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8月16日(日)
8月16日(日)
セットしたアラームで目がばっちり開く!
「星ちゃん!7時だよ!起きて!」
俺は一気に体を起こして、隣でうつぶせて寝る星ちゃんを揺する。
「ん~、ん~」
唸ってばかりいる星ちゃんを置いて、俺は洗面所に向かう。
歯をいつもより多く磨く。
顔をいつもより多く洗う。
髪を全部濡らして、いつもより多くドライヤーをあてる。
歩の使っている化粧水…と言う物を手に取ってほっぺに付ける。
「あ…フワフワになった…」
効果を実感していると、博が俺を見て驚く。
「どうした?身だしなみ整えて、どこ行くの?」
だから、俺は教えてあげた。
「みんなの楽しみにしている…俺のバイオリンを修理しに行ってくる。星ちゃんとまもちゃんの車に乗せてもらって、工房に行ってくる。」
俺はうっとりしながらそう言うと、まだ起きない星ちゃんを起こしに行く。
何故か歩が星ちゃんのベッドに座っている。
「どうしたの?」
俺が聞くと、あたふた様子で歩が言った。
「えっと…あの、その…星ちゃん、お腹痛いんだって…」
え?
「星ちゃん…大丈夫?盲腸?」
俺はベッドでうつ伏せてうんうん唸る星ちゃんの背中をさすった。
可哀想だ…
「歩、病院行く?」
「あ、いや、どうかな…あはは…正露丸で治ると思うけど…でも、あんまり無理はしない方が良いと思う。」
そうなの?
こんなに苦しそうなのに…本当に正露丸で治るの?
「星ちゃん…病院行く?」
俺は唸る星ちゃんの顔を覗く、可哀想だ…
「ん?いや…大丈夫かなぁ…正露丸で治るかもしれないし…えっと…うん」
星ちゃんはそう言うと、また顔を背けてうんうん唸りだす。
「心配だよ…離れたくない…」
俺はそう言って星ちゃんの隣に寝転がった。
後ろから星ちゃんを抱きしめて、痛いお腹をさすってあげる。
「俺が昨日、暴飲暴食に付き合わせたからだ…だからお腹壊しちゃったんだ。」
可哀想だ…
「ごめんね、星ちゃんごめんね…今日は一緒に居てあげるから、安心してね。」
俺がそう言うと、星ちゃんがむくりと起き上がって言った。
「正露丸を飲む。」
歩が慌てて薬を取りに行った。
「星ちゃん…そんなに痛いなら病院に行こうよ…まもちゃんに送ってもらおう?」
彼のお腹を撫でながら俺はそう言った。
唸る位痛い腹痛なんて…盲腸以外考えられないよ…
「大丈夫!正露丸を飲んだら治るから!」
そんなに万能なの?
歩が正露丸を持ってきて、星ちゃんに飲ませる。
俺はその様子をじっと見つめる。
髪の毛のぼさぼさの星ちゃんが可愛くて、不謹慎に興奮する。
「わぁ~!痛くなくなってきた!」
飲んですぐに効果を実感した星ちゃんがそう言う。
「ほんと?ほんとに?」
嘘みたいな回復に、俺はホッとして胸をなでおろした。
「でも、今日は一緒に行けないかもしれないなぁ…行った先で、また腹痛が起きたら嫌だし…ごめんね~。北斗~?」
そう言う星ちゃんに俺は首を振って言った。
「大丈夫だよ。バイオリンはいつでも治せるもん…歩、まもちゃんに電話して。俺からいけなくなったって伝えるよ。」
俺がそう言うと、歩が固まった。
「歩…連絡先知ってるだろ?早めに言わないと、準備して来ちゃうよ。」
歩にそう言うと、星ちゃんが慌てた様子で言う。
「北斗の!バイオリンが…早く聴きたいなぁ~。今日…直してきて?じゃないと中毒症状が出て来ちゃうよ~。あはは。アハハ…」
えぇ…
「置いてけない!一緒に行くって言った。星ちゃんと一緒が良い。」
俺は彼の体に抱きついて甘える。
「北斗…楽しみにしていたじゃないか。バイオリン、直してきて?…一番に聴かせてよ?」
俺は悲しかった…
てっきり星ちゃんとバイオリン工房に行けると思ったから…
工房の職人を見せて上げたかったから…
「…うん。でも痛くなったら連絡して?すぐ帰ってくるから!」
俺は涙目でそう言うと、1人で行くことにした。
気は進まない…
だって、あのまもちゃんと二人きりなんだ…
バイオリンの修理以外に、耐えなきゃいけない事が増えるんだ。
でも、星ちゃんが…彼が俺のバイオリン中毒症状を発症する前に、彼に聴かせてあげたい…だから、俺は苦渋の決断をした。
「星ちゃん?行ってくるよ?大丈夫?」
ベッドで横になって本を読んでる星ちゃんに声を掛ける。
俺の顔を見て笑うと、星ちゃんは言った。
「一緒に行けなくて、ごめんね?」
俺は首を振ってこたえる。
「良いの。早く良くなってね。一番に聴かせるからね?星ちゃぁん!」
そう言って、極まって彼に抱きついて泣く。
「可哀想…お腹痛くて可愛そうだ…早く良くなってね…」
星ちゃんは俺の涙を拭いて頬を撫でてくれた…
「行ってきます…」
俺はそう言って星ちゃんを残して別荘を出る。
首に掛けたヘッドホンと
裸になったバイオリンと弓を抱えて…
道路沿いには、まもちゃんの車が既に停まっていて、俺を待っていた。
「星ちゃんはお腹が痛くなって、行けなくなった。」
そう言って助手席のドアを開けて乗り込む。
「だから、今日は俺しかいない。」
そう言ってまもちゃんを見る。
彼は俺を見て微笑むと、ウインカーを出して車を出した。
シートベルトを締めて、裸のバイオリンを拭く。
リュックの中には大金…
気付かれたら殺されるかも…
「まもちゃん、遠い?」
運転席の彼に視線をあてて尋ねる。
今日は黒いシャツなんだ…暑くなりそうだな…
下は白いチノパンなんだな…
「遠いよ。」
そう言って俺にペットボトルをくれた。
そんなに遠いんだ。
俺は耳に掛けたヘッドホンを付ける。
音楽を大音量で流して、窓を開けた。
なるべくこの人と居る事を、頭の中から追い出そう。
そう思って、そうしたのに。
肩をつんつんされて、仕方なくまもちゃんを見る。
「何?」
ヘッドホンを付けたまま聞くと、まもちゃんが口をパクパクしている。
「分かんないよ。聞こえない。」
俺はそう言って顔をまた窓の方に向ける。
しばらくすると、聞こえていたドビュッシーが聴こえなくなる。
「あれ?」
そう思って携帯を出すと、ヘッドホンの線が抜かれていた。
俺はまた線を繋げて、音楽を再生させる。
今度は悪戯されない場所に置いた。
ちょっかい、かけないでよね…
全く…頭の中がガキなんだ。
そう思って軽井沢の街並みを眺める。
信号で車が停まって、渋滞している。
日曜日だからかな…
ヘッドホンを首に下げてまもちゃんに尋ねる。
「何で渋滞してるの?」
「この先にショッピングモールが出来て、そこに行く人たちだよ…そこを抜けたら渋滞も無くなるよ?ところで、北斗、二人しかいないのに、ヘッドホンを付けたら失礼じゃないか。」
失礼?
