星ちゃんが早起きなの? 俺は布団をかぶって言った。 「もうちょっと寝てみる!」 「まもちゃんさんが来てるよ。朝ごはん作ってくれてるよ。」 ハン! 俺はそれなら尚更起きたくないよ… でも、俺が部屋に閉じこもったら、傷ついて泣いてる子供の構図にならないか…? それは不本意だ…ダサくて、負けたようだから…。 俺は体を起こして、星ちゃんをむくんだ顔で見る。 「今日は外で朝ご飯だって。お洒落だね。行こう。」 俺は星ちゃんに手を繋がれて、トイレに寄ってから外に出た。 「北斗、おはよう。」 歩の声を聞いて彼の所に行って甘える。 後ろから抱きついて、ハフハフして甘えると、その後ろに春ちゃんが来て、俺にハフハフしてくる。 …お前は相変わらずだな! そう思って春ちゃんを殴る。 「…北斗、おはよう…ご飯作ったよ?沢山食べてね…」 まもちゃんの声がして、一瞬心が跳ねるけど、俺はそれを悟られない様に平然と彼を見る。 いつもの普段着姿の彼は、パーカーを着て腕まくりをしていた。 そこから見える二の腕がたくましくて…つい、抱きしめられた時の力強さを思い出して、胸が痛くなった。 「あざます~」 そう言って、星ちゃんを探す。 カップルズと一緒になにやら談笑する星ちゃんの隣に行って、長椅子に座る。 まだ眠たくて、星ちゃんの背中に頭を付けて、そのまま目を瞑る。 目の前のテーブルにコトン、コトンと皿が置かれていく音がして、目を開けると俺の前にも皿が置かれた。 まもちゃんの手のひらが一瞬見えて、また胸が苦しくなる。 俺も大概…乙女みたいだな… 「星ちゃん…星ちゃん…寝転がりたい…」 俺はそう言って、星ちゃんの膝に寝転がらせてもらうと、彼の顔を真下から見た。 「今日は曇り?」 星ちゃん越しに見える空が白く見えて、彼にそう聞くと、手元の携帯で天気予報を調べ始めた。 「ん~夕方、雨が降るみたいだよ?」 へぇ…ここに来て初の雨だ。 「夕立?」 俺が星ちゃんに聞くと、彼は首を傾げた。 「そんなに激しいか…見て見ないと分からないな…」 雷が鳴るといいな… 轟くくらい、地面を揺する位の雷が鳴ると良いな… 「北斗、ご飯いただこうよ。」 俺の体を起こして星ちゃんが言う。 嫌だよ…まもちゃんのご飯なんて食べたら、またおかしくなるじゃないか… 渋々体を起こす。 でもそれを悟られない様に気を付ける。 傷ついたりしたなんて、察せられたくない。 「わぁい、いただきます。」 目の前のお皿に乗ったバランスのいい食事。 隣の星ちゃんに体を傾けて、もたれて食べる。 「星ちゃん、トマト…」 俺はそう言って自分の皿からトマトを退かしてもらう。 「嫌いなの?」 すぐに、まもちゃんが俺に聞いて来る。 いつの間にか俺の隣に座っている彼の顔を見て言った。 「嫌いだよ。小さいのは良いの。大きいのはグチュグチュしてて……大っ嫌い!」 俺がそう言うと、まもちゃんは少し寂しそうにして笑った。 それが可哀想で、俺はすぐに視線を外した。 「昨日は何の集まりだったんですか?」 星ちゃんがまもちゃんに尋ねてる。 俺はヘッドホンを耳に付けて、音楽を大音量で聴く。 俺には要らない情報だから… シャットアウトして、目の前の食事を摂る。 目の前に座る渉を見て、彼がまもちゃんを見る顔を見る。 何て言ってるの…? まもちゃんは、あの低くて素敵な声で…なんて言ってるの? 俺がじっと見つめると、博が勘違いして目を吊り上げて威嚇してくる。 俺に向かって口をパクパクしてしてる。 俺はそれがおかしくて、ふふふ…と笑った。 次の瞬間、隣のまもちゃんが俺の腰を掴んで、自分に引き寄せて抱きしめた。 周りの反応を見ても、誰も驚かない様子に戸惑う… こうやって、自然に体に触れるんだ… 何を話せば…こんなにも違和感を抱かれずに、体に触れることが出来るの? 俺は星ちゃんを見て、彼に手を伸ばした。 星ちゃんは俺の様子に気付いて、手を握って笑う。 まるで魔術師の様に、スマートに俺を抱きしめて、熱い体を俺に触れさせて、興奮して、発情する様に、仕向けているみたいで…悔しくなる。 俺はまもちゃんの腕を解いて、星ちゃんの隣に行くと、ご飯をさっさと食べて、お皿を片付ける。 みんな何か言っていたけど、俺は今きらきら星を聴いている。 だから何も聞こえない! キッチンに行って、お皿を洗う。 彼の用意した食事を食べて、彼の腕に抱かれた… 意図は分からない…でも、確実に彼の体温を感じた俺の体は、熱を帯びて、おかしくなりそうだ… パブロフの犬の様に…触れられただけで盛る様になったのかな… さっちゃんの言った通りに発情でもしてんのかな。 俺は寝室に戻ると理久のバイオリンを取り出した。 沸き起こる性欲に、抗う術を俺は持っている… ヘッドホンの音楽を聴きながら、手元にバイオリンを持って、俺は外に出た。 そして、朝食を食べる皆さんに澄まして一礼して、湖のほとりに向かう。 まもちゃんは俺を見て、嬉しそうに微笑む。 俺はそれを横目に見て、視線を逸らした。 首にバイオリンを挟んでヘッドホンを腕にかける。 弓を構えて、湖に向かってチューニングする。 耳で聴いて音を合わせて、緩んだ弦を直す。 朝の穏やかな湖面も…夕方には大荒れになるだろう… 嵐の前の湖をネッシーにお知らせするために、俺はショパンを弾く。 多少湿っ気のある空気に、バイオリンを晒すことに不安を感じて、一曲弾いたら室内に戻そうと思った。音の乗りも悪くて、まるでまもちゃんの出現によって、感情が乱れた自分を見るようで、笑える。 湿って高くまで上がらない音を、それではと伸びる様に演奏する。 低くても遠くまで伸びる様に…一音一音を繊細に弾いて… 弾き終えて後ろを振り返ると、星ちゃんが驚いて聞く。 「もうやめるの?」 俺は星ちゃんに言った。 「湿っ気が強いから、部屋の中で弾く。」 俺がそう言うと、渉が絶叫する。 「うるさいから、外で弾けよ~!」 「バイオリンは繊細なんだ。