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8月31日(月) 帰京_02

「子供なので…夜の外出は…」 母さんにそう断られて、悲しそうな顔をして伊織が肩を落とした。 「またおいで?」 俺はそう言って二人を玄関先まで見送る。 「北斗…チュウしてくれないのか…」 悲しそうに俺を見て二人がそう言うから、俺は両親の目の前で二人にそれぞれキスをした。 これは挨拶のキスだ。 変な意味はない。 「気を付けてね。ありがとね。またね。」 大きな背中の彼らが見えなくなるまで見送った。 「北斗…素晴らしかったね。いつの間にあんな素晴らしい演奏が出来るようになったんだろう…やっぱり先生を変えたのが良かったのかな…?」 持ち帰った荷物を玄関先で開けて整理していると、父さんがそう言って、俺の頭を撫でる。 「違うよ。理久が俺を助けてくれたんだよ。」 俺はそう言って父さんを見上げた。 父さんはぎょっとした顔をして俺を見る。 言った内容に驚いたのか…俺が言い返した事に驚いたのか… どちらかは分からないけど、俺は止まらないで言った。 「子供の頃、父さんも母さんも俺と遊んでくれなかった。理久が代わりに沢山遊んでくれたんだ。彼は変わり者だ。でも、俺に音楽を教えてくれたのは、理久なんだよ。父さんでも、母さんでもない。理久なんだ!」 俺はそう言って、続けて言う。 「昨日の演奏だって、あのクインテットと演奏できたのは理久の計らいだよ?彼は海外某有名交響楽団の楽団員だったんだ。彼にまた教えて欲しいとは思わない。ただ、彼が純粋な気持ちで言ったプロポーズを、変な風に受け取らないでくれ。そして、俺は何があっても彼を自分の音楽の親だと思ってるんだ。」 こんなに自分の意見をハッキリと言ったことは…初めてかもしれない。 事ある毎に威圧されたと感じた両親の視線も、もう怖いと思わない… 侮蔑する様に感じた声も、態度も、もう怖いと思わない… ただ、自分を支えてくれた理久や、まもちゃん、直生や伊織の事を思ったら… 彼らが俺を守ってくれていると思ったら… 両親の事なんて…怖いと思わなくなった。 もしも、嫌になったら彼らの元に逃げればいいんだ。 そして、オジジの工房で働いて、まもちゃんと幸せに暮らせば良いんだ… それは逃げじゃない。 選択の一つだ。 逃げ道の無かった自分の人生の、一つの選択肢だ。 それが出来ただけで… 自分の居場所が他にも出来ただけで… こんなにも自由になれるなんて…知らなかったよ。 驚いて俺を見下ろす父親を見上げて、微笑む。 「ふふ…伊織の言う通り、父さんは少し…狸みたいな顔をしている。口を開けっぱなしにすると、とても間抜けだ。」 俺はそう言って、荷物の中から写真の束を取り出した。 さぁ…次は護の一手で攻め落とそう。 「ねえ、父さん、母さん。軽井沢で撮った写真。見てよ…」 今まで出来なかった事が、今なら出来る気がするんだ。 俺はそう言って彼らの城に攻め込んでいく。 直生と伊織のおかげで落城間際のこの城を完全に落とすまで、手を緩めない。 「このおばあちゃんが凄い人なんだ。俺は彼女に演奏をして報酬を貰ったんだ。」 「いくら?」 父さんが凄く嬉しそうに俺の話を聞いて来る。不思議だ。 「10万円と、40万円。10万円の方はバイオリンを修繕するのに使った。」 俺はそう言ってバイオリンを手に持って眺める母さんに言う。 「弾いても良いよ。でも、一回だけね。」 母さんは嬉しそうに笑うと、首に挟んで弓を構える。 そして、俺に尋ねる。 「このバイオリンは、どんな曲を弾くと美しいの?」 だから、俺は答えてあげる。 「一番手ごたえが良いのはツィゴイネルワイゼンだよ。」 俺の言葉を聞くと、母さんは笑って頷いてツィゴイネルワイゼンを弾く。 