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8月14日(金)
8月14日(金)
頭の上のバイオリンを手に取って、ギュッと抱きしめる。
「おはよう…寂しくなかった?」
そう言って手に持って、雑魚寝する人を、たまに踏みながらテントの入り口まで行く。
いびきがうるさいのは春ちゃんみたいだ…
最悪…俺、春ちゃんとは絶対寝たくない…
そう思いながらテントの出入り口のチャックを下ろす。
外はまだ少し暗い…
ボサボサ頭で裸足のままテントから出て、少し冷える空気にブルっと震える。
「寒いじゃん…」
歩の脱いだパーカーを借りようと、テントに戻ろうとした。
「北斗」
名前を呼ばれて振り返る。
「あ…」
少し離れた所に煙が立っていて、まもちゃんが立ちあがって俺の方を向いている。
どうする…
自分に尋ねる…
あそこに行く…?
それとも…テントに戻る?
じっとこちらを見る彼を見つめて、悩んで立ち尽くす…
悩み過ぎて、まるで野生動物の様に、距離を保ったまま見つめ合った…
痺れを切らしたのか、まもちゃんがこちらに歩いて来る。
俺は手に抱えたバイオリンを、ギュッと強く抱きしめて、恐怖を堪える。
「はやくこっちにおいで。」
そう言って、彼は俺の手を握って、煙の立つ場所まで連れて行く。
繋がれた手を眺めながら、引かれるままに付いて行く。
「座って?」
そう言われて小さな椅子に腰かける。
「はい、あったかいよ?」
そう言って鉄のマグカップに入った紅茶を手渡される。
「熱い…」
俺はそう言って、それを下に置いた。
彼は自分のパーカーを脱ぐと、俺の背中にかけて笑って言った。
「ここら辺は早朝冷えるんだ。その格好だと…寒いだろ?」
俺は頭が真っ白になって、黙って、視線を逸らす。
「昨日はよく眠れた?」
山の上から降りてくる霧を見ながら、コクリと頷いた。
「昨日の演奏はとても素晴らしかった…素敵な愛のあいさつだったね…」
耳を塞ぎたい…
低くて、良く響く、彼の声を聴きたくない…
裸足の俺に気が付いて、まもちゃんが靴を取りに行った。
俺は、まだ…どうしたら良いのか…真っ白な頭で、必死に考えていた。
彼の声に引き付けられて、甘えてしまいそうになるから…
この場から、逃げ出したくて…仕方がなかった。
でも、体が動かなくて…
この場に留まってしまう自分の弱さに…打ちのめされていた。
あんな思いを抱いても、まだ…
期待してしまう自分が…弱くて嫌だった。
「はい、靴。」
俺の目の前に靴を置いてこっちを見て微笑んで来るから、俺は視線を逸らして、足先で靴を探した。
「ふふ…全く、お前は…」
そう言って、まもちゃんは俺の右足を掴んで持ち上げる。
よろけない様に、とっさに椅子を手で掴んで、彼を見た。
俺の足の裏を手で払って、砂を落とすと、靴を履かせてくれた。
「反対の足も出して?」
そう言われて…言われるがまま、彼に足を出す。
俺の足を掴んで、足の裏の砂を手で払って落とす。
そのまま足の甲にキスして、俺の足に頬ずりする…
「…やめて」
俺がそう言うと、彼は自嘲気味に笑って、靴を履かせてくれた。
「ごめんね…北斗」
そう言って、俺の表情を確認するみたいに、一度見た。
目が合わない様に、すぐに逸らすと、俺はバイオリンを両手で抱きしめた。
まもちゃんは、焚火に掛けていたポットを下ろして、昨日、博が騒いでいたダッチオーブンを代わりに掛けた。
「良い匂いがしてくるから、待っててね。」
終始落ち着いた声で、話しかけてくる。
それが堪らなく、優しくて、手を伸ばせば届く距離の彼に…恋焦がれた。
