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8月17日(月)_02

彼の車の助手席に乗って尋ねる。 「遠い?」 理久は後ろを見ながらウインカーを上げる。 「いや、すぐそこだよ。」 そう言って車を出した。 窓を開けて、湖から入る風を顔に受ける。 「今日は良い事が沢山あったよ…理久は何してたの?」 夕暮れもかかる湖を見て俺が尋ねると、彼は答えに困る様に押し黙った。 不思議に思って、理久の顔を見ると俺のバイオリンのケースを見ていた… 固まる理久の表情から推し量った。 きっと見てしまったんだろう… まもちゃんの名前が焼き印で押されている所を。 俺はそれに気が付かないふりをして、窓の外を眺め続ける。 「気持ちのいい風だね~」 そう言って、風を理久の方まで行き渡らせる。 理久の髪が舞い上がって彼の目を塞ぐ。 「ふふ、前見えんどんだね…理久、前見えんどんだよ?」 俺は笑って彼の前髪を直してあげる。 彼の表情は、まだ硬いままだった… ねぇ、何を考えてるの…理久。 どうして、そんな顔をするの…。 分からないよ。 「北斗、そろそろ着くよ。」 俺に視線もくれないで、理久はそう言った。 本当に近くだったね… 「ほい~」 俺はそう言って、窓を閉めてバイオリンを抱える。 車がわき道に入って、木々に囲まれた秘密基地の様な空間にたどり着く。 目の前の白くて真新しい建物は、所々に自然な木材が使用されているのか… 洗練された雰囲気の高級感を感じた。 これが…サロン…? 車から降りて、建物を観察すると、湖に面してウッドデッキが大きく広がって、そこにパラソルと寝転がれる高級そうな椅子が並んでいるのが見えた。 よく映画に出てくるプールサイドの高級版だ。 「凄いね…かっこいい建物だね。」 俺がそう言って理久の手を握ると、理久は俺の手を握り返して言う。 「最近建て替えたんだけど、評判が良いみたいだよ。」 ふぅん…サロン、ド、プロ… 「理久も髪の毛、切ってもらうの?」 俺は理久の耳にかかる髪を触って言った。 癖でうねる前髪は少し賢そうにも見えてくる。 「髪の毛切る所じゃないのに…ぷぷ…」 そう言って笑う顔がいつもの彼で、安心してしまう自分がいる。 そのまま彼と一緒に建物の中に入る。 外観と違い内装は落ち着いた雰囲気の作りになっていて、深緑の壁紙と大きな窓がコントラストを作っている。 窓の合間に置かれた花瓶には、豪華な花が飾られて空間を彩る。 「すご…」 圧倒的な高級感に完全に取り残される… だって、俺は黒いジーンズにTシャツ姿だからだ。 「理久、理久、俺…こんな格好で来ちゃった…どうしよう。」 理久の腕を引いて小さい声で言う。 彼は俺を見下ろして微笑んで言った。 「北斗は何を着ていても可愛いし、上品だよ。」 嘘を付くなら、もっと安心出来る、嘘を付いてくれ… 大広間の様な場所に連れて来られると、老若男女、上品な佇まいで、人まで空間にマッチしている。それこそ映画に出て来そうなお洒落なジャケットを着た男性がチラホラと見えて、女性は上品な落ち着いたワンピース姿が多い。 みんな上品に空間を彩る装飾の様で…、場違いな自分が恥ずかしくなってくる。 生演奏する楽団の前を通って、大広間の奥まで行く。 「あぁ…恥ずかしい…」 俺は理久の隣に立たされて、ご紹介預かる… 「奥様、北斗を連れてきました。」 俺の目の前に、あのおばあちゃんが猫足のソファにちょこんと腰かけている。 白い上品なワンピースを着てこちらを見て微笑みかける。 手にはティーカップ… 絵にかいたような貴族っぷり。 マジかよ… 「北斗君、お元気だった?この前はありがとう…今日はね、ここの人たちにもあなたの演奏を聴かせてあげたくて…無理を言ってしまって、ごめんなさいね?」 俺は苦笑いを浮かべながら、おばあちゃんに近付いて、挨拶する。 「おばあちゃん。お元気で何よりです。ぜひ演奏させていただきます。」 俺の顔を見ると、おばあちゃんは嬉しそうに微笑んで俺の手を取った。 「北斗君、心配事が少し無くなったみたいね…ね?大丈夫って言ったでしょう?ふふ」 そう言って俺の手を両手で挟んでポンポンと叩く。 俺はこのおばあちゃん…可愛らしくて、嫌いじゃないよ… 「それでは…」 俺はそう言ってバイオリンケースからバイオリンと弓を取り出す。 大広間にワラワラと人が集まってくる。 ちょっとした、孫のお披露目会みたいだな… おばあちゃんの前にバイオリンを持って立つ。 「何をお聴かせしましょう…」 バイオリンを首に挟みながら、おばあちゃんにそう聞いて、視線をあてる。 「素敵よ。」 そう呟くおばあちゃんは、まるで俺に恋しているみたいに目を輝かせる。 年寄全般にモテるのかな… 「じゃあ、美しきロスマリンを弾いて下さる?」 もちろん、下さりますよ… 俺は弓を美しく構えて、美しきロスマリンを弾いた。 理久がピアノの伴奏をしてくれる。 のびのびと、軽やかに大広間に響き渡る音色に、自分で酔う… どんどん人が集まって来るのが目の端に映る。 俺は宮廷の演奏家になった気分で、この場を彩るためにバイオリンを奏でる。 日常と離れた、異空間… 美しきロスマリンの軽快で洒落た旋律が、この異空間を飾って彩っていく。 あぁ、素敵だ… 曲を弾き終えて、俺は弓を弦から離すとおばあちゃんにお辞儀した。 沢山の拍手を頂いて、深々とお辞儀をする。 「あぁ、やっぱりあなたの弾くバイオリンは素敵ね。以前弾いて頂いた時と、少し、音色が変わった気がするわ。どうして音色が変わったのかしら…不思議ね。」 おばあちゃんは大喜びで拍手すると、俺にそう聞いて来た。 