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第31話

発情期に入ったΩが、αの匂いに包まれたくて巣作りをすることは知っていた。 果たして妊娠中のΩにも、そういった症状は起こりうるのだろうか。 ベッドルームに隣接されたウォークインクローゼットの中から、翔琉の匂いのする服を片っ端から探す。 もちろん、スツールに掛けてあった翔琉の残り香がするシャツを鼻腔に充てながらだ。 だがどれも、全てクリーニングに出され、隅々までプレスがされ戻ってきた状態のものばかりだった。 そうだよな。 クリーニングに出したものが、ここへ戻って来るんだもんなあ。 あ、サニタリールームに置いてあるランドリーボックスに、まだ昨日の脱いだ衣類が遺っていないかな。 妙案を思いついた俺は、シャツを片手にしっかりとした足取りで、バスルームと連結されたサニタリールームへ向かった。 「あった!」 嬉々とした俺は、すぐ様それを身に纏う。 翔琉との体格差があるのは、重々承知していた。 一七六という身長の割に、自身が華奢な方なのかもしれないということも、薄々は分かってはいた。 こんなにも、肩の位置や手足の長さなどが大きく違うなんて……。 姿見で全身を確認すると、完全に俺は、高級な服に着られてしまっている残念な男にしか見えない。 悔しいけれど、翔琉は間違いなくモデル体型なのだと痛感する。 「何か、悔しい。俺だって、一応日本人男性の平均身長より高いはずなんだけど……」 悔しさから唇を噛んだ俺は、ついでにそこへ常備されている、ムスクのオードパルファムをハンカチへ何度か吹き掛けた。 ムスクの中でも、翔琉が常に身に纏っているのはホワイトムスクの香りだ。 清潔感のある、ベビーパウダーや石鹸に近いこの香りは、俺の中ではもう翔琉の香りでしかない。 「これも持ち歩いたら、一日乗り切れるかな?」 取り敢えず、翔琉の服のお陰で動けるようになった俺は、いつものデイパックを背負い、バイト先のカフェに向かって歩き出す。 途中、バイト先ではギャルソンの制服へ着替える為、結局悪阻に襲われてしまうという重大なミスに俺は気が付く。 「ダメか……」 大きな溜息をついた俺は、残念ながら体調が良くなるまでバイトを休むことを決意するほかなかった。 心配そうにバイト先で出迎えてくれた副店長は、やはり俺の身体の変調をΩのそれだろうと確信していたそうだ。 さすがに、双子だと思ってはいなかったようだが。 バックヤードで、長テーブルを挟み対面で店長と副店長、そして俺の三人で今後の俺の勤務形態について話し合う。 「いつも俺の我儘を聞いて下さり、本当にありがとうございます。そして、当分ご迷惑をお掛けしてしまうことになり、申し訳ございません」 何度も俺は、深々とお辞儀をする。 思えば、高二の頃。 家庭の事情とはいえ、高時給のバイト先を見つけていた俺に、担任がここのオーナーと知り合いだから、とバイトを雇わないこの高級カフェへ特例で高校生バイトとして入店した俺。 そこで、翔琉と出逢って。 恋に落ちて。 紫澤先輩や久我原様とも知り合って。 社会で働くことの厳しさと、それを上回る優しで俺を支えてくれた、親とも恋人とも友達とも違う、大切な存在の二人。 はっきり言って、この二人には感謝しかなかった。 「こちらのことは大丈夫だ。産まれて来る子どもたちのために、今はまず、高遠自身の身体を大切にしなさい」 店長はそう言って、快く笑顔で送りだそうとしてくれる。 本当に、申し訳ない。 思わずそんな顔をしていると、副店長がこう言った。 「大丈夫。また、落ち着いたらいつでも連絡を下さい。カフェ(ウチ)には、高遠君が……否、もう“龍ヶ崎”君、か――が、必要なんです」 店長の隣りで、ニコリと笑った副店長の優しさに俺は思わず涙する。 何て、温かい人たちなんだろ。 目尻から流れ出る熱いものを拭いながら、何度も何度も心の中で、俺は感謝の言葉を述べていたのだった。 「それにしても、龍ヶ崎君の相手が、まさかあの龍ヶ崎様だったとはね」 玉の輿だね、もしくは紫の上みたいだねと副店長は興奮して言う。 対して、以前より俺たちの事情を知っていた店長は、微かに苦笑していた。

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