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8月20日(木)

8月20日(木) 「北斗…走ってくるね。大好きだよ…」 AM4:30 俺の髪にキスして、まもちゃんが走りに行った… 俺は体を起こして、バイオリンと弓を手に持つ。 寝起きでぼんやりした頭で、23日に弾く楽譜を取り出してバイオリンを弾く。 何回も何回も弾いて体に覚えさせる。 半分寝ながらバイオリンを弾き続けると、玄関が開いてまもちゃんが帰ってくる。 「北斗、北斗、おはよう?」 声は聞こえるけど、目が開かないんだ… 俺はまるで自分のバイオリンに陶酔してるみたいに、目を瞑ったままバイオリンを弾いた。 弦を抑える指が音を外すことは無くて、弓を引く腕が加減を間違えることの無い、完成された酔拳の様に、バイオリンを弾く。 気が済むと、楽譜を変えて、また弾きまくる。 練習が命綱だ… まもちゃんがシャワーから出てきて、俺の様子を眺めている。 同じ曲を何回も何回も弾いている。 それは他の人からしたら迷惑でしかない。 半分開くようになった目を開いてまもちゃんに言った。 「もうやめてほしい?」 「いいや、続けて。」 まもちゃんはそう言って、コーヒーを淹れる。 俺はお言葉に甘えてバイオリンを弾く。 鼻にコーヒーの苦い香りがこびりつく。 気が済んで、次の楽譜を弾き始める。 同じ曲を何回も弾いて、飽きないの?と言われるけど、飽きない。 その時その時、演奏が同じになることなんて無い… だから、平均を作るためにも何回も練習する。 ぶれる演奏の平均を出すために、何度も弾いて安定させるようにする。 気が済んだら、最後の曲。 まもちゃんが携帯で俺の事を勝手に撮っている。 肖像権の侵害だ… それでも、俺はあらゆることを排除して、ひたすらバイオリンを弾く。 毎日毎日の、この積み重ねが重要だと、俺は知っている。 だからこそ、どんな時でもバイオリンを弾く。 次の糧になる様に、弾き続ける。 「はぁ…まぁこんなもんか…」 俺はそう言ってバイオリンを首から離す。 乾拭きして、ケースにしまって弓に松脂を塗る。 毛を緩めて弓を見る。 「見て?どっちにも反っていないだろ?」 俺が弓を見せると、まもちゃんが手を差し出した。 「はい」 そう言って、彼の手に渡して、弓の反りを見てもらう。 「まもちゃん…かっこよく見えるね。」 ただ弓を見てるだけなのに、無性に彼が格好よく見えるのは何故だろう… 「ふふ、どれ、バイオリンも見てやろうか?」 俺が言った言葉に気を良くしたのか…そう言って匠っぽくするから、俺はバイオリンを両手に持って、まもちゃんに渡した。 まもちゃんは俺のバイオリンを色々な角度から見ると、言った。 「とても大事に扱われております。10点満点中10点!」 俺は彼の背中に抱きついて言った。 「まもちゃん。まもちゃん。割りばしの、覚えてる?あれ、やってよ~。」 そう言いながらバイオリンを受け取って、自分のケースに丁寧に戻す。 弓を戻してふたを閉めて、代わりに割りばしの弓を差し出した。 「これに毛を付けたい。」 まもちゃんは立ち上がってゴソゴソと何かを探してる。 俺はその様子を眺めて待つ。 「これとか…どうかな~」 まもちゃんが持ってきたのは中くらいの大きさの木のチップ。 「これに穴をあけて、毛の先っぽを落とす。楔で上から押さえて、こっちは毛を引っ張れるように穴を貫通させて、楔で止めるか…」 何でも良い。 毛を張らせてくれ! テーブルに道具を広げて工作を始めるまもちゃんの隣で、俺は弓毛を解かしてスタンバイする。 「北斗、髪の毛とか、顔とか、歯とか磨いちゃって…」 背中を丸めてまもちゃんが俺に言う。 「ん、は~い。」 俺は良い子に言う事を聞く。 だって、あんな細かい作業してるんだ。 言うことくらい聞いてやらないと、キレるだろ? 「こんな感じになりました。」 身だしなみを整えて、着替えを済ませると、まもちゃんは作業を終えて俺にチェックをお願いして来た。 「ん~、どれどれ~?」 まもちゃんの隣に座ると、彼は俺に向かって説明を始めた。 「ここに毛をこう挟むだろ?それをこれで上から押さえる。」 ふんふん、それは普通の弓と同じだな。 「で、こっちの方をこの穴に通すんだよ。」 おお!そうか! 「で、こっちから引っ張るの。毛を張らせて十分な所で、これを上からギュッと押して入れるの。」 「まもちゃん、完璧だ!」 俺は彼に抱きついて、沢山キスした。 「じゃあ、この土台のパーツをボンドで付けて圧着させて、やすって毛を張ったら出来上がりだよね?」 俺はまもちゃんの頬を掴んで、息がぶつかる位の近さで、笑顔で尋ねた。 「んふっ!そうだよ。」 まもちゃんは吹き出し笑いしてそう言った。 あぁ!これでやっと、瑠唯さんに弾かせてあげられる!! 俺とまもちゃんはテーブルで黙々と小型の弓を作成する。 ボンドを縫ってまもちゃんが作った部品を張り付ける。 上から輪ゴムを何重にもして重ねて留める。 もう片方の部品が凄いんだ。中で穴が90℃曲がってる… 「これ、すご~い!どうやったの?まもちゃん、これ凄い!」 俺は興奮して、机を膝でぶつけて揺らしてしまった。 「北斗…机揺らさないで…」 ひと言…静かな声でそう言って、ずっと真剣な目で作業するまもちゃん… 静かな、まもちゃんもかっこいいよ… 俺は頬杖をつきながら、まもちゃんをうっとりとみる。 「まもちゃん…かっこいいよ…色っぽく見える…」 俺がそう言うと、彼の口元が緩む。 ダメだ、そんな顔するな…手元が狂うだろ? 「そんな目で見られたら…俺、ドキドキしちゃうよ…」 そう言ってまもちゃんを煽る。 「北斗は、この部品、後3セット欲しいんだよね?」 顔を上げて、いつものまもちゃんが俺に聞いて来る。 俺はそれを見て、コクリと頷く。 「俺を興奮させると、この部品を作らないでお前に襲い掛かっちゃうよ?」 「それは困る!」 俺はそう言って、大人しく、お口チャックで見学することにした。 でも、本当…恰好良いんだ…うっとりする。 