「バイオリンを変えたんです。だから、音色が違って聞こえるんです。良い耳をお持ちです。」 俺はそう言っておばあちゃんを褒めてあげる。 おばあちゃんの傍に座る高校生くらいの男の子が、俺をじっと見つめてくるのが気になる所だが…俺はおばあちゃんに視線を戻して続けて、聞く。 「次は何をお聴かせしましょうか。」 おばあちゃんは、少し考えた後、あっ!と言う顔をして嬉しそうに言う。 「亜麻色の髪の乙女…あれを弾いてちょうだい?」 俺は微笑んで頷くと、ピアノの理久に視線を送った。 あの子はおばあちゃんの孫なのかな…随分、洋風な顔立ちだ… そんな事思いながら、俺は弓を再び美しく構えると、亜麻色の髪の乙女を弾く。 伴奏の理久は本当に合わせるのが上手だ… だから、俺は自分のバイオリンの音色だけ気にして、のびのびと亜麻色の髪の乙女が弾ける… 息が合ってるんだ… なのに、腹の探り合いなんて… そんな事したくないよ。 美しい旋律に…伏し目がちに彼の作った歪んだハートの駒を見て、思いを込める。 まもちゃん…大好きだよ。 彼の瞳を思い出して、感情が高まる。 曲を弾き終わると、弓を弦から離して首からバイオリンを外す。 そして一呼吸すると、おばあちゃんにお辞儀をした。 また、多くの拍手を頂く。 「北斗君…素敵。本当に美しく弾くのね…聴き惚れてしまうわ。」 そう言って、俺に手を伸ばして来るから、俺はおばあちゃんに近付いていく。 彼女の手を握って返すと、嬉しそうに微笑んで言う。 「最後に、何か楽しいものをお願いできるかしら?」 ちょっと悪戯っぽくそう言って、クスクス笑う顔はまさに少女だな。いや、乙女だ。 うちの…去年死んだばあちゃんとは、違う空間を生きて来たんだな… 「では、ポルカなど如何でしょうか?」 俺が弾きたいんだ。だって、さっきまで生演奏していた楽団の中にアコーディオン奏者が居たから…俺はポルカが弾きたかった。 「うふふ、良いわね。あなたのポルカ、聴いて見たいわ。」 心臓が止まっちゃうぞ! そうブラックジョークをかましながら、俺は理久に目配せして、楽団の方に歩いて行く。 「申し訳ない…出来れば一緒に演奏して頂けませんか…?」 かわいく、ぶりっ子して、平身低頭にお願いする。 職人同様…彼らは誇り高き演奏家…尊敬の念を忘れるな。 「何を弾かれますか?」 そう尋ねられて、少し打ち合わせをする。 そのまま楽団を連れて戻ると、驚いた顔をする理久にウインクする。 何となく、可愛いと思ってそうした… 特に意味はない。 そして、首にバイオリンを挟んで、弓を構える。 足でテンポを取って、楽団のバイオリンが一緒に伴奏を弾く。 これは…重厚になるぞ…! 自分で自分に期待する。 前奏を終えて、俺はバイオリンでポルカの主旋律を弾く。 アコーディオンが最高に良いアクセントと曲の雰囲気を作る。 これだよっ!!これっ!! まもちゃんのバイオリンと一緒に、楽しくポルカを踊る様に、俺は体を動かしてバイオリンを弾く。 楽団も楽しくなってきたのか、みんなリズムの乗って体を動かしていく。 俺はその周りをまわりながら、彼らに笑顔を振りまいて、士気を高めていく。 もっと、もっとだ! 年寄は、ポルカのリズムに手拍子をして場を盛り上げる。 そうだ、ポルカはそうじゃなくっちゃ! 体を揺らすだけでも良い。首を振るだけでも良い。何でもいい! とにかく、このテンポに、リズムに、乗っちゃえ! 今回はメドレーでお送りする。 上手くつなげて次のポルカへ行く。 足で調子を取って、バイオリンを首から外して俺はポルカを踊る。 「ブラボー!!」 そうだろ、本場直伝だ。 楽しそうに、惑わす様に、華麗にポルカを踊る。 まるでこのポルカを演奏する一つの楽器の様に、周りから沸き起こる手拍子が曲と一体化する! 最高だ!! 楽しそうに笑いながらメロディーを奏でる楽団と一緒に踊る。 ピアノの理久も楽しそうに笑う。 俺は首にバイオリンをやっと挟んで、弓を構えた。 ここから入ろうと、最初から決めていたんだ。 その方が、俺が目立つからね。 ポルカの主旋律に加わって、バイオリンの音を響かせる。 踊りながらポルカを鮮やかに巧妙に弾く。 「ブラボー!!」 指笛が鳴り響いて、歓声が上がる。 周りで見ている人たちも、体を揺らしてポルカのリズムに乗ってくる。 終盤になるにつれて、重厚さを膨らませて、豪華なポルカにする。 おばあちゃんに笑いながら体を揺らしてポルカを奏でる。 彼女は楽しそうに手拍子をして、俺のポルカを盛り上げる。 なんて楽しいんだ。 こんなに一体化するなんて…素晴らしいじゃないか。 まもちゃんのバイオリンのおかげだ。 この素敵なバイオリンのおかげだ。 曲を弾き終わると、拍手喝さいを浴びて俺は楽団にお辞儀をする。敬意だ。 その後、おばあちゃんにお辞儀して、周りに集まった観客にもお辞儀する。 彼らも奏者だ。 「ありがとうございました…とても楽しかった…!」 息を整えながら俺が言うと、楽団のメンバーも楽しそうに笑って返してくれる。 「また会ったら一緒にやろうね。」 そんな嬉しいお言葉を頂いて、おばあちゃんの元に戻る。 彼女は立ち上がって、俺の事を待っていた。 「あ…」 その様子に、慌てて近づくと、彼女は俺を抱きしめて笑って言った。 「北斗君…最高だったわ…楽しかった!こんなに楽しかったのは、久しぶりよ!」 俺は喜んでもらえて、素直に嬉しかった… 彼女の体から香る、ほのかで上品な香りに鼻の奥がくすぐられる。 「それは、俺も嬉しいよ…」 そう言って、腕の中のおばあちゃんを見つめ返す。 何これ… 抱き合って見つめ合う形になって、俺は慌てて体を離した。 