まもちゃんはトングで下の焚火から炭を取り出すと、ダッチオーブンの蓋の上に置いていく。
風に触れると赤く…ほのかに光る炭を見つめて、頭が真っ白になる。
俺が下に置いた紅茶を拾うと、俺の手を握って開かせて持たせる。
「体、冷やさないで。」
そう言って、俺の頭を優しく撫でて、髪にキスをする。
俺は抱えたバイオリンのボディを指先で撫でながら、頭を真っ白にして、やり過ごす。
「北斗の弾いた…そのバイオリンで弾いた曲…全て。忘れないよ…」
そう言って、まもちゃんは俺に近付いて、愛しそうに見つめてくる。
俺は彼の顔も目も声も…全て拒むように、ダッチオーブンの蓋の上の炭を見つめる。
そうでもしないと、あの激情に…また襲われてしまうから…
彼の手が俺に伸びてくるのを視界の隅に捉える…
ダメだ…触れられたくない。
また…
愛してほしいと…欲が出てきてしまうから。
簡単に崩れ落ちていくから。
バイオリンのボディを撫でていた指先を、弦に滑らせて指先で弾いた。
自分を奮起させるように…
弦を弾いて、真っ白になってしまった頭の中から、自分を呼び起こす。
俺は体の向きを変えて立ち上がると、彼から離れた。
彼から離れて、傷ついた自分を守った。
悲しそうに俺を見送る彼の視線を感じながら、俺は彼から離れた。
立ち止まって、振り返らないで、彼に尋ねる。
「奥様は…どこでバイオリンをメンテナンスしていたの?」
「工房があって…職人の人に…」
「連れて行って…」
そう言うと、俺はテントの中に戻った。
彼から離れて…
もう、自分が傷つかない様にした。
星ちゃんの隣に座って、バイオリンを抱えたまま、貰った紅茶を一口飲んで、泣いた。
悲しくて、辛くて、泣いた…
甘えてしまいたかった…優しいまもちゃんに…
抱きついて、抱きしめられて…キスして、彼を体中に感じてしまいたかった…
紅茶をちびちび飲みながら、寝袋に書いてある文字を見つける。
「…ま、もる…」
ローマ字で書かれた文字は彼の名前だった…
おかしくて笑える…
まもちゃんの匂いが寝袋からしたのは…これが彼の寝袋だったからなんだ。
ほかの人の寝袋にはこのキャンプ場のロゴが入っている…
これだけ…まもちゃんのなんだ…
フワフワしてる…俺のだけ、フワフワしてる…
「うっ…うう…うっうう…」
声を押し殺して、一人でむせび泣く。
「まもちゃん…」
そう言って、また彼の寝袋に入って、彼の匂いを嗅いで…フワフワの寝袋に頭を擦り付けて、彼に甘えるみたいに体を預けて目を瞑った。
そっと星ちゃんが俺の髪を撫でるから、俺は寝袋に潜って、泣いている顔を隠した。
「ふわ~!あっ、星ちゃんおはよう…」
後ろの方で春ちゃんの声が聞こえる。
「おはよう…」
星ちゃんはそう言いながら、ずっと俺の頭を撫でてくれている。
続々とみんなが起きて、テントから出て行く。
外で、まもちゃんの用意した料理に、みんなが歓声を上げて喜んでいる声が聞こえて、俺は寝袋から顔を出して、星ちゃんを見た。
「北斗、おはよう。」
星ちゃんはそう言って笑うと、俺の目元の涙を指で拭ってくれた。
俺は寝袋から出られないでいる…
まもちゃんから…離れたくない。
そして、そんな自分がみっともなくて…また泣いた…
「北斗!起きろよっ!あっ、星ちゃん。北斗、起きてる?」
渉が俺を起こしに来た。
「今起きたよ。連れて行くね~」
そう星ちゃんは言った。
渉が向こうに戻るのを確認して、俺の方を見下ろして、星ちゃんが言う。
「北斗、行こう?」
俺の目を見て、今日、何回言ったか分からない言葉を言う。
「…出たくないんだ…」
「外に本人が居るのに?」
星ちゃんはこれがまもちゃんの寝袋だって…知ってるみたいな口ぶりだ。