どうしてバイオリン職人に戻らないの? お料理もおいしく作れるバイオリン職人なんて…最高なのに… 彼の斜め横に座って、頬杖を突きながら、彼の顔を眺めて待った。 「はい、3セット出来た。あ~疲れた~!」 「わ~い!ありがとう!」 俺はそう言って、まもちゃんの肩を揉んであげる。 意外と硬いのでびっくりした。 「お客さん…凝ってるね。漫画家なの?」 俺がそう言ってふざけて顔を覗き込むと、まもちゃんは言った。 「10年連載してるギャグラブコメディの4コマ漫画を描いてます!」 ふふ、本当に可愛い人。 「まもちゃ~ん、大好きだよ。」 彼の肩に抱きついて、そう言ってキスをする。 こんなに面白い人…ほかに居ないよ。 彼の隣に座って、ボンドを部品に塗っていく。 まもちゃんが弓に付けて輪ゴムで留めていく。 「俺達、内職したら結構チームワークが良さそうだよ?」 俺が言うと、まもちゃんが声を出して笑う。 「北斗となら、何をしても上手に出来ると思う。」 まもちゃんがそう言って俺にキスをする。 俺も同じ気持ちだよ。 俺達はとっても、気が合う。 ピッタリとしっくりとくるんだ… 不思議だよね… 「出来た~!やった~!」 俺は寝転がるまもちゃんの上に寝転がって完成を喜んだ。 「早く瑠唯さんに弾かせてあげたい!!」 俺はそう言ってまもちゃんの胸に顔を擦り付ける。 まもちゃんは俺の髪の毛を、手で解かしながら言った。 「その人の具合は、今はどうなの?」 「普通に歩いて、おしゃべりできるよ。顔色はそんなに良くないけど…」 まもちゃんは俺の目を見て言った。 「北斗、その人が弱って行くのを見るのかい?」 俺はその言葉に戸惑った… まもちゃんの目を見たまま、思考が止まる。 弱って行く…? そうか、瑠唯さんは…死んじゃうんだ… まもちゃんの胸に顔を落とす。 彼の胸の鼓動を頬に感じながら、ポツリと言った… 「そうか…瑠唯さんは…死んじゃうんだった…」 忘れていた訳では無い… 忘れていた訳では無いんだ… でも…それは、とても受け入れがたいな… 「まもちゃん…」 彼の体にそっと抱きついて、温かい体温を感じる。 瑠唯さんと出会った時、聴かせてもらったクラシックギターの音色が頭の中を流れていく。 悲しいな… 会ったばかりなのに… 悲しい。 「北斗ちゃん!おはよう。」 今日も後藤さんはお店にやって来た。 「後藤さん、おはよう。どうぞ~」 俺は後藤さんを笑顔で迎えると、いつもの席に案内する。 「北斗ちゃん?俺はね、毎日君が見れて嬉しいんだよ。まるで彼女に会いに来る気持ちで、ここに来てるんだよ。」 キャバクラ通いのおっさんみたいだ… 「北斗ちゃんは、可愛くて、背もスラッとしていて、甘えん坊で、美人さんで、おっちょこちょいで、可愛くて…見ていて、癒されるんだ。」 可愛くて…が2回出たって事は、相当可愛いのか。 俺は席に座る後藤さんを見て、メニューを渡す。 そして、首を少し傾げて聞いた。 「後藤さん、俺で癒されるの?」 厨房から馳せ参じそうなまもちゃんを、視界の隅に捉える。 「そうだよ。北斗ちゃんが俺の癒しなんだ。」 へぇ… 俺は笑って誤魔化した。 「今日は何にする?」 俺が聞くと、後藤さんはキメ顔で言った。 「今日は…北斗ちゃん。」 こう言う時…どうしたら良いのかすごく困る… まもちゃんが厨房から出てきて後藤さんに挨拶する。 「お、後藤さん、いつもありがとうございます。ところで、この前のゴルフどうでした?」 ゴルフの話題に食いついた後藤さんは、俺から視線を外してまもちゃんと話し始めた。 「北斗、花壇に水あげて来て?」 まもちゃんにそう言われて、俺は戦線離脱する。 まったく、夜のお店と勘違いしてるの? 彼女らはプロだ、あしらい方だって心得てる。 俺みたいな中学生に、何を求めてるんだよ…後藤さん! 俺は心の中でぼやきながら花壇の花に水をあげた。 「北斗~、今日のおすすめランチは?」 すっかり常連客に顔を覚えられた。 お店に入り際にそう声を掛けられて言う。 「ん、いらっしゃい!サーモンのムニエルとクリームコロッケだよ。」 花壇に水をあげ終えて、お店の中に戻る。 外は暑い…日差しに照らされて、皮膚がジリジリする… 「北斗、後藤さんにお料理出して?」 厨房から言われて、手を洗って、すぐに料理を運ぶ。 「はい、お待たせしました。」 コトンと後藤さんの目の前に料理の皿を置く。 「わ~い、北斗ちゃん、いただきま~す!」 そう言って俺の腕を掴むと、ムシャムシャ食べる真似をする… 全く…後藤さんは、どうしようもないな。 俺は彼を無視して、他のお客さんの注文を取る。 「北斗~、次こっちね~!」 「はい~ただいま~。」 ランチは戦争だ… 「後藤さんはやばいね。」 ランチの混乱の後、いつもの様にまもちゃんとおしゃべりをする… さっきからまもちゃんはずっと同じことを言ってる。 後藤さんはやばいって… 俺はそんな事よりも、もっと大事な事に、さっき気が付いたんだよ… 常連さんが言ってた…洗濯をしても取れない匂いの話… それで思い出したんだ。 「ねぇ、まもちゃん…そんな事よりさ、俺、洗濯物してないんだけど、そろそろ着る物が無くなっちゃう。明日、みんなと遊びに行くのに、ヨレヨレのしかないんだよ?洗濯してきていい?」 俺がそう言うと、まもちゃんが吹き出して笑った。 お腹を抱えて、ずっと笑ってるから、ちょっとイラっとした。 「俺だけ、汗臭かったらいやだろ?今から洗濯してきてもいい?」 俺が言うと、まもちゃんが言った。 「良いよ。しておいで。」 急げ~! 俺は階段を駆け上がって、洗濯物を洗濯機に入れる。 そのまま洗剤と柔軟剤を入れて洗濯を回す。 「あ~良かった。明日には乾くよね?」 洗濯機の前で、ひとり呟く。 「あっ!これ、乾燥もついてるんだ。凄いぞ!」 俺は洗濯機に付いたボタンに、乾燥の文字を見つけて、洗濯を一旦取り消すと、洗濯乾燥に切り替えた。 「ふふん!これで干さなくても良いんだ。便利だな~。」 そう言いながら、玄関の鍵を閉めて、階段を降りる。 湖の向こうに黒雲が見えて、雨が降りそうだと知った。 空気も少し湿って、冷たく感じた… 「乾燥機って…尊いな…」 そう呟いて、お店に戻る。 「出来た?」 