「ふふ…ちょっとドキッとしてしまったわ…」 止めてくれ…俺にだって選ぶ権利はある… おばあちゃんはそう言ってソファに再び腰かけると、俺に言った。 「少し、中を探検してみる?」 このサロンとやらの中を?それは…楽しそうだ。 「良いですね。楽しそうです。」 俺はそう言って笑って答えた。 俺がそう言うと、おばあちゃんは隣の高校生くらいの男の子に言った。 「北斗君を案内してあげて?この子は私の孫なの…名前は重明(しげあき)。今17歳で、将来は宇宙飛行士になりたいのよね~?」 おばあちゃんがそう言うと、彼は恥ずかしそうに顔を赤らめて言う。 「やめて、今言わないで…!」 その様子が楽しそうで、見ている俺も口元が緩む。 金持ちでも、おばあちゃんと孫の関係ってそんなに変わらないんだな… 俺は重明に連れられて大広間を抜ける。 理久に目配せして、ちょっといなくなると伝えると、彼はコクリと笑って頷いて、ピアノの蓋を閉じた。 「宇宙飛行士にはどうやってなるんですか?」 無言で進む彼の背中に聞いて見る。 身長は俺よりも高い…春ちゃんくらいかな… 「…その話は、何となく言っただけで、その、本当になれるかは、まだ、その、分からない…です。」 たどたどしく話す彼に驚いた。 年上なのに、俺に敬語を使ってくる。プラス、俺に緊張しているようだ…! はぁ!俺って緊張される対象だったの!? 「んふふ…」 それが嬉しくて、変な笑い声を出してしまう。 「はっ!何か…あの…おかしかった…ですか?」 そう狼狽えて聞いて来るから、可哀想で言ってあげた。 「俺は、バイオリンは得意だけど…あなたよりも年下の馬鹿な中学生だよ…緊張する必要ないよ…」 そう言って笑うと、彼の端正な顔を覗いて悪戯っぽく聞いた。 「重ちゃんは…お金持ちの高校生なの?」 「はっ!重ちゃん…!?」 顔を赤くして狼狽えて目が泳ぐ彼は、金持ちにしておくにはもったいない位に可愛かった。 「あっちのウッドデッキに出てみたいよ。良い?」 俺は重ちゃんの手を掴んで聞いた。 相変わらず顔の赤い重ちゃんは、俺の掴んだ手を見て、コクリと頷いた。 「嫌だった?ごめんね。」 ずっと手を見てくるから俺はそう言って謝ると、手を離した。 「嫌…じゃない…ただ、あまり触れられることが無いから…驚いた。」 そう言って笑いながら、重ちゃんはウッドデッキへの大きな窓を開けてくれた。 「うわ~!すごい~!」 そこはまるで湖の上に居るようなウッドデッキだった。 「こっち来て~!」 俺はそう言ってウッドデッキの端まで走る。 手すりに掴まって止まると、目を瞑って、湖からの風を受けた。 「んは~!きんもちいいね~!」 そう言って笑って、後ろからくる重ちゃんを見た。 彼はトボトボ俺の後ろを付いて来ると言った。 「高い所が怖いんだよ…」 可愛いな~。俺は高い所、全然怖くない!馬鹿と煙は高い所が好きって言葉を体現してるんだ。って昔、博に言われた。 「大丈夫だよ。落ちないよ?ほらみて?」 俺はそう言って手すりに前のめりになって笑う。 「うわ~!!やめて!やめて!落ちちゃうから!北斗さん、やめて!」 俺は体を戻して、渋い顔で重ちゃんに言った。 「北斗、北斗で良いよ。さん…なんて付けないで。重ちゃんの方がお兄さんじゃないか。さん…なんて言われると、急に年を取った気になる。」 そう言ってムスくれた。 俺がそう言うと、重ちゃんは声を出して笑った。 可愛い顔で笑うんだな… ウッドデッキの端に腰かけて足を手すりの隙間から垂らして宙にぶらぶらさせる。 重ちゃんは少し離れた場所で正座してる。 「重ちゃんもこっち来てみて~?」 「怖いから、やだ…」 来た時は夕暮れだった空は、すっかり青く染まって小さな星が瞬いている。 俺はそのまま体をウッドデッキに寝かせて天を仰いだ。 重ちゃんの鼻の穴と建物の白い壁…そして、青暗い空… 「重ちゃん…こんなに青い宇宙に…どうして行きたいの?」 俺がそう言うと、重ちゃんは俺と一緒に空を見上げた。 この人…なんだか、星ちゃんみたいだ… そのまま何も話さないで、二人で空を見上げた。 「北斗、そろそろお暇するぞ。」 理久に声を掛けられて、体を起こす。 「重ちゃん、ありがとう。楽しかった。また遊ぼ?」 俺は彼にそう言って笑うと、彼も俺に笑い掛けて言った。 「うん。北斗、またね。」 本当に星ちゃんみたい… 大人で…落ち着いていて…優しくて、格好良いんだ。 手を振って彼と別れる。 おばあちゃんにご挨拶して、お暇する。 「重明は人見知りが凄いのに…北斗君とは、もう仲良しになったみたいね。不思議だわ…どんな魔法を使ったのかしら?ウフフ…」 そう言って微笑むおばあちゃんの方が、魔法使いっぽいよ? 俺の退室に大きな拍手が起こる。 凄い人気者だな…俺。 まぁ、可愛いから、気持ちはわかる。 楽団のメンバーにもお辞儀をして帰る。 今日は楽しい一日だった… 反動が来ないか心配になる程に、とても楽しい一日だった… 車の中で理久が俺に報酬を手渡した。 「はい、北斗。今回はこれ程頂いたよ?」 怖くなるくらいの現金… 「え…こんなに…もらえないよ…理久にあげる。」 俺がそう言うと、理久が笑う。 「じゃあ、俺に何か高い物をプレゼントしてよ。北斗がくれたもの、一生大事にするから~!」 キャバ嬢みたいなことを言う。 理久はそう言いながら俺に流し目をしてしなだれかかって来る。 全く、おかしいの! 「嫌だよ。どうせ質屋に流れるんだ~。」 俺はそう言って笑うと、手元の現金を見て固まる… どうやって保管しようか… 「理久?楽団とポルカ楽しかった…理久も楽しかっただろ?」 