「なぁんでだよ。失礼じゃないよ。だって、遠いんでしょ?それまで何もすることが無いじゃないか!まもちゃんは運転をするでしょ?俺は何もすることがない!つまりそう言う事だ!」
俺はそう言って、またヘッドホンを付けようとする。
まもちゃんは笑いながらそれを阻止する。
「やぁめてよ!何で邪魔するの?」
俺がイラっとしてそう言うと、まもちゃんが笑う。
「俺とおしゃべりしてくれよ。つまらないから、おしゃべりしてくれ。」
…もう、面倒くさいな!
「音楽掛けたい。」
俺はまもちゃんにそう言った。
彼は車のUSBコードを出して言った。
「そこに繋げて、お前が聞いてる曲を聴かせて?」
仕方ないな…俺のプレイリストは門外不出だぞ?
「良いよ~。何を聞こうかな?」
そう言ってUSBに繋いだ携帯で、プレイリストを再生させる。
「これは民謡プレイリストだ。世界中の民謡を集めてる。まだ未完成だけど、今の所、主要国の分は集めた。もっとニッチな曲が出されたら良いのに…」
手始めにモンゴル民謡が流れる。
「この音色は馬頭琴だ。知っている?馬頭琴。馬の頭が付いているんだ。二弦からなる楽器で、なんと馬の毛が弦になっているんだ。凄いだろ?モンゴルの人は遊牧民だから、馬がとても大事なんだって…だから、馬の頭の琴で…馬頭琴だ。」
俺がうんちくを言うと、まもちゃんは感心しながら話を聞いている。
頷く顔が意外と間抜けで笑える…
相槌が気持ち良くて、俺のおしゃべりが止まらなくなった…
気付いたら、話がそれて軍歌の話を話していた。
俺のうんちくは長いのに、まもちゃんは楽しそうに聞いてくれる…
だから話すのが止まらなくなるんだ。
「フランスの軍歌なんて、揚げた玉ねぎの歌を歌ってたりするんだよ?おかしいよね。日本の軍歌はそれに比べると、心情を表すものが多い様に思うんだ。たとえば、雪の進軍なんて有名だけど、あれも楽しい旋律に悲しい言葉が散らばっていて…まるで、死を達観していて…聴いていると悲しくなるんだ。」
俺はそう言って、雪の進軍を歌ってあげる。
「雪の進軍、氷を踏んで、どこが川やら道さえ知れず、馬は倒れる捨ててもおけぬ、ここはいずくぞ皆敵の国、ままよ大胆一服やれば、頼み少なやたばこが二本。
焼かぬ干物に半煮え飯に、なまじ命のあるその内は、堪え切れない寒さの焚火、煙い筈だよ生木が燻る、渋い顔して功名談、「すい」というのは梅干し一つ。
着の身着のまま気楽な臥所、背嚢まくらに外套かぶりゃ、背の温みで雪解けかかる。夜具の黍殻シッポリ濡れて、結びかねたる露營の夢を、月は冷たく顔覗き込む。
命ささげて出て来た身ゆえ、死ぬる覚悟で突喊すれど、武運拙く討ち死にせねば、義理に絡めたじゅっぺい真綿、そろりそろりと首絞めかかる、どうせ生かして帰さぬつもり。」
俺が元気に軍歌を歌うと、まもちゃんは歌詞を聴きながら苦笑いする…
昨日は終戦記念日だ…ちょうどいい話題だろ?
「ね?何か…悲しいだろ…周りを敵に囲まれた四面楚歌の状態の歌らしい…死なんて容易いものじゃないのに…あまりに周りで人が死ぬから…こんな感覚になるのかな?それとも、そんな運命でも受け入れなきゃいけない状況を…自嘲気味に歌った歌詞なのかな…」
そう言ってまもちゃんを見る。
「まるで、まもちゃんみたいだ…」
俺が笑ってそう言うと、彼は驚いた顔をした。
「何で?」
「分かんないよ。でもそんな風に思ったの。変だね。」
俺はそう言って両手を上げると、伸びをした。
だって、まるで彼の状況はこの歌同様…四面楚歌じゃないか…
金持ちの血統に関わったばかりに、抜け出せなくなって、それではと、死ぬ気で吶喊してるように見えるよ…
あなたは自分でそう思わないの?