お前みたいに雑に扱われても平気なやつと違って、とっても繊細なんだ。それに気を付けてあげさえすれば、良い音をずっと聞かせてくれる。その繊細さに気が付けない奴は、バイオリンを傷つけて、酷い音を鳴らさせて、苦しめる。ひどい話だ…だって、求めれば誰でも持つことが出来るんだから…。見ていられないから、いっその事、免許制にして欲しいよ…」 俺がそう言うと、まもちゃんが笑って言った。 「北斗、俺に一曲弾いてくれないか…」 渉に向けていた笑顔を彼に向けて固まる… あぁ…俺は… ヘッドホンを付けるのを忘れていたようだ… 話しかけられる猶予を…隙を与えてしまった。 「…いいよ」 俺は悟られない様に、必死に動揺を隠してそう言った。 まもちゃんが俺の腰に手を当てて、室内に連れて行く。 俺は、平気な顔をして、心臓を大きく鳴らせながら彼と一緒に歩く。 下を向いて靴を脱ぐと、上目遣いで俺に視線を合わせて、誘ってくる。 これが大人のやり方なんだ… 俺は、動じないよ… もう、馬鹿はみたくないんだ… 誰も居ないリビングに行って、後ろのまもちゃんを振り返って見る。 俺の真後ろに居て、今にも抱きしめて来そうな彼を威圧する様に、 腕を伸ばして、弧を描いて、弓を構える。 「何が聞きたい?」 視線を外して、彼に尋ねる。 まもちゃんはそんな俺の様子に、少し笑ってみせる。 そして、近くのソファに腰かけると、俺を仰ぎ見ながら言った。 「北斗が弾きたい曲を…聴きたい…」 何だよ…それ… 俺は目を瞑って、考える。 そして、彼を一瞥すると、視線を落として、シシリエンヌを弾き始めた。 哀しげで、どこか憂鬱で、今の俺の様だ… 異国を思わせるメロディーに、心と体が持っていかれる。 美しいな…どっぷり浸かって沈んでいくみたいだ。 重くてとろみのある液体に顔まで浸かって、このまま死んでしまいたい。 美しい音を出して、バイオリンが俺を慰めてくれる。 馬鹿で幼稚な俺を、慰めてくれる。 勝手に勘違いして、勝手に期待して、勝手に傷ついた。 こんな馬鹿で幼稚な自分を…慰めてくれるみたいに美しく音を伸ばす… 弾き終えて、弓を弦から離すと、まもちゃんは俺を見てシトシトと泣いていた。 驚いたけど、俺は、理由を聞かないよ… だって、俺には関係のない事じゃないか… そうだろ? 彼が涙を落とす中、俺はバイオリンを弾いて、弦から音を出し続けた。 「北斗…愛してる…」 そんな言葉、信じると思うのか… ソファに座って、俺を見上げながらシトシトと涙を落として、苦しそうに、そう呟けば…馬鹿な俺は絆されると思ったんだろうか… 随分と甘く見られているようだ。 俺は表情を変えずに弦を振動させて、長く音を伸ばす練習をする。 玄関からみんなが戻ってくる音がする。 目元を拭ってまもちゃんが笑顔を作る。 それがあなたの表の顔なんだ… 俺はみんなが来ても、星ちゃんが来ても、バイオリンを止めなかった。 彼がいるうちに、止めてはいけないと思った… 弦から音を出さなくなった瞬間に、飛びついて、抱きついて、キスをしてしまいそうな自分が居ると分かっていたから… ひたすら、彼の居る間、音を出して、自分を誤魔化して、澄ました顔で…やり過ごした。 「北斗、もう2時間も弾いてる。」 博に蹴られて、やっと弓を弦からゆっくりと外した。 腕が痛い… 「な、な、なんだよ…痛かったのか?」 博が俺を見て困った顔をしている。 その理由は、俺が泣いているからだろう… 甘えてしまいたかった… 優しい顔をした悪い大人に…甘えて溺れてしまいたかった… 堪えた自分を讃えてるのか…それとも甘えられなかったことを悔やんでいるのか。 どちらでも良い… ただ、シトシトと流れる涙をそのままに、俺はバイオリンをしまいに寝室に行った。 丁寧に拭いて、松脂を塗って弓を緩める。 バイオリンをしまって、深く呼吸をする。 ケースを指で撫でて、さざ波の立った感情を落ち着かせる。 1人、ベッドに座って背中を丸めている俺を星ちゃんが見ている。 俺は星ちゃんの方を向いて、言った。 「シシリエンヌに…極まった…」 そう言うと、星ちゃんが俺の丸まった背中を撫でて、肩を抱いてくれた。 曲に感情移入しすぎて、抜け出せなくなることは今までもあった… だから、星ちゃんは何も言わずに俺を慰めてくれた。 暖かい手で、背中を撫でて… 感情の波が静まるまで…ゆったりと待ってくれた。 「自分で弾いていても…死んでしまいそうなくらい…美しかったんだ…」 そう言ってベッドの上で天井を見上げる。 「まもちゃんさんも、泣いていたの?」 星ちゃんが俺に聞いて来るから、俺は正直に答える。 「分からない…泣いていたのかな…笑っていた様な気もする…あまりに持っていかれてしまって…よく、覚えていないんだ…」 そう言って腕を揉む。 2時間も構えたまんまだと、背中と腕が痛くなる… 「お前の演奏は、わらしべ長者が出来そうなくらい…人を動かすね。」 俺の前髪をかき上げて、星ちゃんが俺に話しかける。 「北斗のこれまでの努力が、確実に実を結び始めているね…」 その言葉に、感極まって、俺は星ちゃんに抱きついて泣いた。 そうだ…才能じゃない…血のにじむ努力だ… 「うん…」 そう頷いて、星ちゃんに抱きしめてもらう。 今日は感情の揺れが酷い… 朝から彼に会ったせいだ… 彼に触れられて、見つめられたせいだ… まもちゃん…俺の事を愛してるの…? そんな訳ない…でも、 もしかしたら… そんな下らない事を考えてしまうから。 俺はヘッドホンを付けて一人の世界に閉じこもった… 星ちゃんは渉と博と釣りに出かけるそうだ。 天候が悪くなるというのに…雨の降る前は釣れるなんて話を信じて、彼らは意気揚々と出かけて行った。 念の為と言って、星ちゃんは派手な黄色のウインドブレーカーを着ていった。 少し肌寒い空気。 俺はひざ掛けを羽織って、ベランダに置かれた椅子に腰かけて外を眺めた。 湿った空気が肌に纏わりついて、俺の髪をしっとりと濡らす。 