俺は傍らの彼に聞く。 「また一緒に演奏したいね?理久とも息がピッタリだ。ねぇ、そう思わない?」 理久は、俺が何を言いたいのか理解したみたいに表情が曇る。 「前みたいに旅に行っておいでよ…ここから離れて…」 そうすれば理久の体から要らない毒が消えるような気がして、俺は彼にそう言った。 理久は表情を固めたまま、言った。 「大人の世界はそんなに緩くないんだよ。果たさなきゃいけない時もあるの。」 果たさなきゃいけない事って、俺を虐めるさっちゃんの犬になる事なのかな… 理久の方を見ながらシートに座る。 「理久~。いつからそんなに大人になったの?前の理久の方が好きだよ…」 俺は子供の時に一緒に遊んだ彼の事を…どうしても悪く思えない… 大好きだったんだ… 「理久…昔、レッスンの途中にさ、急にお前がたい焼き食べたいって言って、俺の手を掴んだまま、たい焼き屋に行った時のこと覚えてる?」 そう言って俺が笑うと、理久の口元が少し緩んだ。 「あの時…こいつ、やばい!って子供ながらに思ったの…やばい位、面白いって…。それから、俺はお前のレッスンが楽しみで仕方がなかったよ…今日は何をしてくるのかなって…いつも期待した。」 そう言って、ケラケラ笑う。 理久は遠い目をしながら、優しい声で言った。 「お前の時は特別楽しくした…だって、お前は寂しそうだったから…。いつも一人で。寂しそうにしていたから…」 そうだ…両親は家に居ても、俺を構ってはくれなかった… 楽器と、スピーカー…それと、理久だけが、俺の相手をしてくれたんだ… 「理久…急に居なくなって悲しかったよ…でも、それがお前らしくて、俺は納得したんだ。これが彼だって…。別の先生に代わっても、いつかまた会えるんじゃないかって思ってた。だから、ここに来て、お前に会えて、すごくうれしいんだ。でも…分からない。今のお前を見ていると…分からなくなるんだ……」 そう言って理久に尋ねる。 「どうして…あの家のバイオリン教師をしてるの?」 「北斗。子供が詮索するような事じゃない。」 一蹴されて押し黙る。 それでも、伝えたくて俺は言った。 「理久…俺に酷い事しないで…大好きなお前から酷い仕打ちを受けるのは、思った以上に悲しい…だから…」 「北斗…護さんとはもう会っていないよな?!まさか…まだ、会っているの?」 突き放す様に、厳しい声を出して理久が凄む。 車内の空気が振動して、俺は驚いて体を起こして彼を見る。 「お前が護さんと親しくなると彼女は嫉妬する。嫉妬すると、お前に酷い事をする。その繰り返しだ。されたくなければ会うな。俺は…間に立たされる俺の身にもなれ!」 そう言って理久は俺を苦々しく睨みつける。 その表情が悲しくて、怖くて、俺の目から涙が落ちる。 「何でだよ…何も無いのに…どうしてそんな顔するんだよ…理久。理久…まもちゃんは結婚するじゃないか…俺は東京に戻るじゃないか…どうして嫉妬するのか分からない!勝手な妄想でそんな事するなんて…さっちゃんは病気じゃないのか!」 泣きながら俺も怒ってそう言った。 「護さんと何でもないのなら、今までされた事だって、どうって事無いだろ?違うのか?おかしな関係になっているから傷付くんだろ?違うのか?!」 別荘の前に車を停めて、俺に体を向けて理久が怒鳴る。 今まで、見た事もないような彼の気迫に、怖くて震える。 理久が怖くて…俺は涙が止まらなくなった。 「違う…、違う…!」 そう言って、涙を落としながら理久を睨む。 「違くない!お前が護さんとおかしな関係になっている事がいけないんだ。彼は結婚する。分かるか?諦めろ、と言ったよな?一緒に堕ちるなと言ったよな?何故そうしなかったんだ。あの時、そうしていれば、傷つくことなんて無かった。俺はお前の為にそう言ったはずだぞ?」 そう言って俺の肩を掴んで、強く抱き寄せる。 「痛い…理久!痛い…!」 俺はそう言って両腕で彼の体を押し退ける。 理久は忌々しそうな表情で、俺の顔を両手で掴んで、吐露するみたいに強い口調で言う。 「俺だって辛い!お前が悲しむ所なんて見たくない!だから言ったのに!俺にどうしろと言うんだ!彼女のする事を上手くやり返したって意味なんて無いんだよ、北斗!結局はお前が辛い思いをするだけじゃないか!この前だって、同じ曲を弾いてお前の方が上手いから…だから何だ?彼女は護さんと結婚して、お前はしない。それだけだろ?」 悲しいよ…理久。 もう聞きたくない…!! 「や、やだぁ…!理久…理久…やだよぉ…!」 理久はそう言って逃げる俺の体を抱きしめて言う。 「お前は遊ばれてるんだ。どうせ傷つくんだ。もう会うんじゃない。どうせ彼は彼女と結婚する。それは変わらない。お前の見ていない所で、彼女と楽しく過ごしているんだ。分かるだろ?お前は子供だから、悪い大人の戯言に騙されて、浮かれるんだ!」 俺の知らない所で、まもちゃんがさっちゃんと楽しく過ごしている その言葉が心に刺さる… 「理久…!もういいっ!もういい!」 俺はそう言って理久を引っ叩くと、助手席から転げる様に車を降りる。 俺の方を見る理久は怒った表情のまま、ジッと俺を睨んで怒鳴る… 「もう会うんじゃない!」 その声に体が震えて俺はバイオリンを抱えて逃げるように別荘に戻る。 「酷いよ…酷い…!!」 涙を流しながら逃げる。 正論を言う理久から…逃げる。 彼は正しい…間違っているのは俺だ… 「北斗、どうしたの?」 泣きながら帰ってきた俺を見て、渉が驚く。 俺はそのまま走って二階に向かう。 まるで何かから逃げる様に、足をもつれさせながら走る。 「星ちゃん!北斗がおかしい!」 