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8月24日(月)_01
8月24日(月)
「北斗…起きて…キャンプに行こう。」
急だな…
体を起こして時計を確認すると5:30だった。
「今日は、走りに行かないの?」
俺はそう聞いて布団に潜る。
「行かない。ほら、起きて…車の中で寝て良いから…」
全く!
俺は体を起こして、まもちゃんを見る。
彼はキャンプ仕様の派手な配色のウインドブレーカーを着て、青い日よけの帽子とサングラスをかけて、俺を見て笑いかける。
俺の着る服を勝手に見繕って、これを着ろという。
全く!
俺は自分のジーパンに、Tシャツ…そして、彼の派手な配色の色違いのウインドブレーカーを着せられて、ゴムの付いた麦わら帽子、サングラスを付けられる。
手を引かれて、玄関に向かう途中、バイオリンを手に持つ。
そして、靴を履いて、彼と手を繋ぐ。
階段を降りて、車の前に来て、驚いた。
「わぁ…いつから準備してたの…?」
車の中にはテントと、クーラーボックス…その他の道具が積まれて、車の屋根にはパラソルと椅子が畳まれて括り付けられている。
「さぁさぁ、乗って!」
そう言われて、いつもの助手席に座る。
運転席に乗り込む彼は、いつもよりもご機嫌だ。
俺はバイオリンを抱えて、車の窓を開ける。
早朝の風がさわやかに車内に入ってくる。
「北斗、北アルプスのふもと、富山県まで行こう!」
そう言って、彼は車を出す。
とても楽しそうな様子に、俺まで楽しくなってくる。
携帯を車のオーディオに繋げて、音楽を流す。
それはクラシックじゃない、オペラでも無い、ピアノでも無ければ、バイオリンでも無い、今、流行りの洋楽だ。
「んは~!朝の湖はキラキラしている…見るのは良いけど、入るのは嫌だ。」
俺はそう言って両手を伸ばして伸びをする。
運転席のまもちゃんはご機嫌だ。
鼻歌を歌って、サングラスをかけて、調子をとる様にハンドルを持つ手で、トントンとする。
「んふふ、なんだ。ご機嫌じゃないか~。」
俺はそう言って、彼の頬にキスをする。
んふふッと喜ぶ姿が、可愛いんだ。
早々に高速に乗って、山々の隙間を道路が走る。
「わぁ…まもちゃん。山が大きいな…綺麗だ…」
俺はすっかり窓の外の景色に夢中になる。
だって、こんなに目に沢山の緑を見ることが無かったから…同じ日本とは思えない手つかずの自然に驚愕して、目を奪われた。
「北斗ちゃん、これから行く所はもっとびっくりするよ?とっても綺麗なんだ…お前に見せてあげたかった…」
そう話す彼はいつものまもちゃんじゃないみたいに、自由だ。
いや、いつも自由なんだけど…まるで子供みたいに、自由なんだ…
「それは楽しみだ~!」
俺はそう言ってウキウキする。
彼が言うんだ、間違いない!
手前の山の向こうに、大きな山が霞みがかって見える…
それがいくつも連なって峰を作る…
あれが…北アルプス…飛騨山脈。
空気のせいでぼやける姿を遠目で見ただけでも、ゾクゾクする存在感だ。
「今、ちょっとだけ見えた~!」
俺はまもちゃんに報告する。
「ほ~!見えちゃった?まだ、ダメだよ~。見ちゃダメだ~!」
ふふ…おっかしい。
休憩所に立ち寄って、山の谷間に雲が出来るのを見る。
「まもちゃん!見て!雲だ~!」
俺は大はしゃぎして手すりに体を付けて、指を差して教えてあげる。
まもちゃんは嬉しそうに俺の様子を見て、優しく笑う。
風が吹いても、ゴムが付いた麦わら帽子は飛ばなかった。
「俺が付けたんだよ?」
得意げにそう言って、胸を張るまもちゃん…大好きだ…
「やっぱりまもちゃんは良い腕をしてるね。」
俺はそう言って、彼の背中を抱いた。
休憩を済ませて、再び車に乗る。
サングラスを少し下げて、俺にキメ顔をして…格好つけてくるまもちゃん。
本当に馬鹿なんだ。
「ふふふ!あはは!もう!まもちゃんの馬鹿!」
そう言って、笑いながら車に揺られて、俺達は富山県まで行く。
北アルプスのふもとまで。
こんなに楽しくて、自由なのは初めてだ…
この人とならどこへでも行けそうな気がして、心が躍る。
一緒に逃げようよ…このまま遠くへ。
「あぁ…まもちゃん!見えた~~!」
それは目の前に現れた。
美しい山脈…
もはや、城壁だ…
まるでこの土地の神様みたいに佇む圧倒的な山々に、俺は畏れを抱いて、自然の美しさに感動した…
「凄い…」
本当にこんな陳腐な事しか言えなくて…
ただ、目から涙が落ちた…
「まもちゃん…綺麗だね…山、もっと近くへ行くの?」
「当然!あの山のふもとまで行って、一日一緒に過ごすんだよ?」
それは…とても、贅沢だ…
「んふ~!!楽しみだ!」
俺はそう言って笑って、俺のバイオリンにも、この景色を見せてあげる。
ケースを開けて、バイオリンに言う。
「見て?こんなにきれいな景色を見た事がない!一緒に見て!」
その様子をまもちゃんが笑って見てる。
見聞を深める事は良い事だろ?
高速を降りて、緑の草原が広がる道を走る。
「これは、牧草だよ。」
まもちゃんが教えてくれた。
「牧草…凄く綺麗な色をしてる!」
絵の具の原色を塗りたくった様な…生える緑色の絨毯が広がってぼやけていく。
遠くに牛のシルエットが見えて、運転席のまもちゃんに教えてあげる。
「まもちゃん!牛がいる!牛が!歩いてるよ!!」
こんな所に…住みたいよ…
「お昼ごろには、馬も放牧されたりしてるよ。今日は見られるかな…」
馬!馬!大好きだ!!
「俺、馬、大好き!会いたいよ!乗馬したい!」
あの優しい瞳が好きだ。
賢くて、勇敢で、頼もしくて、しかも、足が速いんだ。
最高だろ?
肌に触れると温かくて…あ、まもちゃんみたいだな…
そう思って、1人で吹き出して笑う。
「なぁんで笑った…?」
まもちゃんが聞いて来るから、教えてあげた。
「まもちゃんが…馬に似てると、思ったんだ。」
俺がそう言うと、まもちゃんが大爆笑して、反対車線に車が行く。
俺も一緒になって笑って、彼に言う。
「これは誉め言葉だよ?だって、俺は馬が大好きなんだから。」
だから、まもちゃんが好きなのかな…
ふふ、まさかな。
まさかな…
オートキャンプ場について、車で中まで入る。
それは、どこに場所をとっても飛騨山脈に抱かれる最高のロケーションだ。
良い場所をまもちゃんが見つけて、俺は車を降りる。
「うわ~~~~!!」
大きな声で叫んでも、誰も居ない!!