まもちゃんがそう聞いて来るから、俺は頷いて答えた。 「歩の親戚が高原の教会の人で、明日マイクロバスで迎えに来てくれるんだって。俺は9:15に、ここの前で待ってれば良いって言われてる。」 まもちゃんに明日の予定をお伝えする。 まもちゃんは俺の話を聞きながら、外の天気を見てる。 「向こうに黒い雲が来ていたよ。雨が降るかもしれないね。」 俺はそう言って、お客さんのお水を注ぎに向かった。 「北斗、コーヒーまだ~?」 いけね! 「ごめんなさい!今~!」 俺は慌ててコーヒーを淹れに行った。 最後のお客さんを見送って、外を見る。 すっかり暗くなったな… 道路にポツポツと雨が落ちて、まだらに染まっていく… 「わぁ…雨だ。」 そう言った途端に、土砂降りになる… 嫌な思い出がよみがえるな… あの時は最悪だったな…入院までする事になったし… 看板をクローズドにして、入り口の鍵を閉める。 「まもちゃん…凄い雨だよ?」 厨房に居るまもちゃんに声を掛ける。 「え~、雨~?」 背中でそう言う彼は、俺のお昼ごはんを作っている。 厨房に入って行って、彼を後ろから抱きしめる。 「雨は嫌い。だって、水だから!」 俺はそう言ってまもちゃんの背中に、スリスリと顔を擦り付けて甘える。 「はい、ご飯出来たよ。」 俺はオムライスを受け取って、そのまま客席に持っていく。 窓が見える席に置いて、スプーンを取りに戻る。 まもちゃんが自分の食べるものを持って、厨房から出て来た。 「うわ~本当だ…凄い雨だ。」 俺のオムライスを置いた隣にお皿を置くと、まもちゃんはそう言って嫌な顔をした。 「まもちゃん…コロッケちょうだい?」 俺はまもちゃんからコロッケを貰うとオムライスの横に置いた。 「いただきます。」 外の雨の勢いが凄まじくて…戦々恐々としながらオムライスを食べる。 でも、一口口の中に入れたら、そんな気持ちも吹っ飛んだ。 「んふふ、美味しいね。まもちゃんのオムライス、大好き。」 俺はそう言ってケラケラ笑った。 半熟でとっても美味しいんだ… 「バイオリンも扱えるし、お料理も上手なんて…まもちゃんは無敵だね?」 俺はそう言って彼にもたれると、お行儀悪く膝を立ててご飯を食べた。 「北斗…膝、お行儀悪いよ?」 「ん、でも、面倒くさいんだもん…」 仕方ないんだ。 躾けなんてされてない。 ご飯もいつも一人で食べていた。 だから、慣れてくると気が抜けて、こうやってお行儀が悪くなるんだ。 「ん~。美味しいな。本当に上手だ~!」 そう言って彼の体にもたれて、甘えた。 「まもちゃんの家は躾が厳しかった?家は、ほったらかしだった…。両親が俺に求めることは、楽器が弾けるかどうかで…それ以外は無視だ。だからかな…あんなに必死に練習するのは…ねぇ、どう思う?」 オムライスを行儀悪く食べながら聞くと、まもちゃんは言った。 「家は躾は厳しかったよ…。見たろ?あの親父だ…優しい訳ない。」 俺はそれを聞いて笑った。 確かに…オジジは厳しそうだ。 「歩のお父さんみたいな親が良かったな~。」 俺はそう言って、ご馳走様すると、まもちゃんの膝にゴロンと寝転がった。 歩のお父さんは、いつも朗らかで優しいんだ…お日様みたいにニコニコしてる… 俺のわがままも、も~。って言いながら聞き流してくれる。 まもちゃんの膝を指で触りながら、ぼんやりと微睡み始める。 外で打ち付ける雨の音が、テレビのノイズみたいにひっきりなしに鳴ってる。 「この前…凄い雨だった…傘が壊れるくらい…頭の上から打ち付けて…怖かった。」 俺がそう言うと、まもちゃんは体を引いて膝に寝転がる俺を見た。 「あの、熱を出した時の?」 そうだ…高熱を出して、まもちゃんに病院に連れて行ってもらった時。 俺は頷いて答えて言った。 「足元に水たまりがどんどん出来て、濁った水が底なし沼に見えた…雨が強くて、立ってられないくらい強くて、溺れると思った…」 まもちゃんの顎を触って、ぼんやりと思い出しながら話す。 彼は俺を見つめて、髪を撫でる。 その目がとても優しくて、安心する。 「星ちゃんを探しに行ったんだろ?」 まもちゃんの低くて、落ち着く声に、瞼が重くなって落ちていく。 「うん…星ちゃん…雨宿りしていた…直生と伊織の別荘で…」 手が疲れて頭の上にそのまま投げ出す。 うっすらと見えるまもちゃんは俺の事を見下ろして、優しく微笑んで言った。 「少し眠って…」 そう言って、俺の目に大きな手を当てて、真っ暗にした。 あの時、未来がこうなると分かっていたら、俺はあんなに泣かなくてよかったのに… また、まもちゃんに愛してもらえるって、分かっていたら… あんなに…泣かなくてもよかったのに…な… 「北斗、星ちゃんが来たよ?」 まもちゃんの声に、体を起こして目を擦る。 「ちょっと待ってて。」 まもちゃんはそう言うと、お店のドアを開けに行った。 「こんにちは。北斗、居ますか…?」 「星ちゃん…ずぶ濡れじゃん。」 俺はそう言うと、まもちゃんの後ろから、星ちゃんの元にフラフラと、歩いて行く。 俺の様子を見て、星ちゃんが呆れて言った。 「北斗、寝てたの?向こうに理久が来てるんだ。お前の演奏を聴きたいって人の所にまた連れて行きたいみたいだよ。どうする?」 どうしようかな… 俺は寝起きの頭で考える。 でも、目に映る星ちゃんのカッパがびしょ濡れで、フードから漏れた前髪から滴る水が大粒で。 そればかり見て、そればかり気になった… そっと星ちゃんの濡れた頬を撫でる。 「北斗?聞いてる?」 俺の手を掴んで星ちゃんがムッとした顔で言う。 「ふふ、聞いてる。雨が付いていたから、拭きたかった。」 そう言って笑うと、星ちゃんはまた呆れた顔をしてため息を吐いた。 「もうお仕事も終わったから、理久について行こうかな…」 俺はそう言って、まもちゃんを見た。 「まもちゃん、ちょっと行ってみるね。」 俺がそう言うと、彼は心配そうに眉を落とした… 俺に必要のない楽譜を沢山持たせた理久。 小学校に上がって4年生まで俺のバイオリン教師をしていた… 週に4回、4時間のレッスンを、彼と共に過ごした。 俺が譜読みを熱心にする事を彼は知ってる。 失敗を恐れて、完璧を必死に求める事を…彼は知ってる。 