そうか…昨日、一緒に寝袋を敷いていたから、知ってるのか…
「…出たく…ないんだ…」
「じゃあ、先に行ってるよ?」
星ちゃんはそう言って、テントを出て行ってしまった。
俺は微睡みながら、寝袋の中で丸まった。
まもちゃん…ギュってしてよ…
また誰かがテントに入ってくる音がして、俺は面倒だから、寝たふりをした。
一番奥の俺の寝袋まで来ると。隣に座って、俺の寝袋を手で揺する。
「…なんで?なんで来たの!」
その手の感触で、見なくても、分かっちゃったんだ…
俺は寝袋の中で怒って彼に言う。
「入ってこないでよ。ここはアンダー15のテントなんだ!」
俺がそう言うと、クスクス笑う声が聞こえる。
その後、彼は低くて良く響く声で言った。
「北斗…実は俺は14歳なんだ…」
俺は愕然とした。
その後、吹き出すと、誤魔化すように咳払いした。
そして寝袋から起き上がって、目の前の彼を見る。
そしてまた寝袋に潜って言った。
「絶対嘘だ、14歳の肌じゃない!」
「きっと、苦労したから…みんなより、老けて見えるんだ…」
おかしすぎて笑いが出てしまう。何それ…
寝袋の開き口を掴んで、捲り上げられる。
「老け顔を、差別するの~?」
そう言いながら、寝袋の中を覗き込んで来るから、俺はおかしくて笑った。
「んふふ!まもちゃんが14歳の訳ない!」
俺はそう言って、彼の寝袋の奥に身を沈めて逃げる。
「今年こそ、インターハイに行くんだ~!」
そう言いながら、俺の腰を掴んで寝袋から引っ張り出す。
俺は両手で寝袋を掴んで言った。
「やだ、やだ!出たくないの!」
俺がそう言って暴れると、まもちゃんは俺の体を後ろから抱きしめて言った。
「そうだね…俺も、離れたくないよ…」
やめてよ…泣いちゃうじゃん。
俺はまもちゃんに引っ張り出されたまま、突っ伏してシクシク泣いた。
寝袋を掴んだ手がぴんと張って、間抜けな姿のままシクシク泣いた。
「日曜日だったら工房まで連れて行けるから、それまで待っててね…」
そう言って俺の頭を撫でる。
俺は引っ張り出された格好のまま、大人しく彼の手を受け入れた…
「そろそろ、テントから出ないと…本当に14歳になっちゃう!」
まもちゃんがそう言って、慌て始めるから、俺はおかしくて笑った。
泣いていたけど、おかしいから笑った…
寝袋を掴んだ手を離して、バイオリンを持って、テントから出る。
靴を履いて、まもちゃんの靴を遠くに蹴飛ばした。
「あ…」
顔を覗かせてそう言うから、俺はそのまま星ちゃんの方に走って逃げた。
「北斗、遅いよ!早く起きろよ!」
渉に言われて俺は笑って言った。
「ん、ごめ~ん。」
その顔に、心なしか星ちゃんが安心した様に笑った気がして、不思議な気持ちになった。
「さぁ、ご飯どうぞ~」
ワンプレートの朝ご飯が用意されていて、みんなはもう食べ終わりそうだった…
俺は急いでご飯を食べる。
「北斗、喉に詰まらせるから、ゆっくり食べて…汚いし…」
歩がそう言って俺にお水をくれる。
「護君、おはよう。ごめんね、大丈夫だった?あ、朝ごはんまで、ありがとう。」
歩のお父さんが来て、まもちゃんにお礼を言ってる。
「いや、久しぶりに焚火して、楽しかったですよ。」
そんな話を何となく聞きながら、傍らのバイオリンを撫でる。
早く弾きたいな…弓で…弾きたい。
「じゃあ帰りは裏表で決めようぜ?」
春ちゃんが公平な方法を知ってるとは思わなかった。
いつも弱肉強食を体現する様に、早い者勝ちのルールで行動しているくせに…
裏表で分けた3人組のトップ同士でじゃんけんして、勝った方が乗りたい車を言うんだって…
言われなかった運転手は、ちょっとへこむよな…