「うわ~~~~!!」
隣で、まもちゃんも大きな声で叫ぶ。
本当に馬鹿なんだ。
彼がテントを立てる間、俺は緑の草原を走り回る。
カラっと乾いた空気の晴天。
気温はほどほどに熱いけど、何よりも遮るものがないから、日差しが強い…!
少しでも走っていれば早くなるかもしれないかな…?
俺は靴を脱いで、はしゃいで駆けまわる。
今年の5月に14歳になったばかりだ。
「北斗、テント入ってみる?」
まもちゃんが開いたタープの向こうは真っ暗で、怖かったけど、俺は走って入った。
「アハハハ!凄い!テントだぁ~~!」
そう言って寝転がると、地面の上とは思えないくらい柔らかくて驚いた。
「マットを敷いたんだ。お前はすぐゴロゴロするからね。」
そう言って笑うまもちゃんに抱きついてキスをする。
「まもちゃん…山がこんなに近いなんて…凄い素敵だ…!」
感動して胸がドキドキする。
「良い場所に椅子と日傘を置いてあげよう。ちょっと待っててね。」
そう言って彼がテントの外に出る。
俺はそれを、広くて開けっ放しのテントの出入り口から見送る。
車の上から日傘を下ろして、椅子を小脇に抱えながら、山を見て、場所を探してる彼の背中を見る…
ふと目から涙が落ちて、慌てて拭いた。
「北斗~!良い所見つけた!」
彼の弾む声が聞こえて、俺はテントを飛び出す。
「わ~い!」
それは、どこに置いても同じと思える程に開けた場所だった。
テントから少し離れた場所に日傘がかかる。
日陰の中の椅子に腰かける。
目の前の北アルプスの城壁を眺めて、俺は感嘆の声を上げる。
「まもちゃん!ブラボー!!」
そう言って彼に拍手を送る。
彼は俺に丁寧にお辞儀をして、そっと体を屈めると、俺にキスをした。
それがあまりに素敵で、うっとりと我を忘れてしまう…
こんな楽しい時間が、過ぎていく事が惜しいよ。
ずっと一緒に居たい。
まもちゃんは焚火の用意をして、道具を次々と設営していく。
俺はそれを横目に見ながら、椅子に腰かけて目の前の山と話す。
「なぁんて…おおきいんだ…どこから来たの?」
お腹の上にバイオリンを抱えて、山と話し込む。
膝を立てて椅子に座る俺に、まもちゃんがジュースを足元に置いていく。
裸足の足に冷たいジュースが当たって、俺は少し驚いた。
「ひゃあっ!」
俺のその声に、まもちゃんが笑いながら絡んで来る。
「随分、かわいい声で、驚くんだな~?」
そう言って俺の座る椅子に、お尻を強引に落として座ってくる…
「ここは狭いんだ。座りたいなら、あっちの椅子に座って?満員だよ?」
俺はそう言って、彼の体を足で蹴って退かす。
まもちゃんは笑いながら俺の足首を掴む。
こうなったら…やられることは予想が付く。
俺は彼と見つめ合って言う。
「もし、やったら怒るからな…?」
目で睨んで、口で笑いながら、凄む。
「北斗ちゃんの足癖を直そうとしてる…」
そう言って彼は、俺の足の裏を澄ました顔でこしょぐる!
「だははは!やめて!ん、やめて!!だははは!!」
「もうしない?もう、足でしない?」
「しない!もうしない!」
俺がそう言うと、足はすぐに解放されて、ずり下がった体を戻しながら、俺はバイオリンを地面に置いた。
まもちゃんの方を向いて、両手を広げて、彼を椅子に座らせる。彼の体に巻きつく様に抱きついて、甘える。
「まもちゃん…空気が綺麗ってこういう事を言うんだね…」
そう言って彼の手のひらを触る。
大きくて、力のある手だ。
「…そうだね。空気が綺麗だ…」
そう言って上を見ながら、目を瞑る彼の伸びる首を見る。
汗がにじんで、キラキラ光ってる…
「まもちゃん…お腹空いた…」
俺はそう言って立ち上がると、椅子に腰かけたまもちゃんの正面から向かい合う様に座り直す。
「お腹空いた…」
そう言って彼に抱きついて甘えて、彼の肩に項垂れる。
「じゃあ、何か作ってあげようね…」
俺の腰を抱きしめながら、まもちゃんがそう言った。
だから、俺は顔を上げて、彼の頬に頬ずりして、そっとキスをした。
鉄板みたいな受け皿に乗った焚火に火を付けて、火を起こす彼の背中を見る。
手慣れた様子で木を動かして、息を吹きかけて、火を定着させてる。
「凄いね…上手に出来るね。」
俺は彼の隣に寄り添ってしゃがんで、感心しながら火を見守る。
パチパチと音を立てながら、火が定着して安定して燃える。
熱い筈の火がユラユラと揺れる様子に、手を伸ばして触れたくなるのは…多分俺が馬鹿だからだ…
三脚を立てて、上から鍋を吊るす。
「これには何が入ってるの?」
俺は振り返ってまもちゃんに聞く。
「開けてからのお楽しみ…」
彼はそう言って笑った。
お楽しみ…?何が入ってるの?
俺はワクワクしながら鍋が温まるのを見ている。
クーラーボックスで冷やして運ばれたせいか…鍋肌に水滴が滴る。
「はい。どうぞ?」
そう言ってまもちゃんが差し出してきた物を見る。
長い鉄の棒にパン生地がクルクル巻いてあって、先っぽにウインナーが刺さってる。
「んふふ。何これ…」
俺は笑いながらそれを受け取ると、彼が火にかざすのを見て、真似してやった。
「これで、パンが焼けるの?パンは窯で焼くんじゃないの?」
俺が聞くと、まもちゃんは自分の隣に小さい椅子を展開させて、俺を呼んだ。
そこに腰かけて彼にもたれながら渡された棒を火にかざす。
たまに、まもちゃんが俺の棒をくるくる回して、火をまんべんなく当てている。
「お腹空いた~。お腹が空いた~。」
俺はそう言って、鉄の棒を自分に寄せる。
「まだ早いよ。」
まもちゃんがそう言うけど、表面は焼けてるっぽいよ?
俺は焼き目の付いたパン生地を、指でつまんでちぎってみた。
「ほらぁ…まだ早いだろ?」
俺には焼けてるように見えたけど、まもちゃんはそう言って、俺から鉄の棒を取り上げた。
俺はちぎった部分を口の中に入れて、モグモグした。
「焼けてるよ?」
俺はそう言ってまもちゃんから鉄の棒を取ろうとする。
「だめだよ、まだもう少しだよ…」
そう言ってまもちゃんは俺から逃げる。
いつの間にか、お鍋から湯気が上がってる。
一緒に良い匂いもしてきて…俺のお腹は限界だよ…
テントのタープの下に、展開されたテーブルに、お鍋が置かれる。
俺はいち早く椅子に座って、蓋が開くのを今か今かと待ってる。
目の前のお皿に、焼いたパンとウインナーが乗って、お鍋の蓋が開く。
「うひゃ~!!」
それは美味しそうな煮込みハンバーグ!