博が星ちゃんに俺の事をおかしいという… 俺はそのまま寝室に行って、バイオリンを床に置くと、ベッドに突っ伏して泣いた。 分かってる…!分かってる!! まもちゃんがさっちゃんと結婚する事も。 俺と一緒になることは無い事も。 彼が俺の知らない所で…彼女と過ごしている事も… 分かっているけど、見ないふりをしていた。 だって、嬉しかったんだ… 俺だけを愛してるなんて言われて…あんな目で見つめられて… あんな風に求められて…嬉しかったんだ… 堪らなく好きなんだ。 だから… 分かっていても…見ないふりをした。 現実を…見ないふりした… 「北斗!どうした!」 慌てた様子で部屋に入って来る星ちゃんを見て、俺は思い切り泣いた。 「うわぁぁん!星ちゃん…星ちゃん…!俺が間違ってるのかな…いや、俺は間違ってるんだ…でも…でも、どうしたら良いのか分からない…!!星ちゃん…」 怖い。 怖くて、星ちゃんに縋って泣いた。 自分が今している事も、自分が彼を求めることも、全てが恐ろしく思えて、体が震える。子供の自分には余りあるほどの罪悪感と、背徳感にどうしていいのか分からなくなる。 「落ち着いて…北斗、落ち着いて…」 暗い部屋の中…星ちゃんの優しい声と、自分のしゃくり上げる音だけが響いて耳に届いて、鼓膜を揺らす… 「星ちゃん…俺、俺、まもちゃんを…諦められなかった…まだ好きなんだ…大好きで…堪らないんだ…でも、でも…それは間違ってるんだ…!」 両手で顔を覆いながら、肩を揺らして号泣する。 体の内側から止まらない波が襲ってきて、俺の体を揺らすみたいに涙を落とさせる。 「俺がまもちゃんと会うと、さっちゃんが俺に嫉妬するって…理久はその間に挟まれて…苦しんでいるって…!でも、どうしたら良いのか分からないっ!まもちゃんに会いたいんだ…どうしても我慢できないんだ…大好きで、ずっと傍に居たくて…そんな事出来ないって分かってるのに…分かってるのに…うぁああん!!」 ベッドに突っ伏して、体の震えるままに感情が爆発する… 「大丈夫…北斗。大丈夫だから…落ち着いて…」 俺の背中を優しく撫でて、星ちゃんが温めてくれる。 俺は突っ伏したまま放心して、考えることを止める。 次々と襲ってくる自問自答に潰されてしまいそうになる。 「理久に言われたんだ…諦めろって…でも、出来なかった…できなかったぁ…」 そう言うと、止まった涙がまた溢れてきて、溢れる感情を口から漏らしていく。 「俺の知らない所で、まもちゃんはさっちゃんと会って、セックスするんだ…そんな事、当たり前の事なのに、俺は見ない振りした…。彼が婚約者のさっちゃんと結婚するのも…当たり前の事なのに、俺は見ない振りした…。そして、俺がもうすぐ東京に帰る事も…分かっている事なのに…俺は見ない振りしている…!!こんな奴じゃなかった!俺は、こんな奴じゃなかったっ!!変わってしまったのは理久じゃない…俺なんだ!」 あまりに激しい感情に体ごと壊れそうになる…! 星ちゃんは、俺の体が飛んで行かない様に、強く抱きしめてくれる。 こんな馬鹿な俺…どうにかなればいいのに… 「北斗…知ってたよ。大丈夫。知ってたよ…。この前、バイオリンを直しに行っただろ?俺がお腹が痛いって…嘘を吐いて、お前1人だけで行かせたんだ…。何故そうしたかなんて分からない…自分の事なのに、分からない。でも、1人で行かせたかったんだ。」 そう言って星ちゃんが俺の体を大きく撫でる。 「見ないふりして何が悪い…変わる事が何が悪い…お前はお前だろ?俺はお前とずっと一緒に居るけど、お前はお前だ。馬鹿正直で、男気のある、可愛いお前だ。諦めろって言われた?だから何だ!諦めたくなかったら諦めるな!お前の人生だ。理久は関係ない!」 星ちゃんは優しく、力強く俺に声を掛ける。 俺の丸まった体を起こして、顔を持ち上げると、俺のグジャグジャになった目を見て言う。 「まもちゃんさんはお前の事が大好きだ…はたから見て、それはすぐに分かる。だから、さっちゃんさんは嫉妬してる。こんな俺だって気付くくらい…まもちゃんさんは北斗の事が好きだ…いつもお前を探して、いつもお前の傍に居たがって、いつもお前に触れたがってる…お前がそれに気が付かない事が不思議でしょうがないよ…。」 星ちゃんはそう言うと、俺の頬を両手で持って真剣な顔をして言う。 「北斗、よく聞け!どうせ離れるなら、一緒に居ろ。この前、俺に話しただろ?変態ロココの恋人の話…お前は言った…どうせ亡くなる事が決まっているのなら、最期の時まで傍に居るって…俺に言ったよね?離れて過ごすことを、指をくわえて見ている事なんて出来ないって…。それと同じ事をお前に言おう。東京に戻るその時まで、お前は彼と一緒に居ろ。片時も離れないで一緒に居ろ!たとえ良い事じゃなくても、俺はお前に強要する!」 星ちゃん… 俺は星ちゃんの真剣な目を見て、彼の恐ろしい言葉に鳥肌を立てる。 「ダメだよ…俺がまもちゃんと居たら…さっちゃんがまた嫉妬して…俺に酷い事をする…上手くやり返したって…彼女がまもちゃんと結婚するのは変わらないんだ…そんな意味のない事…するのに疲れた…」 俺がそう言って星ちゃんの手を握ると、彼は俺の手を強く握り返して、大きい声で言った。 「嫉妬されたくらいで狼狽えるな!俺の北斗はもっと強い!倍返しにしてやり返してやれ!!その後の結果に、意味なんて要らない!気に入らないからやり返せ!叩き潰せ!それくらい俺の北斗は、気高いんだ…!俺は、そういう北斗が、痺れるくらい、大好きなんだ!」 そう言って俺をじっと前から見据えると、声を低くして、ドスのきいた声で言う。 「分かったな!北斗!!」 