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第30話 駄犬、狂犬となる(2)
「そう驚いた顔をしなくてもいいだろ?」
悪夢が言った。
笑った顔は、記憶の底にあったそれより、少しくたびれて年を取っていたが、着る物が立派なので、数倍いい男に見えないこともなかった。
「留学中じゃ……」
「クリスマス休暇で、少し前に帰国した」
嘘だろ。
いつから。
俺を見てたのか?
青ざめた顔を晒した伊緒は、脳裏に様々な疑問が浮かび、身体が震撼した。口が利けずに黙っていると、男は伊緒を見下した顔で嗤った。
「何でここに? と思ったか? アメリカに行く前に行きつけだった店が潰れて、この店が新しく入ったんだって気づいて、入ってみたらきみがいた。運命的だろ?」
あの時、主犯だった男が、軽口を叩くのを何もせずに見ている自分が、伊緒は信じられなかった。全身の血が轟々と音を立てて沸騰しはじめる。伊緒は震えていることに気づいて、思わず空のグラスを握りしめた。
「ここ、ミックスバーなんだって? クリスマスイヴに一人で男を漁るなんて、いい具合になったじゃないか。なあ、希?」
言って、肘の辺りにそっと手を添えられた瞬間、嫌悪感がザッと這い上がってきた。こんなとこころで刃傷沙汰などごめんだ。そう強く言い聞かせ、伊緒はグラスを離した。殴りかかろうとするイメージを、どうにか心の中に押し込める。
「……せ」
「顔色が悪いぞ? あっちのボックス席で休むといい。積もる話をしようじゃ……」
「離せ……っ」
抵抗して、伊緒はどうにか清算を済ませると、男に背を向けて店から出ようとした。これ以上、ここにいたら叫び出してしまうかもしれなかった。店に迷惑はかけられないし、こんな邂逅は望んでいない。互いのためにならないことだらけだ。
「にしても、きれいになったな、希? その顔をもう一度、泣かせてみたいと思っていたところだ。男の味を覚えたんだろ? 俺と一発、どうだ、え?」
店から出ようとフロアを横切って歩く間、男が付いて回るのを意識せざるを得ない。伊緒は顔色が変わるのを自覚し、必死でドアノブまで辿り着くと、外へとまろび出た。釣られるようにして、男が出てくる。
もう我慢の限界だと思った伊緒が、不意に路上で立ち止まり、今度こそついてくるなと怒鳴ろうとした、その時だった。
「ぎゃっ!」
瞬間、ゴツ、と凄い音がして、男が路上へ吹っ飛んだ。
「?」
「い、痛い! 何を……っ、暴行罪で訴えるぞ……!」
言いながら、側頭部を押さえた男は、伊緒の方を振り仰いだ。しかし、視線は伊緒を逸れ、伊緒の背後にいる何者かに向けられていた。
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