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8月22日(土)_01

8月22日(土) 「北斗…走りに行ってくる…」 まもちゃんの声が聞こえる…それは、甘い声じゃなかった… 俺は彼を怒らせた。 触れてはいけない所をベタベタ触って…怒らせた。 「まもちゃんの馬鹿…まもちゃんの…馬鹿ぁ…!」 まもちゃんのいなくなった部屋… そう呟いて、泣きながらの起床だ。 そのままバイオリンを手に取って、弓を弦にあてる。 くそっ!くそっ! 全然上手に弾けない!! バイオリンが…俺の事を嫌いになったみたいに… 彼の様に、俺にそっぽを向く。 「うわぁん!うわぁん!」 泣いていると、彼が帰ってきて俺の傍に立つ。 何も言わないで…ただ、傍に立つ。 俺は彼の足をパシパシ叩いて言った。 「まもちゃんが…バイオリンに命令して、俺に弾かせない様にしたぁ!!」 そう言って喚いて、泣く。 バイオリンをケースにしまって、ヘッドホンを耳に付けて、ベッドに戻って布団をかぶって寝る。 「北斗…練習をしないの?」 彼の声が甘くない…甘くない声なんて…聴きたくない…! 俺は完全に拗らせた…。 もう何をしても、自分の思ったように物事が行かない! 死を覚悟していた彼が揺らいでたんだ…だから、死なないでほしいから…俺は覚悟を決めてあの話をしたんだ… なのに…なのに…彼を、怒らせただけだった。 こんな結果望んでいなかった…! それでも俺は彼の傍に居たくて…でも、あの話をした事で彼は甘くなくなった… 言わなければよかった…!! でも、言わなかったら、止められるチャンスを見逃すことになる… 俺にはそんな事…出来っこない。 だって、愛してるんだ…死んで欲しい訳ない。 揺らいでいるなら、死なないで欲しいと願うだろ。 どうやったって…上手く行かなかったんだ… ちくしょう…! 布団をかぶって、大音量で音楽を鳴らして、目を瞑って、1人の世界に逃げる… 誰も邪魔しない…1人の世界に逃げる。 もう、俺の事なんて…放っておいて…… ヘッドホンから流れる音の途切れ途切れに、聴いたことの無い、不協和音が聞こえて、眉を顰める… 耳障りな音に、布団から顔を出す。 まもちゃんが俺のバイオリンを首に挟んで弾いている。 呆気にとられて、ベッドから体を起こすと、ヘッドホンを首に下げた。 ギーコギーコと悲鳴を上げるバイオリンを見て絶叫する。 「キャーーー!やめて!やめて!」 そう言って彼の首から、バイオリンを無事に救出する… そして自分の首に挟んで、彼に教えてあげる。 「弓は抑えて弾いちゃダメだ。弦の上を滑らせて弾くんだ…力なんて要らない…」 そう言って、弦の上を滑らせて音を出す。 そして、彼にまたバイオリンを渡す。 「弾いてみて?とても綺麗な音色なんだよ?」 まもちゃんは俺のバイオリンを首に挟んで、弓を弦にあてる。 「そのまま、腕ごと滑らせて弾いて?」 俺は彼の腕を掴んで、弦の上を滑る感覚を教えてあげる。 綺麗な音が鳴って、体の芯が震える。 「ほら…美しいだろ?」 そう言って彼に微笑むと、まもちゃんは俺を見て言った。 「北斗…ごめん。兄貴の名前を…兄貴の事を…知られたくなかった…」 「どうして?」 「聞かれたくない事の1つや2つ…あるだろう?」 「無いよ…俺はない。」 「…もうやめよう。」 「どうして?逃げるのかよ。護。また逃げるの?」 俺は止まらなくなった… まもちゃんは怒りを露わにして、俺を睨んで見ている。 それでも、止まらない自分を、抑えることが出来ない… 「奥さんをどうした?何で死んだ?言ってみろよ。」 「北斗!いい加減にしろ!」 「どうするんだ?俺も殺すのか?」 バシッ! 凄い音がして、俺の視界が変わって、自分が引っ叩かれたと分かった。 バシッ! 俺はまもちゃんの顔を、同じように引っ叩いた。 「どうして死んだか、言ってみろって言ってんだよっ!」 俺はそう怒鳴って、まもちゃんを殴る。 彼は俺の手を掴んで、思いきりベッドに放る。 俺はまたまもちゃんに掴みかかって、彼の手で、頭を抑えられる。 「北斗!頭を冷やせよ!」 そう怒鳴られて、俺は裸足のまま外に飛び出した。 もう…!ブチ切れた!! 道路を渡って、遊歩道に行って、柵を乗り越えて、そのまま、湖に落ちる。 「北斗!」 まもちゃんの悲鳴が聞こえたけど、もうどうでも良い。 もう水を飲んでしまおう…そうすれば体が沈んでいくから… このまま、沈んで死のう。 誰かが、俺の体を掴んで上に上げる…重苦しい水の抵抗を頭の上に受ける。 そのまま水面に引き上げて、岸に連れて行く…。 「馬鹿野郎っ!」 息を切らした、まもちゃんに怒鳴られる… びちょぬれの体が重くて、滴る湖の水が鬱陶しい… 「…どうせ、俺になんて話してはくれないんだろう…!あんたの心の苦しみも、悲しさも、全部、全部!俺はただの、甘ったるいスケベなガキだからな…。そうだ、俺はまもちゃんに抱かれて、喜んでるだけで良いんだろ…それだけで良いんだ。それ以上を求めたから、拒絶したんだろ…だって!俺はただのスケベなガキだからな!あんたは、それ以上なんて!俺に、求めて無いんだよ!」 俺はそう言って、まもちゃんの目の前で、また湖に飛び込んだ。 彼の心に寄り添いたかった…彼に、死んでほしくなかった。 ただ、俺が口を出してはいけなかったんだ… 死ぬまでのひと時を、甘く過ごせる相手を探していただけなんだ。 また引き上げられて、岸に置かれる。 彼の息も上がって、途切れ途切れに言われる。 「北斗…次は助けられない…だから、もう飛び込むな…」 「助けてなんか…要らない…!死ぬのは怖くない!どうせ俺は誰にも愛されないんだ!あんたは俺をどうして抱いたんだよ…スケベそうだから…?ふふ…ふふふ、そうか…良い遊び相手になると思ったんだ?俺の事…その程度にしか思ってないんだろ?愛してなんかいない…死ぬ前に抱きたかったんだろ!甘ったるい中学生をさ!」 「違う!」 まもちゃんは、四つん這いになってがなり散らす俺の傍に体を寄せて、俺を強く抱きしめる。 