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8月18日(火)_01
8月18日(火)
「北斗、走ってくるね…どこにも行かないでね…」
俺の体に誰かが覆いかぶさって来て、髪を優しく撫でられる。
気持ちいい…あったかい。
「うっへへ…」
嬉しくて変な声を出すと、誰かがグフッ!と変な笑い声を出した。
良い匂いのお布団…誰かの匂いに似てる…
俺はこの匂いが好きだよ
だって、似てるんだ。
大好きなあの人の匂いに…
まもちゃん
ガバッと布団から起き上がる。
目の前にいつもと違う光景が広がっている。
一番最初に目に入るのは、大きなスピーカー…
窓から明るい光が入って室内を照らす。
奥の方にレコードが積んである。
あ、そっか
「まもちゃんの家だ…そうか…俺、まもちゃんの家の子になったんだ…」
そう言って、ベッドに仰向けに倒れる。
「んふふ、まもちゃんと一緒だ…嬉しい!」
口に手を当てて、小さく笑って言う。
時計を見ると4:30…
早起き過ぎる…
この時間…俺がたまに外でバイオリンを弾いていた時間だ…
そうか…彼は走りに行ったんだ…
状況を理解して、ベッドの上で微睡む。
彼の寝ていた所を手で撫でて、込み上げる喜びを感じながらシーツにスリスリする。
「まもちゃん…まもちゃん…」
ウトウトしてくる瞼をそのまま降ろして、彼の寝ていた場所でうつ伏せになって、再び眠る。
こうしてると…まるで彼に抱きついているみたいなんだ…
カンカンと階段を上る音がして、玄関の扉が開く。
眠る俺の傍に来て、俺を見降ろして、俺の髪をそっと撫でる。
堪らない…なんだ、この幸せ…
そのまま俺の頬にキスすると、シャワーを浴びに浴室に行った。
「まもちゃんが帰ってきた…」
俺はそう呟いて、目を少し開けると、彼の置いたであろうタオルをぼんやりと眺める。
体を起こして、ベッドの上でお腹をポリポリと掻いて微睡む。
聴こえていたシャワーの音が消えて、ガタンと浴室のドアの開く音がする。
そちらに目を向けて、まもちゃんが見えるのを待つ。
パンツを履いたのか…お尻が見えて笑う。
俺の笑い声が聞こえたのか、まもちゃんが顔を覗かせて俺を見る。
その顔がとても色っぽくて、ドキッとした。
「ん~、北斗…起きたの?」
そう甘い声で言って俺に近付いて来る、びしょ濡れのイケメン…
上半身がまだ濡れていて、彼の胸板に水が滴る。
濡れた髪をそのままにベッドに両手を着いて乗ると、俺に顔を近づけてキスをする。
彼の髪から滴った水が、俺の頬に落ちて伝って流れていく。
「北斗…まだぼんやりしているの?可愛いね…大好きだよ…」
そう言って俺を抱きしめて何度もキスをする。
「北斗…可愛い…」
そう言うまもちゃんの胸に頬を付けて、彼の湿った肌をペロリと舐める。
「まもちゃん…ビチョヌレだ…」
彼の首に巻いてあるタオルで、向かい合って髪を拭いてあげる。
「北斗…おいで…髪なんて良いから、キスさせてよ…」
そう言うまもちゃんを無視して、さっきから滴り落ちてくる忌々しい水をタオルで拭く。
俺の手によって、ボサボサ頭に乾かされた、まもちゃんを見てクスリと笑う。
「可愛いね。小学生みたいに見えるよ?」
俺がそう言って笑うと、彼は顔を赤くして俺にキスする。
下から舐める様にキスしたその唇は、そのまま俺の口の中に舌を入れて、絡まりついてくる。
吐息が漏れて、彼の腕が俺の腰を引き寄せる様に伸びてくる。
そのままベッドに仰向けに倒れて、覆い被さる様にして彼が俺を見下ろす。
「まもちゃん…かっこいいね…何歳なの?」
彼の頬に手を添えて、うっとりしながら年齢を尋ねる。
「実は…14歳…」
真剣な顔でそう言うから、俺は言ってあげた。
「わぁ…同い年だったんだ…」
そのまま14歳のまもちゃんは俺にキスをする。
それが凄く熱くて、体に電気が走ったみたいに痺れてくる。
唇を外して、うっとり彼の目を見つめる。
茶色の瞳の奥に黒い点があって、その周りを虹彩が綺麗な模様を描いている。
彼の息がかかって、俺の前髪が揺れる。
お互いの瞳を見つめる様に、そうして見つめ合う。
「まもちゃん…何見てるの?」
彼の髪を指で解かしながら俺が尋ねると、彼は言った。
「北斗の…まつ毛を数えている…」
凄い…凄いんだ…
「今、何本目?」
数えやすい様に目を瞑って尋ねると、彼は俺にまたキスをした。
まるで、圧縮した愛情みたいに濃くて甘い時間を過ごす。
終わりがあるから、そうなれるのかな…
こんなに愛されて怖くなる。
別れる時の事が怖くなる。
「まもちゃん。今日は俺は働くよ?」
そう言いながらバイオリンのケースを開ける。
「北斗がお店に入ったら、後藤さんがおかしくなるね…」
そう言って俺の腰を抱き寄せて、髪にキスする。
俺はバイオリンと弓を持って、彼の部屋を出る。
階段を降りて、店の前に行って姿勢を正して立つと、バイオリンを首に挟んで、美しく弓を構えた。
背後の彼に聞く。
「何が聴きたい?」
「ハンガリー舞曲が聴きたい…この前聴いた時、震えた…」
そうなんだ…嬉しい事言ってくれる。
俺は彼のリクエストの応えて、ハンガリー舞曲を弾く。
自分の好きな様に緩急をつけて、自由に弾く。
自分でこの曲をコントロールして、表現して、高揚する。
俺のハンガリー舞曲…ウィズまもちゃんのバイオリン…
やっぱり、この手ごたえが…堪らなく好きだ…!