俺はビビッて、目を丸くして頷いた。 こんな星ちゃん、初めて見たから、ビビッて頷いた。 俺の様子を見て、星ちゃんは笑うと優しく抱きしめてくれた… これが…春ちゃんの目撃した…星ちゃんの怖い面なんだ… 俺は好きだよ。 でも、正直ビビった… 星ちゃんは、まだ震える俺の体を優しく抱いて撫でてくれた… 俺は彼の体にしがみ付いて、感情の波が去るのを待ってる。 感情の波? 違う… まともな判断を下せるチャンスが通り過ぎるのを、待ってるんだ。 誤った道を行く為に… これから結婚する大人の男に、執着して、泥沼にはまる為に… まともな判断を下す思考が鈍るのを待ってる。 「もう…大丈夫だろ?」 そう言って星ちゃんが俺を解放する様に体を離して見下ろした。 俺は頷いて彼の顔を見上げる。 見つめ合って、俺を愛おしそうに見る星ちゃんの目を見つめる。 彼は俺の頭を撫でると、ベッドの上から立ち上がって部屋から出て行った… 俺は震えの止まった手のひらをぼんやりと眺める。 目の端に彼のバイオリンケースが見えて、自然と口元が緩む。 寝室から出ると、俺達の話を聞いていたのか…ボロボロと泣きながら歩が俺の傍に来て、俺を強く抱きしめた。 「北斗…僕も星ちゃんと同じ意見だよ。初めから叔父さんは北斗の事しか見えていないくらい、お前の事が大好きなんだよ…帰るまで、一緒に居てあげて。」 歩は俺の背中を撫でると、おでこにそっとキスをくれた。 「北斗の傍には僕たちが居るから、堂々と間違った道を行け。待ってるから、行き止まりになったら引き返しておいで。」 良い事じゃなくても強要されたり、間違った道を堂々と行けと言われたり… 俺の友達はぶっ飛んでいる… そのまま荷造りされて、俺は別荘を追い出される。 「星ちゃん…待って、だって、俺の話も聞いて?」 彼に背中を押されて、別荘の外に放られる。 「明日、お昼ご飯でも食べに行くよ!」 星ちゃんはそう言って笑うと、俺の目の前で、別荘の玄関をしめた。 「うっ…うう…星ちゃん…追い出さないで…星ちゃん…うっうっ…」 しばらく玄関で泣いても、誰も助けてくれなかった… 分かってる。 俺を無理やりにでも行かせたいんだ… すぐ、星ちゃんに甘えるから… 追い出したんだ。 俺は自分の荷物と、バイオリンを持つと、別荘に背を向けて歩き始めた。 遊歩道を湖を眺めながら歩いて向かう。 荷物が重くて体がふらつく… 黒い湖がチャプチャプと嫌な音を立てるのが聞こえる。 道路の向こうに明るいお店が見えてきた… 嫌がられないかな… 胸が、鼓動が、鼓膜を揺らす。 明るく光る彼の店の前、道路を挟んだ暗い遊歩道で、立ち尽くして動けなくなる… 自問自答して…落ち込んで…引き返そうと踵を返す。 でも…と、また踵を返す… 彼の店からお客さんの笑い声が漏れて聞こえる。 窓に目をやると、彼の働いている姿が見えて……自然と体が動いた。 道路を渡って、お店のドアを開いて中に入る。 「いらっしゃいませ~。あっ!どうした?!」 夜のお店にはアルバイトのお姉さんがいる。 その人に驚かれる。 だって、俺は目は真っ赤だし、両手に荷物を持っている。 その上、星ちゃんが包んでくれたタオルセットが、風呂敷にくるまれて体に巻き付けられている。 まるで、昔の家出少年だ。 「あっ!北斗!」 しかもお客に重ちゃんが来ていた様で、俺の目の前に来ると、散々な俺の様子に少し笑みがこぼれてる。 「ん、もう!笑わないでっ!」 俺が怒ってそう言うと、重ちゃんは笑って、ごめん。と謝った。 「北斗!」 俺の声に気付いたまもちゃんが、奥から慌てて近付いて来る。 俺の目の前に来て、俺をお客から隠す様に背中で隠して見下ろす。 そして、そっと手を俺の頬にあてて優しく微笑んで言う。 「どうした…」 「追い出された…追い出されたぁ!」 そう言って荷物を床に落とす。 もちろん、バイオリンケースは静かに置いた。 まもちゃんはバイトのお姉さんにお店を任せると、俺を二階に連れて行く。 心なしか楽しそうに笑って、俺を二階に連れて行く。 「なぁんでまた、追い出されちゃったの?」 まもちゃんがそう言って玄関の鍵を開けて、ドアを開く。 電気を付けて、俺を中に招くと、運んできた俺の荷物を床に下ろした。 振り返って、俺の表情を見る様に、優しくこちらを覗いて来る… 堪らなくなって、彼を両手で抱きしめて、飾らない言葉で気持ちのまま言った。 「31日に東京に戻る。それまで一緒に居る。片時も離れない…!」 俺がそう言って泣くと、まもちゃんは俺の背中を強く抱きしめて言った。 「一緒に居て…俺の傍から離れないで…!!」 まもちゃんの声が震えている。 それが堪らなく…嬉しかった。 しばらくそうして抱き合うと、俺はスピーカーの方に向かった。 そして、呆然とする彼に手を振ると、自分の携帯とつないで音楽を流した。 まもちゃんは呆れた顔をすると言った。 「下の子。知り合いなの?あの子は確か、財閥の大奥様の所のお孫さんだよね?」 「今日会った。」 俺はそう言って交響曲を聴き始める。 「会いにいかなくて良いの?」 俺はそう言われて、渋々、停止ボタンを押すと、靴を履いた。 お店に戻ると、重ちゃんは俺を待っていたみたいに喜んで、俺の手を引いて連れて行く。 「北斗、家の両親だよ。」 重ちゃんは俺にご両親を紹介して、満面の笑顔を浮かべる。 お父さんは重ちゃんに似て端正なイケメンだった。 お母さんは外国の血が混じっているのか、日本人離れした堀の深さの美人さんだった。 二人とも俺を見て、嬉しそうに笑いかけてくれる、優しそうな人たちだ。 「は、初めまして…北斗です。今日、重ちゃんと友達になりました…。