小さなレストランをやっている気楽な男と、金持ちの娘なんて…合わないよ…。
全然合わない。
「北斗は変な例えをするね。でも、あながち間違っていない…」
意味深にそう言って、まもちゃんは車を走らせる。
まもちゃんは雪の進軍が気に入ったのか、メロディを鼻歌で歌っている。
だから俺も一緒に鼻歌を歌った。
「北斗、チェロの人たちとはお友達なの?」
聞かれたくない事を聞かれる…
どうしたものか…愛玩道具です。
なんて言えないだろ…いや、別にいいのかな…
だって、彼だって俺をそうしたじゃないか。
でも、そんな話を掘り返して嫌な雰囲気になるのは嫌だ…
「友達だよ…」
そう言って、嘘と分かる嘘を付いて誤魔化した。
俺の様子を伺う様にチラッと顔を見てくる。
だから俺は彼の顔を見て、逆に聞いた。
これ以上聞かれる前に、聞いた…
「ねぇ、まだ着かないの?」
「まだ着かないよ。山奥にあるんだ。」
マジかよ…奥さんどうやって見つけたんだよ…そんな山奥の工房…
俺は眠たくなってきたよ。
「北斗のバイオリンを弾く時、弓を構える所が好きだ。」
何だよ…突然…
まもちゃんが突然俺を持ち上げ始めた。
「弓の角度が…とても綺麗なんだ…立ち姿とバイオリン…そこに弓が重なって、本当に美しいんだ…美少年だな…お前は本当に美しいんだ。」
車の進行方向を向きながら、まもちゃんは嬉しそうに話す。
俺は何も言えないよ。
下手に何か言えば、自分が感情に支配されて…どうなるか分からないから。
この後、職人とやり取りするんだ…こんな事で…精神を使いたくない。
「俺はこのバイオリンを直したい。その為に工房に行くんだ。」
そう伝えて、それ以上まもちゃんと話さなかった。
おかしなことになりたくない…
もうこれ以上…傷つきたくないんだ。
また泣いて縋らせたいのかな。
嫌だ…
もう、みっともないのは嫌だ。
だから、俺は彼の誘いを断った。
「そろそろ着くよ~」
まもちゃんがそう言う。
だいぶ、山奥に入った。周りは雑木林だ…
こんな所に工房があるのか…
公道から少し細い道に入る。
木々の間に屋根を見つけて目的地を把握する。
「こんな所に有るの…どうやって見つけたんだよ…」
まもちゃんの奥さんの行動力に驚愕する。
「着いたよ。俺はここに居る。行っといで。」
塩だな。
突然の塩対応だな…
まぁ良い。まもちゃんには関係のない事だ。
「はい~」
俺はそう言って車を降りると、工房に向かう。
森の中の小高い丘に工房はあった…
車から降りると森林浴が出来そうなくらい、空気の澄んだ場所だ。
人里離れたこんな場所に、工房を構えるくらいだ…
相当手強い職人がいるんだろうと、俺は覚悟を決めた。
「こんちわ~!バイオリン直してください~!」
俺はそう元気に言って、工房のドアから中に入る。
中に入ると、木の匂いでいっぱい…
う~!良い匂い!
4、5人いる職人の、誰も近づいて来てくれない…
はっ!やんなるね…一見さんお断りかよ。
「おじさん、おじさん、バイオリン直して。持ってきたから、見て?」
そう言って手で仰いで一人を指名する。
一番気難しそうなやつをはじめに落とす。
傍らに抱えた俺の大事なバイオリンを、差し出して見せる。
奥さんが生前通っていた工房なら…見た事あるだろ?
この、バイオリンを覚えているだろ?
老眼鏡を手に取って、名指しされたオジジが、渋々俺のバイオリンを見る。
その斜めに伏せた目元が…誰かに似ていて、見入ってしまう。
「このバイオリンを…どこで?」
バイオリンから視線をあげずにオジジがそう言った。
その声色が鋭くてたじろぐ。
「…大事に出来ない奴から、奪った。」
俺はそう言って、バイオリンのボディを撫でる。
「…うちではこのバイオリンは見ない。二度と見たくもない…帰ってくれ。」
上目遣いに俺の事を険しい顔でじっと見つめて、オジジがそう言った。
「あ…」
俺はあんたにそっくりの人を知ってる…
「おじさん…まもちゃんの、お父さん?…」
俺がそう呟くと、目の前のオジジが驚いた顔をした。
そうなんだ…
そのまま回れ右して、工房を出る。
駐車場で待つ、彼の元に向かう。
俺の後ろをオジジが、慌てて追いかけてくる。
「お、早いね…」
車の横に立って、そう言ってこちらを振り返る彼を、フルスイングでぶん殴る!
「すっとぼけるな!ここは、まもちゃんの家じゃないか!工房を持つようなバイオリン職人の息子だったんじゃないか!だったら、なぜ、俺のバイオリンを…酷い扱いを受けたバイオリンを、見て見ぬ振りしたんだ!」
俺は怒りが収まらなくて、まもちゃんの体を何度も引っ叩いた。
「お前はどこまで嘘つきなんだ!俺を騙せると思ったのか!」
そう言って叩き終わると、今度は一気に悲しくなってくる。
まもちゃんの足元に膝から崩れ落ちる。
大泣きして悲しみを放出する。
目の前にバイオリン職人がいたんだ…
奥さんがペグに書いた愛の言葉は、バイオリンをメンテナンスする、まもちゃんへの愛の言葉…彼しか触らない場所にそっと書いた愛の言葉…
その後、結ばれて、一緒になって…愛したはずなのに…その筈なのに…
その奥さんのバイオリンが、さっちゃんに雑に扱われるのを目の前で見て…何もして来なかった。
バイオリンをよく知っている筈の彼が…何もしてこなかった…
それが、悔しくて堪らない…!
「どうして…どうして放っておいたんだよ…教えてよ…嫌いになりそうだから…理由を教えてよ…」
「護、帰ってきたのか?」
地面にへたり込んで泣く俺の後ろでオジジが、まもちゃんにそう言った。
「違う…。この子のバイオリンを直してやってくれ…」
「俺の質問に答えないで、誰と話してるんだよ!」
そう叫んで、頭に来て立ち上がると、俺はまもちゃんに食って掛かる。
彼は俺の動きを両手で抑えて、オジジに話す。
「この子のバイオリンは素晴らしいんだ。だから、直してやってくれ。」
「ふざけるな!俺のバイオリンを酷い目に遭わせたくせに!」
俺はそう怒鳴って、まもちゃんの腹に頭突きする。
俺を抱きしめて、強く抱いて、まもちゃんはオジジにお願いする。
「父さん…この人のバイオリンを、直してあげてください…お願いします!」
何で!何で!何で!放っておいた!
あのペグも、あの酷い扱いを受けていたバイオリンも!!
なんで…だよ…
まもちゃん…!