曲を弾き終えて、弓をゆっくりと外して戻す。
クルッと振り返って、まもちゃんにお辞儀すると、彼は微笑んで拍手をくれる。
「昨日、重ちゃんと初めて会った時、サロン、ド、プロに行ったんだ…そこで、財閥のおばあちゃんに何曲か弾いた…それでもらった報酬は幾らだったと思う?」
店の前の花壇に腰かけて、俺を仰いで見るまもちゃんに、伏し目がちに聞く。
「相場が分からないよ…」
彼はそう言って笑う。
俺も相場なんて分からない…
「40万円だ…」
そう言って彼を見る。
「凄い…高額だね…」
まもちゃんは驚いた顔でそう言って、感心してる…
「感心する事じゃないよ?そんな高額、子供に渡すもんじゃない!」
俺はそう言って、続けて言った。
「何か…おかしいんだよね。価値観が…価値基準がさ。理久が言ってた…自分の演奏を価値がないなんて思うなって…でも、価値はお金の値段なのかな…。ここにいると、そう言う事が分からなくなりそうで…なんか、怖いと思わない?」
まもちゃんの隣に座って、彼の体に寄り掛かって呟く。
「俺は怖いよ…」
弓の先でまもちゃんの手を撫でる。
「北斗は…良い子だね。」
まもちゃんはそう言って、指の甲で俺の弓を撫でる。
「うん…俺は良い子だ…」
そう言って笑うと、また立ち上がってバイオリンを首に挟む。
そして弓を構えて、彼の方を向きながら視線を落として、バイオリンを弾く。
シシリエンヌ…
綺麗な旋律に体ごと中に浮きそうになる。
このバイオリンで弾いても…この曲は悲しげで儚かった…
時々、彼の目を見て、時々、あの歪なハートを見る。
口元が緩んで、目を閉じて曲に没頭する。
美しい旋律を紡いで、ネッシーの為じゃない朝のバイオリンを弾いて彼に聴かせる。
それは細くて、長くて、変幻自在に幅を変えて流れていく。
直生や伊織の演奏の様に…
自分の演奏に深みが増した事に気が付いて、嬉しくて笑った。
曲を弾き終えて、弓を離す。
彼にお辞儀してパチパチと拍手をもらう。
「ねぇ。どうして、この前泣いたの?」
彼の前に立って尋ねる。
この曲を弾いた時…まもちゃんが泣いたから…ずっと気になっていた。
彼は俺の腰に手を回して引き寄せると、俺のお腹に顔を埋めて言った。
「北斗がとても悲しそうで…可哀そうだった。」
そうか…そうなんだ…
俺は嬉しくなって彼の柔らかい髪を手の平でそっと撫でた。
「まもちゃんは…俺の事が大好きなんだ…」
そう言って、彼に柔らかいキスをすると、うっとりした顔で微笑んでくれる。
その笑顔が…とっても、可愛いんだ。
「まもちゃん?俺は、みんなの所に行って、バイオリンの練習してくるね!ん…2時間くらいで戻るからね~。」
そう言って、彼から離れると、くるりと道路の方を向いた。
「ここで練習すれば良いのに…」
そう言って花壇から腰を上げるまもちゃんに手を振って、みんなの元に向かう。
同じ事を何度も繰り返す反復練習を、店の前でやるのは気が引けるよ。
「あ~!星ちゃ~ん!」
歩の別荘の前、釣りに出かける星ちゃんを見つけて、大きく声を掛ける。
釣りバカは今日も釣りバカなんだ!
俺を見つけると、星ちゃんは驚いた顔をした後、笑顔になって言った。
「北斗~、何しに来たの?」
酷いな!
俺はバイオリンを振って星ちゃんに言った。
「練習しに来た~!」
「うわ~~~!!」
渉が嫌がって叫ぶ。
そうだろうね…俺の練習が嫌いなの、知ってるよ。
「向こうの暮らしはどう?」
外に置いてあるテーブルに腰かけて、歩が俺に聞いて来る。
「…楽しいけど、みんなが居なくて寂しい。」
正直、そうだ。
星ちゃんに甘えられないのは、寂しい…
俺はそう言って星ちゃんに寄り添う。
「星ちゃんはまた釣りに行くんだ…。これ以上鱒を取ったら、ネッシーに祟られるよ?」
俺の言葉に星ちゃんは笑うと、グッと手を握って言った。
「今日は、鱒じゃなくて、ナマズを釣ろうと思ってる!」
なんで、何で、そう思ったの?
俺は驚いて星ちゃんを見上げる。
俺を見下ろして、彼は自信満々な顔をする…
か、か、可愛いんだ!
「そうだ、昨日お友達になった高校生の重ちゃんが、釣りに興味があるんだって…星ちゃん、今度、連れて行ってあげて?」
俺がそう言うと、星ちゃんは嬉しそうに笑って言った。
「もちろん、良いよ!」
星ちゃんはこういう時、絶対嫌な顔しない。
いつも、いいよ!って引き受けてくれる。
そんな彼がホントに、かっこいいんだ!
「じゃあ、行ってくるね!」
星ちゃん達はそう言って、ナマズを釣りに出掛けた…
ちょうど向こうから直生と伊織が歩いてこちらへ来る。
すれ違うタイミングで、会釈し合っている姿がシュールでわらけて来る。
伊織が笑いながら走って来て、俺を軽々と抱っこした。
「んふふ!おはよう。」
俺はそう言ってくるくる回されながら、伊織の頭を抱きしめる。
彼の髪のフワフワは、まもちゃんと違って人工だ。
でも、柔らかくてフワフワしていて、俺は好きだよ。
「実は、俺はここを追い出されて、今、違う所に住んでいるんだ。」
俺がそう言うと、直生は驚いた顔をして歩を見た。
突然見つめられた歩は、ポカンとした表情になって慌てて言った。
「違う!喧嘩とかじゃないです…!」
焦って手を振りながら説明する歩が面白くて、俺はケラケラ笑った。
「向こうのお店で寝泊まりしてるから、用が有ったら向こうに来て?」
そう言って指を差すと、直生が首を傾げて聞いて来た。
「…北斗は23日の、依頼を受けたか?」
俺は伊織から降りて、二人を見上げて言った。
「あぁ…あの結婚報告だか何かの?受けたよ。直生と伊織も話があったの?」
俺が聞くと、二人は頷いて答える。
「でも、正直悩んでいる…あの女があまり好きじゃなくて…悩んでいる。」
「あんなのと結婚出来るなんて…凄い男がいるものだ!」
二人でそう言って、ね~?って、顔を見合わせるのやめろ。
シュールだ。
この二人にもオファーをしたんだ…。それは、豪華だな。
さすが…見栄っ張り。
「ねぇ、弓毛余ってない?今、これくらいの弓を作ろうと思ってるんだけど…あいにく弓毛をすぐに調達できないんだ…」
話題を変えて、そう言って二人に尋ねる。
二人は顔を見合わせて笑うと言った。
「持ってるけど…北斗、その弓を本当に作るのか?」
「作れそうなんだよ?だから、試しに作ってみる。」
俺はそう言って、彼らに弓毛を分けてもらう事にした。
「じゃあ、行こう?」
俺はそう言って、今、彼らが歩いて来た道を一緒に戻る。
傍らの二人を見上げて尋ねる。
「もしかして…疲れてる?」
俺がそう聞くと、視線をこちらに向けて声を揃えて言う。
「少し…」
ウケる…!