「じゃあ何で言わないんだよ!言えよ!俺が言えって言ったら言えよ!どうして死んだんだよ!護!!」 俺は俺を抱きしめるまもちゃんに詰め寄って、彼の肩を掴んで顔を見て言った。 まもちゃんの目の奥が揺れて、歪んでいく… 俺は本気だ 刺し違えても…お前を、逃がさない! 彼の目の奥を射る様に睨みつけて、絶対離さない! 「殺したんだよ。」 言った…とうとう…言った… 観念する様に、視線を俺から逸らして、体の力を抜いて抵抗を止めた彼が言った。 「毒を盛った…毎日、毎日、あの女に少しずつ、毒を盛った…」 俺を見て、まもちゃんが目の奥を黒く揺らめかせる。 それは、いつものイケメンじゃない… 汚く、泥臭い、生臭い表情をした復讐の男… 「俺の事を愛して慕って来た女に、良い顔をして…心の中で憎んでいた…。女として抱くことだってした。愛してるなんて、囁いたりもした…でも、毎日、欠かさず毒を盛った…。」 俺の頬を優しく撫でて、自嘲気味な壊れた笑顔で聞く。 「北斗…俺の事を……怖いと思うか…?」 「思わない」 俺は即答して言った。 「ただ、もう止めろ。」 彼の目を見つめて、真剣な目で俺の気持ちを込めて言葉を聴かせる。 「死ぬ気なんだろ?そんなの嫌だ!雪の進軍…完遂するな。即時撤退せよ!」 俺はそう言ってまもちゃんを強く抱きしめた。 彼は俺の体を抱かずに、力が抜けた様にだらんとする…。 「これは意味のある撤退だ。」 そう言って俺は力の抜けた彼の顔を掴んで自分に向ける。 「俺のパトロンになって、彼女の憎んだ俺に、お金をじゃんじゃん寄越せ。そうすれば気も晴れる。そうだろ、まもちゃん。」 俺がそう言うと、彼は鼻で笑って言った。 「そんなんじゃ、俺の気は晴れない…家族が死んでるんだ…」 「俺の事…愛していないの…?」 彼の目を見て、彼の体に自分の体を添わせて、彼を見上げて、聞く。 「…それとこれとは別の話だ。」 「別じゃない…俺はまもちゃんを愛してる。」 彼の頬を掴んで、思いきり愛を込めてキスをする。 「まもちゃん!愛してるんだ…。俺を1人にしないで…!」 そう言って彼の胸に抱きついて甘える。 「1人にしないでよ…絶対、1人にしないで…」 繰り返しそう言って、泣いて甘える俺の腰を抱いて彼は何も言わなかった。 ただ、俺は彼の核心を見て、触れて、自分の思いを伝えられて… 良かったと…思ったんだ。 どこかに映った偽物の月じゃない、月そのものに触れたんだ。 彼の誰も踏み込めない月面に、俺という宇宙船が着陸したんだ。 どんなに嫌がっても、もう遅いんだ。 だって、俺が彼の月面に、北斗という旗を立ててしまったからね…。 それが…嬉しかった。 「北斗は馬鹿だ!」 とうとう、まもちゃんまで俺を平気でディスるようになった… 俺は小さい弓を持って、彼の車の助手席でお利口にしている。 「んふふ、きっと瑠唯さん喜んでくれるよ?だって、この弓は上等だもん。」 俺はそう言ってまもちゃんを見て笑う。 まもちゃんは俺を見ると、渋い顔をして目を逸らす。 「星ちゃんが前、言ってたことを思い出したよ!無鉄砲で…綺麗な顔して…無茶苦茶で、怒ると…手が付けられないって…本当に、その通りだな!」 そう怒って言ってるけど、俺は気にしない。 だって、その声に甘さを感じるから…だから全然気にならないよ。 車はホスピスに到着した… 俺はバイオリンケースと小さい弓を持つと、まもちゃんを連れてホスピスに入った。 受付のお姉さんに瑠唯さんに面会に来たことを伝える。 しばらく待っていると、少しよろけながら瑠唯さんが来た。 俺は傍に行って彼の体を支えて、椅子に座らせた。 この前とそんなに日も経っていないのに…なぜか今日はとても弱って見える… 「今日、調子悪い?またにする?」 俺は彼の顔を覗いて聞いた。 「ううん。大丈夫。北斗に会えて…嬉しいよ。」 そう言って笑う瑠唯さんの頬が、少しこけた気がする… 瑠唯さんがまもちゃんを見て聞いて来た。 「あの人は?」 俺はまもちゃんを瑠唯さんに紹介する。 「まもちゃんだよ。俺の好きな人。でも、今、俺に怒ってる。」 俺がそう言うと、瑠唯さんが笑って声を出す。 その声が繊細なガラスの様で、前よりも力強さを感じられなかった… 「見て…?これ、作ったんだ…」 俺はそう言って、彼に小さい弓を見せる。 「北斗…これ…北斗が作ったの…?」 俺の弓を手に取って、驚いた様子で毛を見てる。 「弾いてみて?」 俺はそう言って、バイオリンケースからバイオリンを取り出すと、彼の腹に置いた。 「うふふ…これは…凄い物を作ったね…?」 嬉しそうにそう言うと、瑠唯さんは愛のあいさつを弾き始めた… 「あぁ…凄い、良い音色だ…」 そう言って、うっとりしながら弦を鳴らして、小さい弓を上手に使う。 細い指で、弦を抑えて…細い手で、小さい弓を動かして… 力強い愛のあいさつを弾く… 「瑠唯さん…綺麗だ。」 俺が感嘆の声を上げると、彼は涙を落として言った… 「こんなに…弾き心地の良い弓は、初めてだ…」 あぁ…良かった。…良かった! 俺は嬉しくて涙が落ちた。 「4本あるからね。沢山弾けるよ?」 そう言って替えの弓を見せて笑う。 「ふふ、じゃあ…他のも弾いてみようかな…」 瑠唯さんはそう言って、上手に弓を使って亜麻色の髪の乙女を弾いた。 それは儚さの漂う。繊細な音色だった。 俺には出せない…美しい情緒のこもった音色に、うっとりと聴き入る。 「あなたは…素晴らしいバイオリニストだ…」 俺はそう言って、彼の細い太ももを撫でた。 彼はその後も俺のバイオリンと一緒に4曲も弾いた… 楽しそうに、嬉しそうに弓を引く彼の笑顔が…とても美しかったんだ。 「北斗、本当に…こんなにしてくれてありがとう…北斗!」 瑠唯さんがそう言って、突然、胸を抑えてうずくまる。 驚いて、彼の体を支えて、背中をさすった。 「瑠唯さん…大丈夫?苦しいの?」 俺がそう言うと、彼は少しせき込んで、口から花びらのような血を何枚も吐いた。 