まだお鍋の中がグツグツ言ってる!
「ん~~!美味しそう!美味しそう!」
俺は喜んで椅子の上で跳ねる。
まもちゃんはそんな俺を見て、嬉しそうに笑った。
「さっきのは生焼けだったみたいだ。」
俺はお皿のパンをかじってそう言った。
「そうだろ?だから言ったんだ。」
そう言うまもちゃんの持ってるパンに、俺のちぎった跡があって、俺は指を差して笑って教えてあげた。
「まもちゃん、俺のパン食べてるよ?」
まもちゃんは俺に笑いながら言う。
「北斗の焼いたのが食べたかったんだ。」
あら、まぁ…それは…とてもかわいい事を言う。
顔が熱くなって、耳までボウッと熱くなる。
「だったら…もっとちゃんと焼いたのに…」
俺はそう言いながら、モジモジしてパンをかじった。
煮込みハンバーグの大きさが大きくて嬉しかった。
一緒に煮込まれていたトマトが口の中でトロける…。
「まもちゃんはお料理が上手だね。どうしてバイオリン職人になったの?コックさんになればよかったじゃない。」
俺はそう言って笑った。
まもちゃんは俺の方を見て言う。
「俺はコックだよ?」
知ってるよ。
だけど、まもちゃんにはバイオリン職人に戻ってほしいんだ。
オジジと一緒に、居てほしいんだ。
お皿を洗って、外に立てかけて乾かす。
パラソルの下に戻ると日が傾いて日陰が移動していた…
「まもちゃ~ん、日陰が動いた。」
俺はそう言って、彼にパラソルを立て直してもらう。
バイオリンを手に持って、ウクレレの様に弾きながら山を見る。
「最高だね…こんな贅沢。なかなか出来ないよ?」
俺がそうバイオリンに話していると、まもちゃんが隣にやって来た。
手にはビールだ。
ヨッコラショ…と隣の椅子に腰かけて、片手でビールを開ける。
ゴクゴクと喉を鳴らして飲んで、足を組む。
そして俺の方を見て、サングラスをちょっと下げて…キメ顔をするんだ。
「こっち見んな。」
俺はそう言って、視線を落としてバイオリンを爪弾く。
ハァ~!とため息をついて、伸びをして、のんびり過ごす彼を見る。
俺の可愛いまもちゃん。
お洒落で、イケメンで、すぐにふざけるまもちゃん…
俺は彼の隣で、椅子の上であぐらをかいてバイオリンを爪で弾く…
ウクレレみたいに抱えて弾いたり…琴みたいに置いて弾いたり…
コントラバスみたいに立ててピチカートしたり…
「ふふ…やっぱりこれが一番しっくりするね。」
そう言ってバイオリンを首に挟んで、弓を構える。
「北斗…何か弾いて?」
まもちゃんのリクエストに応えて…俺は、亜麻色の髪の乙女を弾いた。
だって、この景色と…よく合っていたんだ。
城壁か…高い津波の様な…北アルプス…
美しい峰をうねらせて…水色の空を切り取る…
「あぁ…良いね…」
そう言って、サングラスを外して、目を瞑って微笑むまもちゃんを眺める。
俺の口元も緩んで、彼の為にゆったりと…優雅にバイオリンを弾いてあげた…
寝息を立てる彼の隣に座って、上を見上げて空を眺める。
時間がゆっくり過ぎて…肩の力が抜けるような…心地よさ。
トンビかタカが上空を飛んでる…猛禽類だ。
きっと、まもちゃんを食べに来たんだ…
死んだように寝ているから…
俺は立ち上がると、まもちゃんから離れて探検に出かけた。
「こっちには何があるの…?」
そう独り言を良いながら、バイオリンと一緒に探検に行く。
緑の草原の向こうには、チョロチョロ小川が流れていた…
少し坂になった道を降りて、小川の側まで行くと、川を挟んだ向こう側の小さい子供と目が合う…元ちゃんくらいの女の子。
俺は彼女ににっこりと微笑んだ。
彼女は驚いた顔をして少し離れてから、振り返って、微笑んだ…
可愛い。
こっち側は砂利になっていて、渓流釣りを楽しむ大人たちの声がする。
あの子は多分、そのおうちの子なんだろう。
小さい頃からこんな所に連れて来てもらえるなんて…羨ましいよ。
俺は理久と行った公園のジャブ池しか、水遊びの思い出が無いよ。
理久…
俺に抱きつかれて、そのまま転んでずぶ濡れになったんだよな…
よく怒らなかったよ…。ふふ。
「お兄ちゃん…それ何?」
お兄ちゃんと手を繋いで、急いで戻ってきたその子が俺に話しかける。
お兄ちゃんは妹を背中に隠して、立派にお兄ちゃんしてる。
その姿に、不覚にも萌えてしまった…
可愛い!
「これ?これは…バイオリンだよ。」
俺はバイオリンを見せて、静かな声で教えてあげる。
川を挟んだ向こう側の兄妹…
「楽器なの?」
「そうさ。」
「聴きたい!」
ふふ…可愛い。でも、変態だと思われたら困るな…
俺は川を挟んだ兄妹と川を挟んだまま歩いた。
そして、なるべく大人がいる方へと歩いて行った。
「あ、どうも、すみません。」
若いお母さんが、子供たちに気が付いて俺にそう言う。
「今日はいい天気ですね。」
俺はそう言って、上を見上げた。
お父さんがやってきて、兄妹が言う。
「あのお兄ちゃん、楽器持ってるよ?お父さんも持ってるよ?」
何だって?それは…
「一緒にいかがですか?」
俺はそう言って微笑むと、バイオリンを掲げて見せた。
お父さんは俺を見て笑うと言った。
「では、一緒に…!」
車の中から取り出したギターケースから美しい模様の入ったギターが出てくる。
瑠唯さんを思い出すな…
「わぁ、年季が入ってますね。」
俺はギターを見て笑って言った。
だって、とてもクラシカルだったんだ…
張られた弦が、ペグからだらしなく伸びてビョンビョン跳ねる。
これは…プロのプライベートギターっぽい…
「何を弾こうか?」
兄妹に身を屈めてリクエストを願う。
「…んっと、星に〇いを…」
わぁ…権利が怖いな…でも、子供だもの。そう言うのが聴きたいよね…
「良いよ。」
俺はそう言って、お父さんと軽く打ち合わせする。
「では、私が伴奏しましょう。」
お父さんの伴奏で、俺が主旋律を弾くことになった。
バイオリンを首に挟むと、目を輝かせて女の子が見つめてくる。
「…お兄ちゃん…カッコイイ!!」
だろ?知ってるよ。
俺は弓を美しく構えた。
お母さんまでうっとりしてくれた…
あれ?俺、モテ期来たかな…
お父さんとアイコンタクトして、星に〇いを…を弾く。
クラシックギターのナイロン弦が可愛い音色で伴奏をするから、俺もなるべく柔らかい音を出して、バイオリンを奏でる。
この音色…瑠唯さんを思い出す。
帰ったらホスピスに行こう…瑠唯さんに、会いたいな。
伴奏の質から、お父さんがプロである事が分かった。
お父さんも俺を見て、驚いた顔をした。
「このお兄ちゃんは上手だぞ?」
ありがとうございます。
そして一緒に星に〇いを…を弾きあげる。
それは初めて会った人とでも、楽しく分かち合える瞬間…。
緑の草原の方から、まもちゃんがやって来て、俺を見て優しく微笑む。
起きたんだ…食べられなかったんだ…
俺は彼の方を見て、微笑み返すと曲のクライマックスを弾く。
ちょっとだけ、技巧を使って子供たちを驚かせてあげる。
「うわぁ!すごい!」
だろ?超絶技巧だよ?しかも3倍だ。
曲を弾き終わって、俺は弓を下ろす。
「お兄ちゃん!かっこいい!結婚して!」
女の子がそう言って、俺の足に抱きついて来る。マジか…良いのか…?