この人…こんな柔らかい表情、するんだ… 俺よりももっと大人しい音色だけど、護のバイオリンはちゃんと手ごたえを残す様で、母さんの顔がどんどん楽しそうに笑っていくのが分かる。 凄いね、まもちゃんのバイオリンは鉄の女を虜にしそうだよ。 「これを見て?この人が作ったバイオリンなんだ…素晴らしいだろ。本当に才能に溢れたバイオリン職人なんだよ。ねぇ、彼にメンテナンスして欲しいんだ。」 俺は熱心に写真を見て微笑む父さんと、笑いながらバイオリンを弾く母さんに聞いた。 「だから、来年も軽井沢に行ってもいい?」 俺がそう聞くと、父さんは俺を見て言った。 「もちろん良いよ。お前はもう立派な音楽家だった…。」 そう言って涙を落とす父さんの心の中は、俺には分らなかった。 ただ、理解はした。 この人たちが俺を優秀な演奏者に育てたかった事を理解した。 それ故の英才教育だった事も理解した。 不器用すぎる程に、音楽にしか興味のない人達だと言う事も… 母さんはツィゴイネルワイゼンを弾き終わると、弓を下ろして感嘆の声を上げる。 「凄い!このバイオリン!欲しい!」 「ダメだ!それは俺のだから、欲しかったら軽井沢の工房に行ってよ!」 俺はそう言って慌てて護のバイオリンを母さんの手から取り上げる。 「軽井沢のどこ?明日にでも行きたい!」 行動力が半端ない人だ…。 こんな人だったっけ?俺の知ってる怖い母さんじゃない。 まるではしゃぐ少女の様に、俺にオジジの工房の場所をしつこく聞いて来る。 「軽井沢か~。父さんも昔はブイブイ言わせていたんだよ…」 …こんな父さんも俺は知らない。 いつもムスッとしてる印象しかなかった…こんな風に笑うなんて…知らなかった。 それはまるでバイオリン工房の職人たちの様に現金な手の平返し。 彼らの中で何か俺を認める事象でも起きたのか…? 「北斗、工房の住所は?」 「後で教えるよ…でも、一見さんお断りだから。それに、俺じゃないと口も聞いてくれない職人ばかりだから、母さんはきっと断られると思うよ。」 俺はそう言って、軽井沢の写真を父さんと見る。 「あはは、これは星ちゃんだ。こんな格好して…イケメンじゃないか。」 そうだ…星ちゃんはイケメンなんだ。 さっちゃんの結婚発表会の写真を見て、直生と伊織と三人で談笑する写真を手に取る。 楽しそうに笑う三人を見て、口元が緩む。 「このおばあちゃんは何者なの?」 母さんが一枚の写真を手に取ってそう尋ねる。 そこには美しいドレスを着て燕尾服の俺にエスコートされる重ちゃんのおばあちゃんが写っている。 「財閥の大奥様だ。」 俺がそう言うと、両親が固まって俺の顔を見る。 「とても気に入られてお世話になったんだ。来年もご挨拶に伺う予定だよ。」 俺はそう言って、写真の中の女傑を見て口元を緩めて笑う。 素晴らしい女性。憧れの女性だ… その話を聞いて、両親は驚愕している様だった。 この縁も…理久が結んでくれたものだ。 「この写真を貼っておこう!」 そう言って父さんが“千年に一度の俺”を壁に張った。 父さん…俺はそんなに楽しそうな顔をしているけど、とても悪い事をしている最中なんだよ…知らぬが仏とはこの事か… 俺は大量のお土産をリビングに置いて、護のプリンを冷蔵庫にしまった。 自分の部屋に戻って、まもちゃんのバイオリンをケースから出して抱きしめる。 「まもちゃん…あっけない位に上手く行ったよ…それに前と少し違う。もう怖くない…」 俺はそう言いながら、ベッドに腰かけてそのまま仰向けに倒れる。 指の先でバイオリンのボディを撫でて、ぼんやりと天井を見つめる。 首を横に倒して、部屋に置かれたチェロとバイオリンを見る。 譜面台に乗ったままの楽譜… 沢山の楽譜が入った本棚… 体を起こして、本棚から昔使ったバイオリンの教則本を取り出す。 手に取って付箋を貼ったページを開く。 “大変良くできました!” 理久によって書かれた文字を読んで涙を落とす。 「大変…良くできました!」 自分で自分を誉めて、頑張った自分を理久の文字で労った。 