それがあまりに突然すぎて、俺の頭が真っ白になって、何も出来なくて。 彼の苦しむ顔を見る事しか出来なかった。 「最近…吐血する様になってきて…ごめんね、びっくりしただろ?」 「してない。」 俺はそう言って、彼の体を抱いてさすった。 何てことだ… 本当に死んでしまうじゃないか… 「直生は…?」 彼の顔を覗き込んで聞いた。 「昨日も…来てくれたよ…ふふ、小鳥を持ってね…」 瑠唯さんはそう言うと、少し嬉しそうに頬を赤らめた。 良かった… 直生が傍に居てくれるなら…良かった…。 看護師さんに連れられて、病室に戻っていく瑠唯さんを見送る。 「また来るね…」 そう言って俺が手を振ると、看護師さんの体に隠れた瑠唯さんは、俺の方に顔を覗かせて、微笑んだ。 無力感?いいや、これは恐怖だ…。 沢山の弓を看護師さんに手渡して、瑠唯さんの部屋に届けてもらう… 俺はそのままバイオリンをケースにしまって、まもちゃんとホスピスを後にする… 車に向かう途中…言い知れぬ恐怖を感じて、まもちゃんにしがみ付いた。 彼は、俺の体を強く抱いて静かに呼吸する。 そのまま、何も言わないで、ただ俺を抱きしめてくれた。 「まもちゃん…怖いよ…」 そう言って、彼の体から離れて、車の鍵が開くのを待った… 助手席に座って、体の上にバイオリンケースを乗せて、靴を脱ぐ。 足と体の間にケースを抱える様にして座って、窓の外を眺める… 「まもちゃん…」 彼の名前を呼んで、窓の外を眺め続ける… 言い知れぬ恐怖が…俺を襲ってくるんだ。 死ぬって…何だよ… 会ったばかりなのに…これでは、彼は俺の知るうちに亡くなってしまいそうだ。 それがとてつもなく怖い…。 怖い 「北斗」 俺の飛んでしまった意識を戻す様に、まもちゃんが俺の頭を撫でる。 彼の方を見て放心したまま言う。 「まもちゃんは死なないで…」 溢れて出る涙は、瑠唯さんへの抗えない無力感からなのか。 それとも、目の前の彼が居なくなる事の恐怖を、疑似的にでも体感したせいなのか。 「北斗…人は必ず死ぬよ…」 そう俺に言って、視線を外して車を出す彼には… 俺の止まらない涙は目に入らないみたいだ。 彼の腕を触って、彼の腕に頬を付けて、甘える。 目を瞑って、彼の体温を感じて、甘える。 俺にはあなたが必要なのに…まもちゃんには、俺の声が届かない。 それとも、もう引き戻ることが出来ないくらいになってしまったのかな… 死にたくないんだろ… じゃあ、死ぬなよ。 まもちゃん… 「北斗ちゃん?昨日、お店にいなかったの、何処に行ってたの?」 今日も後藤さんは俺に会いに来てくれた。 俺は彼の癒しだからな。 「んふふ、昨日は、高原に友達と遊びに行っていたんだよ?」 俺は笑顔でそう言って、後藤さんを席に案内する。 彼にメニューを渡して聞く。 「後藤さんは、今日どうする?」 後藤さんは俺の顔を見て、何か面白い事を言おうと思案中の様に黙る…。 「今日は…北斗ちゃんと一緒に過ごそうかな…?」 おもんな… 俺は笑いながら彼の誘いを断る。 「んふふ、それは、無理だよ。俺はまもちゃんのお手伝いがあるからね…」 「そんなの…良いじゃないの…ね?街に一緒に行こう?」 後藤さんはそれでも食い下がって俺の手をギュッと握ってきた… お触り事案、発生です!! 「後藤さん、いつもありがとうございます。あ、この前のケーキ、とっても美味しかったですよ?あれ、どこのお店のですか?」 脇から、すかさずまもちゃんが入ってきて、俺を後藤さんから逃がしてくれる… 「北斗、外の花に水をあげて?」 「は~い。」 俺はそう言って、外の水道でじょうろに水を入れる。 じょうろを両手で持って、外の花壇に水をあげる。 さっきまでの激情や、死への恐怖を払しょくする様に、日常をひたすらこなしていく。 まもちゃんは…まだ俺に怒ってるのかな…少しぎこちなさが残る。 まぁ、良いさ…気にしない。 心が離れてしまいそうな甘さの無い彼に、なぜか安心する。 ただやみくもに甘い彼じゃない、落ち着いた本当の彼を感じてるんだ。 もう彼は俺に何も嘘をつけない… だって俺は彼の月面に居るんだから。 外は今日も暑い…もうすぐ9月だって言うのに…これが残暑なの? 「フンフ~ン、残暑ざんしょ…これが~残暑ざんしょ~」 俺はつまらないダジャレの歌を歌いながら、気分を上げて花壇の花に水をあげる。 こんなに暑いのに、花壇の花は元気に顔を伸ばしてる…健気だ。 カシャカシャカシャと連射の音がする。 カメラ小僧が居るのか…? グラビアアイドルが居るの? 俺は体を起こして辺りを見回した… 「は…!」 背の高い男の人が、俺にカメラを向けている姿と対峙する… 俺とレンズ越しに目が合ってる筈なのに、カメラを全然退かさない様子に恐怖する。 「…肖像権の…侵害だぞ。」 俺はそう言って睨んで凄んだ。 こういう時、下手に下手に出ると相手の思うつぼだ。 俺は強いんだぞって、少しでもアピールしておかないと、舐められるからな。 「ごめんね…キミがあまりにも美しくて…つい写真を撮ってしまった。」 ウケる。 そんな臭い事言いながらも、カメラを下ろさない、そのギャップにウケる。 「おじさんは…あれ?映画泥棒の…親戚か何か?」 俺はそう言ってジャブをかます。 一眼レフのカメラをずっと顔の前から離さないんだ…そう見られてもおかしくないよ… 「ブフッ!映画泥棒…!」 手ごたえあり。 これは…変な人だ! 「まもちゃ~ん!」 俺は店の中に走って逃げる。 後ろから付いて来るその人が、お店に入らない様にドアを閉めた。 「なんだ、なんだ。」 俺の悲鳴にまもちゃんが駆けつける。 ドアの前で締め出された映画泥棒の親戚を見て、まもちゃんが吹き出して笑う。 「北斗、大丈夫。この人は俺の友達だよ。」 え? 友達? 「類は友を呼ぶのか…」 俺はそう言って扉を開けて、彼を迎え入れる。 「ふふっ、驚かせちゃってごめんね…護の昔からの友達だよ。名前は紀夫(のりお)。のりちゃんって呼んでね。」 嫌だよ。絶対呼ばない。 「久しぶり!良く来てくれたな!」 嬉しそうにまもちゃんが笑う。 