重ちゃんが宇宙飛行士になって宇宙に行く時まで応援します!」 俺は緊張してしまい、何だか分からない事をハキハキと言った。 重ちゃんは顔を赤くして、俺の肩を叩いて怒る。 「宇宙飛行士の事は言わなくて良いの!それはおばあちゃんにだけ言った事なの!」 「そうなの?ごめ~ん。」 俺がそう言うと、重ちゃんの御両親は声を出して笑った。 「重明がこんなに仲良くなれる友達、もしかしたら…初めてかもしれないわ…。」 お母さんがそう言って俺を見て驚いた顔をする。 そうなの? 確かに重ちゃんは恥ずかしがりだけど… 「重明、良いお友達が出来たね。宇宙飛行士…頑張れよ?」 そう言ってお父さんも嬉しそうに笑った。 重ちゃんだけ、俺の事を恨めしそうに見ているから、良い事を教えてあげた。 「ここのオムライスは美味しいんだよ。半熟なんだ。」 「知ってるよ。昨日食べたから。」 なんだ、重ちゃんは常連さんなのか… 俺は重ちゃんと一緒にお父さんたちとは別のテーブルに座って、重ちゃんの頼んだハッシュドビーフを一緒に食べた。 「一杯のハッシュドビーフ…」 星ちゃんの真似をして言うと、重ちゃんはクスクス笑って言った。 「つまんない事言うな~。」 だろ?俺もそう思ってたんだよ? 「重ちゃんは、いつまでここに居る予定なの?」 俺はスプーンを咥える彼に聞いた。 「23日の…知り合いの結婚報告会?それを見たら帰るよ。」 あぁ…そうなんだ。 「重ちゃん、俺それに行くよ。バイオリンを弾いてると思うよ?」 俺はそう言って、俺を見つめる重ちゃんに言った。 「俺を見かけたら声を掛けて?四面楚歌なんだ。」 コトン まもちゃんがフィッシュアンドチップスをテーブルに置く。 「あ、頼んで…ないです…」 重ちゃんがたどたどしくそう言うと、まもちゃんは、お守りのサービスだと言った。 お守り?俺が重ちゃんをお守りしてるんだ。 彼の両親のテーブルにはつまらない事しか話さない金持ちばかりいる。 平均年齢はざっと45才だろう…。 彼はまだ17歳。話なんて合う訳もないし…つまらないだろ? だから、俺が彼をこうして連れ出してあげたんだ! 「鱒はこうやって食べるのが一番良いよ。」 俺はそう言って、ビネガーをドバドバかける。 「北斗、絶対かけすぎだよ。」 重ちゃんは声を出して笑うと、俺のビネガーを持つ手を止めた。 「なぁんで?これくらいかけないと味しないって。本当だよ?」 俺がそう言うと、重ちゃんは笑いながら一つ摘まんで食べた。 「ほんとだ。ちょうどいい位だね。」 そうなんだよ。 俺は具合を知ってる男だ…経験者だからな! 「俺の友達がさ、馬鹿みたいに釣りが好きで、この前作ったんだよ。フィッシュ&チップス。それは美味しかったんだけどさ…もう、釣れたら何でも良いんだよ…。こだわりが無いんだ。連れたら釣れた分だけ持って帰ってくるからさ…生臭いんだ。」 俺がそうやって星ちゃんの話をすると、重ちゃんは関心を持った様で、身を乗り出して聞いて来る。 「釣りって、楽しいのかな?一度は、やってみたいんだよね。」 ふぅん…じゃあ星ちゃんと行けばいい。俺は行かない。 俺は頬杖を付きながらポテトを手に取って、重ちゃんに言った。 「じゃあ俺の友達と行ってみたら?重ちゃんにどことなく雰囲気が似てるから、相性はいいと思うよ。」 俺はそう言ってポテトを口に入れて食べた。 美味しいな、まもちゃんは、お料理が上手なんだ。 「北斗は行かないの?」 重ちゃんが悲しそうに聞いて来るから教えてあげた。 「俺は泳げないから、湖の上に行けないの。」 それを聞いて重ちゃんが手を叩いて大笑いする。 酷いだろ? 「重ちゃんが高い所が苦手な様に、俺は水が苦手なんだよ?それを笑ったらダメだ。」 俺はそう言って、フライを手に取って口に入れる。 「北斗…北斗にも苦手な物があるんだね?無敵だと思っていたよ。いつも自信に満ちているから…」 自信に満ちてる!? 俺は吹き出して笑って、重ちゃんの肩をどついた。 「んふふ!そんな風に見えるんだね。俺はね、演奏する時は澄ましてやれって、教育を受けてるんだ。そうすると、多少の難も誤魔化せるって…んふふ、そういうズルい方法を取ってるだけなんだよ?ふふ…!」 俺がそう言って笑うと、重ちゃんは驚いて言った。 「とても綺麗だった。北斗の澄まし顔は…とても美しかったよ…。誤魔化す必要なんて無い位に、北斗は完璧で、美しくて…素敵だった。」 重ちゃんはそう言うと、俺の髪を指先で分けて言った。 「ぶふっ!でも…水が…苦手なんだよね?ぶふふ!」 「なぁんで?何で、そんなに笑うの?」 俺の苦手な物が水だって言う事が、重ちゃんはドツボにハマったようだ。 だから笑いを止めるために俺は席を立った。 「怒ったの?」 重ちゃんが心配そうにそう言うから、にっこり笑って彼の手を繋いで一緒に席から立ち上がらせた。 「重ちゃんの為に、俺がピアノを弾いてあげる~。」 さっきから横に佇むピアノが俺に弾けというんだ。 仕方ないよね。 俺は重ちゃんを隣に座らせて、ピアノの椅子に腰かけた。 「何弾いてほしい~?」 隣の重ちゃんの顔を覗き込んで聞く。 「ふふ、バイオリンは出来てもピアノは出来ないだろ?きらきら星でも弾いてよ。」 ほっほ~!そんな事言っちゃうの? 俺はそう言った重ちゃんを驚かせてやろうと、つたない運指できらきら星を弾いた。 「ふん、ふん、上手だよ?」 そう言ってくるから俺はそのままきらきら星変奏曲につなげて弾いた。 「あはは!俺はピアノもうまいんだよ~ん!」 そう言いながら重ちゃんを煽る。 でも、彼は笑わないで、俺の指をうっとりと見つめていた。 重ちゃんは、おばあちゃんと同じ。 