お風呂に入って、自分の部屋でまもちゃんと長電話をする。 傍らに彼の作ったプリンを置いて、口に運びながら、まもちゃんとテレビ電話する。 「家に帰ったら、直生と伊織が居てびっくりしたんだよ?」 俺がそう言うと、まもちゃんが大笑いして音が割れる。 「それは凄い…パンチ力があるね。いや、彼らはなかなかどうして、やってくれたじゃないか…ふふふ、んふふ。」 そうなんだ。 実際彼らのインパクトは強かったと思う。 「北斗…?北斗のお部屋、ぐるっとまもちゃんに見して?」 もう… 俺は仕方なく部屋を歩き回りながら、まもちゃんとテレビ電話を続ける。 「それもあるんだけど、俺もあんまり両親を怖いって思わなくなっていたんだ…。」 俺がそう言うと、まもちゃんは笑って言う。 「それは、北斗が大人になったんだよ。物の見方が変わったんだ~。」 物の見方ねぇ… 「そんな簡単な事なの?」 俺はそう言って、まもちゃんのバイオリンが置かれた場所を見せてあげる。 「あぁ~、周りにお友達がいっぱいいるじゃないか…!」 そう言ってまもちゃんが喜んでる。 3つ並んだバイオリン。 1つは練習用、もう1つはコンクール用、最後の1つは俺用のまもちゃんのバイオリン。 俺の特別なバイオリン… 真ん中に鎮座して、美しく輝いている。 一番美しくて、一番大好きだ。 「簡単な事だよ?物の見方って言うのはさ、変えるのが難しいんだ。でも、一度変わると、あっという間に目の前が開けていく。受け取る側の価値観や、主観が変わると、物事は意外とスムーズにいくものなんだ…」 まもちゃんがそう言って大人ぶって語り始める。 でも、俺はそれを聞いて思い当たる節がいくつもあった。 クスリと笑って、彼の話をストンと胸に収めた。 俺の考え方が変わったとするならば、影響を与えたのは、まもちゃんだ。 彼のおかげで、色々な事を知って、色々な感情を知った。 「まもちゃん…明日は学校なんだ。だから、横になるけど…俺が寝るまで、一緒に居て…?」 布団に横になって、彼の顔を画面越しに撫でる。 「良いよ…」 目を細めて俺の頬を撫でるまもちゃんににっこりと微笑む。 「ねぇ…まもちゃん…寂しい?」 「ふふ…寂しいよ。とっても寂しい…」 電話から聞こえる彼の声はいつもよりも少しだけ高く聴こえる。 「まもちゃん…少し、声の音程を下げて…話して?」 「こう?あーあーー」 俺がそう言うと、すぐに下げてくれるんだもん…優しいよね。 「それ位が良い…その音で話して。いつもみたいに聴こえる…」 俺はそう言って、画面を近づけて彼の声を耳に届ける。 そして、いつもの様に鼓膜を震わせて感じるんだ。 あぁ…愛されてるって… 「まもちゃん?星ちゃんが重たい重たいって…困ってたよ?」 「え?俺はそうは思わないけど?」 子供相手にマウントを取る、まもちゃんが好きだよ。 馬鹿で、俺の事が大好きなんだ… だから、俺も彼の事が馬鹿みたいに大好きなんだ… 「ね…まもちゃん…眠いから…何か歌って…?」 こんな俺の無茶ぶりにだって、良いよ!って言って、すぐに歌ってくれる。 そして自慢の低い声で、プレスリーの真似をして歌い始めるんだ。 ん?プレスリー? ウケる! 「ぐふっ!ラブ・ミー・テンダー…!?」 俺が吹き出して笑っても、なりきってずっと歌い続ける馬鹿なまもちゃん… 段々と、その歌声が心地良くなってきて、瞼が落ちていくよ。 彼の胸の振動が伝わって来るみたいで、落ち着く。 まるで、子守唄みたいだ… どこかで聞いた事があるような、この曲に 彼の低い声が良く似合う… 「まもちゃん…おやすみ…」 彼の歌が終わる頃…俺はそう言って瞼を落とした。 「北斗…愛してるよ。お休み…」 彼の声が俺の鼓膜を震わせる。 低くて、良く響く…素敵な声… 完

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