さっきまでムスくれてたのに…フン! 「護の晴れの日だぞ!来ない訳、無いじゃないか!」 そう言って大きな体同士がハグをする。 このハグの仕方から、彼が海外歴が長い事を察した… スマートで、大げさじゃ無いハグに、こなれた感を感じたんだ。 「この子は北斗。可愛いだろ?見て?このほっぺ…可愛いだろ?」 俺のほっぺをプニプニ触って、まもちゃんが俺を彼に紹介する。 「北斗です…」 一礼して挨拶をする。 「知ってる…可愛い事は知ってる。」 そう言って、俺を見つめて笑うのりちゃん。 「北斗、今日は後藤さんでお客さんはお終いだ!」 まもちゃんはそう言って、お店を閉めた。 気楽だな。 俺は後藤さんが可哀想なので、彼の話し相手をしてあげる。 後藤さんはこの状況に慣れているのか、全然意に介さない様子で、のんびりとおしゃべりしながらランチを摂る。 「でね、北斗ちゃん。俺は言ったんだよ?それは違う!って…なのにね…」 何かの文句を言いながら、後藤さんはポークソテーを食べている。 俺はのりちゃんとまもちゃんをじっと見ている。 どういう関係なんだ…? 俺と星ちゃんみたいに…ラブラブな関係なのか? それは忌々しき事態だよ? 先手を打たないと… 「だからね、北斗ちゃんに教えてあげようと思ったの。聞いてる?」 「聞いてるよ~。後藤さん、美味しい?」 俺は視線を後藤さんに移して、満面の笑顔で笑う。 カシャカシャカシャ…と連射の音がして、のりちゃんの方を見る。 俺にカメラを向けて、口だけニヤけて見える。 まもちゃんに咎められてカメラを外して…俺に向かって紳士的に手をあげて微笑む。 ツーブロックの短めの髪が、洗練されたこじゃれた感を出してるけど、のりちゃん自体はぼんやりとした垂れ目の柔和な印象だ。 子供みたいに俺を見て楽しそうにクスクス笑って…まもちゃんとのりちゃんが大人げないと言う事は、この短時間でよく分かった… 全く…何なんだ…! 目の前の後藤さんに視線を移して、頬杖をついて、彼の食事を眺める。 カシャカシャカシャ…と連射の音がまたして、のりちゃんの方を見る。 また、俺にカメラを向けて、口元がニヤけて笑ってる。 「全く…」 俺はそう言って席を立って、彼らに近付く… まるでいたずらっ子の様にクスクス笑うまもちゃんを一瞥して、のりちゃんのレンズを間近に覗き込んだ。 「肖像権の侵害だぞ?のりちゃん…や、め、て?」 目を見開いて、レンズを覗いて言う。 「ブフッ!」 レンズの向こうの彼は吹き出して笑うと、コクリと頷いた。 その様子に、まもちゃんは地団駄を踏むようにして大笑いする。 ガキかよ…! 全く…世捨て人の様な大人は質が悪いんだ… 見たら分かるだろ? 理久に、直生に、伊織に…まもちゃん。 みんな癖が強いんだ。 この中なら、俺が一番まともに見える。 本当に、つくづく、そう思うね。 「後藤さん、また来てね~!」 後藤さんを見送って、クローズドの看板をそのままにお店の鍵を閉める。 「まもちゃん、まもちゃん、今日はお休みするの?」 俺はそう言って、のりちゃんと話し込むまもちゃんの背中に、そっと触れる。 「まもちゃんが、お友達と遊ぶなら…俺はどうしたら良いの…?」 そう言って、彼の背中に体をもたれさせると、両手を肩からダラリと垂らして、体を揺らして甘える。 これはアピールだ。 俺は、まもちゃんの、特別ですよって、アピールだ! 「ん、可愛いね。いつもそうやって甘えてるの?北斗?」 俺の方を見上げて、のりちゃんがやっとまともに話す。 俺はまもちゃんの背中越しに彼を見て、フン!と顔を逸らすと、頬をまもちゃんの背中に付ける。 温かいんだ…。 「これはアピールだ。俺はまもちゃんの特別ですよって、アピールしてるんだ。可愛いだろ?本当に可愛いんだよ。」 その通りだ。さすがだな、まもちゃん。 まるでさっきの怒りが消えたようじゃないか! 俺をもっと褒めても良いんだぞ。 そんな事を思いながら、彼の背中にもたれてぼんやりする。 俺の顔を覗く様にのりちゃんが身を乗り出してきて、彼と目が合う。 「この顔可愛いね。撮りたい。」 「また怒るからやめておけ…」 そうだ…勝手に撮るな。 「じゃあ、明日はこの場所に行けば良いんだな…ふんふん。了解…」 そう話すのりちゃんの声を聴いて、状況を理解した。 あぁ…明日は23日か… 結婚発表会に、まもちゃんもお友達を呼んだんだ… めでたくないのにね。 全然めでたくないのにさ。 「まもちゃんは…大馬鹿野郎だ…」 俺はそう言って目を閉じて、彼の背中に甘えた。 「ねぇ、北斗も一緒においで。」 まもちゃんが背中に乗る俺に言う。 「どこに?」 彼の背中に乗り直して俺が聞くと、のりちゃんが言った。 「俺の実家だよ。」 のりちゃんの実家?何それ、スイカでも出してくれるのかな… 俺はまもちゃんの背中から体を退かすと言った。 「良いよ。いつ行くの?」 席を立って、俺を見るとまもちゃんが言う。 「北斗、バイオリンも持っておいで。」 一体何が始まるのさ… 俺は言われた通りに、二階にバイオリンを取りに行く。 そして、そのまま階段を降りて、まもちゃんの車の助手席に座る。 「まもちゃん、チュウして?」 運転席に座るまもちゃんに膝立ちして迫り、彼を捕まえてキスをせがむ。 だって、朝から全然していないんだ。 寂しくなったんだ…。 俺の方に体を寄せて、まもちゃんが微笑みながらキスをくれる。 俺は彼の頭を抱えて、熱心にキスする。 舌を絡めて吐息と愛を込めてキスをする。 そして唇を離して、おでこを付けたまま、彼を見て聞く。 「まもちゃん…もう、怒ってない?」 彼の首に手を絡めて、頬を摺り寄せてめちゃくちゃ甘える。 「怒ってないよ…もう怒ってなんかない…」 まもちゃんはそう言って俺の頭と腰を強く抱いて、微笑む。 「凄い見せつけるね。」 後部座席にのりちゃんがいるなんて…知らなかったんだ。 俺はのりちゃんを一瞥すると、姿勢を戻して窓を開けた。 大人がクスクス笑う中、車が動き出す。 窓を開けて外を見ると、歩の別荘の前で本を読む、星ちゃんが見えた。 