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第12話 犬、王子に誘われる(3)

「悪かった。揶揄ったりして。でも本当に知らなかったんだ」  伊緒の噂を誰が最初に流したのかはわからない。が、それに便乗して伊緒は自分の印象をつくり変えてきた。傷ついたことがないから、傷ができた時に痛みを感じる。ずっと傷つき続けていたら、痛みなんて日常茶飯事になる。そしたら、それを特別なものだと思わなくなるだろうと思っていた。  でも、違った。  傷が増えるたびに、伊緒は怯んだ自分を叱咤した。その癖、誰に対しても申し開きをしなかったのは、誤解が解けた時にどんな顔をされるか、考えるのが怖かったからだ。腹の底からの付き合いを求めて相手に拒否られたら、今度こそ立ち直れない。弱く小さな自分を、認めることが怖かった。 「──童貞なんです、俺」  まるで現状を変えたくて吐き捨てられた言葉が、伊緒の耳を打った。その意味について二秒ほど考えて、伊緒は密かに腹の底を煮え滾らせた。 「へぇ」 「笑わないんですか」  笑えるか、と思ったが、斑目は伊緒を試すような、見極めるような視線を投げてきた。 「別に。誰もが通る道だろ。笑ってどうする……」 「そういうところが、……」  たまらなくなる。たまらなくする。と言われて、伊緒は斑目に対して、愛しさとともに憤りが吹き出すのを感じた。斑目は、伊緒を試している。噂の中には、おそらく斑目が口にできなかった下劣なものも含まれていたのだろう。伊緒が童貞食いをしていることは事実だったが、あからさまに目の前に餌をぶら下げられ、誘われるのは、プライドが傷ついた。 「お前ぐらいスペックが高ければ、選び放題なんじゃないのか。キスぐらい、誰かとしたことあるんだろ?」 「スペックに恋するわけじゃないですし、好きになった人と最初にしたいと思うのは、変ですか?」 「いや。変でも何でもない」  斑目は、伊緒を試すために「待て」をしていた。いくら壁を巡らせても、乗り越えてくる強引なところがある癖に、肝心の一歩を伊緒が踏み出すのを待っている。伊緒が踏み出したら、斑目は嗤うだろうか。そうかもしれないと思ったが、伊緒は斑目の釣り下げた餌に食いつくことを選んだ。 「……じゃ、俺とヤるか?」  言った途端、斑目が痛みを感じたように、目を眇めるのが見えた。 「俺は……っ」 「童貞なんだろ。それで俺が好きと。条件は揃ってる。卒業しないか?」  斑目に対して畳みかけながら、こいつに爪痕を残してやる、と伊緒は決意した。薄汚れた伊緒の現状と本質を晒したら、きっと斑目は幻滅する。でも、いずれ軽蔑され、距離を取られるなら、寝てしまった方がずっといい。  恋の芽を摘み取っておくのだ。二度と繰り返さないために。不毛な恋情に引導を渡すために、伊緒は自ら前へ出ることを選択した。  幸い新規プロジェクトが立ち上がり、斑目がきてから、忙しくて相手を見繕う暇もなかった。身体は飢えている。伊緒は身体を倒すと、斑目の耳元で囁いた。 「──俺に、食わせろ、夏日」  刹那、斑目にスイッチが入った気配がした。

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