この二人が好きなんだ。
特別な感情じゃなくて…なんだか一緒に居ると安心する。
守り神みたいな感じで落ち着くんだ。
大きな体がそう思わせるのかな…北欧のケルト神に見えてくるんだ。
荘厳な…?ふふ、そんな雰囲気があるんだ。
23日…俺は最後まで頑張れるか少し不安なんだ。
彼らが一緒に居てくれたら、頑張れそうな気がする…。
でも、その前に、告白するべき…かな…
ピタッと歩みを止めて、立ち止まって彼らを振り返る。
俺の後ろをトボトボと歩いて来る彼らを見て、言った。
「ねぇ、俺さ、大好きな人がいるんだけど…今度、結婚するんだ。…だから、23日、一緒に来て…ね?良いだろ?」
俺がそう言うと、二人は口を開けて、驚いた顔をして、唖然として、俺を見た。
漫画でしか見た事が無いような顔をして固まる二人を見て、大笑いする。
息を整えて、姿勢を正して、きちんと話す。
「彼がすごく好きなんだ…。お前達に会いに行ったあの日…俺は彼の事でひどく落ち込んでいた…。それで、自暴自棄になってあんな事をした。でも、あれは間違いだった…。お前たちを尊敬している事に変わりはないんだ…。でも、もう、そういう事はしないでおくよ…だって、あれは好きな人とする事だ。そうだろ?ねぇ…それでも、俺に弓毛を分けてくれる?」
二人の顔を覗いて尋ねる。
伊織はひどく悲しそうな顔をして言う。
「北斗、なぜだ?なぜあんな女と結婚するような男が好きなんだ?」
そんな風に、彼が動揺すると思わなかったから、少しだけ驚いた。
でも、きちんと話して聞かせる。
「彼は奥さんを亡くして、自暴自棄になって選択を間違えてしまった様なんだ…でも、そんな彼を、俺はとっても愛してるんだよ…」
そう言って、手に抱えるバイオリンケースを抱きしめる。
直生が俺の頬を撫でて、体に沈める様に抱きしめて言う。
「お前の頼みなら何でも聞こう…。弓毛も、23日も。ただ…もう傷つくな…」
そんなの無理に決まってる…
俺は自分から進んで、いばらの道に入ったんだから…
「俺は北斗が良いなと思っていたんだ…!」
伊織がそう言って、口を尖らせて俺の手を握る。
「そうか…伊織はイケメンだから…彼が嫌になったら、お前にしよう。」
俺がふざけてそう言うと、伊織は嬉しそうににっこりと笑った。
ダメだろ、自尊心を持て!
「俺は北斗の2号さんだ~。」
そう言って納得する伊織に、一抹の不安を感じる。
俺の腕に大きな腕を通して、しなだれて歩く姿は…なんだ、これ?だ。
倫理観が薄いのは、ケルト神に育てられたからなの?
それとも価値観が大幅に世間とズレているの?
歩の別荘から、歩いて20分くらいの彼らの別荘。
人が歩いてる場所とはいえ、道中の湖畔は足場が悪い。
足元を見ながら、ぺちゃくちゃおしゃべりをして、やっと彼らの別荘まで戻ってきた。
駐車スペースに停まった車から、理久が歩いてこっちへ来るのが見える。
彼らと一緒に居る俺を見つけると、眉間にしわを寄せて睨むように見る。
どうして…いつも、俺に怒るんだよ…理久。
悲しい気持ちと、少しの憤りを感じて、口端を落として憮然とする。
「直生さん、こんにちは。」
理久がそう呼び止めて、直生と伊織の足が止まる。
必然的に伊織と腕を組んだ俺の足も止まる…
理久の声を聴いたタイミングで、頭の中で調子のいい鍛冶屋が流れ始める。
俺の心情とは全く違う軽快な音色に戸惑って、固まる。
何で、今、この曲が流れるんだよ…
それはまるで幼い頃、彼に教えてもらったレッスンを思い起こさせるような選曲だ。
やめてよ……分かってる。
俺の先生だ…。いつも、一緒に、傍に居てくれた、先生だ…。
大好きだった…
でも…今は、違うんだ。
腕に組まれた伊織の腕を、反対の手でギュッと掴む。
ケルト神に守ってもらう様に、彼の腕に縋って理久と対峙する。
「23日。北斗と弾くなら、参加しようと思う。」
直生が理久にそう言うと、理久はホッとした表情になって言った。
「ありがとう。助かるよ…」
そう言って、彼らに楽譜の束を渡してる。
俺はその様子を伊織の体の後ろからじっと見つめる。
目が合って、理久も俺の目をじっと見つめ返して来た。
…お前は、俺の知ってる理久じゃないよ…そうだろ?
さっちゃんの言いなりで、俺に意地悪をする…嫌な理久だ…
だから、前の理久じゃ無いんだ…
理久は俺の目をじっと見つめて、困ったような顔をして口元を緩ませる。
そして自嘲気味に笑うと、俺に嘘の笑顔を向けて分厚い楽譜の束を差し出した。
「はい…これは北斗の分ね。」
こんなに…?
「北斗…ちゃんと練習するんだよ…?」
俺が楽譜を両手で受け取ると、理久はそう言って俺の顔を覗き込んだ。
俺は彼の目を見ないで楽譜を受け取ると、返事もしないで…にこりともしないで…すぐに背を向けた。
昨日、あんなに怒られたんだ…今日、笑顔になんてなれなかったんだ…。
俺の様子を気にする事なく、二人に挨拶すると理久は来た道を引き返していく。
俺は彼の後姿をじっと目で追いかける。
理久…嫌だよ…
車に乗る時…一瞬、俺を見た彼が泣きそうな顔をしている様に見えて、心がグラグラと揺れる。
どうして…そんな顔するんだよ、理久…。
何が…悲しいんだよ…
俺の方が…もっと悲しいよ?
だって、理久の事が…大好きだったんだ。
「理久は自由な奴だった…」
そう言って直生が玄関のドアを開ける。
「そうだよ…。俺は彼にバイオリンを習ったんだ。小1から小4までの4年間。週に4回。4時間のレッスンを受けていた…。その時の理久は…自由で、破天荒で、素敵だった…。今は…まるで翼をもがれた天使みたいだ…。」
俺はそう言って、項垂れる。
去り際の理久の表情が気になって…
何か伝えたい事があるのかと、考えを巡らせてしまう…
「パトロンを持つことの弊害だな。」
伊織がそう言って俺を後ろから抱きしめる。
「例えば?」
背中の伊織に聞きながら、先を歩く直生の背中を追いかける。
「高額な報酬を見越して借金を抱えたとか…弱みを握られたとか…?」
弱みって、なんだよ…
マフィアみたいじゃん…
「ふぅん…直生と伊織の弱みは何?」
俺がそう聞くと、二人は顔を見合わせて言った。
「今の所、俺達は可愛い北斗に弱い。」
ぷっ!
ケルトの神の弱みが、俺か…。それは、笑える。
チェロが置いてある部屋に行って、弓毛を分けてもらう。
適度の温度管理がされた部屋は、朝なのに薄暗くて怪しい雰囲気が漂っている。
「何本か作って、弓自体を消耗品にしようと思ってるんだ。」
俺がそう言って弓毛を束ねながら構想を話すと、直生が首を傾げながら言う。
「独学で、そこまで造形を作るのは無理だ。弓は繊細で緻密なんだ。」
「んふふ、俺のダーリンはバイオリン職人だよ?そんなの、ちょろいさ!」
俺はそう言ってドドンと胸を張った。
今はコックさんだけどね…!