「とにかく入りなさい…」
そう言ってオジジは、まもちゃんと俺を工房に入れた。
俺は、自分の体を抱く、まもちゃんの手を払った。
そのままふらふらオジジの後に続いて工房に入る。
「おじさん…見て…ここ、何でこうなったか分かる…?」
俺は裸のバイオリンを持って、テーブルを挟んだ反対側に座るオジジに見せる。
その間もずっと、悔しくて涙が止まらない…
「ここも…酷いだろ…拭いてもダメなんだ…」
そう言って、バイオリンの背面についた汚れを指でなぞる。
「弓はもっとひどい…左に沿っているのに…直してないんだ。直せる職人が付いているのに…直して貰ってないんだ…何も悪い事していないのに…あんまりだ!可哀想だ…!」
そう言って毛を外してしばらく休ませた弓を見せる。
「すぐ…毛は取ったんだ…でも、でも…全然…反りが治らなくて…」
両手で顔を覆って、悔しくて泣く。
楽器が好きだから…
直せる人がすぐ傍に居たのに…放置していた事が信じられなくて泣いた。
「これを直してほしい…駒も変えて…弦は一番いいやつを付けて…、弓の毛にはイタリア産の毛を使ってよ…」
俺は持ち金、10万円と3千円。全て出して言った。
「足りない分は後で払う。今あるお金はこれで全部なの。うちの住所を伝えておくから、足りない分は必ず払うから…今すぐ、この人を元に戻してあげて…」
俺がそう言うと、オジジは俺の隣に座って、俯くまもちゃんに言った。
「お前が直せ。」
俺は即座にそれを断った。
「嫌だ、触らせないで!」
「家の職人は責任をもって仕事をしている。新規で持ってきたバイオリンを見る程、みんな暇じゃないんだ。だから、どうしても今日中に直したいのなら、隣の奴に頼め。」
「嫌だ!絶対嫌だ!!」
俺はそう言って喚く。
「うるさいぞ!」
遠くで作業をする他の職人に怒られる。
愕然とした…
こいつに頼まなきゃいけないの…?
散々見て見ぬふりして、痛めつけた、この男に…
最悪だ…
でも…このまま引き下がる訳にはいかないんだ…
どうしても…直したいんだ…!
星ちゃんの為に…!!
「まもちゃん…俺の、バイオリンを直して…」
放心した顔のまま、隣のまもちゃんを見て頼む。
悔しくて…噛み締めた唇から血がにじむ。
俺を見てシクシク泣く彼に、裸のバイオリンを両手で差し出す。
バイオリンを全然手に取らないから…
彼の手に、無理やりバイオリンを持たせて、俺は席を立った。
そのまま工房の外に出て、泣き崩れる。
こんな事ってあるのか…
酷い話だ…
悔しい!悔しいよ!
工房の壁に背をもたれて座って、ヘッドホンで音楽を聴く。
足元の砂利を、掴んでは遠くに飛ばしてる…
何時間たったのかも分からないまま、ここで、ずっとこうして座っている。
耳の奥に美しい音色のバイオリンが奏でる“愛のあいさつ”を何度も聞いて…
ずっと、放心している。
俺の気持ちとは裏腹に、森から吹くそよ風が心地よく俺のおでこを撫でる。
隣にオジジがやってきて、俺にバイオリンを差し出す。
「休憩時間になった。一曲弾いてくれ。」
俺は泣きはらした目でバイオリンを見上げると、立ち上がって受け取った。
付けていたヘッドホンを外して、腕に掛ける。
バイオリンを首に挟んで、美しく弓を構える。
そして”愛のあいさつ”を弾いた。
美しいまろやかな音色を聴かせてくれる…オジジのバイオリン。
これはオジジが作ったの?
凄い…これが、職人のバイオリン…
だから、あの時…
初めて引いた時…俺は感嘆したんだ…
初めて感じた手ごたえに驚いて…彼女にほれ込んだんだ…
バイオリンへの愛を込めて…愛のあいさつを弾く、
それは優しく、愛おしむ、包み込む様な大きな愛のあいさつだ…
曲を弾き終えて、俺はゆっくり弦から弓を離した。
オジジがため息をついて言う。
「クソガキだと思ったら、素晴らしい奏者だった…」
そうだ…血と汗と涙と努力の素晴らしい奏者だ…
「次は何を弾こうか…?」
俺はそう言ってオジジを振り返った。
オジジは俺を見て笑うと、彼によく似た目元で俺を見つめて言った。
「亜麻色の髪の乙女…」
俺はすぐに弓を構えて、弦を鳴らして弾き始める。
情景を思い描きながら、情緒的に…弾きあげる。
森の中に響く音が、音色を高めて空に登らせていくみたいだ…
突き抜けるような開放感が、この曲を自由にさせる。
飛び立った旋律は戻らないで、遠くの空へ飛んで消えて行く。
…素敵だ。
曲を弾き終わるころ、観客が増える。
弦から弓を外して、丁寧にお辞儀する。
「ブラボー!」
お褒めの言葉も、今はあまり嬉しくないんだ…
だって、彼が嫌いになりそうで…
怖いんだ。
「次は…何を弾こうか?」
俺が尋ねると、誰かが言った。
亜麻色の髪の乙女つながりでかな…
「シシリエンヌ…」
俺は弓を構えて、哀しみのシシリエンヌを弾く。
この森に、木に、哀しみが届いて染み渡る様に…
「なんて美しい…」
そんな感嘆の言葉を聞いても、笑えて来るくらいに哀しい…
大事にすれば、愛してあげれば、こんなに美しい音を奏でてくれるんだ…
それなのに…まもちゃん…どうしてなんだよ。
奥さんを…愛していたんだろ?
自暴自棄になってしまうくらい…愛していたんだろ?