「こら。勝手に結婚するな~!」
お父さんが女の子にそう言って笑う。
「とても楽しかった。ありがとうございます。」
俺は丁寧にお辞儀をした。
「あぁ…なんかいちいち格好いいわ…」
お母さん…そんな…いけません。僕は童貞です…
素敵な家族と別れて、まもちゃんの元へ戻る。
「お兄ちゃん!結婚して!」
そう言いながら手を振る女の子に、苦笑いしながら手を振り返す…。
「北斗…俺が寝ている間に、結婚の約束か…」
まもちゃんがそう言って拗ねる。
「だって、トンビかタカがまもちゃんを狙っていたんだ…巻き込まれたくなかったから1人で逃げたんだ…。」
俺はそう言って、彼の背中を抱いた。
「あっちは釣りが出来るみたいだよ…」
隣のまもちゃんを見上げて、教えてあげる。
「急に、居なくならないで…心配したんだ…」
そう言って口を尖らせて、まだ拗ねているまもちゃん…
可愛いかよ…
俺は彼の体に抱きついて言う。
「ごめんよ。大好きだよ。もう居なくならないよ。ずっと傍に居るよ。」
大きな彼の頭を撫でて、ご機嫌を取る様にセクシーボイスで話しかける。
「こんなに美しい君がいるのに、他の女に目をくれてしまってごめんよ。お願いだ…許しておくれ…馬鹿な俺を許しておくれ…」
俺の演技かかった様子に、ジロッと視線をあてると彼は言った。
「…じゃあ、家買って?」
何て女だ!
「嫌だ…住宅ローンと、責任は負いたくないんだ…」
俺はそう言って、ポケットに手を突っ込んで、まもちゃんから離れた。
「酷い!そうやって、遊んで暮らせるのは、20代までよ!ろくでなし!!」
そう言って俺の体をバシバシと叩いて来る…
全くバイオリンが落ちるじゃないか…!
物欲と資産が人を亡ぼすと言う事に気が付けない内は、家なんて…ダメだよ。
「まもちゃん、抱っこして?」
俺は急にごっこ遊びを止めて、まもちゃんに両手を広げる。
まもちゃんは俺を見つめて微笑むと、グッと下から持ち上げて抱っこしてくれた。
「俺は一生結婚しないよ…」
彼の肩に顔をもたれて、ぼんやりしながらそう言う…
「どうして?」
まもちゃんがそう言って俺の顔を覗く様に体を引く。
「俺の大好きな人が…結婚で、何回も失敗してるから…」
そう言って彼に抱っこされながら、バイオリンを首に挟む。
弓を弦にあてて弾く。
葬送行進曲…
まもちゃんは爆笑すると、俺の腰を掴んでくるっと回った。
俺は遠心力なんかに負けないで…弾き続けてやる…
「このまま叩きつけて殺しちゃえよ~!」
俺が言うと、まもちゃんは笑って言う。
「全く…物騒だな!」
そうだ、俺は有刺鉄線だからね…
弓を外して彼の背中にだらりともたれる。
「大好きだ…」
そう言って顔を彼の首に埋める。
段々と寒くなってきた。
もう日が落ちるんだ…
そして夜が来て…次の日になってしまう…
こうやってどんどん、別れの日が近づいて来るんだ…
やんなっちゃうね…
「北斗~?夜ご飯食べに行こう?」
何だと?
俺はテントの中でバイオリンを拭いてケースにしまっていた。
ここは、キャンプ場。
そして、まもちゃんはキャンプ上級者と見た。
しかし、その彼から出た言葉は“夜ご飯食べに行こう”…“行こう”だと?
「なぁんで?まもちゃんが作るんじゃないの?」
俺はそう言って、嫌がった。
まもちゃんは靴を履いたまま俺の方に膝でハイハイしてくると言った。
「北斗…鱒寿司…のどぐろ…白エビ…バイ貝…」
まもちゃんが真顔で美味しそうな名前をポツポツ言ってくる…
その真剣な表情から、俺は察した。
「行こうじゃないか…」
バイオリンを手に持つと、俺はテントを出て、まもちゃんの車にお先に乗り込む。
まもちゃんは荷物をテントの中にしまって、タープを閉じた。
そして、お風呂セットを持って運転席に座る。
「帰りに温泉によって行こ~!」
温泉!?
「ふっふ~!」
俺は喜んで両手をあげた。
温泉なんて…何年ぶりだろう…
小さいときに行ったっきりだ。
お母さんと一緒に女湯に入って、女の子におちんちんをじっと見られて以来だ…
あんなにじっと見なくても良いのに…女の子は積極的だ…
「まもちゃん、のどぐろって美味しいんでしょ?聞いたことあるよ?」
運転席のまもちゃんに言うと、まもちゃんが喜んで言った。
「美味しいよ~。今日良いのが獲れたって聞いたんだ!」
聞いた?誰に、いつ、聞いたんだろう…
まもちゃんは知ったように慣れた運転で目的地へ向かう。
「来たことあるの?」
俺は視線を下げて、バイオリンのケースを撫でながら、ぼんやりとまもちゃんに聞いた。
車が信号で停まって、車内が赤く光る。
おもむろに、まもちゃんが、俺の方に体を寄せて顔を近づける。
「ん、何?」
顔を上げて彼を見ると、そっと舌を入れてキスをした。
何で、今?