耳に付けたヘッドホンから重厚なティンパニーが俺の鼓膜を揺らす。 目を瞑って、振動を感じて、まったりと過ごす。 折りたたんだ両足を抱えていた腕に誰かが触れる。 目を開けて見上げると、歩が春ちゃんと立っていた。 俺に温かい紅茶を寄越すと、口をパクパクさせるので、ヘッドホンを首に落とした。 「北斗、雨が降る前に春ちゃんと今夜の晩御飯買ってきちゃうね。1人で平気?」 そう言われて、俺は笑って答えた。 「平気だよ…気を付けてね。」 そう言ってヘッドホンを耳に戻すと、また湖を見てぼんやりする。 今日はダメだ… こうやって自分のペースでのんびりと過ごそう… 2人が道路の方に歩いて行くのが見えて、視界から消えるまで目で追いかける。 そして、入れ違う様に誰かがこちらへ歩いて来るのが見える。 背の高い…人。 ベランダの俺に気付いて、手を振って、笑いかける…人。 心臓が跳ねて、我慢していた何かが折れて、外れて、落ちて、壊れて、崩れていく。 思わず立ち上がると、ひざ掛けが肩から落ちた。 彼を見ながら足早にベランダの外階段を降りて、裸足のままかけていく。 「どうしてっ!?」 そう言いながら抱きついて、隙間を埋める様に顔を沈めて、絡まる。 彼は俺のヘッドホンを頭の上から後頭部に下げてずらすと、耳元に顔を寄せて低くて良く響く…素敵な声で言った。 「北斗…愛してる…」 堪らなくなって…イキそうになる。 彼の大きな背中を強く抱きしめる。 疑問や迷いを忘れてしまったみたいに…彼の言葉を鵜呑みにして、感動する。 「まもちゃん…まもちゃん…」 彼を仰いで見る目から涙が零れて、自分の頬を濡らす。 ダメだ…こんな…こんなはずではなかったのに… 彼が見つめる…その目が揺らいで、美しくて…うっとりと見つめて死んでしまいたくなる。このまま…何もない世界に、行ってしまいたい… 彼が顔をゆっくりと落としてくるから、俺はそれを受けて、目を瞑る。 唇に彼の唇が触れて、体が蘇ったみたいに震えて、うっとりと吐息が漏れる。 両手を彼の首にかけて、彼の両手でキツく体を締め付けられながら、舌を絡めて熱いキスをする。 もう離さないでよ… もう絶対傷つけないでよ… 俺はとても繊細なんだ… 「まもちゃん…俺を弄ばないでよ…ダメなんだ…俺は…馬鹿だから。すぐ本気にするから…。だから、遊ぶなら…もっと、大人の…慣れた人と…」 目を瞑って、彼の体に埋もれながら、両手でしがみ付きながら、そう言って最大限の自衛をする… 本心では…そんな事どうでも良かったのに… 俺は傷つきたくなくて…先が見える大人の様に、背伸びして、そうやって予防線を張った… 「北斗…ごめんね…傷つけてしまったね…」 優しくて…低い、彼の声と、俺にかけられた言葉に、体の力が抜けて、足に力が入らなくなって…自分の幼さを思い知る。 「ふふ…どうして…?どうして、そう…思うの…?」 精一杯、強がってそう言っても、溢れる涙がダラダラと流れて落ちる。 自分のやせ我慢も…虚勢も…全て、見破られていたんだと、知った。 俺の頭を抱きしめて、腰を強く抱いて、静かに泣く俺を、彼も泣きながら抱きしめた。 何故泣くの… まもちゃんは、泣く必要なんて無いのに… 惨めなのは、俺だけなのに… そんな事を聞く余裕などなくて…ただひたすらに、彼の体の熱を感じて、守られたくて、愛されたくて、傍に居たくて、頭が真っ白になる。 「北斗、離れなさい。」 理久の声がして…まもちゃんが俺から離れる。 悲愴…その表情は、まさに悲愴… きっと俺も…そんな顔をしているんだろうね… あなたの、俺を見る目を見て…そう思った。 まもちゃんは、歪んだ目元に大粒の涙を湛えて、堪える様に俺の目を見つめる。 「この人は、ダメだよ…」 理久がそう言って俺の手を引いて彼から離す。 意識が遠のく気がして、足元がふらつく… 「この人は幸恵さんの婚約者だから…」 そう言った理久の声が耳に届いて、俺の鼓膜と心を激しく揺らした。 何も言えないで、立ち尽くす俺と、俺から目を逸らして立ち去る彼… どうして…こんな気持ちになるんだろう… 今にも死んでしまいそうだ… 「まもちゃん、まもちゃん…ううっ」 助けてほしくて、この気持ちから救って欲しくて、彼の名前を何度も呼んだ。 彼は俺の声を聴いて、こちらを見ると、悲しそうに俯いて…視線を俺から外して、そのまま立ち去って行った… ガクンと足の力が抜けて、膝から崩れ落ちて、涙が出なくなった。 「北斗…護さんと、どんな関係なの?恋人なの?」 俺の顔を覗き込んで、理久が聞いて来る。 恋人?違う…何でもない…ただ、セックスしただけだ。 セックスして、遊んだだけだ… 俺は理久の顔を見て笑った。 「ふふ、そん…なんじゃない…そんなんじゃ、ない…」 おかしくて…笑って、泣いた。 こんなの悲劇だ…だってそうだろ…初めて抱かれた男に夢中になって…愛してしまった…そんな愛しい彼には…既に金持ちの婚約者がいるんだ… 何てことだろう…こんな悲劇の、主役になるなんて… 誰が思っただろうか… 俺には…ガキの俺には…手に負えないよ、まもちゃん… どうしたら良いのか分からないよ。 「諦めなさい…」 ただ、そう言った理久の声だけ…はっきりと心に落ちて来て、とどめを刺された。 どうして泣いたの。 どうして、戻ってきたの。 どうして…俺なの。 「北斗、今日はお前にお願いがあって来たんだよ…。でも、無理そうなら別の日にしよう…。可哀そうに…俺の北斗。彼に何かされたの?こんなに泣いて…傷ついたんだね。」 傷ついてなんていない…初めから…遊びだったんだ… そう、俺は試したかっただけなんだ…どんなものか、試したかっただけなんだから… 傷ついてなんていない。 俺を抱きしめて様子をうかがう理久に聞く。 「お願いって…なに?」 理久は、思いのほか、はっきりと受け答えのできる俺に驚いた様子で、俺の顔を覗き見た。 俺は理久の目を見つめ返して言った。 「何でもない。