あんな事をすれば…俺が参るって知ってるのは、さっちゃんじゃない…理久だ。 傘を借りて二階まで上がる。 バイオリンケースを胸に抱えてお店に戻る。 傘に打ち付ける雨は、この前よりも弱く感じた… 俺にカッパを被せて、フードを頭に乗せるとキュッと少し絞って、まもちゃんが言った。 「何かあったらすぐに連絡して。必ず。良いね?」 何があるというの? 俺はまもちゃんの手を握って、彼の目を見上げる。 「ん、分かった…」 俺を見つめる彼の目は、心配しすぎて、壊れてしまいそうだった… 「行ってくるね~!」 俺はそう明るく言って、カッパの中にバイオリンをしまうと、星ちゃんと一緒に歩の別荘へと向かう… 「まもちゃんさん…すごく心配そうだったね…何かあったの?」 俺の隣で、星ちゃんがそう聞いて来るから、俺は話した。 「23日の演奏の事…理久がくれた楽譜が、俺のだけ…必要の無い曲が沢山入っていてさ…直生と伊織が居たから早くに気付けたんだけど、そのままだったら…俺は多分、明日もみんなと遊びに行くことを止めて、必死に泣きながら練習していたと思う…星ちゃんも知ってるだろ…俺は才能なんてないから…必死に練習するんだ。泣きながら、壊れながらさ…そんなちょっとした嫌がらせを受けた…」 星ちゃんは雨にかき消されそうなくらい、か細い俺の声を拾って聞いていた。 そして、俺の隣にそっと寄り添って、俺の肩を抱いて言った。 「北斗…俺、怖いよ。このまま…お前を行かせて、もし、歩の言っていたバイオリン職人みたいに…手をどうにかされたらって…考えると。怖くて、行かせたくないよ…。」 俺の肩を掴んで、星ちゃんは足を止める。 「星ちゃん?」 俺が振り返ると、星ちゃんは言った。 「北斗、行くな。まもちゃんさんから離れるな。もう理久の誘いに乗るな。」 俺の目から涙があふれて落ちる… 「星ちゃん…知ってるだろ?理久は…面白い人だって…。変わってるんだ。少し、変わってる…。でも、ひとりぼっちの俺の事、いつも…いつも…見守ってくれた。だから、そんな事…そんな事に加担なんて…しない…。俺を傷つけるような事、絶対にしない…!」 俺がそう言うと、星ちゃんが言う。 「じゃあどうして?どうしてお前が演奏にストイックだって知ってて、楽譜を多く渡したりするの?どうして、そんな事に手を貸すの?」 分からない…分からないよ… それでも…俺は 「ん…とにかく、行ってみる…理久と行ってみる。またあのおばあちゃんかも知れないし…。怖くなったら逃げる…それに…理久はそんな事…俺に…絶対にしない…」 俺はそう言って、星ちゃんの手を繋ぐと歩の別荘へ足を向けた。 彼を悪くなんて思えない。 俺のバイオリン教師なんかじゃない… 彼は、俺の保護者の様な人…。 音楽のイロハを教えてくれた。公園に連れて行ってくれた。一緒に遊んでくれた。 そして、実の親よりも、俺を見て、愛してくれたんだ…。 「北斗!」 名前を呼ばれて、星ちゃんと一緒に振り返る。 「行くな!ダメだ!」 雨の中、傘もささずに走って来たの? ずぶ濡れのまもちゃんが俺を止める。 「星ちゃん…ごめんね。北斗は行かないよ…。ごめんね。星ちゃん…連れて帰るよ。」 まもちゃんはそう言って星ちゃんに謝ると、俺の体を抱き寄せて、無理やり来た道を戻る。 俺の足がもつれても、体を支えて、足を止めることなく進み続ける。 その強引さに、彼の恐怖を感じて、俺は抵抗もしないで連れて行かれる。 まもちゃんは怖いんだ… 俺がお兄さんみたいに…何かされると思って… 星ちゃんが感じたような恐怖を…彼も感じて… 怖いんだ。 そのまま二階に上がって、玄関の前で、カッパを脱がしてもらう。 「まもちゃん…怖いの…?」 ずぶ濡れの彼の顔を見上げて聞いた… まもちゃんは俺を見降ろして、ひどく悲しそうな顔をして言う… 「うん…怖い。とても…」 そう言って、悲痛な目で見つめて、俺の頬を塗れた手で撫でて、そっと屈んでキスをする。 彼のあちこちから落ちてくる雨だれが、俺の体をまだらに濡らす。 俺は…バイオリンが濡れない様に、自分のTシャツの中にケースを入れた。 彼の舌が俺の舌を絡めて頭が痺れる。 そのまま俺を抱きしめて、恐怖に泣きだす彼を受け止めた… そっとバイオリンを床に置いて、両手で彼の背中を抱きしめて、優しく撫でて言った。 「もう大丈夫だよ…行かないから…もう行かない…」 崩れ落ちる様に俺を抱きしめたまま、しゃがみ込んで、泣きじゃくる、大人の背中を見る… 彼の丸まった背中に体を乗せて、両手で包み込む。 頭の中で…バイオリンの音が聴こえた… 美しい旋律で流れる…愛のあいさつ… 俺はそれを口ずさんで、歌うと、彼の背中を愛しく撫でて言った。 「まもちゃん…もう大丈夫だよ…」 そう言って、彼の頬を探すように、両手を丸まった彼の体に沿わせて滑らせる。 頬を見つけて、包むと、そっと上に持ち上げる。 そのまま泣いている彼の顔に、頬を摺り寄せて、愛しく頬ずりする… 「シャワーを浴びて、体を拭いて?…まもちゃんも熱を出すよ?」 そう言って笑うと、彼は泣きながら笑った… その顔は不細工じゃなく…とても可愛かった… 「ほらほら、俺まで濡れちゃったよ?着替えが無いのに…!」 俺はそう言って、ずぶ濡れの彼を洗面所に連れて行く。 彼がシャワーを浴びる間…俺はこみ上げる感情を止めることもしないで泣いた。 「うわあん…まもちゃん…!かわいそうだ…!かわいそうだ…!」 …俺がどうにかされるんじゃないかと、気が気じゃなかったんだ… だから、あんなに必死で追いかけてきて…必死で守った。 守ってくれたんだ… 固く結んだ手の甲に涙が落ちる。 俺がお兄さんみたいに…されるんじゃないかって、怖くて堪らないんだ… シャワーの音が止んで… ドアが開く音がした。 俺は泣くのを止めて、素知らぬ顔をして、瑠唯さん用に作った弓を眺める。 彼と、あの家の因縁を俺が知っていると知ったら…どう思うだろうか… そう思うと…俺は怖くて言えない。 彼から聞くまでは… 彼の傷を見ても…痛む姿を見ても… 俺は何も知らないふりをする… そう決めたんだ。 「まもちゃん?