「星ちゃ~~~ん!!」 俺は窓から大声を出して、星ちゃんに手を振った。 星ちゃんは俺に気付くと、驚いた顔をしながら、笑って手を振ってくれた。 「あの子は?」 のりちゃんが身を乗り出して聞くから、俺は教えてあげた。 「俺の友達。あそこにみんな居るんだ。軽井沢には遊びに来てるの。31日に東京に戻る。」 俺の言葉にのりちゃんは少し黙ると言った。 「そうか…」 なんだよ、まともじゃん。 町中を走っていると、今度は重ちゃんを見つけた。 「重ちゃ~~~~ん!」 俺は窓から大声を出して、重ちゃんに手を振った。 「北斗~~~~!!」 重ちゃんも俺に気付いて、手を振ってくれた。 「あの子も、友達?」 のりちゃんが爆笑しながら聞いて来る。 そら、そうだ。 俺の大声が、車内にこだましてるから…笑っちゃうくらい迷惑だよね。 「そうだよ?お金持ちの家の子なんだ。すごく優しいの。将来、宇宙飛行士になるんだ。でも、言っちゃダメだよ?これはおばあちゃんしか知らない事だからね。」 俺はそう言ってのりちゃんに教えてあげる。 それをまもちゃんが嬉しそうに笑って見ている。 「北斗は、重ちゃんの将来の夢をみんなに言って回ってる…」 まもちゃんは俺の頭を撫でると、そう言って、ポンと叩いた。 そんな事無い。 ちゃんとその都度、口止めをしているんだ、だから、大丈夫。 「着いたよ~。」 町中にある、のりちゃんの実家… それは雰囲気のある写真館だった。 車を停めて、助手席から降りる。 昔の雰囲気を残した古めかしい重厚な写真館… 入り口のショウケースに並ぶ写真がセピア色なのが、妙にしっくりくる… 「のりちゃん家、築何年なの?凄いカッコいいね!星ちゃんが好きそうだ…。」 俺は写真館の目の前に立って、空まで見上げて言った。 「さぁさぁ、北斗、入って!入って!」 のりちゃんは俺の背中を押して、慌てた様に写真館に入る。 「わ、のりちゃん、何で急いでるの?」 入り口に入って、後ろののりちゃんに聞くと、彼は姿勢を正して言った。 「別に…」 絶対嘘だ。 遅れて入ってくるまもちゃんに言いつける。 「まもちゃん…背中押されたぁ。」 まもちゃんは俺の背中を撫でると、優しく背中を抱いた。 「さぁ、こちらにどうぞ!」 のりちゃんはとても楽しそうだ。 大きなレフ版がポツンと一か所に向けて並ぶ場所を通り抜けて、クラシックな空間に通される。 「なぁに、ここ、凄い!」 それは落ち着いた緑のストライプの壁紙の部屋。 猫足の赤茶色い椅子が置いてあって、赤いベルベッドの座面が高級感を出してる。 足元の絨毯まで上等だ…あのおばあちゃんの家の絨毯によく似ている… 「はは、すごい!ここだけ、超お金持ちだ!」 俺は笑ってのりちゃんを見る。 「北斗、これに着替えて?」 まもちゃんが俺に衣装を差し出す。 「何?何で?」 戸惑う俺を他所に、のりちゃんはカメラをセットし始める。 まもちゃんは俺のTシャツを脱がせて、白いシャツを着せる。 彼の目が、嬉しそうで、俺は彼の頬を両手で撫でて、されるがままになった。 ズボンを脱いで、黒いズボンを着せられる。 黒い蝶ネクタイを付けられて、ジャケットを羽織る。 燕尾服だ… よくコンクールで着せられる。 「北斗、かっこいいぞ…」 まもちゃんは俺を見て、満足そうにそう言った。 「何で燕尾服を着るの?」 俺はまもちゃんに尋ねる。 まもちゃんは俺の手を引いて、猫足の椅子の隣に立たせる。 そそくさとのりちゃんの後ろに移動して、振り返って腕を組ながら俺を見る。 「俺の写真を撮るの?」 俺はのりちゃんを見て尋ねる。 全然状況が分からないよ… のりちゃんは少しだけ笑うと俺に言った。 「北斗、バイオリンを出して。」 「なぁに?弾いてほしいの?」 俺はのりちゃんの顔を見ながら聞く。 彼は俺に微笑んで言った。 「ここで、バイオリンを構えてほしいんだ。」 え? のりちゃんの後ろで、まもちゃんが俺にお願いポーズをしてる。 なんだそれ…変なの? 「んふふ。俺のCDジャケット撮影なの?」 バイオリンケースから、バイオリンと弓を取り出しながら、まもちゃんを見上げて尋ねる。 「そうだよ。」 まもちゃんがそう言って笑うから、俺は調子に乗ってみた。 「じゃあ、一番かっこいい顔をしよう!」 そうして指定された位置で、バイオリンを首に挟んで美しく弓を構えた。 「良いね…すごく良い…」 そう言って、のりちゃんがカメラに頭を沈める。 カシャン…カシャン…と写真が撮られていく。 本当は、何の為の写真なんだろう。 どうせなら、まもちゃんと一緒に撮りたいな…。 「つまんない…」 俺はそう言って弓を下ろした。 「北斗…もうちょっと我慢して、ほら、帰りにカツ丼を食べよう。」 「本当?」 俺はまもちゃんの言う言葉を信じて、弓をまた美しく構えた。 「まもちゃん…この椅子に座ってよ…スペシャルサンクスで、俺のジャケットに特別に出してあげる。ね?良いでしょ?のりちゃん。」 俺はそう言ってまもちゃんを包囲する。 「ふふ…良いよ。北斗の好きに。」 カメラに頭を沈めたまま、のりちゃんがそう言うから、俺は嫌がるまもちゃんを連れて椅子に座らせた。 そのまま彼の肩に手を置いて、ギュッと後ろから抱きしめてあげる。 「このアルバムのタイトルは…“お爺ちゃん、死なないで…”だ。」 こう言う時にジャブを入れて、ちょいちょい彼にアピールすることも忘れない。 俺がそう言うと、カメラの中でのりちゃんが大ウケした。 腕の中のまもちゃんは不満そうにする。 「オジジだったら…そのタイトルでも問題ないけど、俺はそこまで年じゃないだろ?」 俺を見上げてそう聞いて来るから、そのまま顔を落としてキスをした。 「まもちゃん、可愛いね…」 そう言って彼の頬をうっとりと撫でる。 俺の衣装の効果なの? まもちゃんが顔を赤くして、照れた… 「照れてるの?俺が、あまりにイケメンだから…照れてるの?」 赤くなった耳たぶを弄って、俺がそう聞くと、彼は言った。 「そうだよ。