俺と星ちゃん、渉が表を出して、歩と春ちゃんと、博が裏を出した。
俺と春ちゃんがじゃんけんして、俺は負けた…
「俺たち、歩の父さんの車で帰るわ~」
俺にどや顔でそう言って、春ちゃんは俺がごねるのを待ってる。
こういう所が意地悪なんだ。
「いいよ、この子が居るもん。」
俺はそう言ってバイオリンを撫でた。
帰りもまもちゃんの車に乗る。
俺と星ちゃんが後部座席に座って、渉が助手席に座った。
「北斗、シートベルト締めないと、死ぬよ?」
星ちゃんが俺を脅すけど、俺はバイオリンの弦を外したいんだよ。
後部座席に横に座って、バイオリンを置いて作業する。
運転席にまもちゃんが乗って、俺のシートベルト未着用を確認する。
「もう、こいつと車乗るのやだ!」
渉がうんざりしたような声でそう言って、項垂れてる。
「俺はお前と博のイチャラブを聞いてるのが嫌だった!」
俺はそう言い返して、ペグを緩めた。
「このペグが緩んでるんだよ…ここだけすり減るなんて…これは交換しないとだめだな。」
直生の革紐を巻いたペグを外して眺める。
木製のペグはツヤツヤと光って見える…摩耗と言うより…滑る。
木の模様かと思った所をよく見ると…薄れて掠れた文字が書かれている事に気が付いた。
あ…これは…
気付いた瞬間、目頭が熱くなって、涙が落ちた…
口を押えて、深呼吸して、動揺を抑える…
まもちゃんが車を発進させる。
ペグをポケットにしまって、他のペグを緩めて弦をすべて外す。
外した弦をシートの下にまとめて放る。
星ちゃんの膝にゴロンと寝転がってバイオリンを眺める。
「早くオーバーホールしたい…」
そう呟いて、裸になったバイオリンを抱きしめた。
「北斗、シートベルトして!」
「星ちゃん、星ちゃん、駒を買い替えようかな…どう思う?」
星ちゃんの膝枕でご機嫌の俺に、渉がシートベルトをしつこく迫る。
「お前は来るときイチャラブしただろ?俺は今イチャラブしてんだよ!」
俺がそう言うと、渉が顔を赤くして怒り始める。
「星ちゃん、星ちゃん、ほっぺ触って~?ん~、もっとプニプニってして~?」
俺が甘えると、星ちゃんは微妙な表情でほっぺを触る。
なんだ、乗り気じゃないの?
でも、俺は渉への復讐心で我を失ってるからね。
俺は渉に見せつけるように最大限にイチャラブした。
星ちゃんに向かい合う様に座って、彼の眉毛を撫でて遊ぶ。
「この眉毛は…1センチはあるよ?もっと伸びて、もみあげと繋がったらどうなるの?」
「北斗、シートベルト締めて…おまわりさんに掴まるから…」
星ちゃんがそう言って俺を膝から退かそうとするから、俺は星ちゃんにしがみ付いて言った。
「星ちゃん、おまわりさんはこんな所に居ない。それに、星ちゃんの眉毛が心配なんだ…こんなに長かったら…心配だよぉ~。後で切ってあげるね。んふふ。」
車が路肩に停まって、まもちゃんがまた車の後ろを回って、後部座席のドアを開ける。
俺は今回、何も悪い事していないけど?
俺の方に手を伸ばして腰を捕まえると、持ち上げてシートに座らせて、シートベルトを掛ける。
そしてドアを閉めると、また運転席に戻って車を出発させる。
俺はシートベルトを外して、星ちゃんの膝に寝転がる。
「北斗…もうやめなさい!」
星ちゃんが怒るから俺は言った。
「んふふ、星ちゃんの鼻の穴は、下から見るとまん丸なんだよ?ずっと見てると、生き物の目に見えてくるんだ~。」
俺がそう言うと、星ちゃんは想像したのか、吹き出して笑った。
「馬鹿だな~、良いから、ほら、起きて?」
「ん、やぁだ。起きない~生き物の目、見たいの~。」
俺は甘ったるい声を出して、ごねる。
渉は爆発寸前だ…ざまぁ!!
