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第8話 犬、王子と恋をする(1)

 伊緒が社会人になった一年後、後輩だった斑目が株式会社SNTに入社してきた。  同じ会社にいることは、春先の社報で知っていたが、そもそも配属先が違ったし、接点がないことに半ばホッとしながら、伊緒は冴えない日々を送っていた。社会に出ると、自分の素行が他人のそれよりだいぶ悪いことを自覚し、伊緒はそれに拍車を掛けるようにして振舞うことで、プライベートでは付き合うな、と言われる難物に仕上がった。  営業にいる斑目と、企画開発部に配属された伊緒は、時々社内ですれ違う時に会釈をするだけの間柄になっていた。  それが、その夏、企画開発部に移動してきた斑目は、まっすぐ伊緒のところへ向かってきた。 「先輩、俺のこと覚えてますか?」  斑目の真摯な眼差しに、感じるところがなかったといえば、嘘だ。 *  ガヤついた居酒屋で、目の前にいる斑目が日本酒の酌をしてくれながら、伊緒に言った。 「先輩、学生時代、批評会で俺にくれた批評、覚えてませんか?」  先週、無事に歓迎会を終え、企画開発部一課の仲間となった斑目は、今週の金曜日の夜が暇だと口を滑らせた伊緒を無理矢理連れ出し、このチェーン店にやってきた。値段が格安なので、どうしてもと犬顔で懇願された伊緒は、断り切れずにサシ飲みで一時間だけなら、と条件を付けて、斑目の向かい側に座った。 「いや、忘れた。何か書いたっけ?」  嘘だった。  即答しすぎな気がして、伊緒は落ち着かないのを周囲の雑音のせいにした。批評を書いた覚えはあったが、ノスタルジックな気持ちになるのが嫌だった。  すると、自分の猪口にも酒を注いだ斑目が不意に言い出した。 「『ラノベの皮を被ったこの作品は、読み手の心を映し出す鏡のようだ。特に立ち上がりでは、現状に埋もれ、甘んじることを良しとしない何かに抗おうとする筆者の強い意志を感じる。不安定であるがゆえに伸び代が期待でき、今後が楽しみである』」 「……やめろ。なんのプレイだ」 「べた褒めだったんです。でも、俺のこと見ててくれるんだって思ったら、嬉しくなってしまって。俺が何を思って書いたのか、ちゃんと拾ってくれる人なんだって思ったら、うまく言葉にならないんですけど……」 「当たり前だ。今お前がしてるようなやつを、誉め殺しって言うんだ覚えとけ、馬鹿」 「すみません……嬉しくて、つい」 「別に怒っちゃいないけど、他の奴がいる前でそれをやるなよ」  釘を刺しておかないと、本当に何をしでかすかわからない気がした。  冷や汗をかいた伊緒に、斑目は真剣な視線を向けて言う。 「先輩のくれた紙にだけ、びっしり文字が書いてあってびっくりしたんです、俺。それを読むたびに何だかいい気持ちになって……、俺には評価してくれる人がいる、まだ頑張れる、って仕事でミスした時とかに、立ち直るためのお守りになってます。だから、お礼を言いたくて」  スマホケースの中に入れてある当時の紙は、もう擦り切れて、何が書いてあるのかすら、よくわからなくなっていた。けれど、その紙を見た途端、伊緒はその時のことをありありと思い出していた。  気持ちを鎮めるために、わざとぞんざいな質問をする。 「だいたい、それ匿名の批評会だろ? その紙切れが俺のだって、どうしてわかる」 「筆跡で、何となく。先輩、字がきれいだから」 「気持ち悪いこと言うな。ストーカーか、お前」  顔の前で手を振って、この話は終わりだと教える。が、伊緒の気持ちを前に、酔っ払ったのか、斑目は畳みかけてきた。 「先輩、あの批評会のあと、どうして部室にこなくなったんですか?」 「……忘れた」  嘘だった。本当は、あの時、紙いっぱいに文字を並べながら、伊緒は考えていた。 「昔のことだ。とっくに忘れたよ。そんなこと」  あの日、伊緒の意識を全部かっさらっていった斑目のことを、忘れたことなどなかった。二度と人を信用するまいと誓った伊緒の心は、それからずっと斑目の方を向いている。斑目の方こそ忘れているのだろう。いや、思い出す以前に、自覚してもいないのだろう。伊緒が道ならぬ恋に落ちたことなど。

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