「見て?このバイオリンも彼が作ったんだよ?そして、この前、修復作業も彼がしたんだ!どうだ~!凄いだろ~?良いだろ~?」
そう言って自慢のバイオリンをケースから取り出して、印籠の様に見せびらかす。
「北斗、弾いてみろ。」
伊織がそう言ってソファに腰かけて俺を仰ぎ見る。
そう来ると思ったよ?
俺のダーリンのバイオリンをとくと見ろっ!
俺は美しくお辞儀をすると、バイオリンを首に挟んで、弓を構えた。
直生と伊織はソファに腰かけて俺を仰ぎ見てる。
俺は彼らにバイオリンを見せびらかす様に、美しきロスマリンを弾いた。
軽やかに流れる様に、曲の旋律を優雅に弾く。
どう?すごいだろ?この伸び…堪らないんだ…!!
松脂も弓になじんで、調子の良くなった弓はご機嫌に快調だ!
曲を弾き終えて、余韻を持って弓を離す。
彼らに見られていたせいか、いつもよりも情緒的に弾きあげた曲は、少し余韻が強かった。
俺が丁寧にお辞儀をすると、直生が言った。
「うん…確かに良い音だ。でも、癖がある。」
理久も…同じ事、言ってた。
眉毛をあげる俺の目を見て、続けて直生は言う。
「コンクールや大会ではそれは使わないで、普通のバイオリンで弾くんだ。」
それも同じ事言っていた…
「ほ~い。」
俺はそう言って、伊織の膝に座ると熱心に説明を始めた。
「このバイオリンはね、あの意地悪なさっちゃんが持っていたやつなんだ。もともとは、彼の奥さんのバイオリンだったんだよ?それで、俺がさっちゃん家の長老に直談判して、俺の方が上手いから譲ってちょうだい?って言って、譲ってもらったの…で、ふたを開けてみたら、実はこれは彼が作ったバイオリンだって事が分かって…。もっとこのバイオリンが好きになったんだぁ~!」
俺がそう言ってのろけると、伊織がバイオリンの駒を指さして言った。
「ハートが歪んでる…腕は確かなのか?」
フン!
「これは…俺が、無理やり言ったんだ…ハートを付けろって…」
「歪み方が少し心配だ。」
そう言って首を傾げる伊織は、目の奥がメラメラと燃えて見える…
「初めてハートなんて削ったから、ちょっと歪なだけだ…!指板だって、綺麗だろ?あと、この弓も直してくれたんだよ?」
俺はまもちゃんを見せびらかしたくて、食い下がってそう言った。
「バイオリン職人なら、弓くらい簡単に直せる。」
伊織がそう言って鼻で笑う。
なぁんだ!
伊織が猛烈に突っかかってくるから、俺はムキになって言った。
「お前たちのあの魅惑のチェロだって、特別な物だろ?癖が強くて、弾き手を選ぶチェロだ。俺のバイオリンも同じだ。普通じゃない、特別なんだ!」
そう言って伊織を見ると、彼は俺の目をうっとりと見つめて言った。
「あのチェロは、本当に上手じゃないと音が鳴らないチェロなんだよ?北斗はあれで一曲弾きあげた。だから、お前は特別で、素晴らしいんだ…」
そんな事あるか~い!
弦は擦れば音が出るんだ!
ただ…そう言われて、悪い気はしなかった。
俺は誉め言葉に弱いんだ。
「ほんと?本当に?本当にほんと?」
俺は伊織の目を見つめて、ぶりっ子して何回も尋ねる。
「そうだよ。あのチェロを弾けるのは特別な事なんだ。北斗…伊織と一緒に居たら、いつでも弾いて良いよ?そして、いつでも好きなだけ好きな曲を弾いて、聴かせてあげるよ?」
俺の目をうっとりと見つめながら、伊織は口元を緩ませて顔を近づけてくる。
いつでも弾いて聴かせてくれる…?
それはとても魅力的だ…
何てったって…あのチェロと、この奏者だ。
それはきっと、素晴らしい音を聴かせてくれるに違いない。
「聴きたい…」
俺はそう言うと、間近にまで迫った伊織の瞳に釘付けになった。
前髪の隙間から覗く彼の瞳が、俺を見つめて、愛おしそうな色を付ける。
そんな表情…するんだね。
可愛い…
そのまま彼の唇を受け止めて、熱いキスをする。
「北斗…さっき言ってたじゃないか…もう良いのか?じゃあ、俺も…」
そう言って直生が俺の体を抱っこして、寝室へと歩き出した。
「違う!間違えたんだ!ちょっと間違えたんだ!」
俺はそう言って直生の肩を叩いて、すぐさま降ろしてもらった。
お前ってやつは!
瑠唯さんという人がいながら…最低だな!
ノーパンだから頭が動物のままなんだ。
「じゃあ23日、一緒に弾こうね?弓毛をありがとう。あと、瑠唯さんに会いに行く時は…」
「小鳥と一緒に行く。」
直生はそう答えて微笑んだ。
伊織は口を尖らせて、ふてくされた様子で俺に手を振った。
北斗…。
お前がそうなのか、そうじゃないのかの、瀬戸際だよ?
一瞬でも、伊織に許してしまった自分をぶん殴ってやりたい…
手に持つバイオリンを見下ろして謝った。
ごめんね、まもちゃん…だって、伊織がとっても魅力的で…つい…
そんな事を懺悔しながら、俺は大荷物で帰る。
自分のバイオリンと、束に結った弓毛と、大量の楽譜…
それらを持って、来た道をえっちらおっちら戻る。
足元の悪い中…よろよろと体を揺らして歩く。
歩の別荘を通り過ぎても、まだ歩く…
やっと、まもちゃんのお店が見えて来て、足早に急ぐ。
だって、もうすぐ開店する時間だ…!
「まもちゃん。ごめ~ん。遅くなった~。」
そう言ってお店に入ると、荷物を全てテーブルに置いた。
返事の無い店内に驚いて、厨房の中の彼を探す。
1人しょんぼり座って、背中を丸めて涙を流す彼を見つけて傍に行って尋ねる。
「まもちゃん…どうして、泣いてるの?」
彼の丸まった背中をさすって、顔を覗き込む。
「…怖かった…お前が帰って来ないんじゃないかって…」
そう言って俺を抱きしめて、またシクシクと泣く大人…
「まもちゃん…大人なのに…俺より甘えん坊だ。」
俺はそう言って、彼の頭を抱くと、ギュッと自分の体の中に抱きしめてあげた。
彼が落ち着くまで、ずっと抱きしめてあげる。
「あ、弓毛どうしたの?」
俺の持ってきた大荷物を見て、まもちゃんが驚く。
「収穫があったんだ~。直生と伊織から弓毛を貰って、理久から楽譜を貰った。」
俺がそう言って弓毛を垂らすと、まもちゃんは指ですくって言った。
「高い毛だ。」
そらそうだ!