「星ちゃんの腹筋、してぇ~?」
そう言って星ちゃんのシャツをまくる。
「北斗、止めてって!」
星ちゃんが嫌がって暴れるから、俺は段々興奮してきちゃった。
「んふふ!星ちゃんはシートベルトで死を止める代わりに、自由を失ったんだ。だから、俺が星ちゃんの体を自由に触ってやる…!!」
そう言ってTシャツをまくり上げて、星ちゃんの腹に口を付けて息を思いきり吹いた。
車が路肩に停まって、また、まもちゃんが後部座席のドアを開く。
「おならの音みたい~!」
俺は、俺達を見下ろすまもちゃんを無視して、星ちゃんの腹に息を吹き続ける。
こしょぐったくなった星ちゃんが、笑いながら暴れてる。
「あはは、星ちゃん、腹筋を使えば解放してあげるのに~!」
「んはは、もう、もうやめて…」
哀願する星ちゃんの目が可愛くて、俺は興奮した。
「キャ~ッ!やめない~!もっとする~!」
そう言ってまた星ちゃんの腹に息を拭こうとする俺の腰を掴んで、まもちゃんが俺を外に出す。
申し合わせたみたいに、渉が助手席を降りて、後部座席に座る。
俺は助手席に座らされて、まもちゃんがシートベルトを付けた。
つまんない…
俺が唇を尖らせると、まもちゃんが俺の頭を撫でた。
俺は顔を振って嫌がった。
助手席の扉を閉めて、運転席に戻ると、手を伸ばしてまた俺の頭を撫でる。
「ん、止めて!」
怒った俺がまもちゃんの手を叩く。
まもちゃんは怒った顔になって、体を乗り出して暴れる俺の手を掴む。
「あぁ…!まもちゃんさん、ごめんなさい!怒らないで!」
星ちゃんが止めるけど、まもちゃんはとても怒ったようだ…
暴れる俺と、それを掴もうと身を乗り出して暴れる大人に、車が大きく揺れる。
俺の手を掴んで自分に引き寄せると、まもちゃんは、笑いながら俺の頭を何度も撫でる。
「あはははぁ!どうだぁ!どうだぁ!俺の方がつよいぞぉ!どうしたぁ?北斗~?」
髪の毛をぐしゃぐしゃにされて、屈辱を受けて、俺は放心する。
気が済んだまもちゃんが、運転席に体を戻して車を出す。
俺は髪の毛がぐちゃぐちゃになったまま放心した。
後部座席で、二人がクスクス笑う声が聞こえる。
頭に来た…!!
俺はシートベルトを外して、体を捩ると後ろの席に移動しようとする。
それを、まもちゃんが片手で阻止する。
「北斗、止めて、事故に遭う!」
渉が怖がってそう言うけど、怖いのは俺のせいじゃない。
まもちゃんのせいだ。
「子供が怖がってるぞ!最低な大人だな!離せ!離せ!」
俺はまもちゃんにそう言って、彼の手を噛んだ。
俺の体をグワシと腕で掴むと、自分の膝に仰向けに倒す。
そのまま俺の胸の上に腕を置いて、動けなくする。
「卑怯だぞ!こんなのズルいぞ!」
俺が怒って喚く。
「ズルくない…北斗なんて片手で十分だ。」
まもちゃんはそう言って、俺を膝枕する。
「北斗、マジで…もうやめて…」
渉がビビってそう言ってる。
星ちゃんは俺を怒った目で見つめる。
俺は目のやり場に困って、上を見て言う。
「まもちゃんの鼻の穴は丸くない。だから、ぴえんの顔をした生き物に見える…」
俺がそう言うと、星ちゃんが吹き出して笑う。
やっぱりいつも活字を読む星ちゃんは、文字から想像することが容易なんだ。
「とてもブスだ…」
そう言ってまもちゃんの鼻の穴に指を入れる。
「ぴえん…ぴえん…ぴえん…ぴえん…」
歌を歌うと、星ちゃんが爆笑する。
「北斗…ぴえんって何?」
まもちゃんが俺に聞いて来るから俺は言った。
「言っても分からないと思うから、教えない…」
渉だけ、この状況に恐怖を抱いて無言になる。
仕返しは十分出来たようだ。
俺は満足して、足で調子を取りながら、サッキヤルヴェン・ポルカを歌う。
「北斗…それ、何語?」
星ちゃんが俺に聞いて来るから、教えてあげた。
「フィンランド語…直生と伊織は知ってた…あの二人は流石だよね…」