音楽を聴くのが好きなんだ…。 だから、俺は美しく弾いてあげる。 だってこれは重ちゃんへのプレゼント演奏だからね。 弾き終わると重ちゃんは俺を見てうっとりして言った。 「北斗は、音楽は…すごく美しいね。ずっと聴いていたいよ。」 明言はしないけど、誰かさん達と同じことを言う… 俺は笑って、テーブルに戻ると残りの食べ物を平らげた。 重ちゃんが人見知りなんて…俺には全然そんな風に見えなかった。 だって、よく話して、よく笑うから。 「数学がこれくらいできないと、宇宙飛行士にはなれないんだよ?」 「はぁ…よく分からない。数3?何それ…」 学歴がベースに必要な職業なんだ… 重ちゃんはそう言って沢山の事を聞かせてくれる。 ご両親が驚くほどに、俺に心を許して、何でもかんでも話しては笑ってる。 おばあちゃんが言っていた…どんな魔法を使ったの?という言葉を思い出す。 特に、そんな物は持ち合わせていない。 ただ、単純に気が合ったんだと思う。 お金持ちの家の子供…というのも、子供にとっては過酷な環境なのかもしれない… だって、親の同伴で連れて来られたって、こんなつまらない大人の会話をずっと聞いていないといけないんだよ? 好きな場所にも行けないし、好きな事も言えない。 気兼ねなく話せる同年代の子供が居るだけで、それだけで、きっと楽しいんだ。 「もっと弾いてくれないの?」 他のお客さんが俺の席に来て催促するから、あれは特別演奏だよって教えた。 友達の印だ。 重ちゃん達がお店を後にして、俺は彼らを見送ると、そのまま二階のまもちゃんの部屋に戻った。 慣れない動線に心細さを感じる。 みんな…今頃、何してるのかな… 星ちゃん… やることが無くて、スピーカーの前に寝転がって、音楽を聴きながらバイオリンの手入れをしていると、まもちゃんが部屋にやって来た。 「北斗、お店終わった。」 「ん~」 俺は今忙しいんだ。 俺の目の前にしゃがんで座って、弓の反り具合を確認するまもちゃんに聞いた。 「ねぇ?これくらい短い弓って作れるのかな?」 指でサイズを作ってまもちゃんに見せると、彼は笑って言った。 「赤ちゃんの弓?」 「ん~、こうやってバイオリンを弾きたいんだ。」 そう言ってバイオリンを腹に抱えて見せた。 「ん?何で?」 そうだよね、そう思うよね… 「ホスピスに居る友達が、首に腫瘍があるんだ…で、首に挟んで弾けないから、こうやって弾いてみたら、意外と弾けるんだよ。だけど、もっと弓が短い方が弾きやすいんだよ。だから出来るのかなぁ~って思って…」 俺がそう言うと、まもちゃんは四つん這いになって、俺の方に顔を寄せて来た。 だから、俺はそのまま彼に顔を寄せてキスした。 彼の舌が入ってきて、俺の舌を絡める。 俺の頭を抱える様に抱きしめて、そのまま背中を抱き寄せると、まもちゃんは俺のバイオリンを少し蹴飛ばして俺を抱きしめた。 「蹴らないで…!」 「ごめん」 全く、自分の車幅が分かってないんだ。 「ホスピスって、どこが悪いの?」 俺の髪を撫でながらまもちゃんが俺に聞いて来る。 「分からない…でも、首に大きな腫瘍があった…バイオリンを挟んだら、痛がってた。」 俺はそう言ってまもちゃんを見上げる。 「もうすぐ死んじゃうんだって…信じられないよ…」 彼は俺を見下ろしてキスする。 俺は彼の背中に腕を回して、そのキスをじっと受ける。 そのまま、また彼の胸に顔を埋めて言った。 「割りばしで作ってみようかな…」 「マジで?」 まもちゃんはそう言って驚くと、笑い始めた。 だから俺は言ってやった。 「目的は素材じゃない。自分の思い通りに弾く事だ。だったら何でも良いじゃないか。弾ければいいんだ。こうやって、割りばしをいくつか重ねて、圧着させるだろ?それで、こっちに毛を挟むところを作って~こっちに挟んで張らせる。」 見えない割りばしでまもちゃんに説明すると、彼が言った。 「毛を使うなら、ちゃんと作らないとダメじゃないか…」 俺はまもちゃんの顔を見て言った。 「ここの部分だけ。手伝って?」 「良いよ。北斗がいっぱい、甘えてくれるなら良いよ~?」 そう言ってまもちゃんは俺に抱きついて、俺の胸にハフハフする。 良かった!プロが居るから安心だね。 次に会いに行く時には持っていきたいから、木を圧着させておかないと… まもちゃんは俺をハフハフしたまま、口を器用に使って俺のTシャツを捲り上げた。 「んふ!何それ!どうやってやったの!」 おかしくて彼に聞いてもハフハフに夢中で答えない。 器用だな… そのうち彼は俺のシャツの中に顔を入れて、体を舐めてくる。 「アハハ!待って!待って!アハハ!!」 こしょぐったくて暴れたら、そのまま後ろに倒れて頭をぶつけた。 「いた~い!もうっ!」 俺は怒ってTシャツからまもちゃんを追い出すと、彼の頭を引っ叩いた。 俺の頭を撫でて、まもちゃんが反省する。 「もうお風呂に入って寝よう…」 俺は荷物の風呂敷の中から丁寧に畳まれたタオルと下着を取り出す。 星ちゃんが、入れてくれたんだ… 視線を移すと、まもちゃんが上半身を脱いで、俺に向かって甘えてくる。 「北斗~まもちゃんと一緒に入ろ~!一緒に入ろ~!」 この人…こんなに甘々なんだ… ちょっと驚いたけど、甘いのは嫌いじゃないよ。 「ん~やだ~。だって、まもちゃんの家のお風呂は狭いんだもん~。だからやだ~!」 そう言って、俺は上半身が裸の、甘い男の目の前を素通りした。 まもちゃんはしつこく付いてきて、結局一緒に入ることになった。

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