まもちゃんとは何でもない…傷ついてなんて…いない。」 そう言って、断ち切る様に毅然とすると、もう一度理久に聞いた。 「お願いって?」 理久は俺の目を見て、悲しそうに眼を歪めると言った。 「昨日…お前の演奏を聴いたご婦人が、もう一度聴きたいとおっしゃって…お前を家に招いたんだ…だから、俺はお前を連れに来た…」 「今すぐは無理だ…歩と春ちゃんが帰ってきたら、行こう…」 そう言って立ち上がると、力の入らない足で歩いて、ベランダまで戻る。 「一緒に来て…お茶でも飲みながら、2人を待とう…」 理久に手を伸ばして、繋いでもらう。 そして、さっき激情に駆られて走り抜けた道を、冷静に歩いて戻る。 足の裏に土が沢山付いた… ベランダのデッキに擦って付けて、部屋に入る。 電気ポットでお湯を沸かして、紅茶を入れる。 それを彼に渡して、一緒にまたベランダに出る。 俺は、さっきと同じ椅子に腰かけて、歩の入れてくれた紅茶を一口飲んだ。 冷たく冷めた紅茶が身に染みて、笑える… 「ねぇ、外国に行った時の話を聞かせて…」 俺の髪を撫でる理久を見上げて聞くと、彼は俺に微笑んで言った。 「どこの国の話をしようか…?」 「じゃあ…ヨーロッパはどうだった?多分、両親は俺をそちらに留学させるようだ…。どんな所だった?聞かせて…」 そう言って、彼の声を聞きながら視線を移す。 まもちゃんの立ち去った方を見て、自分がゆっくり死んでいくのを感じた。 もう会わない… 会ってはいけないんだ… まさか…婚約なんてしていたとは…思わなかったよ。 本当に…酷い大人だ… 弄ばれた… いや…勝手に本気になったのは俺だ… だから、俺の遊び方が…間違っていた…だけなんだ。 「だから、そんな時もチップは置かないと、ダメなんだよ?」 「そうか…覚えておこう…」 理久の話を聞いて、笑って、2人を待つ。 「北斗、ただいま~」 ベランダの階段を上って、歩と春ちゃんが帰ってくる。 「お帰り~!」 何事もなかったようにそう明るく言って、事情を説明すると、バイオリンを持って理久と一緒に出掛ける。 道路に出ると、まもちゃんの歩いて行った道を立ち止まって見る。 まだ…居るかな。 居たら…一緒に逃げよう… そんな淡い期待も空しくて… 彼の姿は無いし…逃げる所もない事に、惨めに思えて笑えて来る。 俺は理久の車に乗ってシートベルトを付ける。 「ねぇ、窓開けても良い?」 そう聞いて、窓を開けて、走り出す車の中で顔に風を受ける。 雲に覆われた空は…まるで俺の心の様だ… 奥の方に黒い雲を携えて…嵐の前の静けさを思わせる。 しばらく左側に見えていた湖も見えなくなって、こじゃれた街を行く。 丘の上の方に車が昇っていく。 白い舗装のなされた道路はシチリアさながらだ… 別荘地… それを思い出して、納得する。 この非現実的な空間がそうさせるのか… 俺は貴族のお抱え奏者にでもなった気分で、理久の車に揺られて運ばれる。 「理久?パトロンって何?」 外を見ながら俺が尋ねると、理久は運転しながら教えてくれた。 「パトロンは…簡単に言うと、俺達の様な者に人脈とお金を提供してくれるスポンサーみたいなものだ。音楽家なら音楽を提供して…芸術家なら芸術を提供して…ウインウインの関係を作る。ただ、そういう物じゃないものを要求される事もある。北斗、言ってる意味、分かるかい?」 俺は窓の外から眼下に広がる湖を見て、理久の話を聞いていた。 「例えば?」 彼の質問に、質問で返して、答えを待つ。 まもちゃんのお店は…あそこら辺だ… 今頃、店を開けたのだろうか… 「そうだな…体の関係とか…」 そうなんだ… 「特にお前は…美しいから気を付けなさい。」 そう言って俺の膝に手を置くと、理久は優しく撫でて言った。 「北斗…お前が小学4年生の頃、指導中に極まって一回イッた事がある。」 俺はギョッとして理久を振り返った。 「嘘だろ…なんだよ、そんな話…聞きたくないんだけど…」 そんな話、覚えていない上に、聞きたくなかった。 でも理久は言った。 「ちゃんと聞いて…音楽は人の心を動かす。俺は幼いお前の演奏に極まって、イッたんだ…お前の演奏は、見た目の美しさがプラスされて…体の奥が熱くなる。」 耳を塞ぎたいよ…小学生相手に何してるんだよ… 「それは、理久が特殊なんだよ…」 俺が半笑いで言うと、尚も彼は食い下がって言った。 「今日伺うご婦人は、ただお前の演奏を聴きたいだけの人だ。ただ、その他の人も同じように考えるのは危険だ…良いね?味をしめて、今後、簡単に足を運ぶことの無い様に。ここでは、必ず俺を間に挟むんだよ?」 そんな危険な行為…中学生の俺に教える事のメリットってなんだよ… 「どうして?どうして俺にパトロンを付けたがるの?」 理久の顔を見て尋ねる。 彼は俺の方をチラッと見て言った。 「お前は良い演奏家だ…もっと世に出てほしい。それにはコネが居る。必ずコネが必要になる。どれほどの良い演奏家が、コネを作れなくて潰れて行ったのかを俺は知っている。お前にそうなってほしくない…もっと自由に羽ばたけるように知恵を付けさせたい…。それに、今のうちから目を付けて置いて貰えば、学費の負担も考えなくても良くなるだろ…それによって、進学先を諦める必要も無くなるじゃないか…」 まともなコメントに面食らう。 そうか…理久は… 「理久は…やっぱり俺の、先生なんだね…」 そう言って笑うと、彼は運転中にも関わらず興奮し始める… 恐怖のドライブだ… 俺は窓の外に目をやって、彼と話さない様にした… どれほど進んだか…高台の豪邸に付いた… まるで海外のお金持ちの家の様な佇まいに目を奪われて圧倒される。 白い外壁に緑の屋根…美しい板目が古くて歴史のある建物だと証明する。 所々に出窓が付いて、緑のつたを下に垂らしていた… 「お行儀よくしなさい。」 理久に言われてコクリと頷く。 姿勢よく理久の後ろを歩いて、付いて行く。 