もう毛を張ってしまおうよ。松脂を塗っておけば、ボンドが乾いたら、やすって、すぐに弾ける状態で持っていけるだろ?」 俺が彼に笑って言うと、まもちゃんも笑って頷いた。 濡れた服を脱いで、まもちゃんが寄越した大きい長袖のTシャツを着た。 袖を3回くらい捲って、俺は弓毛を張る。 綺麗に解かした弓毛は逆立った毛も無く、美しく一直線に並ぶ。 「この毛、すごくしっかりしてる…どこのだろう?良いな。」 俺は慎重に毛の先を穴に入れて、楔で留める。 さあ、次が大変だ…! 中で90度に曲がる穴の中に毛の先を入れる。穴の外に飛び出した毛を掴んで、ちょっと引っ張る。 ぴんと張った毛は既に美しかった… まもちゃんは、俺の毛を持つ手を後ろから掴んで、それを少し緩ませると、楔をうった。 楔によって巻き込まれた毛が丁度の張りを持って、弓に張られる。 「あぁ!まもちゃん!綺麗だ!さすがだ!」 俺はそう言って、背後の彼の首元に頭を擦り付けて喜んだ。 残りの3本もその様に仕上げる。 「松脂を塗っておこう…」 俺はそう言って、オジジの所で買った松脂を弓毛に優しく慎重に塗った。 「見てくれ…!凄いだろ?」 俺は小さな弓を持って、まもちゃんに何度も見せた。 割り箸で作った…小さな弓。 後は接着面を乾かして…やすりを掛ければ…完成だ。 「本当に作ったな。」 まもちゃんがそう言って俺を見て感心する。 だから、俺は笑顔で言った。 「まもちゃん、ありがとう。まもちゃんが居なかったら、これは出来なかったよ?」 そして、綺麗に並べて乾燥させる。 外の雨もだいぶ弱くなってきて、夜には止みそうだ。 「雨は嫌い。だって、水だから!」 俺はそう言ってまもちゃんに甘える。 彼の足の間に入って、彼の体にもたれて、どうでも良いことを話して、笑う。 コーヒーの匂いがだんだん好きになる。 テーブルに置かれたコーヒーを見て、そう感じた。 彼の手を取って、火傷の痕を撫でる。 「北斗は…それを触るのが好きだね…」 後ろのまもちゃんがそう言って、俺の髪をハフハフする。 「ここだけ、肌触りが違くて…好きなんだ。」 俺はそう言って、彼の左手の甲を手で撫でた。 ふふッと小さく笑う声が聞こえる。 質感って重要だよ? だって、肌触りを感じたら、それがどんなものか…大体分かるだろ? 柔らかかったり…硬かったり…ザラザラしていたり、ツルツルしていたり… まもちゃんの左手の甲は…彼が彼だと分かる質感だ… この手の感触を覚えていれば、暗闇でも彼が分かる。 そうでしょ? 「北斗?どうして、行かせたくなかったか…理由を聞かないの?」 後ろの彼がそう言って、俺の体を大きな手で撫でる。 理由… 俺は首を伸ばして顔を上に向けて、彼を仰いで見て言った。 「いつもの理由じゃないの?寂しい…行かないで!北斗!やだ!」 俺はふざけてそう言って、まもちゃんに笑いかける。 彼の目は穏やかに笑ってる。 まるで、何かを察してるみたいに… 「違うの?他に理由があるの?理久に嫉妬したの?ねぇ、教えてよ。」 それでも俺は知らないふりをするよ。 体を返して、彼の肩に両手を置いて、演技がかった顔でふざけて、尋問する。 「ほら~!吐け~!吐くんだ!護!」 まもちゃん…大好きだよ。 あなたがどんな酷い事をしていても…大好きだよ。 そっと彼の唇にキスして、彼の頭を抱いて抱きしめる。 俺が守ってあげる。 「まもちゃん?明日は晴れるかな…」 俺が聞くと、まもちゃんが言う。 「晴れるよ…天気予報で見た。」 「本当?良かった~。せっかく遊びに行くのに、雨はやだもん!」 俺は満面の笑みで、彼を見降ろして話す。 彼は俺を見上げて微笑むと言った。 「北斗…大好き。」 そう言って、俺の胸に顔を寄せて、目を瞑ってもたれかかる。 だから、俺はまもちゃんの頭と大きな体を抱きしめる。 大丈夫だよ… 心の中で何度もそう言って、体を揺らして、まるでお母さんみたいに愛してあげる。 傷ついた子供を慰める、優しいお母さんみたいに。 「さあ、働きに行きたまえ!私はここで、譜読みをする。」 仁王立ちして、まもちゃんにそう言って、彼を見送る。 夜のお店が開く時間だ。 「ブフッ!うん…働きに行ってくるね。」 そう言って笑って、彼はドアの向こうに消えて行く。 まもちゃんを見送って、俺はベッドに仰向けに寝転がる。 ベッドの彼の枕を抱きしめて、ぼんやりと天井を見上げて頭を空っぽにする。 枕元に置いたヘッドホンを手に取って、耳に付けると、音楽を流す。 耳の奥の鼓膜が震えて、頭の中に音楽が美しく流れる。 「あぁ…良い音だ。」 そう言って目を瞑って、音楽で体の中を満たす。 充電したら、譜読みをしよう… そう思いながら、閉じた目の奥を見つめる… 理久…ごめんなさい。 もうお前には心を許せそうにない…。 さっちゃんの傍に居る限り…お前は俺の敵だ。 もう誘いに乗る事も無いし、もう二人で会う事も無いだろう。 理久…悲しいよ… 体を起こして、楽譜を集めると、順番に聴きながら譜読みをする… バイオリンを取り出して、弾きながら確認する。 何時間そうしていたのか… 時間を忘れて譜読みをしていると、玄関が開いてまもちゃんが俺を呼ぶ。 「ご飯出来たよ。おいで。」 ヘッドホンを首に降ろして、靴を履いて、彼について行く。 階段を降りる手を彼が掴んでちょっと上に上げる。 「お姫様みたいだろ?」 そんな風に言って笑うから、俺は嬉しくなって笑い返した。 首に下げたヘッドホンから聞こえる“結婚行進曲”を微かに聞きながら… 俺はカッコイイ年を取った王子様に手を引かれて、階段を降りて、厨房に行く。 ランチョンマットの前にお上品に座って、美味しい食べ物が出るのを待つ。 「はい、どうぞ。召し上がれ。」 格好を付けて料理を出す様が、本当に格好良くて…照れる。 「うわい!今日はチキンだ!」 俺は喜んでそう言うと、既に一口に切ってあるチキンを上品に食べた。 「北斗。ピアノする?」 アルバイトのお姉さんは実は俺の隠れファンだ。 ピアノを弾いてほしくて、たまにこうやって聞いて来る。 良いんだよ。 俺は全然弾きたいよ。お姉さんの為に。 でも、まもちゃんがダメって言った。 