北斗が、あまりにイケメンだから…うっとりしたんだ…」 「じゃあ、北斗…何か一曲弾きながら撮っても良い?」 のりちゃんがそう言ってカメラを替える。 本当にCDのジャケット撮影みたいだな… まもちゃんを解放してあげて、俺は弓を張った。 「ん~、何を弾こうかな?のりちゃんは何が聴きたい?」 俺はバイオリンを首に挟んで、のりちゃんに尋ねる。 「北斗の一番きれいに見える曲は何かな…?」 のりちゃんは、そう、まもちゃんに尋ねた。 それは俺も気になる所だな… まもちゃんは俺を見て言った。 「全部。でも、中でも俺が好きなのは…シシリエンヌを弾いている時かな…」 そうか… 俺の悲しみのシシリエンヌ。 俺は弓を構えて、シシリエンヌを弾き始める。 それは、少し寂しくて悲しい…そんな美しい旋律なんだ… まもちゃんに…あげる。 目の前のあなたに、この曲を贈ろう。 「あぁ…北斗、凄い…」 のりちゃんが極まって、連射の音がうるさい… 俺を見つめて微笑むまもちゃんを見つめて、バイオリンを弾いている。 彼の為にシシリエンヌを弾いている。 愛してるよ…でも、それは罪じゃないだろ… そう、この曲が使われる有名な劇の有名な言葉を真似る… その言葉に思いのを乗せて…俺はシシリエンヌを弾く。 彼の為に…そして、自分の為に。 曲を弾き終えて、美しくゆっくりと弓を戻す。 「北斗…すごく…美しかった…」 のりちゃんは被写体に大満足の様だ… 俺は燕尾服のジャケットを脱いでまもちゃんに渡す。 「カツ丼、食べに行こうよ…」 そう言うと、感情移入しすぎた気持ちを落ち着ける様に、彼の胸に項垂れる。 まもちゃんは俺を抱きしめて言う。 「とても…美しいよ。」 知ってる…割合的には可愛いと五分五分だ。 俺はまもちゃんの腰に手を回して、彼を抱きしめた… ギュッと抱きしめて、彼に甘えた… 俺の大好きな人に甘えた。 「北斗のバイオリンは本当に美しい音色だった…鳥肌が立ってしまった…!」 そう言って、のりちゃんが腕を俺に見せるけど、何も立っていない。 「のりちゃんは嘘つきだな。鳥肌なんて立っていないじゃないか…!」 俺はそう言ってのりちゃんの腕を手で叩いて笑った。 服を着替えて、いつもの服に戻る。 「まもちゃん?その燕尾服、どうしたの?」 俺はまもちゃんに尋ねた。 だって、サイズがあまりにもピッタリだったんだ… 「これは、北斗の明日の衣装だよ。俺が用意したから…穴とか開いてないよ?」 そう言って笑うまもちゃんに、俺は言った。 「すごく丁度良かったよ。ありがとう。」 「せっかく格好良くするのに、明日は写真なんて撮れないから…今撮ったんだ…」 そう言って俺に抱き付いてハフハフするまもちゃん… それをニヤニヤ見るのりちゃん… お腹が空いて、カツ丼が食べたい俺…三者三様だ。 「北斗、出るときはこっちから出て?」 のりちゃんがそう言って、裏口の方を指さす。 「へ?何で?」 俺はバイオリンケースを手に持って聞いた。 のりちゃんはまもちゃんを見て、まもちゃんが俺に言う。 「ここら辺には、彼女の知り合いが多いから…北斗が見られると、また昨日みたいになるだろ…?俺が、そうなりたくないんだよ。ごめんね。」 そうなんだ… 俺はちょっとした、ゴシップ有名人扱いか。 だから急いで入り口に入れられたのか… 「まもちゃん、じゃあ俺は、ここではカツ丼も食べられないの?」 悲しそうに聞く俺に、まもちゃんは笑って答える。 「個室のお店が多いから、そこに行こう。」 マジかよ… まるで隠れキリシタンだな。 のりちゃんを見て心配して聞く。 「ねぇ。のりちゃんは…俺と居て平気なの?」 彼はケロッとした顔で言う。 「家は両親がここ長いから…俺自体は海外に行ってばかりだし…関係ない。でも。あの家の利権に絡んでる人は中々そうはいかないんだよ…ごめんね。北斗。嫌な思いをするよね…これが田舎って感じでさ。」 そう言いながらのりちゃんは、俺の前髪を指で別けて、おでこを出させる。 そうなんだ… 「のりちゃん。俺、明日、チェロと一緒に弾くんだ…楽しみにしていてよ。すごく面白い二人なんだ…尊敬してるんだ。彼らの事も写真に撮って…?」 俺はのりちゃんにそう言って、まもちゃんに続いて裏口に向かって歩き出した。 「そうか…北斗も行くんだな。」 声を沈めてそう言うのりちゃんに、振り返って話した。 「そうだ。俺は奏者として招かれたからな。最高の演奏をまもちゃんに贈ってあげるんだ…聴き漏らすなよ?んふふ!」 そうだ、サプライズを用意しているからな…!! 伸るか反るかの大ばくちだ。 「わぁ~、まもちゃん。俺、こんなお店で食べるの初めてだよ?」 のりちゃんの家から歩いてやって来た、町中の高級カツ丼屋… 背の高い二人が、体を屈めて暖簾をくぐる。 俺はその後ろを付いて行く。 「あれ、のりちゃん、帰って来てたの?いらっしゃい!」 高級な外観とは違って、中にいる人はいたって普通だ。 「奥、良い?」 のりちゃんがそう言って、俺は彼らの後を付いて行く。 観光客が沢山にぎわう店内の奥の、完全個室に通される。 凄いな…有名人みたいじゃん… 俺は4人掛けのテーブルの手前に座って、隣のまもちゃんの体にもたれた。 「北斗、明日は何を弾くの?」 のりちゃんが俺の正面に座って、両手をテーブルに乗せて聞いて来る。 「ん~、明日は…結婚行進曲2曲、愛のあいさつ、パラディスのシシリエンヌ。この4曲だ…ただ、俺はその他にも沢山楽譜を渡されているから…どうなる事やら…ふふ。」 そう言って、まもちゃんの左手を掴んで、自分の目の前のテーブルに置く。 そして、当然の様に火傷の痕を反対の手のひらで撫でた。 「護。北斗は小悪魔系だ。」 のりちゃんがそう言ってカメラを構える。 「そうだよ?だから、あんまり写真で撮ると、呪われるんだぞ!」 俺はそう言ってのりちゃんに凄んだ。 「ふふふ。可愛い。」 のりちゃんが俺の頬を手の甲で撫でて、プニプニの頬で遊ぶ。 「そうやって舐めてると…かみ殺されるぞ?俺は、一回、殺されかけた!」 そうのりちゃんに言って、まもちゃんが笑う。 