そう呟いて、俺を見つめたまま、ぴえんする生き物を見つめる。
頭の中で流れる間奏の部分をエアバイオリンで弾く。
あと、アコーディオンがあれば、もっと良いのに…
「昔…父の友達のフィンランド人のセロ弾きが教えてくれた。意味は分からなかったけど、音を聴いて、歌えるようになった。巻き舌になる所が好きだったんだ…それで、そいつに何回も何回も歌わせて、踊りも教えてもらった…」
そう言って、まもちゃんの伸びて来た髭を撫でた。
一ミリ…伸びるの早いんだな…
爪で短い髭をポリポリ掻いてみる。
ザリザリ音がして、手のひらで撫でるとこしょぐったかった…
腕が疲れてきたから、上に伸びをして、俺はそのまま眠った。
「北斗…全く…。すみません…」
星ちゃんが謝る声が聞こえた。
体を起こされて、星ちゃんが俺の頬を叩く。
「北斗、着いたよ。」
「ん~」
俺はそう言ってバイオリンと弓を持つと車から降りた。
「あっ!」
ズボンのポケットに手を入れてペグを握る。
助手席に戻って、彼に手渡す。
「これ、見つけた。見て。」
そう言って彼の手に握らせると、不思議がる彼の目を見つめて頷いた。
そして、俺は車を降りる。
そのまま不思議顔する星ちゃんと、手を繋いで別荘に戻る。
チラッと振り返った時、車の中で慟哭するまもちゃんを見て、胸が痛くなった…
緩んだペグの正体は、彼へのラブレター…
小さな文字で、いくつも書かれた彼への愛の言葉…
年季が入ったペグは、その文字をかすませて、まるで木目の様に見せて、守っていた。
俺に気付かれる、その時まで…
何回も書き足したんだろう…
手の油でペグが滑る様になって…結果あの状態になったようだった。
米に文字が書ける人がいるって聞いたけど、あんなに細かい文字…書けるんだな…
隠さないといけない恋でもあるまいし…
それても…訳アリだったのかな…
だから、自暴自棄になってしまったのかな…
やっと一緒になれた…運命のつがいを亡くした悲しみで…
まぁ、俺には関係ない…
「もう北斗と車に乗りたくない!」
渉がいつまでも言うから、俺は笑って言った。
「あれは俺が悪いんじゃない。大人げない、まもちゃんがいけないんだ!」
そう言って俺は、裸になったバイオリンのネックを綺麗な布で拭く。
渉はうわん!と言って、博に慰めて貰いにしっぽを巻いて逃げて行った。
俺は星ちゃんとソファに座って、歩が作るチャーハンが出来上がるのを待っている。
「まもちゃんさん、まるで、妬いたみたいだったね。」
星ちゃんがそう言って、俺の髪を撫でる。
妬く?
「ふふ、ありえないね~。」
もしそうなら運転中にあんなに危ない事、する訳ない。
「本当…鈍感すぎるね…」
星ちゃんがそう言って俺の肩を小突く。
拭けば拭くほど艶が出る、バイオリンの美しいボディに魅了される。
早くオーバーホールしたい…
「俺、日曜日にバイオリンの工房に連れて行ってもらうんだ。だから、星ちゃんも一緒に来て?」
俺が言うと、星ちゃんは少し黙った。
不思議に思って、彼の顔を見た。
「…良いよ」
そう言うから、俺はそのままバイオリンの点検を続けた。
細かい傷はあれど、大きな損傷は見られなかった。ネックの曲がった個所と、弓の反り。後は駒を新しく新調したかった…
弦も毛も良いのを張ろう…何てったって、俺は今、お金持ちだ!
そして、早く弾きならしたい!!
「堪らない…大好きだ…!」
そう言ってバイオリンを抱きしめる俺を、星ちゃんはじっと見て笑う。
「変態ロココと演奏すると、変態が移るのかな…?」
やめろよ…面白いだろ!
「んふ…」
我慢したのに吹き出してしまった。
俺が笑うと、自分で言ったのに…星ちゃんも笑いだした。
「飯出来たぞ~」
春ちゃんの声が、階段の上から聞こえた。
俺と星ちゃんはソファから立ち上がると、一緒に階段を上ってキッチンへ向かった。
ダイニングテーブルに置かれた、湯気の上がるチャーハン!