哀しい…
哀しいよ…
俺はシシリエンヌを弾き終わって、弓を美しく弦から離した。
「ブラボー!表現力が凄いね。いったい幾つなの?」
若い職人が食い気味に笑顔で聞いて来る。
「14です…」
俺はそう答えて、オジジを見る。
「とてもいいバイオリンです…一曲、試したい曲がある…弾いても良いですか?」
そう言って、相手の答えを待たずして振りかぶりながら弾く。
ツィゴイネルワイゼン…。
のっけから飛ばして弾く。
俺の怒りと悲しさと、悔しさを弓に込めてかき鳴らす。
まもちゃん…
「ブラボー!」
歓声を受けても、これは褒められる物じゃないんです…
だって、俺は今、激しい感情に任せて弾いているから…
ピチカートするといつもの何倍も音が伸びて、響いて体に跳ね返る。
まもちゃん…嫌いになりそうだ…
あんなに大好きで…恋焦がれて…縋った彼を、心から手放したくなる。
理由を聞いたら、俺は納得するんだろうか。
彼の行為を許すことが出来るんだろうか。
「まもちゃん…」
口から彼の名前が漏れて…曲のクライマックスを迎える。
弓を激しく動かして、感情を込めて、いつもの様に優雅じゃない…激情のツィゴイネルワイゼンを弾きならす。
ピチカートして、技巧よりも感情を優先して、彼に届くように、弾きならす。
俺は怒っていると、彼に伝わる様にかき鳴らした!
「ブラボー!」
「ブラボー!!」
いつの間にか増えていく称賛の言葉を受ける。
曲が終わり弓を弦から離す。
なかなか離れない弓に戸惑って、深呼吸してからゆっくり離す…
怒りが収まらないみたいに、弦の上で震える自分の弓を初めて見た…
「…あのバイオリンも、ここで作ったのですか?」
オジジを見て尋ねる。
オジジは俺に満面の笑顔を向けて言う。
「素晴らしい!!君は素晴らしい!!」
殴り合って友情を深める様に…弾き聴かせて信頼を得るのか…
そう思う程に職人たちは、当初の渋い顔から、笑顔にシフトした…
現金だな…
それは露骨で、酷い位に、現金な扱いだった…
「初めてあのバイオリンを弾いた時、この曲を弾きました…その時に感じた手ごたえを今も感じた。初めて感じる弾力と手ごたえでした。それで、堪らなくなって…離れたくなくなって…俺は金持ちの爺に頼んであのバイオリンを譲ってもらったんです。おじさん、あのバイオリンもここで作ったものですか?」
俺がそう言うと、オジジは笑って言った。
「あれは…護が作ったバイオリンだ。」
それを聞いた瞬間、全身の鳥肌が立って、愕然とする。
だから、あんなに欲しがったのかな…
だから、あんなに愛したのかな…
だから、彼はあのバイオリンを痛めつけたのかな…
自分を痛めつけるみたいに…
俺は下を向いて呼吸を最後まで吐き切った。
そしてオジジにバイオリンを返すと、工房の中に入って行った…
一人、俺のバイオリンを直す彼の前に座って、尋ねる。
「どうしてか、話してくれないか…」
「北斗…ごめんね…俺はお前を傷つけてばかりいる。」
俺は何も言わないで、彼の手元を見た。
いつもは料理をする彼の手元を見て、笑った…
だって、手慣れているんだ…
こっちの方がしっくりくるじゃないか。
そのまま両手をテーブルに乗せて腕組すると、顔を横向きに乗せて目を瞑った。
「妻に出会った…俺のバイオリンを欲しいと言うから、金持ちに高額で売った。事あるごとにメンテナンスを頼まれて、その度にペグに書かれた文字に固辞した。俺にはその気はなかったから…。でも、何度もそんな事があると、その気は起きるもので…俺は彼女を愛するようになった…でも、父に反対されて、俺がこの家を出る形で…バイオリン職人を辞めることで、話がやっとまとまった…。結婚して、しばらくして、彼女が病気だと言う事が分かった…悲しくても、苦しんでも、彼女は弱って死んでいった…それを見て、絶望した…何もかも、どうでも良くなった…」
淡々と話し始める彼の話を、うっすらと目を開けながら聞いている。
「勘当される形で家を飛び出した俺は、慣れない料理人を続けていくしかなかった…バイオリン職人に戻るよりも、彼女のいたあの場所に居る事を選んだ。彼女のバイオリンも…俺の作ったバイオリンも…もう、どうでも良くなったんだ…だから。何もしてやらなかった…何故かと聞かれると、自分でも分からない。ただ、嫌いだったんだ。」
俺は顔を上げて、ジッとまもちゃんの目を見つめる。
こんなに感情的に話す彼を、見た事が無かったから…
「そうこうしていると、幸恵が俺に興味を持ち始めて、俺は都合よく彼女を利用した…手玉に取って、彼女のバックボーンを使って、気楽に生きた…。もう、何も考えたくなかったんだ…。だから、彼女の言うままに婚約して、何も考えずに安泰に暮らせるなら…と、結婚の約束をした。」
頬杖を突きながら、彼の話を聞く。
それはとても悲しい話で…でも、そのおかげで彼が分かった気がした。
「そこに、北斗…お前が現れたんだ…初めて見た時から、お前の事が堪らなく好きだった。そのぼんやりした顔も、星ちゃんに甘える顔も、挑発する様に話す顔も、全て…一瞬で、虜になった…」
俺は戸惑った。
「そんな事は良い…それは聞きたくない。」
そう言って話を終わらせようとした。
「北斗、聞いてくれ…諦めようとしたんだ…お前の事を、諦めて…前の様に何も考えず無責任に暮らそうと努力した…お前が俺の名前を呼んで泣いた日も、そう言う思いから…お前を拒否した…それがお前の為になると思ったんだ…」
「違う。俺を思い遣っての行動なんかじゃない!ただ怖かったんだ!保身する環境が壊れるのが怖かったんだ!だから、簡単に捨てたんだ!」
「捨ててない!」
「俺は簡単に抱かれて、簡単に捨てられる男なんだ!だから、みんな俺をエロい目で見る。それが良く分かった…」
そう言って、直生と伊織の事を思い出す…
「だから、あの日…まもちゃんが俺を拒否した日…俺は他の男に抱かれてみた…そうすれば忘れられると思ったから…そうした。でも、あれは好きな人とする事だ…好きでも無い人とする事じゃない…」
「誰?」
まもちゃんが俺の目を見る。
射るような鋭い目で俺を見る。
「まもちゃんは俺を捨てたんだ…それ以上聞く権利なんて無い!」
俺はその目を受けて、同じようにして返した。
「もう、終わったんだ。そうだろ?」
俺はそう言って席を立つと、まもちゃんを見下ろして言う。
「まもちゃんは歩の叔父さんだ、それ以上でもそれ以下でもない。そうだろ?」
彼は俺の顔を見ながら大粒の涙を落とす。
「バイオリン…直して…俺の大切な物だから…」
あなたの作った…バイオリン。
俺が欲しがった…
無茶してまで欲しがったバイオリン。
俺はそう言うと、弓を持って反りを確認した。
「反りが直ってる…」
指でなぞって、下から上まで舐める様に見ると、まもちゃんが言った。
「火で温めてあげるんだ…」
美しくまっすぐに伸びた弓に嬉しくなる。
「毛を張っても良い?」
彼に尋ねて、一番良い毛を出してもらう。
俺のバイオリンを直す彼の隣で、俺は弓に毛を張る。
白く美しい毛の束を丁寧に解かして弓に張る。
「良いぞ…綺麗だ…見て?」
俺はそう言って彼に毛の張られたまっすぐの弓を見せる。
「綺麗だ…すごく綺麗だ。そう思わない?」
うっとりして俺が言うと、まもちゃんは笑って頷いた。
松脂をオジジに貸してもらう。
独特な匂いがするこれは、オリジナル商品なの?