殺す訳ない、愛してるんだ。 コンコンとノックされて、俺はまもちゃんの左手を離して、もたれていた体を起こした。 「北斗、何にするの?」 「カツ丼」 そう決めていたからね。 俺のお腹だってそのつもりだもん。 「じゃあ、カツ丼二つと、牛ヒレカツ丼一つ。」 何だと! 「牛ヒレカツ丼って何?」 俺は前のめりになって、店員さんに注文をするのりちゃんに聞く。 「牛ヒレカツ丼は…これだよ?」 メニューを見せてのりちゃんが笑う。 「わぁ!俺もこれにする!」 「北斗はカツ丼って言ったじゃないか!」 まもちゃんがムスくれて言う。 「だって、牛ヒレカツ丼の方が…魅力的じゃないか!」 俺はまもちゃんにテヘペロして、そう言った。 俺がメニューを変えたのを見て、まもちゃんも心が揺らいだ。 「じゃあ…俺も、それにしよう…」 結局、牛ヒレカツ丼を三つ。注文した。 「まもちゃんは自分が無いよ。俺が変えたからって変えるのは、格好悪いね。」 俺はそう言ってまもちゃんの左手を掴むと、また自分の目の前に持ってきて手のひらで撫でた。 「北斗だって、のりちゃんが頼んだの聞いた瞬間、変えたじゃないか。」 そう言ってまもちゃんは俺の髪を手のひらで撫でる。 「のりちゃんはいつも、どの国へ行ってるの?」 俺は俺達を見てニヤニヤするのりちゃんに話を振って尋ねた。 「え…そうだな…色々だよ。北欧から、ブラジルまで…本当にあちこち行って写真を撮ってる。一応ライターの仕事もしてるから…パソコンさえあれば、どこでも生きてけるんだよ…」 気楽だな。そんなんだから、浮世離れするんだ。 「へへ、じゃあ写真を撮っていて、危ない目に遭ったことはある?例えば、強盗とか…殺人とか?」 俺は興味津々にのりちゃんの話を聞く。 だって、見聞は広いじゃないか…為になるんだ。 「逆に、俺は北斗の話が聞きたいな…?」 首を傾げて俺を見て微笑むと、のりちゃんがそう言った。 そこはさすが大人だね。なんだか色っぽいよ。 「へぇ…何が知りたいの?」 俺はそう言ってケラケラと笑う。 「そうだな…護のどこが好きなの?」 ほほ!なにそれ! ふざけようと思ったけど、のりちゃんの目はふざけていなかった。 俺の事を見て、まるで友達に相応しい奴か…確認するみたいな目をしてる。 だったら、それをさっちゃんにもやれよ… 俺は、正直少し苛ついた。 「そうだな…まもちゃんが俺の事を好きだから、俺はまもちゃんが好きだ。」 そう言って俺はのりちゃんをジロリと見る。 俺の苛つきが伝わったのか、彼は口元を緩めて笑う。 俺は片側に頬杖を付いたままのりちゃんから視線も外さないで、彼の下らない質問の続きを待ってる。 「じゃあ、護が今度、結婚するのは知ってる?」 俺の目を見ながらのりちゃんがそう聞いて来る。 彼の目はまるで笑ってる様な、楽しそうな目をしてる。 「知ってる。」 俺はのりちゃんと視線を合わせたまま、まもちゃんの左手を指先で撫でる。 のりちゃんが次の質問をする前に俺は逆質問をした。 「では、俺からの質問です。デデン!のりちゃんは、この下らない質問を俺にする前に、さっちゃんにしようと思わなかったのですか?」 「ブフッ!」 隣のまもちゃんが吹き出す。 のりちゃんは大笑いすると俺に謝ってきた。 「ごめん、北斗。そんなつもりじゃなかったんだよ…ふふ…」 大人二人が笑う中、俺は不満げな表情でのりちゃんを見る。 「ばっかみたい。」 そう言ってそっぽを向いた。 コンコンとノックされて、俺の牛ヒレカツ丼が運ばれてくる。 「わぁい!」 俺はまもちゃんから体を起こして、目の前の御馳走を喜んだ。 三つの牛ヒレカツ丼のほかに、美味しそうなサラダが付いて来た。 「ん、これ頼んでないよ?」 のりちゃんが店員さんに言った。 すると、店員さんが俺に言った。 「あちらのお席のお客様が、バイオリンの子にって…注文されました。」 おや、誰かね… 「北斗、ご挨拶してきて…」 結局見つかってしまった俺に、まもちゃんが諦めてそう言った。 「北斗は目立つんだよ…」 そんな陰口を背中に聞きながら、俺は店員さんに案内されて、サラダの発注主の元に向かう。 「北斗!」 「重ちゃ~ん!」 彼はご両親とカツ丼を食べていた。 俺は牛ヒレカツ丼だ。 重ちゃんよりもワンランク上の食べ物だぞ! 「丁度、さっき中を歩いて行くのが見えたから…ふふ。」 ニコニコ笑顔の重ちゃんはそう言うと、俺の手を取ってギュッと握って自分の隣の席に座らせた。 「重ちゃん、さっき俺の名前呼んでくれたでしょ?んふふ!」 「北斗も、僕の名前、呼んだだろ?」 二人で顔を見合わせてクスクスと笑い合う。 「重明が突然大きな声を出すから、びっくりしたんだよ!ハハハ。」 重ちゃんのお父さんがそう言って笑う。 俺はすかさず、お父さんにサラダのお礼を言った。 「明日、結婚発表パーティーで北斗に会うのを楽しみにしていたんだよ。今日会えるなんて、嬉しいな…。」 重ちゃんはそう言って、俺の前髪に手を伸ばして指で分けた。 「北斗君は、明日は奏者として参加するのかい?」 重ちゃんのお父さんに聞かれる。 「はい。僕は明日、奏者としてお招き頂いています。」 俺が礼儀正しくすると、重ちゃんがクスクス笑う。 重ちゃんのお母さんが、俺の方を見て、眉を下げながら聞いて来た。 「北斗君は…あのお家と何か関わりがある訳ではないのよね?」 「おい、止めないか…」 お父さんがお母さんに止める様に言って、俺に、すまない。と言った… 「でも、北斗君とは仲良くさせてもらってるじゃない…重明がこんなに楽しそうにして…本当に感謝してるの。だから、あの人たちに関わると、良くないって教えてあげるべきだわ…おばあちゃまも心配されるわ…」 お母さん!あの人たちとは…誰の事ですか? そんなの聞かなくても分かる… でも、お父さんはこの話題を好んでしたそうに見えなかった… だから、俺は早々に退散することにした。 こう言う時は、事実のみを述べることが正解だ! 「僕は大奥様に気に入って頂けて光栄に思っています。