「んふ~!」
俺は喜んで席に着いた。
渉と歩も一緒に来て、仲良く隣同士で座った。
どうせベランダでイチャイチャしていたんだ…。
俺は星ちゃんを手招きして隣に座ってもらう。
「美味しそうだね~。歩、じょうずだね~」
俺はそう言って、スプーンを持った。
「いただきま~す」
一口食べて分かった。
味が薄い。
博氏を伺い見る。
俺と目が合って、博氏はそっと食卓塩を俺の方に滑らせた。
俺は頷いて食卓塩を手に取って、さり気なくかけた。
「薄かった?」
歩が俺の方を見てそう聞くから、ビクッと体がしてしまった…
「ううん。美味しいよ~。この、味噌汁が薄かった!」
どうせ汁系は春ちゃんが作ったんだ。
「え~、味噌入れ過ぎたのに…お前、とうとう舌も馬鹿になったの?」
言うね…
ちょっとムカついたけど、塩を振ったチャーハンは美味しくなった。
タイミングを見て、もう一振りしたいところだ。
「北斗、明日はお祭りだからってお父さんが浴衣を用意してくれたんだ。あとで、星ちゃんとサイズ見ておいて?」
まじか~!
「分かった!」
俺は星ちゃんと顔を見合わせて喜んだ。
だって、浴衣なんて…俺は、着た事なかったから。
「浴衣の下は?ノーパン?」
俺が聞くと、みんな吹き出した。
「んな訳ないだろ?ノーパンは、変態ロココじゃん…」
博がそう言って笑う。
直生と伊織は、浴衣でもノーパンなのかな…
少し想像して、考えるのを止めた。
「浴衣でノーパンだったら、歩くたびにちんちんが見えるだろ…」
春ちゃんがそう言ってとどめを刺す。
みんな吹き出して大笑いする。
歩が咽て、顔を赤くする。
「そしたらさ、変態ロココじゃなくて、何て呼ぶの?」
俺は、笑いながら話を広げる。
「そら、変態…侍だろ…」
「いや、変態祭りじゃね?」
「変態お盆…」
そう歩が言うから、俺はおかしくて爆笑した。
「腹が痛い…!!変態お盆って…!!シーズン限定だな!」
ヒィヒィしながら、水を飲んで落ち着く…
「もう、フルチンブラザーズで良いよ…」
春ちゃんが、またとどめを刺す。
「ギャハハハ!!やばい!それは、やばい!!」
笑いすぎて、ほっぺが痛くなる。
ご飯が食べられないので、自然とみんなあの話を頭から追い出して、食べ続ける。
それでも、誰かが思い出して吹き出すと、つられて笑うんだ…
そんなこんなで食べるのに一時間もかかってしまった。
彼らは俺達の良い笑いの種になった。
本当は、そんな事して良い人たちじゃないのに…
俺は確かに彼らを尊敬していた。
数少ない俺の理想の奏者、上位に名を連ねたのだ。
それは心酔と言っても過言では無くて、彼らの演奏は俺の心を乱して、自分の限界よりも高めてくれる。それは、ただ単に彼らと一緒に演奏する時のみ発動する…これが俺の実力として根付くことを願って、また彼らに会いたくなる…
そんな彼らをフルチンブラザーズなんて…面白過ぎるだろ。
奏者としては素晴らしく、人格的には破綻した…
昔の作曲家の様な人たち。
自分の体を餌に、彼らの技術が奪えるなら…それはチャンスだと、思う自分が怖い。
「北斗~、浴衣どれにする~?」
星ちゃんがそう言って、置かれた浴衣を前に頭を抱えて悩んでいる。
選ぶほどあるのか?