青々と茂る芝生は手入れの行き届いた長さで、統一された色を保ち、スプリンクラーから吹き出す水を気持ちよさそうに浴びている。 花壇の花も全てこちらに向いて、美しく咲いて…絵にかいたような景色だ… 「ようこそいらっしゃいました。」 よそ見をしていると、理久が俺を手招いて豪邸の中に入れる。 大理石の床は美しく光って日の光を反射させる。 執事の様なオジジに案内されて、大きな開き戸の部屋に案内される。 猫足の椅子に佇むおばあさんが、俺を見て微笑んで立ち上がる。 理久が体を支える様に手を伸ばすから、足が悪いんだろう… 俺は彼女の手を握って挨拶をする。 目も良く見えていないのか、俺の顔を撫でて笑った。 「今日は来てくれて、ありがとう…この前聴かせていただいた…ハンガリー舞曲がとても素敵でしたの…もう一度…私の為に弾いていただけないかしら…?」 丁寧な言葉使いに住む世界の違いを感じて、返答に困る。 「…良いよ」 語彙力の無さに理久が俺を驚いた顔で見る… スタンウェイのグランドピアノが鎮座するこの部屋 高級そうな絨毯が足元を埋めて、猫足のソファと、ローテブル…高価なグラスの入ったカップボード…全てが映画の中の様だった。 こんな世界で生きている人もいるんだ… そう思いながらバイオリンのケースを開ける。 そして理久のバイオリンを取り出して、弓を張る。 理久はピアノに座って、俺の準備を待っている。 首にバイオリンを挟んで、弓を美しく構える。 「では…弾きます~」 俺はそう言って、おばあちゃんに大きな音が出ることをお知らせする。 目が悪いんだ…突然始まったら驚かせてしまうだろ… 理久に視線を移して、頷くと、彼は俺に合わせると首を動かすので、俺は自分のタイミングで、ハンガリー舞曲を弾き始めた。 理久のピアノと一緒に、激しく盛り上がって、しっとりと落ち着く… ピアノの音が美しくて、ピアノも弾いてみたくなる。 そして、力強くハンガリー舞曲を弾き終えると、俺は弓を美しく弦から離してお辞儀をした。 おばあちゃんは喜んで、パチパチと拍手をくれる。 「他に何か聞きたい曲はある?」 傍に行って、おばあちゃんに尋ねる。 「北斗!」 理久に怒られてびっくりする。 「良いんですよ…この子は優しい子です。私の耳が悪いから、近くで聞いてくれたんです。そうでしょ?うふふ。これでもいろんな人とお会いしてきて、何となく…人となりが分かる様に年を取りました。この子は良い子。」 おばあちゃんはそう俺をべた褒めすると、俺の手を握って言った。 「じゃあ…シシリエンヌを…」 マジか… 弾ききれるか心配だ… 項垂れて深呼吸する… ピアノに座る理久が俺の様子を心配そうに見る。 「じゃあ、弾くね?」 俺はそうおばあちゃんに言って、深呼吸すると、自分を守る様に姿勢を正して、澄ました顔になる。バイオリンを首に挟んで、弓を大きく弧を描くように構えて、理久に視線を送る。 ピアノの伴奏が始まって…俺は弾き始める。 今朝、まもちゃんに弾いたこの曲を…俺の心をどん底に落としてくれた…この曲を… 理久のピアノの伴奏が美しくて、一心同体になった様に、メロディが流れていく。 気持ちいい… 朝とは打って変わって…理久と弾くシシリエンヌはただ、美しくて…悲しみが消えたみたいに、俺はこの曲を最後まで美しく弾くことが出来た… 弓をゆっくりと弦から離して、おばあさんにお辞儀をする。 彼女は少し涙ぐんで、俺の事を手招きした… 俺は近くに行って、椅子に腰かける彼女の前にしゃがんだ。 「悲しい事があったの?」 「えっ?」 「辛いのね…可哀そうに…でも、大丈夫…大丈夫よ…」 そう言って、俺の手をギュッと握ると、優しい声で、何度も大丈夫と言った。 演奏に…漏れてしまっていたのかな…この悲しさが。 それが聴く人を、悲しませてしまうのかな… 自分でも驚くほどに冷静に弾ききったと思ったシシリエンヌは、感情を切り離した俺の頭では感じられなかった悲しさを、未だに携えているようだ… 2曲弾いて、俺はおばあさんと別れた… 「また来てね。」 そう言ったおばあさんは、俺の事が気に入ってくれたみたいだった。 「ありがとうございました…」 執事が何かを理久に手渡した。 俺は執事の人にお辞儀すると、理久の後を追って豪邸を後にする。 「あのおばあさんは何者?」 俺が尋ねると理久が言った。 「財閥の大奥様だ」 それって凄いのか…でも、あんな豪邸に1人で、寂しそうだった… 「何貰ってたの?」 車の前で理久に聞くと、彼は俺に受け取ったものを手渡した。 「それが北斗の報酬だよ。」 受け取った封筒の中を確認する。 見た事もない束のお金が入っていて、俺は驚いてそれを落とした。 「こ、こ、こんなに…もらえない…」 そう言ってたじろぐ俺に理久が言った。 「こうやって繋いで生活できれば、ずっと音楽で食べていけるよ?」 頭が混乱する… どうして、たった2曲…弾いただけなのに…こんなに? 「北斗、それがお前の値段なんだよ。価値があると、認められたんだ。」 それって…すごい罪悪感だ… 車に乗ってシートベルトを締める。 封筒の中をちゃんと確認出来ないでいると、理久がどれどれ…と数を数えだす… 「理久…こんなの間違ってるよ…」 俺はそう言って理久の頭を叩いた。 「おばあさんに返してくる…」 そう言った俺の手を掴んで、理久が言った。 「北斗、この家を見てごらん。とても普通の家庭では無い。彼らはお金はあっても心が満たされていないんだ。それを俺達が補っている…芸術を提供して、報酬を得ているんだよ。分かるかい?何のために音楽をやって来たの?無駄にするの?自分の演奏に価値がないなんて思うな…お前の演奏を大枚叩いても聴きたい人が出てくるよ…。それほどに、北斗…お前は美しくて、価値のある演奏家なんだよ。」 理久は怒った様な…真面目な顔で俺に強く伝える… そういう物なの…俺のしてきた事は、そういう人からお金を巻き上げるものなの… 良く…分からない 「まだ…よく、分からないよ…」 そう言って俯くと、理久は俺の頭を撫でておでこにキスする。 