「北斗、毛が欲しかったらうちの工房に行けば良いだろ?一人で彼らに会わないで。心配だし、嫌なんだ。」
まもちゃんは少し怒った様子で、口を尖らせて俺に文句を言う。
だから俺は言ってやった。
「オジジの所まで車で2時間もかかるのに、簡単に言わないで!それに、彼らは変態だけど、もとはと言えば俺が誘ったようなものだ。もうしないんだから、良いじゃないか!それとも、まもちゃんは俺がまた3Pすると疑ってるの?」
一瞬ぐらついたけど、俺は耐えたんだ!
俺を見ながらムッとし続けるまもちゃんに続けて言う。
「それに、23日は彼らと演奏するって決まった。彼らは俺の演奏の質を上げてくれる同士だ!あんまりうるさく言うと、お店の前で練習するぞ!同じ事を何回も何回も繰り返し、練習するぞ?!」
そう言うと、俺はお店の引き出しをゴソゴソと漁り始める。
割り箸が欲しいんだ。
圧着させて…
は…?
俺の背中にくっついて、きつく抱きしめて…まもちゃんがまたシクシク泣き始める。
ん、もう!…どうしちゃったんだよ!
俺はまもちゃんの方に振り返って、彼の頬を包んでこちらを向かせる。
シクシク泣き続ける、情けない彼に言った。
「泣くな!護!ふんどし締めろ!」
俺がそう喝を入れると、グフッ!と吹き出して笑う。
でも、すぐにしょんぼりして、覆い被さるみたいに俺を包んで抱きしめる。
彼の体の体重がズシリと圧し掛かってきて、重さに潰されそうになる。
ダメだ…落ちてんだ…気持ちが…。
これは……押してダメなら引くしかない…!
まもちゃんの腰を抱きしめて、彼の胸に顔を擦り付けながら全力でごろにゃんする。
「カッコイイまもちゃんの泣き顔なんて見たくな~い。もう、笑ってよぉ…」
俺が甘ったるい声でそう言うと、クスクス笑いながら、ギュッと抱きしめて彼が言う。
「だってぇ…北斗が変態に普通に会うんだもん…。すっごい、嫌なんだもん…!」
ぐふっ!
ウケる…
俺の甘々作戦にノッて来たぞ?
本当に変な人……堪んない!
大好きだ。
「もう…。何もしないよ?約束したでしょ?俺がまたするって、そう思うの?まもちゃんの北斗だよ?そんな事しないよぉ…?だって、俺は、まもちゃんしか好きじゃないもん…」
そう言ってまもちゃんの胸にスリスリして甘える。
「北斗は俺の大切な人なんだよぉ?ダメだよぉ…だぁれにも、見せたくもないもん…!」
そう言ってまもちゃんは俺を抱きしめてギュッとする。
「もうしない…!もうしないから…ごめんね?まもちゃん…ごめんね…?まもちゃんだけ、愛してるんだよ?」
俺はウルウルしながらまもちゃんを見上げてそう言って、彼に熱いキスを貰う。
…これで満足した様だ。
やっと体から離れて、まもちゃんは俺に割り箸をくれた。
なんてこった!
俺は思い出し笑いしながら、荷物を置きに二階に上がった。
「なんだ、あの人…めっちゃ面白い…んふふ。」
思った以上にまもちゃんのキャラが濃かった。
見た目に反して、リミッターの外れたふざけ方が最高に痺れる!
いくつかの楽譜とヘッドホンを持って二階から降りてくる。
首に掛けたまもちゃんのヘッドホン。久しぶりだな。
彼はそれを見ると、嬉しそうに厨房から微笑んた。
俺は赤いエプロンを付けて、テーブルを拭いたり、花壇に水を揚げたり、忙しく開店前の準備を手伝う。
「あ~!北斗ちゃ~ん!!」
変態が来た!
俺を見て車から降りて駆け寄る、後藤さん。
「後藤さん、おはよう~!」
俺がそう言うと、嬉しそうに笑う。
そのままお店の中に連れて行って、席に座らせる。
「北斗ちゃん~、寂しかったよ~?」
俺の周りはこんな大人ばっかりだな…
「んふふ、ごめんね。何にする?」
俺は後藤さんにお水を運ぶと、注文を聞いた。
あっという間にランチタイムになって、お店が混んで来る。
でも、常連客の多いこの店は、少しのミスはチャラになる。
超ラクだ。
「北斗~!食べに来たぞ~!」
春ちゃん達がやって来た!
「うわ~い!星ちゃん!」
俺は星ちゃんに抱きついて甘える。
彼は約束通り来てくれた。
1人労働する俺の為に、約束通り来てくれた!
生臭い匂いを感じて、体を離して尋ねる。
「星ちゃん…ナマズ取れたの?」
「うん!大きい主みたいなのを釣った!」
それって罰当たりじゃん!釣りバカって、見境なく何でも釣る!
ナマズなんて…どうやって食べるんだよ…
そもそも…どうやって捌くんだよ…
春ちゃん達をテーブルに案内して、他のお客さんの注文を取ってまもちゃんに伝える。
まもちゃんが作ったお料理をお客さんのテーブルに運んで、お水を継ぎ足す。
「あぁ…!!北斗が…働いてる!!」
博がそう言って、俺をキラキラした目で見てくる。
俺だって働くときは働くんだ!
歩が働く俺の姿を写真に収めている…
「恥ずかしい~、やめて~。」
俺がそう言って暴れると、常連さんが笑って言う。
「北斗、コーヒーまだ来てない。」
あぁ…!
「ん、ごめんなさ~い。いま~!」
俺はそう言って、慌ててコーヒーを淹れに行く。
星ちゃんが俺の事を見て、嬉しそうに笑ってる。
何だか…照れる。
星ちゃん達の注文を取って、まもちゃんにお伝えする。
「北斗も、星ちゃん達とご飯食べちゃいな。」
まもちゃんがそう言うから、俺はこの店の俺だけの裏メニューを注文する。
「じゃあ、俺はハンバーグにする。」
まもちゃんにそう伝えると、彼はにっこり笑って俺の頭を撫でた。
俺は料理が揃うまで他のお客さんの相手をする。
「北斗の身長だと、チューブに乗ったら頭が付いちゃうんじゃない?」
「俺の身長は168センチだよ?イギリス人は体が小さいの?」
イギリス帰りのお客さんに、海外の話を聞く。
「そうじゃないけど、丸くなってるから、背の高い人は体を屈めるんだよ。」
絶対、話、盛ってるだろ?
理久は俺よりも断然背が高いけど、そんな事、言ってなかったぞ?