もっともっとって、お客さんが勘違いするからって… 弾くのが当たり前になったら大変だから、ダメって言った… 「休憩時間に弾いてあげるのに…お姉さんが早く来たがらないんじゃないか…」 俺は厨房からそう言ってお姉さんの無精を責めた。 お姉さんは俺を指さして言う。 「バイトまでの時間は、バイトの場所以外で過ごしたいでしょ?んん?」 まぁ、何となく…分かる。 俺が最後のチキンを食べ終わるころ、まもちゃんが美味しそうなケーキを出した。 お上品に小さくて、俺の本気なら2口で食べられるショートケーキ… しかし…生クリームの艶が…一味違う。 「んは!何これ?」 「後藤さんからの頂き物です~!」 まもちゃんはそう言って、俺の小さなケーキに蝋燭を一本立てて火をつけた。 「お誕生日だ!」 俺は誕生日でも無いのにそう言って、一人で歌を歌って、蝋燭を消した。 「北斗、何ちゃいになったの~?」 まもちゃん… 「んっとね…北斗ね…んっと、5ちゃい!」 俺がそう言うと、まもちゃんが極まって、俺を後ろから抱きしめてハフハフし始める。 カウンターの向こうで、お姉さんがその様子をじっと見てる。 その表情からは肯定も否定も、何も感じられなかった… 「シェフのイメージがどんどん変わって行きます…」 お姉さんはそう言って、おぼんを持つとお客さんの方に行った。 俺はまもちゃんがくれたフォークを持って、ケーキを食べる。 「お上品なお味!生クリームがあっさりしてる!これなら5個食べられる!」 後ろのまもちゃんにも食べさせてあげる。 イチゴも入れてフォークに乗せて、手で押さえながらまもちゃんの口に運ぶ。 「ほんとだ。美味しいね。」 そう言って笑うまもちゃんの口端に、生クリームが付いていたので、指で拭ってペロリと舐めた。 「あ…」 そう呟いて、まもちゃんはとっても嬉しそうに俺の隣に座ると、聞いて来た。 「初めてお店に来た時の事、覚えてる?」 突然だな~ 俺はまもちゃんの顔を見ながら思い出す… 「…はっきりと覚えてない…星ちゃんの隣にいた!」 「それは、いつもじゃないか。」 まもちゃんがそう言って、口を尖らせる。 「何かあったっけ?」 俺はそう言ってケーキを食べ終わる。 「北斗がさ、星ちゃんの口の端に付いた食べかすをさっきみたいにして、舐めたんだよ…。それがすごく可愛くてさぁ…。自分もして欲しいって…思ったんだよ…」 あら、まあ… 俺はまもちゃんの方に体を向かせて、彼の肩に手を置いて向き合った。 「んふふ、そうなの?じゃあ、さっき、したから…嬉しいの?」 彼の首を指でスリスリと撫でながら、ニヤけて聞く。 「ふふ…今、結構嬉しい…」 ふにゃけた笑顔で、まもちゃんは笑って俺に言う。 なんだよ、それ!反則だろ! 俺は堪らなくなって、まもちゃんに抱きついた。 「んふふ…まもちゃん…そんな時から俺の事、いやらしい目で見ていたの?」 そう言って、おでこを付けて笑いながら彼を見ると、まもちゃんは可愛い笑顔で言った。 「そうだよ…北斗を見てから、ずっといやらしい事ばっか考えてるんだよ…?」 そう言って、二人で抱き合ってチュッチュッと、していると、お姉さんが言った。 「愛人か?もう愛人がいるのか?」 だから俺は言った。 「凄い仲の良い友達だ。」 そう言って厨房から出ると、お姉さんにお辞儀して退散する。 何で…まもちゃんあんなに可愛らしく笑うんだろう~…あれは罪だな。 星ちゃんに感じるような可愛らしさを感じてしまった… 部屋に戻って、ヘッドホンを付ける。 そして、また譜面を読みはじめる。 でも、あのふにゃけたまもちゃんの笑顔が目に焼き付いて離れない… 「いやぁ…あれは反則だろ…」 そう呟いて、転がると、天井を見ながら一人で、うししと思い出し笑いする。 大人なのに…とっても可愛いんだ。 「北斗~、お仕事終わった~!」 そう言ってまもちゃんが玄関から入ってくる。 俺はまだ譜読みをしている。 まもちゃんは俺の隣に座ると、ヘタリともたれてくる。 大きな体がズシリと重い… 「そんなに練習しても…一回しか演奏しないだろ?」 身も蓋もない事を言うんだ。 「そうだよ。でも、その一回を上手くやるために、俺は全身全霊掛けるの。そうすると、いつでもこの曲がベストで弾けるようになる。人と同じ。苦労して、ぶつかって、泣きながら付き合えば、いつか認めて寄り添ってくれるようになるんだ。」 自分の言った言葉に酔っていると、まもちゃんは、俺にもたれたまま言った。 「今、良い事言ったって思ってるんだろ?」 ふへへ。言うねぇ。 俺はまもちゃんを見て言った。 「良い事言ったもん。自然と出ちゃうんだ…良い言葉がさ。ほら、俺って根が良い子だから…育って生った実がさ、落ちて弾けるんだよ…良い言葉になってさ…」 ポーン、ポーンと頭の上から手で何かを落として、パッと弾けさせながら俺は言ってやった。 「ブフッ!へぇ…そうなんだ…グフッ!」 笑っちゃってんじゃん… 「そうなんだよ…ほら、俺って…文系だから。」 俺はそう言ってまもちゃんの顔を覗き込んだ。 「溢れて来ちゃうんだよ…言葉達がさ…」 俺がそう言うと、まもちゃんは後ろに笑い転げた。 「ダハハ…言葉が…はぁはぁ…溢れちゃうって…ダハハハ!」 俺は笑い転げるまもちゃんに跨って乗ると言ってあげた。 「まもちゃんは、なぁんて素敵な目をしてるんだぁい?君の瞳の奥にある銀河系はぁ…何万光年先を照らすんだろう…」 まもちゃんは驚いた顔で俺を見上げて聞いて来た。 「北斗…それ、何の真似?」 だから俺は自信をもって教えてあげた。 「文系の真似だよ?」 俺がそう言うと、まもちゃんはもっと笑う… 「文系への盛大な揶揄だ!」 まもちゃんがそう抗議するから、俺は困ってしまった。 「じゃあ、もうやらない。」 俺はそう言ってまもちゃんに両手を着いて覆い被さると、彼を見つめた。 半笑いで俺を見つめ返すまもちゃんの目に、自分が映っている… 彼の頬を両手でもみほぐして、半笑いを表情から消す。 そしてまた目を覗き込む… カッコイイな…俺のまもちゃん… うっとりしながら眺めていると、まもちゃんが言った。 「北斗…あんまり見つめられると、勃起しちゃうから止めて…」 どうしてだ…どうして、言うんだ… 「嫌だ。