そう思いつつも、俺は彼のキスを気持ちよく受けて、トロける。
「俺の友達がいるんだ。彼にも北斗を紹介したいんだ…良い?」
優しく髪を撫でられて、とろんとした瞳でそう言われて、俺はただただうっとりと頷いた。
いつもふざけてるのに、不意にカッコよくするのは卑怯だ…
ギャップにドキドキしてしまう…
でも…好き。
老舗の雰囲気あるお店の駐車場に車が停まる。
「バイオリン持っていく~。」
俺はそう言って、バイオリンを持って車から降りる。
彼は特に何も言わないで、俺がそうする事を受け入れてくれる。
だって、もしかしたら盗まれちゃうかもしれないじゃん…
そう考えたら怖くて、置いてなんかいけないんだ。
店の入り口に大きな暖簾がかかっていて、まもちゃんが潜って入る。
「いらっしゃいませ~!おっ!護!来たか~~!」
「晋ちゃん、久しぶり!元気だった?」
俺は大人が挨拶し合う中、店内の入り口に設けられている生け簀から目が離せないでいる…
大きな生け簀に…魚と、貝と、蟹がヌルッと動いてる…
うへぇ…星ちゃんが来たら、めちゃくちゃ喜びそうなお店だ…
俺は星ちゃんが魚を捌くのを見ているせいか…ただただ、生け簀の中の彼らが、不憫に思えてしまう…
「この子が話した北斗だよ…」
まもちゃんがそう言って、俺の肩を掴んでお友達に紹介する。
「北斗です。初めまして…。」
俺はそう言って、まもちゃんのお友達に挨拶した。
まもちゃんのお友達は、板前さんらしからぬセクシーな黒シャツ姿で、さわやかな笑顔は、プレイボーイの印象を俺に与えた。腕まくりした袖口から見える腕は、俺のまもちゃんの方が格好良かった。
「ふふ…美少年だな。どこで捕まえたんだ。」
そう言ってカウンターから出てくると、まもちゃんと抱き合った。
俺は彼の黒シャツも気になったけど、目の前のお客さんの前に出された、タイの生け作りに背筋が凍った。
自分の体が食べられるのを見るなんて…悲しいよ
「晋呉(しんご)って言うよ。晋ちゃんて呼んで良いよ。よろしくね…」
そう言って、彼はよそ見する俺の顎を掴んで、クイッと自分の方に向けた。
当然のごとく、俺はその手を指先で丁寧に退かした。
「フッ!」
手が退かされて嬉しいのか、晋ちゃんは笑ってまもちゃんに言った。
「お前にお似合いの気の強さだな。」
そうだ、俺達はお似合いなんだ…
お店の奥に案内される。
良かった…
生け簀からあげられて、目の前で捌かれるのを見るのはごめんだった。
星ちゃんの手によって、俺は既に弱肉強食と生態系の理を知ってる。
十分なんだ。
「ここに座って?」
まもちゃんの案内で、掘りごたつのお座敷に座る。
「まもちゃんが先に入って?」
俺はそう言ってまもちゃんを先に奥に座らせる。
「どうして?」
晋ちゃんが聞いて来ると、まもちゃんが答えた。
「北斗は俺の左手が触りたいんだよ。だから、俺はこの子の右側なの…」
少し嬉しそうにそう言って、まもちゃんが先に奥に座る。
その様子を口元を緩めて晋ちゃんが見ている。
俺はまもちゃんの隣に座ると、彼の左手をテーブルの下で握って撫でる。
晋ちゃんは面白そうにまもちゃんの顔を見てる。
俺は彼の顔を見て、のりちゃんの様にこの人がまもちゃんの友達なのか…知り合いなのか…それとなく観察する。
「昨日は、仕事で行けなくてごめんな。まぁ…俺の行く様な所じゃ無いけどな…フフ。」
そう言って、晋ちゃんは俺の顔を覗く様に姿勢を低くして顔を覗いて来る。
俺と目が合うと、器用にウインクしてにっこり笑う。
やりなれてるウインクに、この人がプレイボーイだという確証を得た。
まもちゃんの周りには、癖の強い大人しかいないみたいだ…
「晋ちゃん聞いてよ、この子が凄い事をしたんだよ…本当にのりちゃんも笑い転げてた…!」
まもちゃんがそう言って席について早々、俺を褒め称える。
もっと、もっとだ!
そう思っても、俺は何も言わないよ。
だって大人の話に入るとろくな事が無いからね。
「へぇ、何したんだよ?」
まもちゃんの話に興味津々に、身を乗り出して聞く晋ちゃんの顔はとっても嬉しそうに見えて、この人も大丈夫だと…俺は判断した。
「お色直しから帰ってきたら来賓が居なくなってるんだよ。呆気にとられて放心していたら、向こうの方で楽しそうにみんなで踊ってるんだよ。親族以外のみんなを連れて、あの下らない会をボイコットしたんだ!凄いだろ!?痛快だった!」
そう言って俺の頭をめちゃめちゃ撫でる。
なんだ、そんなに喜んでたなんて…知らなかったよ。
良かった…俺も少しは役に立ったんだ…。
「嘘だろ?北斗、どうやったんだい?」
俺の顔を覗き込んで晋ちゃんが聞いて来る。
「…バイオリンを弾いた。」
俺は短くそう答えて、まもちゃんの手を握る。
アハハハ!と大きな声で晋ちゃんが大笑いする。
「この子が彼女に会って初めになんて言ったと思う?バイオリンを今すぐ手放せ!だよ?笑っちゃうよな…兄貴と同じ様な事を言うんだ…。俺は、痺れちゃったよ。」
まもちゃんが嬉しそうにどんどん俺を褒める…
やめてよ…恥ずかしいじゃないか。
心配になるくらい、まもちゃんの話は大体が俺が中心だ。
俺を褒め称えて、俺の起こした出来事を笑いながら晋ちゃんに教えている。
話はあの花火大会の日…俺がこのバイオリンを手に入れた日の話になった。
「あの爺に言ったんだ。自分はこのバイオリンを苦しませないで、愛してあげれるって…凄いだろ。誰も言えないよそんな事。それで、あの爺がこのバイオリンをこの子に譲ったんだ。それも…彼女の目の前で。信じられなかったよ。その後、この子が弓からすぐに毛を外してさ…反りを見てるんだよ…。俺はそれを見て…堪らなかったよ…」
グスンと泣き始めるまもちゃんに、晋ちゃんが言う。
「それで…べた惚れになったのか…?」
「いや、見た瞬間恋に落ちたね!」
まもちゃんは泣き止んでそう言って、大笑いする。
情緒不安定なんだ。
晋ちゃんが俺の目を見て目を細めて言った。
「こんなに護が楽しそうに話すのを見たのは、いつぶりかな…。北斗はあちこちで奇跡を起こしまくってるな。」
奇跡…?