「可愛い北斗…大好きだよ。」 それも冗談だと思っていたけど…さっきの話を聞くと、本気だったんだね… 理久を見る目が変わりそうだよ。 放蕩の変わり者から…ロリコンの変態に…変わりそうだよ… ただ、ピアノの伴奏はさすがで、あんなに気持ちよくバイオリンを弾けたのは、彼がピアノを弾いてくれたおかげだと思った。 「理久の伴奏…すごく良かった」 俺はそう言って、彼に微笑んだ。 理久は嬉しそうに目を細めると、俺の頬を撫でた。 車が動いて、来た道を下っていく。 真夏のシチリアから、別荘地の軽井沢に戻ってくる。 「理久?まもちゃんの事…誰にも言わないで…」 窓の外を見て、風を顔に受けながら理久に言った。 彼の返事が聞こえなくて、振り返って彼を見た。 「北斗…護さんと愛し合っているの…」 「何もない。そんなんじゃない…ただ、さっき見た事を言わないでほしい…」 そう言って、窓の外をまた眺める。 まもちゃん…今頃…何しているの…? 俺は難しい大人の世界を見たよ…汚いような…純粋な…訳の分からない世界だ。 会いたいよ。 愛してほしい。 「雨が降りそうだ…暗くなった…」 理久がそう言って窓から空を見上げる。 俺の顔にあたる風も心なしか冷たく感じる。 「理久…またおばあさんの所に行くかな…?」 俺がそう言うと、理久は頷いた。 「また違う人にも会わせてあげるね。危なくない人に…」 そう言う、理久が一番危ない気がするよ… 「理久、バイオリンは?持って帰る?」 俺がそう尋ねると、理久は、まだ預けておく…と言った。 歩の別荘の前に車を停めると、彼は俺に言った。 「護さんは、由緒ある血族の奥さんを亡くされている。それでも…この土地に、血族に縛られて生きることを選んだみたいに、同じ家系から婚約者を選んだ…自由は無くても、これでのたれ死ぬことは無くなった…」 俺は黙ってバイオリンのケースを指でなぞる。 「そういう生き方を選ぶ人もいる…それはまるで、自分を殺すような生き方だけどね…」 俺の方を見て、理久が言う。 「お前は彼を諦めなさい。一緒に堕ちてはいけないよ…」 とどめはもう刺さってる…大丈夫。 俺は理久を見上げると笑って言った。 「何もない…彼とは、本当に何もないんだ…」 俺はそう言って、貰った封筒とバイオリンのケースを持って理久の車を降りた。 「また突然来ても良い?」 柄にない。 そんな事を聞くなんて…放蕩の名が泣くぞ… 「良いよ。」 俺はそう言って、別荘に戻る。 まもちゃんが歩いて来た遊歩道を少し見て…視線を前に向ける。 この貰った現金は…星ちゃんだけ教えよう… 俺が別荘に着くころ…ポツポツ…と雨が空から落ちて来た。 空を見上げて、雨粒を顔に受ける。 まるで泣いているみたいに、頬を伝って流れて落ちる雨粒を感じて、少しだけ笑った。 玄関に入ると、リビングで歩と春ちゃんが仲良く座って映画を見ていた… 「ただいま~」 そう言って、バイオリンと封筒を置きに向かう。 寝室のクーラーをドライに設定して、バイオリンは出しておこう…そして、扉を閉める。 洗面所に行って、顔を洗う。 酷いやつれた顔の俺は、まるで中年だ… まだ若いのに…ひどく疲れた顔をしていて…我ながらやばいと思った。 そして、冷凍庫からアイスを取り出して、袋を開けながらリビングに戻る。 「北斗、どうだった?」 春ちゃんが聞いて来るから、俺は歩にもたれて座って言った。 「金持ちのおばあちゃんに演奏を聞かせて、お礼を言われた。」 アイスをかじりながらそう言うと、春ちゃんは俺の頭を撫でた。 俺に触るな…全く… 歩が俺を抱えて抱きしめてくれる。 「疲れた?」 顔を覗かれて、優しく聞いて来る歩に応える。 「うん…疲れた…」 そう言って、アイスを食べ終えると、俺は歩の隣で、丸くなって眠った。 時々、映画の効果音が耳を突くけど、じっと丸まって眠った。 なんだか…ひどく疲れたんだ。 「あ~、星ちゃん達、大丈夫かな~?」 歩の心配する声に起こされて、体を起こして周りを見る。 ザーーーーと屋根を振動させる勢いの雨音と、窓の外が白くなるほどに勢いが強い雨脚を見る。 「星ちゃん…」 俺はそう呟いて、窓の外を見た。 「まさかボートには乗っていないよね?」 そういう歩のマイナスに働く想像力が、俺の心を締め付けていく… 「星ちゃん…」 動悸がするくらい心配になってきて、俺は湖の見える窓に行くとジッと外を眺めた。 携帯電話で星ちゃんに電話を掛ける。 何度も呼び出し音は鳴るのに、出ない持ち主に不安が増す。 「俺…星ちゃん探してくる…」 居てもたってもいられなくなって、俺は傘を持って外に出た。 「北斗、止めろって…お前が迷子になったらどうすんだよ…ここで待ってれば、みんなちゃんと帰ってくるよ…」 春ちゃんがそう言うけど、俺は心配しすぎて心臓が体から飛び出てしまいそうだ… 表情が硬くなって、頭が回らない… 「だって…だって、今頃大変な目に遭ってるかもしれないよ?」 「大丈夫だよ…」 「どうして?どうしてそんな事が言えるの?」 俺は歩を見て言った。 「ちょっとそこまでだから…あまり遠くまで行かないから…行かせてよ…」 俺の懇願に、歩が言った。 「ちょっとそこまでだよ?約束してね…」 俺は頷くと、俺の手を掴む春ちゃんの手を退かして外に出た。 傘が壊れそうなくらい…バケツをひっくり返したような雨に衝撃を受けてたじろぐ。 「ひえっ…怖い…」 こんな中…湖にいたりしたら…どうしよう…!! そんな不安が襲ってきて湖に近付いて湖面を探す。 「星ちゃ~ん!渉~!博~!」 いくら叫んで呼んでも、雨の音にかき消されていく自分の声に、音量が分からなくなる…。周りを見ても、白く霞みがかって遠くまで見渡せない視界の悪さだ。 まるで自分だけ、違う世界に来てしまったような…孤独感を感じて立ち止まる。 傘が壊れて、頭から雨を受ける。 