「家の本家は染物もやってるから…沢山あるんだよ。」
歩がそう言って、自分の選んだ浴衣を見せてくれた。
綺麗な藍色のシンプルな浴衣…
俺はたくさん置かれた浴衣を見て言った。
「星ちゃんは…これが似合うよ?」
そう言って青味の入ったベージュの浴衣と紺色の帯を手渡した。
「俺はこれにする!」
そう言って選んだ浴衣は星ちゃんのと似てるけど、俺のはもっと白に近いベージュ。
帯は横に白い模様の入った藍色のものにした。
「着てみて?」
歩に言われて俺は服を脱いでパンツになった。
その上から袖を通して浴衣を羽織る。
「ん~良いんじゃない?」
歩がそう言って帯を巻いてくれた。
「見てみて?似合う~?」
俺は浴衣を着せてもらってはしゃいだ。
星ちゃんは思った通り、俺の選んだ浴衣が良く似合っていた。
イケメンだ…醸し出す色気が堪らない…
「星ちゃん…星ちゃん…かっこいい…」
興奮して彼に抱きつく。
「北斗の見立ては完璧だね。良く似合ってる!」
歩に褒められた。
「直生は、これが似合いそうだ…伊織はこっち…あと、歩のお父さんはこれ…。んふふ、あっ、まもちゃんはこれが良い。」
俺はそう言って、知っている人みんなの浴衣を選んであげた。
浴衣を脱いで、星ちゃんはお風呂に行ってしまった。
俺はひたすらバイオリンを眺めてうっとりしている。
まもちゃんへの激情も嘘のように無くなって、自分でも驚いている。
あんな感じで…普通に接すれば良いのかな…
ほぼほぼ喧嘩の様になる、あの感じで…
ああでもしないと、俺はまたおかしくなりそうなんだよ…
彼の膝枕を思い出しながら、バイオリンを眺める。
あなたは幸せ者だよ…だって、一度はまもちゃんと一緒に人生を歩いたんだ。
俺ももし、そんな事が叶うなら…
そんな下らない事を考え始める自分が嫌で、俺は伊織からもらったヘッドホンを耳に付けた。
有線が煩わしかったが、慣れてしまえば音も飛ばないし、音質は最高だった。
耳に届くのは、スラヴ舞曲…
それを聞いて、直生と伊織を思い出す。
大きな手に、強引なくらいの腰使い…うっとりしてきて、勃起する。
あの官能的なセックスに、虜の様になっている自分が居て笑う。
直生の顔を思い出して、息遣いを思い出して、股間が疼いて来る…
トイレに行って、ズボンを下げて、大きくなってしまったモノを、自分で握って扱く。
目を瞑って…彼らを思い出して、自分のモノを扱いて、小さく呻く。
息が荒くなって、腰が動く…
頭の中がクラクラしてきて、すぐにイッた…
手に着いた白い精液をティッシュで拭いて、欲情と一緒にトイレに流す。
ソファに戻ってバイオリンを抱えて、横になる。
「北斗、寝ないで風呂入って!」
春ちゃんに怒られて、いそいそと風呂に入る。
タオルセットを準備して、洗面所に行って、服を脱ぐ。
体のキスマークは、ほぼなくなった…
良かった…
体を洗って、髪と顔を洗って…浴槽につかる。
「ふわ~!」
熱いお湯が気持ち良くて、変な声を出す。
そのままバイオリンを弾く真似をして…呟く。
「早く…弾きたいな…」
まもちゃん…あのペグ。どうしたかな…?
あんなに愛されて、愛した筈なのに、うんこみたいな女と結婚するなんて…
やっぱり信じられない…
お金目当てなのかな…
理久もお金のことばかり言ってる…
大人になると、お金が大好きになるのかな…
なんで…ペグをそのままにしたのかな…
気が、付かなかったのかな…
まもちゃん…
考えるのを止めて風呂から上がる。
「星ちゃ~ん!」
彼の待つふわふわのベッドに走って向かう。
彼の隣に寝転がると、シャツを捲って腹筋のある場所に口を付けて息を吹く。
「だはは!」
こしょぐったくて笑う星ちゃんに抱きついて、彼を見つめる。
「星ちゃん。楽しかったね。また明日も楽しいと良いね。」
俺はそう言って、彼のおでこにキスした。
そのまま体を下ろして、滑り落ちるように彼の隣に行くと言った。
「星ちゃん、お休み~」
俺がそう言うと、星ちゃんは俺の頭を撫でて言った。
「北斗、お休み」
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