「北斗、出来たよ。」
まもちゃんに言われて、俺はみんなのテーブルに料理を出す。
「はい、オムライスは?」
俺が聞くと、歩が手を上げる。
「はい、トマトのスパゲッティーは?」
俺がそう聞くと、博と渉が手を上げる。
後ろにまもちゃんが来て、星ちゃんと春ちゃんに料理を出した。
「俺のハンバーグ!」
俺はそう言ってまもちゃんの肘に乗ったハンバーグを受け取る。
「メニューにはハンバーグなんて無かったぞ!」
春ちゃんが怒ってそう言うから、俺は言ってあげた。
「これは…労働の対価だ!」
俺は星ちゃんの隣に座ってご飯を食べる。
ハンバーグ…食べたかった、まもちゃんのハンバーグ…!
小さく切って一口食べる。
「んふふ…美味しい…」
そう言ってまもちゃんのいる厨房に行って、後ろから彼を抱きしめて言う。
「まもちゃん…ハンバーグ美味しい、ハンバーグ、すごく、おいしい!」
「そう、良かった!いっぱい食べな~!」
そう言って笑って、フライパンを振る彼の背中に抱きつく。
コンロのせいで腕がじわじわ熱くなる…
気が済んで、またみんなの所に戻って、星ちゃんのピザを一口貰う。
「星ちゃんにだけ、ハンバーグちょっとあげるよ?」
俺はそう言って星ちゃんにあーんする。
彼は口を開けてそれを食べる。
「本当だ。美味しいね、きっといい肉が使われてるんだよ。」
そう言って俺に笑いかける星ちゃん…可愛い!
「北斗、23日。僕たちも呼ばれたんだ。だから向こうで会えるね!」
歩がそう言って笑う。
そうなんだ。
歩は親族だからな…そら呼ばれるだろうな。
「ところで、21日、みんなで高原に遊びに行くんだけど、北斗は…」
「行く!」
俺はハンバーグを口に入れたまま即答する。
労働するだけの友達との旅行なんて…俺はする気ないよ!
遊ぶときは絶対一緒に行ってやるんだ!
「お店手伝わなくて良いの?」
「もともと1人でやってたんだし、平気だよ。」
俺はそう言って、歩に聞いた。
「高原ってなぁに?どんなところ?何で行くの?」
「自分のお茶碗が作れる体験が出来るんだって…楽しみなんだ。」
そう言って隣の星ちゃんがうっとりしてる。
あぁ、彼が行きたがったのか…
「その他にも、美術館とか、カフェとか、乱立してる所みたいで、一日は過ごせそうだよ。じゃあ、北斗も一緒に行こうね。」
歩はそう言って、春ちゃんと何やら予定表にメモしてる。
「うん!」
俺は嬉しくなって、博のお皿のニンジンを食べた。
「んあ!泥棒がいる!」
物騒な物言いをするんじゃないよ…
博が俺のお皿のブロッコリーを復讐心から盗んだ。
良いんだ。
小さな木みたいで…ブロッコリーは好きじゃない。
「北斗~、お会計して~?」
お客さんに呼ばれて席を立つ。
「いつまで居るの?また北斗に会いたいよ。」
お客さんに聞かれて、31日に東京に戻ると伝える。
自分で言ってても、実感がまだ湧かないけど…おれは31日に東京に戻るんだ…
ここに居られなくなるんだ…
彼の傍に…居られなくなるんだ。
「また来るね~!」
「ありがとうございました~!」
お客さんを見送って、春ちゃん達の席に戻ると、彼らはもう帰り支度をしてる。
「まだ居て~?星ちゃんだけでも、まだ居てよ~!」
俺がそう言うと春ちゃんが言った。
「別荘のキッチンが凄惨な事件現場になってるんだ…あれを片付けないと…」
大体予想は付く。
星ちゃんがナマズを絞め損ねたんだ…。可哀想なナマズ…
「…また来てくれる?」
みんなに聞くと、奢ってくれるならって言うから、俺は言った。
「ここにいる間の分なら俺が奢ってやろう!俺は今、お金持ちなんだ!」
星ちゃんも、みんなも、俺を憐れむ目で見て言った…
「また来るから…そんな嘘は吐くな…」
なんだよ!本当なのに…!
持ってこようか?見せようか?
俺はみんなのお会計をして店の外まで見送る。
見慣れた星ちゃんの背中が、俺からどんどん離れていく事が心細くなって咄嗟にしがみ付く。
「星ちゃ~ん!やだぁ!行かないで!」
そう言って星ちゃんに抱きついて、店の前でごねる。
「北斗、また来るから…ほら、まもちゃんさんが心配してるよ?」
星ちゃんがそう言って、俺の向こう側を指さす。
まもちゃんが店の外にまで俺を追いかけて出てくる。
しょんぼりした顔で、俺を見つめて…
もう…。本当に甘えん坊なんだ!
「また、来てね…?」
俺は星ちゃんにそう言って、彼の手を離した。
「また来るよ!」
星ちゃんはそう言って、まもちゃんにお辞儀すると、俺に手を振ってみんなの所に戻って行った…
「あ~あ、みんな帰っちゃった!」
俺はまもちゃんにそう言って、両手を上げて伸びをしながらお店に戻る。
可愛い甘えん坊のいるお店に戻る。
ランチも落ち着いて、俺は厨房を挟んだカウンターで譜読みをする。
「ん、何ここ…読めないじゃん…」
コピーミスに軽く苛つく…
仕方が無いので、ヘッドホンを耳にあてて同じ曲を流して確認する。
「全く…仕事が雑だよ!理久は!意地悪ばっかりしてるから、こんなミスするんだ!」
そう言って、ボールペンで音符を書き足す。
そんな俺の様子を、厨房の椅子に腰かけて、まもちゃんが見ている。
ボールペンを揺らして、テンポを取りながら譜読みする。
口で自分の音符を追いかけて口ずさむ。
「北斗…可愛いね。」
ポツリと言う彼の言葉に、音符が途切れそうになるのを堪えて、キリの良い所まで読み終える。
「俺は可愛くて、美しいんだよ?」
視線を楽譜に落としたまま彼に言う。
ブフッ!と吹き出して笑うから、ジロッと睨むように見てやる。
「北斗は…可愛くて、美しくて、セクシーだった…」
まもちゃんがそう言い直すから、俺はにっこり笑って譜読みを再開する。
後で弾いてみようかな…
そう思いながら、時計を見る。
15:00…休憩時間だ。
お店の看板をクローズドにして、鍵をかける。
要らない女が間違って入ってこない様に、締め切る。
「ねぇ、まもちゃん?21日にみんなと遊びに行ってくる~。」
厨房に座ってご飯を食べる彼の所に行って、甘えん坊の機嫌を取る。
「ん~、何処に行くの?」
「高原って言ってた…カフェとか…あと、美術館があるって…あ!星ちゃんがお茶碗作りたいって言ってた~。」
俺がヒントを出すと、まもちゃんが言った。
「あそこかな~?」
多分そこだ。
まもちゃんは俺を膝に横向きに乗せると、首を伸ばしてキスをせがむ。
だから、俺は彼の首に手を回して顔を寄せて聞いた。
「ねぇ、高原に遊びに行っても泣かない?」