明日もいらっしゃるのなら、お会い出来たら嬉しいです…それでは、失礼します。」 礼儀正しくそう言って席を立つと、にこやかにお辞儀をした。 重ちゃんには特別にウインクしてあげる。 そのまま踵を返してまもちゃんの元に戻る。 なるほど…ここの財閥の家と、さっちゃんの所は…少し違う様だ… ふぅん… これが成金と、そうでない金持ちの違いなのか…? これは…何かが動きそうな予感がするぞ! 「まも~る。帰ったぞ…このサラダは重ちゃんからの贈り物だ。」 俺がそう言うと、まも~るは大笑いして言った。 「これ、この呼び方!この前、彼女の前で言ったんだよ?信じられる?この子に怖いものは無いんだよ…本当にさ、笑っちゃったよ!俺の方が怖くなってくるよ…全くさ。」 気を許した人なんだ… こんな風に話す彼を初めて見た… ハッキリと、彼女に気が無い様子を…彼が話せる人を初めて見た。 「のりちゃんは…良いやつなんだな。」 俺はそう言って、席に着いた。 そしてお箸を持つと、牛ヒレカツ丼をお行儀悪く食べた。 「北斗…汚いから、もっと落ち着いて食べて…」 それは、いつも言われるから慣れてるもん。 「重ちゃんからのサラダも食べたまえ!」 俺はそう言って、まもちゃんにサラダをよそってもらう。 「ねぇ、のりちゃん?お腹いっぱいなの?」 「違う。ゆっくり食べてるだけ…」 そうなんだ…凄い遅いよね。 だって俺はもう食べ終わっちゃったから… まもちゃんの丼の上の牛ヒレカツを一つ貰った。 「北斗、サラダ食べてて…」 そう言って、俺にサラダを勧めるのりちゃんの丼から、目が離せないよ… だって、まだ三切れも残ってるじゃん。 じっと見つめる俺を、じっと見つめるのりちゃん… 俺は結局のりちゃんから二切れ、牛ヒレカツを貰って満足した。 「北斗の友達は、もう北斗と車も一緒に乗りたくないって怒ったんだよ。俺にパンチして、キックして、頭突きして、暴れて、大変だったんだ。」 そんな事を教えるんじゃないよ。 もっと良い事を教えてあげてよ。 まもちゃんが嬉しそうに、楽しそうに話しているのを見て、安心する。 この人にはちゃんと話せる友達がいたんだ…良かった。 友達なら…止めてくれるかもしれない。 「北斗は、バラの花だな…棘があるんだ。」 のりちゃんがそう言って俺に流し目をする。 「棘なんてものじゃない!もう…有刺鉄線だ!北斗には有刺鉄線と電流が流れてるんだよ!」 まもちゃんが生き生きと俺をディスる。 「じゃあ、まもちゃんは死んでるね。俺にベタベタ、メソメソ、すぐするから、有刺鉄線と電流で、死んでるね!」 俺は少し拗ねてみせて、まもちゃんのご機嫌を取る。 「違う…そうじゃないよ?それだけ、刺激的って事を言いたかったんだよぉ…北斗~?」 そう言って俺に甘えて、フンだ…! チラッと彼の顔を見る。 ウルウルした瞳で俺を見上げて、今朝とは大違いだ。 全く。可愛いから許してあげよう… 「じゃあ、帰りにソフトクリーム買ってよ。」 俺がそう言うと、まもちゃんは嬉しそうにフニャッと笑って言った。 「良いよ。」 本当に、この笑顔はズルいな。 車でまもちゃんの家に帰る途中、スーパーで沢山買い物をした。 今日はまもちゃんの部屋で家呑みだって… 俺は酔っ払いが居るからって、歩の別荘に追い出されそうになってる… 「ダメだよ。北斗は歩の所に行っておいでって…ただ!あいつの傍には行っちゃダメだよ?星ちゃんの傍に居なさい。」 俺だって、楽しそうにしてるまもちゃんをもっと見たいのに… 「寂しいじゃん。聞かれちゃまずい事でも話すのかよ。」 俺はそう言ってけん制する。 「フハハ。護。どうする?どうするの?」 のりちゃんが楽しそうにまもちゃんを煽る。 ソフトクリームが売ってるコンビニに寄ってもらって、1つ買ってもらう。 ペロペロなめながら、まもちゃんが楽しそうにするのを見て笑う。 「北斗。俺にも、星ちゃんにしたやつやってよ…」 そう言ってソフトクリームを舐める俺に近付いて… 運転がおろそかになっていますよ? 「じゃあ、どうぞ~」 俺はそう言ってソフトクリームを差し出した。 まもちゃんが舐めるタイミングで、一緒に舐めてあげる。 「あハン!」 嬉々として体を跳ねて喜ぶから、車が揺れて事故に遭いそうだ。 「見て…のりちゃん。まもちゃんがこんなだから、俺の友達は怖がっちゃったんだ…あの子はもう、まもちゃんの車には乗りたがらないと思うよ…?」 俺はそう言って、まもちゃんの腕を叩く。 まもちゃんはまた俺の方を見て、ソフトクリームを舐めたがる。 馬鹿なんだ… おれはまたソフトクリームをまもちゃんに差し出す。 彼が舐めるタイミングで一緒に舐めて、舌を掠める。 「あハン!」 また、まもちゃんが暴れて、対向車線に飛び出した。 「あぁ!本当に危ないな、そう言う事は降りてからやれよ、護!」 怒られた!怒られた! のりちゃんは、笑いながらも怒っている表情だ。 そうだろう?良い年した大人がこんなんなんだもん… 「まもちゃんはガキみたいなんだ。昔からこんな風なの?」 俺は後ろののりちゃんに聞いた。 「いや、根暗の気取ったやな奴だったよ。こんなにはしゃぐのは…久しぶりに見てるかもしれない…ふふ、ははっ。明日は雪でも降るかな…」 意外だな。 俺はソフトクリームを舐めながら言った。 「気取った奴は…何となくわかるんだ。でも、根暗って…想像つかないな。」 俺がそう言うと、のりちゃんが身を乗り出して言った。 「みんなと居る時は平気な顔してるのにさ…二人になった途端にイジイジ…ブツブツ言い始めるんだ…」 え? 「それって今も同じじゃん…」 俺はそう言ってまもちゃんを指さして笑った。 「全然変わってないじゃん!まも~るは進化が止まってるんだ。子供のままで止まってるから、頭が悪いんだ!」 俺がそう言うと、まもちゃんはムッとして、のりちゃんは大笑いした。 車がまもちゃんのお店について、俺は自分のバイオリンのケースを持って降りた。

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