伸びが良くて気に入った。
丹精に松脂を毛に塗り込ませる。
「これはきっといい音が鳴りそうだよ?だって、こんなに素晴らしい弓になった。」
松脂を塗り終えて、何もすることが無くなった俺は、駒を直す彼の作業を見る。
「新しいのに変えて。それは劣化してきている。」
俺が言うと、まもちゃんは頷いて答える。
これくらい無口な方が良い。
いつの間にか周りの職人たちは作業を再開して、静かな工房に道具の音が響く。
「もっと可愛い駒ないの?スペシャルなやつ。」
まもちゃんが立てる駒に不満を言う。
「これしかないよ。そして、これが一番良い。」
そう言って俺の方をじろりと見るから、俺は言った。
「これならどこでも売ってるじゃないか…この人はそう言うんじゃないの。スペシャルなんだよ?俺の彼女だからね。そんな既製品、嫌だ!まもちゃんが作って?」
「えー…」
「作ってよ、俺の特別なんだから、作ってよ~。」
ごねて甘える。
まもちゃんの腕に顔を乗せて、上目遣いでお願いする。
「ね~?ここにさぁ、ハートの模様入れてよ~。弾いてる時に見える様に。ね~?」
「ハートの模様が有っても無くても、演奏に影響は無いじゃない。」
「違うよ。情緒の問題だ。感情が有るか無いかの問題だ。」
「んー…、分かった。」
俺はうししと笑って、彼が駒を作る間、大分矯正された俺のバイオリンを眺める。
ネックの指板の歪みもきれいに削られて美しく楕円に光る。
「まもちゃん、この仕事に戻った方が良いよ。腕がいいじゃないか。」
俺の注文した通り、良い弦を張ってくれている。
ペグも新しいものを取り付けられて、残るは駒のみとなる。
「あぁ~!たのしみだな。早く弾きたいな!早く弾いてみたいな!」
まもちゃんの背中に乗って、体を揺する。
「北斗、手元がずれるから…揺すらないで…」
だって、嬉しいんだ。
こんなに近くに腕のいいバイオリン職人が居たなんて…
これは…やりたい放題出来るじゃないか!!
「ねぇ、家にある何台かのバイオリンもまもちゃんが調整してよ。」
「俺はコックだからそんな事はしない。」
「お母さんの御用聞きのバイオリン職人は、すぐリペアしたがるから時間がかかるんだよ。それに、まもちゃんのお父さん位、不愛想で、意地悪で、偏屈なんだ…」
俺はまもちゃんの丸まる背中の上に、仰向けに寝転がって言う。
「どうして、職人はみんな意地悪で偏屈で、頑固で、面相臭いんだろう…」
俺の言葉に、その場にいた職人が笑う。
「そんな事ない。」
「お前がきっと失礼をしたんだ。」
「それはその人がそうなだけで、みんながそう言うわけじゃない。」
様々な言い訳が聞こえるけど、俺の意見は変わらない。
だから、今日ここに来るのに、十分な気合を入れて来たんだ。
負けない様に、気合を入れて来たんだ…
門前払いされるのなんて…分かっていたんだ。
それでも食い下がれる胆力を付けて、挑んだんだ…
「北斗、チェロは弾けるか?」
オジジに言われて俺はまもちゃんの背中から起き上がる。
「弾けるよ。何を弾こう?」
弓を渡されるから、受け取ってそう聞いた。
「お前の好きな物を弾いて聴かせてくれ。」
そう言われて立てられたチェロに向かう。
「では、無伴奏チェロ組曲を…」
そういって、俺は弓を美しく構えて、そっと弦にあてると、息をしながら弓を引いて、音を鳴らす。
チェロの低い音が響いて体に伝わる…気持ちいいな。
これは…コントラバスもありそうだな…そんな事を期待しながら、美しく音を伸ばす。
弾いてしばらくして、不思議な感触に遭遇する。
これは、まるで音がとろみを帯びて伸びていくような…
感覚的な感触。
弾き終えて、弓を弦から外してオジジを見る。
「もったりする…」
俺はそう言って確認するように弦を弾く。
「そう思う?」
オジジが楽しそうに聞いて来るから、頷いて答える。
「嫌じゃないんだ。ただ、弾く曲を選ばないと。曲によってはどっちも台無しになりそうだ…」
そう言って、弦を鳴らして音の感覚の正体を確認する。
「北斗なら…このチェロで何を弾く?」
「そうだな…」
俺はそう言って、弓をまた構えた。
そして弾いた…ハンガリー狂詩曲…
「ふふ…凄いな…」
オジジがそう言って、感心しているみたいに俺の頭を撫でる。
ピッタリだ…しっくりくる…この曲にこのチェロはピッタリだ。
歩の言った“北斗の見立ては良い”という言葉を思い出す。
やっぱり、俺は良い見立てをするんだ。
弾き終えて、弓を弦から離してオジジに得意げに言う。
「どうだ、凄いだろ?」
「すごい。そして、とてつもない努力家だ…」
そうなんだ…
よく分かってくれたね…これは才能なんかじゃない。
「家は、両親が演奏家だから…練習しないと、文字通り殺されかけるんだ。ふふ。だから、半ば強制的にたたき込まれてきた…。」
俺はそう言ってオジジに弓を返した。
「今は、それは糧になってるかね?」
そう聞かれて、オジジの顔を見て笑う。
「そうだね、なんだか最近…やっと、そう思えるようになってきた…」
俺が笑ってそう言うと、オジジは妙に嬉しそうに笑った。
「北斗、出来た~」
「ほ!」
俺はまもちゃんの所に飛んでいく。
彼の差し出すバイオリンを手に取る。
駒に歪なハートが掘られている…
「くっ…」
笑いが込み上げるけど、堪える。
「綺麗だ…駒のハート以外…どれをとっても言葉が見つからないくらい綺麗だ。」
そう言って首にバイオリンを挟む。
まもちゃんが工房の弓を手渡して貸してくれた。
俺のはまだ弾けないからな…
「はぁ~」
ドキドキする!!