そう言って、唇にチュッと軽くキスをする。
「んふ。泣いちゃう。行かないで!」
まもちゃんはそう言うと、俺の腰に回した手を背中に滑らせる。
「俺は遊びに来たんだから、労働しに来たんじゃないんだから、行くよ?」
そう言って、今度は食むようにキスをする。
「あは!ダメだよ~。行かないで?」
まもちゃんはそう言って、俺の背中を高速でナデナデする。
「ふふ、すぐ帰ってくるから…行っても良いでしょ?」
俺はまもちゃんの唇に唇を合わせて舌でペロペロ舐めながら聞いた。
「だめ、だめ…だめ、行ったらダメだよ…!」
そう言ってまもちゃんは興奮すると、俺の唇に舌を入れて来た。
俺の頭が逃げて行かない様にがっしり掴んで、深くて甘いキスをする。
彼の食べていたお肉の味がして、口元が緩む。
なんだ、この人…めちゃくちゃ気が合う。
俺のノリに合わせて、いつも返してくれる。
自分の手足よりも、俺の思った通りの反応を返してくれる…
「はぁ…まもちゃん大好きだよ。」
俺はそう言って彼の体にクッタリともたれる。
彼は俺を膝に抱いたまま、昼食を再び食べ始めた。
温かくて、しっかりしていて、大きな体…
良いな…大好きだ。
「北斗?割り箸は?」
まもちゃんの言葉に、ハッ!として体を起こす。
窓際のテーブルで工作を始める。
頬杖をついて、割り箸を手に持って揺らして眺めるまもちゃんは、見学者だ。
え~、まず…割る前の割り箸の隙間にボンドを入れてくっつける。
これを3セット作る。
割り箸の側面にボンドをまんべんなく塗って、もう一膳と合わせる。
もう一膳の割り箸の側面にまたボンドを塗って、合体した割り箸に合わせる。
輪ゴムでギュウギュウに留めて圧着させる。
「これを念のため、後3つ作っておこう!」
俺はそう言って、手先をベタベタにしながら割り箸を圧着させた。
要は弦が擦れればいいんだ。
毛と、松脂が有れば良い。後は毛を支える土台さえあれば良いんだ。
俺はそれを4セット作ると、お店の日が当たる所に置いた。
「木が割れるんじゃない?」
そう言うまもちゃんに言った。
「割り箸みたいに柔らかい木、ちょっと日に当たったくらいじゃ割れない。それに、拘ってたら日ばっか過ぎちゃうよ?工作レベルで良いの。重要なのは、毛と松脂だ。」
手を洗って戻ると、俺がさっき日干しした場所で、まもちゃんがしゃがんでゴソゴソしている。
輪ゴムをもっと強く締め直しているようだ。
「足りなかった?」
彼の背中に乗って聞くと、念のため。と言って俺をおぶって立ち上がる。
大きい背中、落ちる気がしないよ。
「明日にはやすれるかな?」
「やすりもかけるの?」
当たり前だ!工作レベルと言ったけど、工作も工作、上級の工作だ!
二階の部屋に戻って、ベッドにゴロンと横になるまもちゃんの隣で、譜面を読みながらバイオリンを弾く。
「北斗が楽譜読んでるの…初めて見た…」
横になって、手で頭を支えながらまもちゃんが言った。
「こういう積み重ねが大事なんだ。」
俺はそう言って、弓を引いて音を出す。
「うるさくない?」
伏し目がちに彼に尋ねる。
「大丈夫。うるさくないよ。」
そう言って笑う顔が可愛くて、悪戯したくなる気持ちを抑えて楽譜を弾く。
それは結婚行進曲…メンデルスゾーン作曲
この楽譜の感じだと、管楽器も入るちょっとしたオケの規模だ…
金持ちって凄いな…
チェロ二台…バイオリンはきっと俺のほかにも呼んでいるはずだ…
パーカッション、ピアノ、コントラバス、フルート、ホルン、チューバ、オーボエ…まだまだ沢山…
まもちゃん…随分盛大な楽団が出来るよ…
楽譜を見ながらバイオリンを弾く俺を見つめて、まもちゃんが憂鬱な表情になる。
「はは、それを北斗に弾かせるんだ…」
そう言って、宙に向かって悲しそうに笑う顔を、俺は見ない事にするよ…
楽譜を変えて、こちらもまた…結婚行進曲…ワーグナー作曲
編曲無しで、フルで演奏するんだ…
腕を顔の上に組んで、寝ている彼は、泣いているのかな…
その腕の下で、また泣いている気がして…可哀そうになってくるよ。
「ねぇ…まもちゃん、聴いて…ここ…綺麗なメロディだ…」
そう言いながら楽譜を弾く。
思った以上に美しい旋律に“結婚式”のイメージ以上の物を感じて、俺は震えた。
豪華なオケで演奏することを楽しみに、これを乗り切れそうな気がする。
まもちゃんのこと以外…これは俺にはご褒美でしかないよ…
愛のあいさつ…チェロとバイオリンの楽譜。
俺はその楽譜を頭の中で演奏する。
「綺麗だ…これは素敵だ…まもちゃん…美しいよ」
そう言って彼のお腹に手を当てて、優しく撫でる。
こんな素敵な曲に囲まれて…結婚発表会か…
凄いな…普通に、羨ましいよ…
全然反応の無いまもちゃんに飽きて、俺はヘッドホンを付けて他の曲を譜読みしながら確認していく。
まもちゃんのお腹に自分の胸を乗せて、うつ伏せで寝転がりながら譜読みする。
「ここから入るんだ…へぇ、綺麗だな…」
ブツブツ言いながら、手元で携帯を操作して、ヘッドホンで音をいちいち確認する。
ベッドの上のまもちゃんの周りには、俺が置いた楽譜が散らばる。
起きたら、身動き取れないだろうな…ふふ。
午後の光が室内に入って、少し穏やかになった日の光が差し込む。
ほどほどに疲れて、彼の上で微睡み始める。
彼が息を吸うと、お腹が上がる…
彼が息を吐くと…お腹が沈む。
そのまま彼の鼻の穴を見て、瞼が落ちる。
ぴえん…
「北斗、夜はお店に出なくても良いよ…」
まもちゃんの声が聞こえる。
俺は体を起こして、声の主を探す。
彼は既に玄関から外に行ってしまった後の様で、外から扉にカギを掛ける音が部屋に響いた…。
時計を見ると、5時少し前…
開店は6時のはず。
多分…仕込みとかがあるのかな…
そう思いながら、微睡んで天井を見上げてると、外から聞いた事のある声が聞こえた。
「護~。明日、23日のカクテルドレスを決めるの。ねぇ、一緒に付いて来て?」
甘えた様な、さっちゃんの声だ…
とっさに俺はヘッドホンを耳に付けた。
動悸がして、胸が張り裂けそうになる。
そのまま布団に潜って震える。
何してるんだろう…俺。
こんな所で…もうすぐ結婚する大人捕まえて…何してるんだろう…
ヘッドホンの奥から、さっきまで聞いていた結婚行進曲が流れる。
目から涙が落ちて、目の前の光景をぼやけてゆがめていく。
「何してんだろ…馬鹿みたいだ…」
悲しくて、嗚咽で肩が揺れる。
俺が寝ている部屋の下で、まもちゃんはさっちゃんと楽しそうに何をしているの?