一番大事な事をまだ起こせていないよ。
トントン
扉がノックされて、料理が運ばれてくる。
「わ~!凄い~!」
それはのどぐろのお刺身!脂が乗っているのか切り口がツヤツヤと輝いてる。
「きゃ~~~!」
俺は喜んで、お箸を持ってスタンバイした。
まもちゃんはそんな俺を見て渋い顔をして言った。
「北斗…お行儀よくね…?」
「は~い」
次から次へと美味しい海産物が運ばれてくる。
お行儀よく…ねぇ。
まもちゃんは、まだまだ晋呉さんと楽しそうに話してる。
俺はそんな彼の弾む声を楽しく聴いている。
お刺身を一切れお箸でつまんで、お醤油でいただく。
「ん~~~!美味しい!」
何てことだ!こんなおいしいお刺身を食べた事が無い!
「晋ちゃん、美味しいね?この魚、美味しいね?」
彼は俺に名前を呼ばれたのが嬉しいみたいで、興奮してまもちゃんに言った。
「晋ちゃんって…言ってくれた!」
「やめて?」
まもちゃんが不機嫌になる。
「北斗、お魚のおじちゃんって呼びなよ。その方がピッタリくるし、ね?お魚のおじちゃんで良いよ。」
まもちゃんが拗ねた。
晋ちゃんがまもちゃんに謝りながら俺に言った。
「なぁ、北斗、そんなに凄いバイオリン…俺にも聴かせてくれないか?」
俺はまもちゃんを見て彼の笑顔を見ると、晋呉さんに頷いて答えた。
「良いよ。何を弾こうか?」
そう言ってバイオリンケースからバイオリンと弓を取り出す。
「これが…あの時のバイオリンか…」
晋呉さんが神妙な面持ちでまもちゃんに言った。
まもちゃんが彼に頷いて答える。
この人ものりちゃんと同じで一部始終を知ってるんだ。
じゃあ、あの事も知ってるのか…
「この子の元に辿り着くなら…壊さなくて良かった…燃やさなくて良かった…!」
かみしめる様にそう言うまもちゃんを見て、俺は堪らなくなって彼をギュッと抱きしめた。
そんなに思っていてくれたって知らなかったから、心が震えたんだ。
まるでここはまもちゃんの月面だ。
知らなかった彼の気持ちを聞いて、そう思った。
ここには嘘も偽りもない、彼の心の本音しか、耳に入って来ない。
嬉しくて泣き出しそうな気持を隠して、バイオリンを持って立ち上がる。
それは座敷に不釣り合いな物だけど…それでも俺は美しく立つ。
そしてバイオリンを首に挟んで、弓を美しく構える。
そして、美しきロスマリンを弾いた。
食べてる物が魚だから…マリン。
海で連想してその選曲にした…秀逸だ。
「わぁ…凄いな…」
晋呉さんが俺のバイオリンの音圧に圧倒される。
当然だ。
俺のバイオリンは凄いんだ…何てったって、彼が作ったからな。
曲を弾き終えて、弓を弦から離して下ろす。
座敷の外から拍手が聞こえて、俺は見えない相手にお辞儀をした。
「北斗…すごいよ…。もっと聴かせて…」
晋ちゃんはそう言うと、俺の目の前に正座した…
何…どうしたの?
まもちゃんは、そんな彼の様子に吹き出して笑ってる…
「…ん、良いよ…何を弾こうか…?」
俺はそう言って、足元で正座する変な大人を見つめる…
「はっ!…じゃあ、ツィゴイネルワイゼン…はぁはぁ…」
やばいじゃん…極まってるじゃん…!
大丈夫なのかな…
俺はまもちゃんの方を見た。
まもちゃんは声を殺しながら腹を抱えて笑ってる…
仕方ないな…
俺はバイオリンを首に挟んで弓を構えると、勢いを付けてツィゴイネルワイゼンの冒頭を重厚に弾く。
晋ちゃんが口を開けて俺を見上げているのを見下ろしたまま、技巧を使って、曲を弾いていく…。
「あぁ…綺麗だ…」
ひと言そう言ってまもちゃんの方を見ると、晋ちゃんが笑って言う。
「このバイオリンはこの子のだったんだ…」
不思議だ。俺もそう思うんだよ…。
初めて弾いた時感じたんだ。
まるで俺を待ってたみたいに、しっくりとくる、音色と手ごたえに…
自分のバイオリンなんじゃないかって…そう思って、絶対に手放したくなかったんだ。
晋ちゃんの言葉に、まもちゃんがまたメソメソし始める…
全く、本当に泣き虫なんだから。
ツィゴイネルワイゼンのクライマックスを弾きならす。
晋ちゃんが俺の事を口を開けながら見上げる。
その顔がとっても間抜けで、俺は彼を見ながら笑って弾く。
まだまだこれから盛り上がって行きますよ?晋ちゃん、一緒に着いて来て!
俺は目で訴えながら彼を応援する。
ここからピチカートが入りま~す!
俺の左手の指の動きを見ながら、激しく動く弓を見て、放心してる。
良いんだよ。バイオリンは見る物じゃない。
目が疲れてしまうから、目を閉じて耳で聴いてしまった方が楽になるよ。
曲を弾き終えて、弓を下ろす。
「凄い!カッコいい!凄い!北斗、凄いカッコいい!」
晋ちゃんに拍手と最上級の誉め言葉を頂いて、丁寧にお辞儀をする。
バイオリンと緩めた弓をケースにしまう。
まもちゃんの隣に戻って、まだメソメソする彼の頭を抱いて、優しく撫でてあげる。
「晋ちゃん、まもちゃん、泣き虫なんだ…。泣かせないで。」
俺は晋ちゃんにそう言って、まもちゃんを抱いたまま、白エビの唐揚げを食べた。
何だこれ、めっちゃ美味しい…モグモグ
「…北斗は、ギャップが凄いんだ。」
晋ちゃんはそう言って、のっそりと自分の席に戻ると、俺に鱒ずしを差し出して言った。
「俺が作ったんだ。北斗、美味しく食べて?」
俺はそれを受け取って、美味しく頂く。
「うはっ!美味しい。お料理上手なんだね?まもちゃんと同じだ。」
そう言ってケラケラ笑うと、まもちゃんが突然泣き止んで言った。
「家の親父が北斗を気に入った。」
「まじか~~~~!!」
そんなに大声で驚く事なのか…
というか、まもちゃんのメソメソはウソ泣きなの?
じゃなかったら、本当に心配するレベルの情緒不安定さだよ?