まもちゃんの目を見てる。」 俺はそう言って上から退かないで、じっと彼の前の奥を見つめる。 まもちゃんは俺の太ももを触ってお尻を撫でる。 俺はまもちゃんの目を覗き込んで言った。 「銀河系は無いけど…すごく綺麗な目をしてるよ?そして、俺はこの目が大好きみたいだ…だって、目が離せないんだもん…」 俺がそう言うと、まもちゃんはお触りを止めて俺を抱きしめた。 そのままゴロンと俺を横に落として、俺の顔を覗く。 「北斗…今度一緒にキャンプに行こう…」 彼の声は、低くて、俺の体にだけよく響く、特別なコントラバス… 「良いよ…俺は何もしないけど、まもちゃんが全部やってくれるなら行こう。」 俺はそう言って、彼の首に手を回すとギュッと抱きついた。 俺を抱きしめる彼の力が強くて… そのまま、絞め殺してしまえって…思った。 「俺、先にお風呂に入ろ~!だって、明日早いんだも~ん!」 俺はそう言って、まもちゃんを置いて、お風呂に向かった。 「北斗、洗濯物どうなったの?」 あっ!忘れてた! 俺は慌てて洗濯機の中を覗いた。 「あ~~~!何で、何で?」 俺の洗濯物がしわしわになってしまっている…!! 「まもちゃん家の洗濯機がぶっ壊れてるせいで、俺の洋服がしわしわになっちゃった~~!うわぁ~ん!うわぁ~ん!」 俺がそう言って騒いでいると、どっこらしょ…とまもちゃんが立ちあがって、洗濯機の中を見て笑う。 「これ、かっこいいじゃん…」 そう言ってしわしわのシャツを見せて笑うから… 俺は怒った! 「うあ~ん!」 そう言ってまもちゃんの腹に頭突きする。 腹を抑えてうずくまる、まもちゃんの背中をペシペシ叩きながら怒る。 「明日、何を着て行けば良いんだよ~!酷い!まもちゃんも、洗濯機も、大嫌いだ!」 そう言ってへたり込んで、洗濯機の洗濯物を出してシクシク泣く… 「北斗、もう一回洗ったら元に戻るよ。まもちゃんがやってあげる。」 そう言って、まもちゃんは俺の出した洗濯物を全部戻して洗い直しした。 俺の鞄から最後の下着を持ってくると、タオルとセットにして床に置く。 「ほら、今日はまもちゃんの服で寝て、明日起きたら乾いた服を着ればいいだろ?」 「乾かないもん…もう夜だもん…乾かないもん…」 シクシク泣いて落ち込む俺にまもちゃんは笑いながら言った。 「夜でも乾くよ。前やったら乾いたもん…雨もやんだし、きっと乾くよ?」 「本当?」 彼を見上げて聞くと、うんと頷いて答えた。 乾くかな…俺の服…全滅した、俺の服… 「分かった…」 俺はそう言って、服を脱ぐとシャワーを浴びに浴室に入った。 「北斗…まもちゃんも一緒に入っても良い?」 どうせ断っても入ってくるんだから…もう… 「うん。良いよ。」 俺はそう言ってまもちゃんと一緒にシャワーに入った。 「まもちゃん…服貸して…?」 俺は最後の下着を身に着けて、まもちゃんに服を借りる。 まもちゃんは、俺を後ろから抱きしめたまま、洋服を探す。 可愛い猫のプリントが付いた、黒い長袖を見つけて、まもちゃんに聞いた… 「ふふ!これ、着た事あるの?」 「それ、海外旅行のお土産でもらったんだよ…何回か部屋着で着た。」 「可愛い。これが良い。」 俺はそう言って、その長袖を着る。 「あはは、北斗、可愛い…!」 大きな長袖が萌え袖と化して、自分のお尻まで隠れる丈の大きな長袖に、まさに服に着られている状態になった… 「いいんだ。猫、可愛いから。」 俺はそう言って、ベッドに寝転がった。 まもちゃんは俺の方をチラチラ見ながら、洗濯物を干しにベランダに行った。 だって、やってくれるって言ったもん。 俺はベッドにうつ伏せになって、ヘッドホンを付けて譜読みをする。 足を曲げて、足先で調子を取りながら、譜読みをしてる。 でも、やっぱり… 洗濯物が心配で、俺も急いでベランダに向かった。 まだウッドデッキの濡れた広いベランダは、暗くて、滑りそうだった。 そっと裸足を下ろすと、外の空気は暑いのに、少し冷たく感じた… 空を仰いで見ると、青い空に星が瞬いていて、涼しい夜風が俺の頬を撫でた。 せっせと俺の洗濯物を干してるまもちゃんに近付く。 「まもちゃん、乾きそうだね。空の雲が無くなってる。風があるんだ。」 俺はそう言ってまもちゃんの背中に抱きつく。 「そんな恰好で出たら、誰かに見られて、襲われちゃうよ?」 「アハハ!俺の事、襲うのなんて…まもちゃんくらいしか居ないよ?」 俺はそう言って、ウッドデッキの上を歩く。 足の裏が冷たくて気持ちいい… 「ねぇ、今日は、クーラー付けなくても寝られる?」 俺がそう聞くと、まもちゃんは言った。 「クーラー消したら寝られないよ。」 暑がりなんだな…。 「まもちゃん、重ちゃんは宇宙飛行士になりたいんだって。でも、おばあちゃんにしか言ってないから、知ってるって言ったらダメだよ?」 俺はそう言ってまもちゃんの傍に行く。 「宇宙飛行士?それは凄いね…」 まもちゃんはそう言って、俺のTシャツをハンガーにかける。 「それ、星ちゃんとお揃いなんだよ?前、海外に行ったときにお土産であげたんだ。そしたら、星ちゃん、それが気に入ってさ。今でも着てるよ。」 「北斗はよく海外に行くの?」 まもちゃんは洗濯を干す手を緩めないでおしゃべりする。 「ん~、そうだね。行く。コンクールとか…技術指導を受けに行く。」 俺はそう言ってまもちゃんの腰に抱きつく。 「楽しい?」 短く、そう俺に聞いて来るから、素直に答える。 「正直、分からない…。俺が決めてる訳じゃないし…。」 そう…全て親が決めている。 「まもちゃん…よく分からなくなるよ…小さい頃、両親は家に居ても俺を構う事なんてしなかった。その寂しさを埋めるみたいに、楽器を弾くようになった。俺が楽器を弾くと、あの両親が少しだけ、俺の存在を認めてくれた気がしたんだ…。それが、嬉しかった。」 彼の背中に頬を付けて、彼の息遣いを感じながら心の内を彼に話していく。 今までこんな理路整然と自分の事を話した事なんて…無かった。 「音楽は好きだ。楽器も好きだ。でも、ある時を境に、連日の長時間の練習、両親の期待に疑問が生まれた。