息を全て吐いて、彼の目を見ながら弓を引く。
この音色…この弾き心地…最高だ…!
「まもちゃん!最高だ!」
俺はそう言って彼に抱きついて、頬にキスする。
「なんて、凄いんだ!凄い!まもちゃん!結婚しよう!」
俺は興奮してまもちゃんにプロポーズする。
周りの職人は大笑いするけど、まもちゃんだけ悲しそうな顔をする。
そうだよね…まもちゃんは、もうすぐ、さっちゃんと結婚するんだから…
「ポルカを弾きたい!」
そうだ、俺はこの人と一緒に踊りたかったんだ!
そう言って、俺は工房の中でポルカを歌いながら弾き始める。
「ブラボー!」
「北斗!ブラボー!」
周りの職人も腕を休めて俺のポルカに乗ってくれる。
なんて楽しいんだ。
このバイオリンは本当に、弾いていると、楽しい気持ちが沸き起こるんだ。
「ふふふ、面白い子だな~。」
オジジがそう言って笑うから、俺はオジジの前で踊ってあげる。
バイオリンを掻きならして、ポルカを踊ってあげる。
「あはは!凄いよ。オジジ、このバイオリンは本当に楽しい!大好きなんだ~!」
そう言ってオジジに報告するけど、頭の中での呼び方で呼んでしまった事に彼の表情を見てから気が付いた…
「おじじ…?それは俺の事か?」
そう言って固まるから、俺は笑いながら次のポルカを弾く。
足を踏み鳴らしてテンポを取る。
手拍子が聞こえてくるから、もっと楽しくなっていく。
「アコーディオンが欲しい所だ。」
弾き終わって俺が言うと、オジジが笑って言った。
「北斗は面白い!いつでも遊びに来なさい。」
お墨付きで入場許可書を頂いた。
「わ~い!」
俺はそう言ってオジジに抱きつくとお礼を言った。
「オジジ、ありがとう!」
「まもちゃん聴いて?凄い伸びるでしょ?」
俺は嬉しくてまもちゃんの目の前でずっと音を鳴らす。
彼は俺の顔を見ながら微笑んで、音を聴いてくれる。
「北斗、もう、暗いから早く帰りなさい。」
オジジに言われて外を見る。
街灯の無い森の中…真っ暗な外に恐怖する。
「暗い…めっちゃ、怖いじゃん…まもちゃん、今何時?」
「夜の8:00…」
「俺、昼ご飯も、夜ご飯も、食べて無いよ?」
俺がそう言うと、職人が笑う。
「北斗は振り幅が酷いな…ずっと澄ましていれば良いのに…あ、こいつ…馬鹿かもしれないって思ってしまうんだ。」
みんなで笑うから、俺はまもちゃんに言った。
「まもちゃん、帰りに焼き肉食べて帰ろうよ。」
「ん、良いよ。」
「あ、はい。これで支払ってください。」
俺はそう言って、リュックの中の有り金を全て、机の上に出した。
「足りそうですか?もし足りなかったら、ここに請求書を送ってください。」
俺はそう言って東京の自宅の住所と電話番号、フルネームを書いた。
「藤森って苗字なの?」
俺の書く紙を覗き込みながら、まもちゃんが半笑いで聞いて来る。
そんなに珍しい苗字でも無いけど、面白いのか…?
「ん、そうだよ。それで、これが俺の連絡先だよ。」
俺は自分の携帯番号と、メールアドレスを一緒に書いた。
「良いの?俺に、北斗の個人的な連絡先、教えて良いの?」
まもちゃんが半笑いでそう聞くから言った。
「腕のいいバイオリン職人を逃がしたくない。あと、俺は二学期が始まったらコンクールに出るために、海外に行く事が決まっている。だから、暇な時に連絡してあげるよ。」
そう言って書き終えると、彼に渡しながら真顔で聞く。
「幾らくらい足りなかった?」
「大丈夫…工賃は要らないよ。材料費だけなら、丁度くらいだ。」
嘘だね。
でも俺はお言葉に甘える。
図々しいから、お言葉に甘える。
「オジジ、またね~!」
「海外、頑張れよ~!」
何をだよ…
来た時とは打って変わって、別れを惜しむように職人たちが総勢で見送ってくれる。
「気分が良いね~。」
車内で職人たちに手を振りながら、まもちゃんに言う。
「北斗はおやじキラーだからな…」
そう言って俺の頭を優しく撫でた。
知らなかった。
こんなに傍に凄腕のバイオリン職人がいた事を。
俺の膝の上には木製のアンティークなバイオリンケース。
良い艶を出した表面、隅の方に彼の名前が焼き印で押されている。
子供の頃、バイオリンを与えられたけど、結局弾けなくて終わったらしい…
そのケースを貰った。
彼のケースに、彼の作ったバイオリンを入れて、彼と一緒に帰る。
何と言うまもちゃんマニアだろう…最悪だ。
「こんなに全部まもちゃんのだとさ、俺、まもちゃんマニアみたいで嫌だな…」
そう言いながら苦笑いして彼を見る。
「良いじゃないか…」
彼はそう言って、不満そうな顔をする。
別に嫌じゃないけどさ…なんか…恥ずかしいな…
ケースを開けて、中の弓を見る。
「明日には弾けるかな…職人はどう思う?」
俺がそう言って隣の彼を見ると、まもちゃんは嫌そうな顔して言った。
「職人じゃない…」
今更戻れないと思っているのかな…こんなに綺麗に直してくれたのに…
「俺のお母さんの御用聞きの職人よりも、まもちゃんの方が良い。」
俺はそう言って弓の先を撫でる。
「なんて綺麗なんだろう…この弓も作ったの?」
俺が聞くと、彼は頷いて答える。
「もったいない…本当にもったいないよ…辞める必要なかったのに…」
「家の親父が嫌がった…あの家と繋がる事を、嫌がった…」
まもちゃんはそう言って、俺の方をチラッと見る。
「北斗、誰と寝たの?」
またその話か…
「まもちゃん、また直してね…俺のバイオリンはあなたが死ぬまで見て。」
俺はそう言って彼の肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。
これは契約だ…
俺とまもちゃんの…バイオリン奏者と、職人の。
「分かった…」
それが嘘でも良い。
今はそう言ってくれて、嬉しかった。
「じゃあ、約束してね。これは死ぬまで続くんだからね?」
信号で停まった車内で、そう言って小指を立てると、指切りげんまんして、まもちゃんと約束した。
果たせない約束でも、良い。
今そう言ってくれるなら…それで良い。
「あ~、焼き肉は、タン塩が良いよ。タン塩と、トントロ~」
山奥から街に戻ってきた!街灯がこんなに心強いとは思わなかった…
「北斗、爺みたいだな。」
俺にそう言って笑うまもちゃん…
この人は、あんな山奥で育ったから、キャンプが好きなのかな…
懐かしくなるのかな…森の中とか、木の側が。
「本当のオジジに言われたくないよ…」
俺はそう言って、まもちゃんの脇腹を、裸足で蹴った。
まもちゃんは俺の足を掴むと、足の裏をこしょぐって来た!