ノリが80年代の漫画なんだよ…。
「あの頑固おやじをどうやって絆したんだ!」
晋ちゃんが興味津々で俺に聞いて来る。
だから、俺は教えてあげた。
「…バイオリンを弾いた。そうしたら認めてくれた。職人はみんな頑固者なんだ。オジジはちょい悪だけど、意地悪じゃない。だから好き。」
俺がそう言うと、まもちゃんが神妙な顔をする。
「北斗…家の親父、兄貴のバイオリンをいつも持ち歩いてるんだ。この前、弾かせてもらったの?」
俺は頷いて答えた。
「初めに工房に行った時、オジジが昼休みだから弾いてくれって…その時、初めて触らせてもらった。まもちゃんのバイオリンに似てる、手ごたえの良い音色だった。」
俺は目の前の美味しい焼き魚を食べながらまもちゃんに教えてあげた。
「…信じられないよ。あのバイオリンを触らせるなんて…しかも初対面の相手に。北斗、あのバイオリンは兄貴が無くなって以来、俺の記憶では誰も弾いた事が無いんだよ。それを触らせたなんて…信じられないよ。」
そう言ってまもちゃんは俺を見て放心してる。
「オジジは分かってる。まもちゃんの事心配してる…。だから一緒に居てあげて?」
俺はそう言ってまもちゃんの近くに行って、彼の鼻の穴に指を入れた。
さらに、まもちゃんのほっぺを両手で挟んでピヨピヨさせて遊ぶ。
「嫌だよ…仲が悪いんだ!」
まもちゃんはピヨピヨした口でそう言ってフン!とする。
そんな事言って…本当は嬉しい癖に。
俺は晋ちゃんの顔を見て言った。
「そっくりなんだ…本当に、この人はオジジに、そっくりなんだ。」
素直じゃない所も、ふざけて遊ぶところも、相手を思い遣りすぎる所も。
そして何よりも、顔がそっくりだ。
「北斗は護の奥さんみたいだな…」
え…?
晋ちゃんの何気なく放ったその言葉が凄く嬉しくて…俺は固まって顔が赤くなった。
俺の顔が赤いのを見たまもちゃんの顔が赤くなる。
俺らの事を見た晋ちゃんの顔も、なぜか赤くなる…
変な空気が流れて、沈黙が続く…
「確かに、俺はまもちゃんの奥さんみたいだな…」
俺はそう言って彼の顔を見下ろしてクスクス笑う。
「そうだな、北斗は俺の奥さんだ。」
まもちゃんはそう言ってクスクス笑う俺を抱きしめる。
俺とまもちゃんは愛し合ってるんだ。
夫婦は愛し合った人が成る形だろ?
だとしたら、俺とまもちゃんは立派な夫婦だ。
「もっと食べたい。」
俺はそう言って大人の会話を抜ける。
まだ、この後、蟹が来るんだから!
生け簀に居たあの子じゃありません様に…
「ごちそうさまでした~。」
俺はお腹いっぱい食べた…!!
「本当に…どこに入って行くんだってくらい食べたな…」
晋ちゃんがそう言って俺のお腹を触る。
「触んないで…」
そう言ってまもちゃんが晋ちゃんの手を止める。
俺は晋ちゃんの顔をじっと見て意味深に言った。
「俺、31日で東京に帰るんだ…。」
彼は俺の顔を見下ろして、表情を曇らせると意味深に言った。
「分かった…」
俺がいなくなった後の、彼の事を頼んだ…
俺はそう言うつもりで言った。きっと、晋ちゃんもそのつもりで答えてくれた…
「またね~!」
俺はそう言って晋ちゃんと別れた。
そしてお先に車に戻った。
何だか二人だけで話したそうだったから…俺は先に車に戻ったんだ。
車内から…ちょっとだけ、二人の方を向いて様子を伺う。
晋ちゃんが何か言って…まもちゃんが顔を下げて泣く…
顔を上げたまもちゃんが首をゆっくり横に振る。
頑固者なんだ…
その後、諦めた様にまもちゃんの肩を抱くと“また電話しろよ”と言った。
何となく…彼がまもちゃんを止めようとしてくれた気がした…
この復讐を…もうやめろと言ってくれた気がした。
良いやつだ。
運転席に座った彼は、俺に泣いた事を知られたくないみたいに、いつもと違う方向を見ながら車をバックさせる。
だから、俺は気が付かないふりをして言った。
「とっても美味しかったね。まもちゃん、また連れて来て。」
まもちゃんはしばらく黙った後、ポツリと言った。
「もう来ないだろ?」
ふぅん…
「晋ちゃんのお店がつぶれない限り…また来れるよ。」
俺はそう言ってまもちゃんに答えた。
彼は前を見て運転して、俺の言ったことに反応しなかった。
頑固者だからな。
「温泉は近くにあるの?遠くにあるの?」
俺は話題を変えた。
「ここと、キャンプ場の間位だよ。北斗ちゃん…まもちゃんと、お風呂に入ろうね…」
すぐそうやってふざけるんだから…全く、やれやれだ。
俺はそう思いながらまもちゃんを見て、裸足で彼の腹を蹴飛ばした。
「グフッ!」
そう言ってダメージを受ける彼をケラケラと笑ってみる。
「本当に足癖が悪いんだ!」
「ねぇ、何であんなに晋ちゃんはバイオリンを聴きたがったの?」
俺は話をまた変える。
正座までして聴いていたからちょっとびっくりした。
「さぁ…北斗が…美しいからじゃない…?」
まもちゃんはそう言うと、俺の頬をすっと撫でて掠める。
マジかよ…本当にそうだとしたら…
「俺は、魔性だな…ブフッ!」
自分で言って自分でウケた…!