他の友達の様に自由に遊びたい…自分の時間を、自由に過ごしたいって抗ってもがいた。そこから一気に奈落に落ちたんだ。なぜ?どうして?楽器をする理由が分からなくて、ただただ日々の練習が苦痛で、与えられる課題が苦痛で、親の視線が苦痛で、死にたくなった…。」 彼の大きな背中を撫でながら、当時の葛藤を思い出す。 俺の心の支えになっていた、音楽の師…親代わりの変な大人がいなくなってしまったんだ… 理久… 「抗ったおかげで母親にも殺されかけて、父親には冷たい視線を浴びせられた。…その時思ったんだ。この人たちには何を話しても無駄だって…諦めにも似た感情が俺を支配して、その後も事ある毎にそれを痛感した。だから俺は抗うことを止めて受け入れることに専念した…何も考えずに、流れの無い水の上を漂う、葉っぱみたいに…。」 俺はそう言って、まもちゃんの背中に、顔を摺り寄せて甘える。 「自分が無い俺は…親の思う通りに進む事に疑問を持たなくなっちゃった…。今では、過去のスパルタ教育でさえ自分の糧になってるって…実感するんだ。…本当、病んでるよ。」 両親が俺に期待することは一つ。 有名な演奏家になって、活躍する事だ… 自分たちよりも優秀な演奏家にしたいんだ。 「違うよ…病んでなんかいない。それはお前が演奏が好きになって来たって事だよ。与えられ続けた技術を自在に使いこなせるようになってきたんだ。だってその技術が無かったら、今の様に自由自在に演奏を楽しむ事は出来ないじゃないか…」 まもちゃんはそう言うと、洗濯物を干す手を止めて俺に向かい合って言った。 「俺を見てごらん?バイオリンを挫折して弾けないままだ。もしあの時、もっと練習していたら…お前の隣で一緒に弾けたかもしれないだろ?でも、弾けない。なぜなら、俺は途中で諦めたからだ。ね?」 俺はそう話すまもちゃんの顔をじっと見つめる。 彼は俺に優しく微笑みかけながら、話を続ける。 「辛かったろう…苦しかっただろう。でも、それが今の音楽家の北斗を作ったんだよ。上出来じゃないか…。過去の辛い経験を糧と思える程に成長したんだ。それは自嘲する事じゃない、誇りに思うんだ。」 まもちゃんはそう言うと、俺を大きな両手に包んでギュッと抱きしめてくれた。 「立派だよ。一つの事を続ける事は容易じゃない。環境がそうであったにせよ、お前は諦めないで、逃げないで、高みに上って来たんだ。今では人の心を動かす…そんな素晴らしい奏者になったんだ…。上出来じゃないか。」 そう言って俺の顔を覗いて、にっこり笑うと彼は言った。 「北斗が楽器を弾いてなかったら…どんな子になっていたのかな…」 どんな子? 分からない…想像がつかないよ… 「まもちゃんは…俺が、今の俺じゃなくても好きになる?」 俺はまもちゃんを見上げて尋ねた。 彼は上を見上げて少し考えて、俺を見て笑顔で答える。 「ならない。」 そうか… 「なら、良かった…」 俺はそう言ってまもちゃんにハフハフして甘える。 そうなのかな… 俺は成長してこれたのかな… だから今バイオリンを弾くと…ピアノを弾くと…チェロを弾くと…堪らなく、楽しいって思えるのかな…。 それは自嘲する事じゃなくて…誇りに思う事。 そうか…そうだな… そうだよな。 あの苦しい日々が俺の糧だ。 そしてこれからも苦しい日々は続くけど、俺はそれが糧になる事が分かった。 だから迷わずに続けよう…このまま、もっと高みを目指して。 もっと素晴らしい演奏が出来る様に、成長して行きたい。 それは親の命令じゃない、俺の意思だ。 俺が決めた。俺の意思だ。 人に演奏をする時感じる高揚感…相手が微笑み始める瞬間。俺は得も知れぬ幸福を感じる。 誰かと合奏する時感じる一体感…まるで同じ何かを共有している様な阿吽の呼吸を体感して、鳥肌が立って興奮する。刺激的な幸福感。 もっと感じたい。 もっと、もっと感じて、もっともっと、体感したい。 間違ってない。 この道を進んで行けば良いんだ。 初めこそ親に敷かれたレール。 これからは俺が舵を握れば良いんだ。 もやもやした思いがストンと落ちた。 それはあっけない程に。 洗濯を干し終えたまもちゃんは、俺を抱っこするとベランダから部屋の中に戻る。 頭がぶつかりそうで怖い… 俺をベッドに下ろすと、濡れた足をタオルで拭いてくれた。 「んふふ、優しいね~?まもちゃん。」 俺がそう言って笑うと、まもちゃんは笑って言った。 「また風邪ひいちゃうからね。北斗は繊細だから、丁寧に扱ってあげないとダメなんだ…この繊細さに気が付けない人は、北斗を傷つけて、苦しめるんだ。俺はそんな扱いはしないよ?愛してるからね。」 どこかで聞いたような…言ったようなセリフだな。 「まもちゃん…それって…」 俺がそう言うと、まもちゃんは歯磨きをしに洗面へ行ってしまった。 あれって…俺がバイオリンの扱いについて話した言葉によく似てる… 真似したの?おっかしい…! 俺は…バイオリンか… 悪くない。 「ねぇ、まもちゃん?俺はバイオリンと同じなの?」 ベッドに寝転がりながら、隣のまもちゃんに聞く。 まもちゃんは、とぼけて言う。 「何言ってるの~北斗は人じゃないか~。」 嘘だ。絶対俺の事、バイオリンと似てるって思ってるくせに! 変な所でとぼけるんだ、この人は! 「繊細なんだぞ!俺は繊細なんだぞ!」 俺はそう言ってまもちゃんを叩く。 「痛い痛い…北斗ちゃん、ほら、ほら、ねんねしよ…」 俺の背中を抱いて、ギュッと後ろから抱っこする… 背中があったかくなって、気持ちいいんだ… 守られてる感じがして…好き 護に守られて… 護が守る… 「ブフッ!」 「ん?どうしたの…北斗?」 「…何でもない。ちょっと、思い出し笑いしただけだよ?」 糞つまんないダジャレを思いついて、自分で笑ってしまった… 「まもちゃん…おやすみ」 「ん、北斗…愛してるよ。お休み…」 俺の髪にキスして、彼が眠る。 俺は彼の火傷の跡を触りながら、ゆっくり寝入るんだ… 彼の寝息を聴きながら、呼吸音を聞きながら、彼の温かい体に包まれて… 眠るんだ…

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