その衝撃と勢いに足がもたついて転ぶ。 「星ちゃん…星ちゃん…」 転んでも尚打ち付けてくる激しい雨に、心配でたまらない気持ち…両方に打ちのめされて、涙が出てくる。 今日は最悪だ…朝からずっと…今日は最悪だ…! 雨の衝撃で掘り返された地面が、茶色の色の水たまりを作って俺の周りを囲む。 「…んっ!」 水の恐怖を感じて、慌てて立ち上がり、木の下に逃げる。 そして周りを見て愕然とする… 「俺…どっちから来たんだっけ…」 空が明るく光って、遠くで雷が落ちる。 地面が震える衝撃を受けて、恐ろしくなってくる。 「星ちゃん…星ちゃん…どこ?どこにいるの?」 木に掴まりながら星ちゃんを探す… どうしようもない状況に、体の力が抜けて、木の下でしゃがんで丸くなる。 激しく打ち付ける雨の音が…俺の耳をおかしくした。 また空が光って湖に雷が落ちる。 俺も…雷に打たれてしまうのかな… それでも…良いかな… だって、俺はもう、生きていても…楽しく無さそうなんだもん… 愛してるなんて言われて…大好きなんて言われて…おかしくなったんだ。 自分が思っているよりも、自分は愛情に飢えていたみたいだ。 渉と博に嫉妬したり…歩の嫉妬するほどの愛情を羨んでみたり…会ったばかりの男に大好きだ…なんて言われて信じて甘えてしまったり… 星ちゃんが…星ちゃんが愛してくれていたら…まもちゃんとそうなる事も…なかったのかな… それでも、彼に惹かれたのかな… 誰も居ない空間で…音のかき消される空間で…溢れる激情を放出する。 「まもちゃん…まもちゃん!何で…何で、俺を抱いたの?どうして…愛してるなんて言うの?そんな事…そんな事言って…俺をどうしたいの…?なんで、虐めるの…俺の気持ちも知らないで…勝手な事ばっかり言って…!大人なのに!大人なのに!!」 両手で茶色い水たまりを打ち付けて、やり場のない怒りをぶつける。 あぁ…俺、こんなに怒っていたんだ… 「まもちゃん…大好きだよ…愛しているよ…離れたくないんだ…ずっと傍に居たい。まもちゃんと一緒に、ずっと一緒に居たいよ…。俺の事、愛してよ…まもちゃん…俺だけ愛してよ…どうして、どうしてあんな女と…まもちゃん…」 涙なのか、雨なのか…顔がビショビショに濡れていく。 「まもちゃん…甘えたいよ。まもちゃんに甘えたい…抱きしめてよ…俺の事…愛してるって…言ってよ…」 ひとしきり叫んで、声がかれる。 スッキリなんてしなかった…逆に、彼でいっぱいになった自分の心の内を知って絶望した…こんなに、心の中を支配されていたと知って…絶望して、まもちゃんを渇望した。 濡れて水の入った靴で、ガポガポ音をさせながら水たまりを歩く。 恐怖は感じるのに、わざわざ水たまりを歩く。 自暴自棄になったわけじゃない…ただ自分を痛めつけたかった… 甘ったれて…どうしようもない、ガキな自分を… 「星ちゃん…星ちゃん…」 音量の分からなくなった耳で、彼の名前を呟くように呼びながら、先の見えない前を進む。 遠くに小さな明かりがぼんやり見えて、俺はもたつく靴で急いで向かう。 白い雨の隙間から、星ちゃんの黄色いウインドブレーカーが見えて…俺は一気に駆け出した。 「星ちゃん…星ちゃん…!!」 「北斗!」 びしょ濡れの俺と違って、彼は全然濡れていなかった… 星ちゃんに抱きついて、頬ずりする。 「怖かった…水、怖かったぁ…」 泣きながらそう言うと、星ちゃんはしゃがんで俺の顔をタオルで拭く。 「どうしたんだよ…こんなになって…ビショビショじゃないか…」 頬を撫でる柔らかいタオル… こんな上質なタオル…持ってたっけ? ぼんやり星ちゃんを見ると、上を向いて誰かと話している。 後ろから誰かに支えられて、立ち上がると目の前に現れたドアが開いた。 足がもつれて転ぶ。 膝に乾いた土が触れる。 「北斗…ちょっと温まらせてもらおう?」 星ちゃんの大きな声が、耳に届いて、頷く。 濡れた靴を誰かに脱がせてもらって、びちょびちょの俺を、部屋の中から誰かが見て驚いている。 慌てたように駆け寄って、大きなタオルに包む。 そのまま、びちょ濡れの服をその場で脱がされて、大きなガウンを着せてもらう。 温かい飲み物が目の前に出されて、やっと、星ちゃんと手を繋ぐ。 星ちゃんの体に頭を付けて泣く。 「星ちゃん…危ない目に遭ってるんじゃないかと…心配したんだ…」 そう言って、彼の体を抱きながらシクシク泣いた。 「ごめん、ごめん…こんな天気になると思わなかったんだ…すごい雨になったから、慌てて帰っていたんだけど、前も見えなくなって、ここで少し雨宿りさせてもらっていたんだ…」 そう言って俺の頭を撫でて、星ちゃんは優しく抱きしめてくれた。 芯まで冷えた体が、少しだけ温まっていく。 「まさか…北斗がここまで来ると思わなかった。」 そう言って博と渉が笑う。 全然面白くない…とても怖かった… 前の見えない恐怖と、自分の居る場所の分からない恐怖…星ちゃんがどうにかなってしまったのではないかと心配する恐怖と…水の恐怖… まもちゃんへの激情が自分を支配していく恐怖… とても、怖かったんだ… 「もう…どこにも行かないで…」 そう言って星ちゃんの体を強く抱きしめた。 「…2人は、恋人か?」 知らない声が俺の耳に届く。 淡々としたぶっきらぼうな物言いなのに、落ち着いた低い声。 俺は、知らない誰かに、渉と博を指さして言った。 「こっちはそういう仲だけど…俺と星ちゃんは…清い友達なんだ…」 熱い友情で結ばれた…友達。 「なっなっ何、言ってんだよ!北斗!お前!」 恥ずかしいの?知られたくないの?好きな人の事なのに… 変なの… 星ちゃんのあったかい胸に顔を沈めて、もう少し温まりたい… ギュッと彼の腰を強く抱きしめると、星ちゃんは俺の顔を、両手で包んで持ち上げた。 「北斗、1人で来たの?」 そう聞いて、赤くなっているであろう…俺の目元を指でなぞって見る。 