「あーーー!!はははは!やめてっ!やめてっ!だははは!!」
「どうだぁ!どうだぁ!北斗!どっちが強い~?」
本当に大人げないんだ…
こしょぐったくて、俺が暴れると、頭が車のドアにぶつかって凄い音がした…
「いたーーい!うわぁん!最低だな!」
「どこぶつけた?大丈夫?凄い音がしたけど、大丈夫?見せて?」
すぐそうやって心配して、路肩に車を停めて、俺の頭を撫でて確認する。
そのまま抱きしめて…言うんだ…
「北斗…愛してるよ…」
そうやって…俺の心を乱すんだ…
顔を持ち上げて、うっとりした目で見つめてきて…キスするんだ…
「まもちゃん…」
だから…
もう我慢できなくて、彼の体に抱きついた…
彼は変わらず温かくて…大きくて…大好きだった感覚に、心が歓喜する。
「まもちゃん…大好きだよ…」
そう言って彼の肩に頭をもたれて、心を許した。
また傷つくかもしれないのに…彼に再び、心を許した。
舌を絡めて彼とするキスが最高に気持ちよくて、頭がおかしくなりそうだった…
このままずっと一緒に居たくなるよ…
何も考えないで…目の前のあなたと二人だけの世界に行きたくなる…
それ以外の事が不要に思えて…色褪せるんだ。
毒みたいな関係だ…
溺れて、死んでいくみたいで。
それでも、一番、心地よくて…
「まもちゃん…今日は、焼き肉しないで、もう帰るよ…」
「北斗…家に来ないか?」
行ってしまったら…毒をもっと浴びてしまうよ…
「星ちゃんが待ってるんだ…お腹を壊して…俺のバイオリンを楽しみにしてる…」
俺はそう言って、彼の体から体を離して、顔を見た。
「だから…今日は、もう帰る。」
そう言って、彼の唇にキスする。
そのまま、また舌を這わせて、熱くキスする。
股間が疼いて、体が熱くなる。
このまま抱いてほしい…
膝立ちした助手席のシートからリュックが落ちて、コロンと音がする。
「あ…」
俺は思い出したようにリュックを手に取って、中から水笛を出した。
「これ、あげようと思っていたんだ…かわいいだろ?小鳥の水笛だ。」
そう言って俺を見る彼に渡す。
彼はそれを手のひらで受け取って、微笑みかける。
「本当に可愛いね。ありがとう。」
そう言って、膝に乗せると、ウインカーを出して車を走らせた。
俺は窓の外を見ながら、これで良かったのか…堂々巡りの考えを巡らせる…
もう限界だった…
仕方ないだろ…
甘えたかったんだ…
ずっと、彼に甘えたかったんだから…仕方ないだろ。
別荘の前に着いて、俺は彼にお礼を言って車を降りる。
「今日はありがとう。これで明日からまたバイオリンが弾ける。」
車の外からそう言って微笑んで、車内から手を伸ばす彼に近付く。
「また会えるよね?」
俺の手を掴んで、そう聞いて来る彼に、俺はキスして答える。
「大好きだ…」
そう言って、彼の唇に舌を入れる。
息が漏れるような激しいキスをして、別れる事を悲しむ。
激しい激情に飲み込まれない様に…
手に抱えたバイオリンケースを強くつかむ。
俺から物理的距離を取って、彼の顔を見て、手を振ると別荘に戻る。
背中に彼の視線を感じながら、前を向いて歩く。
そのまま別荘の玄関に手を掛ける。
後ろを振り返ると、彼はまだそこに居て、俺を見ていた。
そっと手を振って玄関を開く。
彼は車の中から手を振って、俺を見ていた…
そのまま玄関に入って、扉を閉めるその時まで、彼に見つめられ続けた…
「おっそかったね!」
博がそう言って、俺にアイスを見せびらかす。
「今日は大変だったんだ…お昼ご飯も食べて無いし…夕ご飯も食べれてない…」
そう言ってソファに突っ伏す…
そのまま、疲れて果てて、俺はバイオリンを抱いたまま…眠ってしまった…
しばらくすると星ちゃんの声が聞こえて、俺の体が持ち上がった。
そのまま揺られて、運ばれる。
あんなに嫌がっていたのに、お風呂に入っていない俺をベッドに寝かせてくれた。
俺が手を伸ばすと、バイオリンのケースを胸の上に置いてくれて、俺はそれを抱きしめて、満足すると、そのまま気持ちよくベッドで眠った。
隣に星ちゃんが寝転がって、俺を温めてくれた…
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