抱き合ってるの?
俺にした様に、優しい目を向けて笑いかけているの?
キスして…体を求める様に絡み合ってるの…?
あぁ…起きなきゃよかった…。
聞きたくなかった…。
気付きたくなかった…。
知りたくなかった…。
目を瞑って、自問自答を頭から追い出して、1人で耐える。
頭を真っ白にして耳に届く音色に集中する。
ふふ…。フルートって…綺麗な音だな…
まるで情景が一変するような、そんな破壊力のある音色を出すんだ…
うっすらと開いた目に映る、布団のしわを指でなぞる。
耳の奥に流れ込む音楽に没頭して、意識を空にして、虚ろな瞳で布団のしわを見つめる。
傷つく事なんて、分かっていた。
だから自衛する。
何してんだろう…なんて、疑問を抱かない様に…
耳を塞いで、頭を空にして、自衛する。
「北斗、夜ご飯食べにおいで。」
玄関のドアを開けてまもちゃんが俺に言う。
俺はまだベッドに突っ伏している。
覚悟していただろ…こうなる事は、覚悟していたはずじゃないか…
俺の様子にまもちゃんが心配して、靴を脱いで近づいて来る。
「北斗?どうしたの?具合悪いの?」
俺は仰向けに寝返りをうって、まもちゃんに手を伸ばす。
彼は俺の手を握って顔を覗いて来る。
その顔で…その目で…あの女を見たの…
許せないよ…
「聞こえたんだ…さっちゃんの声が…。ねぇ、下で何してたの?」
俺はまもちゃんの目を見てそう聞いた。
怒っている訳じゃない。
でも、俺の目は吊り上がって見えたかな…
彼の目の奥が揺れて、俺から目が離せなくなったみたいだ…
「今度、俺にこんな思いさせたら、俺は伊織と寝る。」
俺はそう言って、彼の目を見つめながら、繋いだ腕を引いて体を起こした。
そのまま立ち上がって、ベッドの上に立って彼を見下ろす。
「今度、俺にこんな思いさせたら、俺は直生と寝る。」
そう言ってまもちゃんにキスする。
熱くて甘くてとろけるようなキスをする。
「二度と、ここに近付けないで。これはまもちゃんの義務だ。そうだろ?」
俺はそう言って、まもちゃんに言葉で詰め寄って、体で甘える。
「北斗。ごめんね…分かった。」
俺はまもちゃんの肩に項垂れて彼の背中を撫でた。
俺は気高いんだ…舐めるな。
もう…傷つけられてたまるか…
「ま~もる~?」
さっちゃんの声を真似してやる。
嫌な思いをさせられた事への報復。
…いやがらせだ。
「ま~もる~?」
落ち込んで反省してるの?
それとも苛ついてるの?
何も言わないで俺の腕に抱かれて、ジッとしてるまもちゃんにもっと言う。
「ま~もる~?」
「やだ、止めて!」
怒った顔をしてまもちゃんがそう言うから、俺は意地悪く笑いながら言った。
「だって、面白いんだもん!フン!」
そのまま、ベッドから降りて、まもちゃんの背中を思いきり蹴飛ばして、ベッドに転ばすと、俺は階段を降りてお店に行った。
落ち着け、落ち着け、俺…もうそれくらいにしておけ…
そう思いつつ…バイトのお姉さんに言ってみる。
「ま~もる~?」
俺の声真似が上手いのか…すぐに誰の真似か分かったみたいに爆笑する。
「んふふ、似てる?ま~もる~?」
バイトのお姉さんに何度も聴かせて手ごたえをつかむ。
まもちゃんが戻って来て、俺を見て怒った顔をする。
フンだ!
「ご飯ちょうだい!」
そう言ってカウンターで手を出して待っていると、まもちゃんが怒りながら言った。
「北斗はこっちで食べるの!」
彼の指さした方を見ると、ステンレスの調理台の上にランチョンマットがチョコンと敷いてある。
フンだ!
俺は厨房に入ってランチョンマットの前に座った。
「ご飯ちょうだい!」
そう言うと、美味しそうなビーフシチューがコトンと目の前に出て来た。
「んはっ!良い匂い…美味しそう…」
スプーンを貰って、一口食べる。
「ん~!まもちゃん、美味しい…美味しい!」
俺は喜んで足をジタバタさせた。
まもちゃんは俺の方をチラッと振り返って見て、すぐに体を戻した。
…何だよ、怒ったの?
厨房の中は客席の声が結構、聞こえる。
後は、調理してる音と、まもちゃんが動き回る音だ。
俺はスプーンを持って、ぼんやりしながらまもちゃんの背中を見る。
「怒ったの~?」
彼の背中に聞いてみる。
何も答えないで、まもちゃんは黙々と調理してる…
だって…まもちゃんがいけないんじゃないか…
俺に嫌な思いさせるから…いけないんじゃないか…
ランチョンマットの端を何度も指先で弄る。
まもちゃんの背中を見て、また視線を落として、ランチョンマットの端を弄る…
そっと立ち上がって、まもちゃんの背中にヘタリと抱きつく…
「ごめんね…。もう、真似しない…。」
俺がそう言うと、まもちゃんは何も言わないで俺を抱きしめた。
お鍋のお湯がグラグラ音を立てるのを見つめながら、彼の体に抱きしめられた。
「北斗…ごめんね。もう傷つけないよ…」
嘘だ…
でも、そう言ってくれるだけで…嬉しかった…
「うん…」
そう言って彼の腰に手を回して抱きしめた。
「シェフ…イチャつくのは見てて楽しいんですけど、料理まだですか?」
お姉さんがカウンターの向こうから声を掛けてくる。
俺はまもちゃんから離れると、ビーフシチューの前に戻ってまた食べ始めた。
こんなんで、俺23日やれるのかな…
やきもちを焼いた。
嫌だったんだ…俺のいる時に…さっちゃんと居るのが。
俺はご飯を食べ終わると、ご馳走様してお皿を洗った。
チラッとまもちゃんを見ると、彼も俺を見ていた…
自分が嫌になるよ。
さっちゃんの真似なんてして…
馬鹿にして…
「北斗」
名前を呼ばれて、立ち止まって彼を見る。
「プリン、持っていきな…」
そう言って俺の手にプリンを持たせて、頬にキスした。
「良い子だよ。」
まるで、俺が自己嫌悪してるのが分かったみたいに…
まもちゃんはそう言って、俺の頭を撫でた。
階段を上って、途中で止まって…腰かける。
手の中のプリンを見て、途方に暮れる…
「星ちゃん…俺、何してんだろ…」
そう呟いて天を見上げる。
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