「うん…歩にちょっとだけって言われたけど…途中から、方向が分からなくなって…歩いてた…」 俺がそう言うと、星ちゃんはポケットから携帯を取り出した。 「あぁ、何回も電話がかかって来ていたんだ…ごめんね、雨の音で気が付かなかった…博、歩に連絡して?北斗と合流したって…」 俺は、星ちゃんの体温のおかげか…少し落ち着いて、何の気無しに入ってしまったこの部屋を見渡した。 広い玄関と、落ち着いた暗い木の床…湖に面した壁には広く窓が設けてあり、ウッドデッキへと抜けられる作りになっているようだ。 3面を囲う様に設置されたソファは白い革張りで、高級感のあるひじ掛けが際立つ。 俺は玄関部分からリビング…ちょうどその間辺りで、足を広げて正座して座る星ちゃんに、正面から抱きついている。ここから見える奥の廊下は、天気のせいか暗く、闇に見えた。 リビングのソファに座って、俺を伺い見る、知らない男が2人。 じっと、目を離さないで、俺を見ている。 キョロキョロと見渡していると、彼らと目が合って、じっと俺を見るその目を俺もじっと見つめ返した。 髪の毛の長い男と、前髪の長いパーマの男。 兄弟なのか…恰幅が、よく似ていた… 「…おじさんたちは兄弟なの?」 俺の発言に星ちゃんが驚いて、俺の顔を見る。 「失礼だろ!北斗!おじさんとか言うな。」 星ちゃんがそう言って、相手に頭を下げて謝っても、俺から視線を外さない男に、俺も視線を外さないで見つめて返す。まるで野生動物みたいに…視線を逸らしたら、負けると思って…そのままゆっくり瞬きをして、見つめ続けた。 「可愛い…」 長髪の男がそう言って、俺に近付いて来ると、しゃがんで目線を合わせてくる。 大きな手を伸ばして、指先で俺の前髪を分けると、おでこをツッと撫でて上げる。 俺を見る目の奥が、ギラギラと鈍く光っていて、この人達が、何を思っているのか分かった。 俺は視線を外し、男から顔を背けて、星ちゃんに小さな声で言った。 「星ちゃん…もう帰ろう…?」 「ん~、でも雨がすごくて…動けないんだよ。」 窓の外を見て、星ちゃんがそう言って困り果てている。 渉と博は玄関に座り込んで、部屋の中を観察しているようだった。 「少し休んでいったら良い。何、取って食いはしない…良いだろ?北斗。」 長髪の男が俺の名前を呼ぶから、星ちゃんが驚いて2人に聞く。 「北斗を知ってるんですか…?」 俺も長髪の男に視線を戻して、彼の返答を待った。 こんな特徴的な奴に、会った事なんて…ない。 「この前…演奏していたのを見た。名前は君が呼んでいたから…知った。良い名前だ。北斗七星…お前によく似合っている。」 長髪の男はそう言って微笑むと、俺の頬に指を這わせて言う。 「ハンガリー舞曲は痺れたよ。あの男と演奏しても、引っ張られないなんて、確かな耳を持っているんだね…感心したよ。そして…何よりも、お前はとても美しかった…」 俺の唇を指先で撫でて、目を細めて光らせる。 俺は星ちゃんに抱き付いたまま、その目を、威嚇する様に外さないで見つめ返す。 「裸ん坊のままじゃ、色々危ないだろう?北斗、服を貸してやろう…」 そう言って、大きな手で俺の腕を掴むから、俺は体を捩ってその手を振り払った。 「北斗…!失礼だよ?」 だって、そこはかとなく身の危険を感じたんだ。 本能行動の様に…俺は理由もハッキリしないのに…彼らを恐れた。 だから、目の前の星ちゃんに言った。 「一緒に来て…」 星ちゃんは何度も長髪の男に謝ると、俺の手を繋いで、一緒に付いてきてくれた。 星ちゃんも気が付いてるでしょ? この男2人が俺をいやらしい目で見ている事… 気が付いてるでしょ? 俺は星ちゃんと握る手に力を込めて、長髪の男の後ろを歩いて付いて行った。 「何を着せようかな…。」 軽い調子で洋服箪笥を漁る長髪の男の後姿を見る。 大きな背中に垂れる髪の毛は、セミロングの女の人と同じくらいに見えた。 一つに結わえているけど、それもゴムじゃない皮の様な物で縛っていた。 連れて来られた部屋は彼の寝室の様で、高級感のある艶をした調度品に、この長髪の男が金持ちだという事が分かった。 猫足の天蓋付きベッドなんて…美術の本でしか見た事が無かった… 「凄い…お部屋ですね…」 星ちゃんも長髪の男の趣味に、圧倒されてるじゃないか…! こいつらは… 変態ロココ兄弟だ… 「北斗、これを着ろ。」 そう言って俺に白いブラウスと黒いズボンを寄越した。 「パンツは?」 俺がそう尋ねると、長髪の男は俺を見下ろして言った。 「俺は履いてない。」 やっぱり、変態ロココだ… 「星ちゃん…こいつら、変態ロココだよ…」 俺はそう言って星ちゃんの手を引いた。 自分でも良いネーミングセンスだと思ったけど、星ちゃんが少し吹き出しそうになったのを見て、俺は自分のセンスを誇りに思った… 「ほんと、何度もすみません…」 星ちゃんが俺を睨んで、変態ロココに頭を下げた。 星ちゃんの圧に負けて、俺は仕方なくその服に着替えた。 テロテロの質感で、フリフリの付いた白シャツを着て、星ちゃんの後ろに隠れて、ズボンを…ノーパンで履く。 でも、ウエストが大きくて、これではずり下がってきて、俺も変態ロココになってしまう。 「俺は、変態ロココになりたくないよ…星ちゃん…」 そう言ってズボンのウエストを持って星ちゃんに訴えかける。 「どれ」 そう言って、長髪の男が俺の腰に、帯の様な布をズボンと一緒に巻き始めた。 「ふふ、なんか…中世の人みたいだね。」 星ちゃんが俺を見て笑って言う。 変態ロココの手によって、俺は中世コスプレのノーパンになってしまった。 「可愛いじゃないか…」 そう言って満足そうに俺を見ると、俺の前にしゃがんで、ズボンの裾を何回か折り曲げた。 そして、俺の前髪を少し斜めにセットして、頬を手のひらで包んで撫でた。 その目つきがいやらしくて、俺は視線を逸らした。

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