まもちゃんの方を見ると、彼は笑わないで俺に言った。
「北斗は美しいよ…自分が思うよりもお前は美しいんだ。」
そうか…
俺はバイオリンケースを膝に乗せて、指で彼の名前をなぞりながらぼんやりと外を眺めた。
美しいと可愛いの割合について真剣に考える。
自分では五分五分だと思っているのに、美しいが増えていく…
これでは…均衡が崩れる。
「まもちゃ~ん!俺は可愛いんだよ?」
自分でアピールして“かわいい”と”美しい”のバランスをとる。
「ブフッ!うん…北斗は可愛いよ。」
そうだ、俺は可愛いと美しいが五分五分の男なんだ。
均衡を崩してはいけないんだ。
俺はまもちゃんの友達二人と会った。
そして、どちらの友達も、良いやつだった…
どちらも彼の復讐を知ってる。
それでも止められ無いんだ。
彼がとんだ頑固者だ。という事が分かった。
まるで死ぬ前のあいさつ回りに付き合わされている様で、俺はあまりいい気はしないよ。
彼の最後の女みたいに思われるのだけはごめんだ。
だからまた連れて来て…とお願いしたのに、彼は、もう来ないだろ。と言った。
全く、やれやれだよ。
温泉に着いて、受付でお金を払う彼の後ろに立って、彼の背中を見る。
俺達は親子には見えない。親戚の叔父さんと中学生の僕だ。
でも、本当は夫婦だ。
色んなオジジのいる温泉で、俺はまもちゃんと裸の付き合いをする。
「北斗、背中流して?」
仕方が無いな…
面倒だけど、大きな彼の背中を流す。
「良いですねぇ…私もね、息子が居て…昔はよく二人で銭湯とか行ったんですけどね…大きくなると遊んでくれなくてね…寂しいんですよね。」
そんな風に、どこかのオジジに声を掛けられる彼の背中を見る。
「あ…アハハ。そう…ですよねぇ…」
そう言って笑って誤魔化す彼の背中を見る。
「お父さん、俺、先に入ってるね。」
そう言って、彼を残して、先に露天風呂に向かう。
「寒~い!」
“露天風呂”と書かれた引き戸を開けると、夏なのに裸だからか…夜の冷え込みもあってか…とても寒い。
体を縮こめて、ひょこひょこ歩いて、露天風呂に足の先からゆっくり入る。
空には満天の星空が見える。
「ん~!歩、これだよ…あの別荘は改修工事をして、こうするべきだ…!」
俺はそう1人で言って、空を仰いで、お湯に浸かる。
さぁ、頭の中でボレロでも演奏しようかな…
「北斗ちゃん!」
オネエみたいな声を出して、まもちゃんが俺の露天風呂に入ってくる。
それはバシャバシャと波を立てて、大きな音を立てて…
おかげで俺のボレロが止まった。
「ゆっくり入りたいから、静かにしてよ。」
俺はまもちゃんを一瞥して、また初めからボレロを演奏する。
彼が空を見上げて気持ちよさそうに伸びをする。
俺の隣に来て、一緒に空を見上げる。
「綺麗だな~。」
そう言って俺の頬にキスをする。
こういうのを公然猥褻っていうのかな。俺は気にしないでお湯に浸かる。
「このお湯の効能は何?」
そう聞きながら、俺は両手ですくってまもちゃんの大きな肩にお湯を掛けてあげる。
「リウマチ、ひび、あかぎれ、その他もろもろ…」
効能の看板を最後まで読むのも面倒なの?
適当にそう話す彼の背中を見る。
「まもちゃんの家にも温泉をひいたらいいのに…」
俺はそう言って、彼の背中に手を当てて撫でた。
「北斗、温泉を弾くと毎月お金がかかるんだよ?温泉料って言ってね…」
長々と話す彼をおいて、俺は室内にある泡ぶろへと向かう。
せっかく来たんだから、全部のお風呂に浸かりたいじゃん。
サウナの前を通って、泡ぶろに入る。
凄い勢いのジェットに足をすくわれて、転びそうになる。
「うひゃっ!」
俺が体勢を崩すと、まもちゃんが俺の腕を掴んで助けてくれた。
危ない。こんな所で頭を打って死ぬ所だった…!
「んふふ。今のは危なかった!」
俺がそう言って笑うと、まもちゃんが渋い顔をして言う。
「もう、気を付けて!」
全く、本当に、そうだよね。
俺は渋い顔の彼に、笑って頷いた。
「帰ったら、学校が始まって…それで9月26日に向こうに行って…3日間練習して、9月30日にコンクールがある。これに入賞すると、向こうの音楽院へ特待生として飛び級して入る権利が得られるんだって…。うちの両親はどちらも落ちた。多分、俺も落ちる。んふふ。なのにさ、入れたがるんだよね。自分が出来なかった事を俺で達成させようとするんだ。」
今後の予定と両親への不満をまもちゃんに話す。
俺の話をふんふん、と、大人の顔で聞いてる。
「北斗よりも上手い子が居るの?」
それは星の数ほど…
俺よりも上手で、才能に溢れた子たちがいる。
「俺はまだまだ駄目なんだぁ…だって、俺なんて、可愛くて…美しいだけだからな。」
俺はそう言って誤魔化して、ジェットの凄い勢いに呑まれて流される。
「北斗みたいな子こそ、理久先生に教えて貰ったら良いのに。だって彼は有名な演奏家らしいじゃないか…。それに、付き合いが長いんだろ?見て取れるよ。妬けちゃうよ。」
まもちゃんはそう言ってジャグジーに寝そべって、気持ち良さそうに大きな体を伸ばす。
理久…
「理久とは…もう会わないんだ。」
「そうなの…?」
俺がそう言うと、まもちゃんが食い気味に聞いて来る。
何でそんな事聞きたがるんだよ…
「北斗…昨日、お前を見つめる理久先生の目が、なんだかとても悲しそうで気になっちゃったよ。この間、俺が引き留めたからかい?それとも、また…何かあったのかい?」
そう言って俺の頬を指で濡らして、まもちゃんが顔を覗いて来る。
「…決別したんだ。そう伝えた。さようならって…理久に言った。」
俺はそう言ってジャグジーに呑まれて流される。
「この風呂は危険だ…向こうの風呂に入った方が良い。」
まもちゃんがそう言って、俺の腕を掴んで危険な泡ぶろから救出した。
理久…大好きだったんだ。
こんな別れ方するなんて思いもしなかったよ。
こんな風に…理久に幻滅してしまうなんて、思いもしなかったんだ。
あんなに慕っていたのに…こんな結末になるなんて…思いもしなかった。
「ん~!のぼせた!出る~!」
俺はそう言って、顔にお湯を掛けるとお風呂を上がる。
タオルで体を拭いて、新しい下着を履く。
まもちゃんが持ってきてくれたスウェットを着ると、見事にブカブカだった…
「ブフッ!ちょっと大きかった?」
俺を見て笑うまもちゃんに見せてあげる。
「持ってないと落ちてくる。」
そう言って手を離すと、足首までストンと落ちるスウェット…
「グフフ!こんなに体格が違うとは…グフフ…思わなかった!…ぷぷぷ」
そして、さらに、彼のTシャツを着る。
「アハハ!こっちもブカブカじゃないか…!」
そうだ、半そでは肘まで来て、お腹はブカブカで…襟元がだらりと下がる。
まもちゃんは俺のシャツをズボンに入れると、スウェットの紐を最大限に絞る。
そして、蝶々結びで縛って留めた。
「コーヒー牛乳買ってよ、まもちゃん。」
そうおねだりして、扇風機の前で風呂上がりのコーヒー牛乳を飲む。
ドライヤーで髪を乾かす彼の背中を見つめる。
俺の方に来て、コーヒー牛乳を一口飲んで、ついでに髪を乾かして行く。
荷物を整えて、まもちゃんが言う。
「北斗、帰ろう。」
「は~い」
俺はそう言って、彼の後ろを付いて行く。
風呂上がりの短パン姿の彼。
女の人に見られたくないよ。
だって、とっても色っぽくて格好良いから…
クロークに預けていたバイオリンを受け取って、温泉を後にする。
車に荷物を載せて、俺は助手席に座る。
運転席に彼が座ると、車がユサッと揺れる。
「気持ち良かったね~!」
俺はそう言って、ホカホカになった彼の頬を撫でる。
まもちゃんが、俺の方を見て、そっと顔を近づけるから、俺も彼にそっと近づく。
そして、チュッとキスをするんだ。
だって、俺達は愛し合ってるから…夫婦だからね。
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