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第31話 駄犬、狂犬となる(3)

「いきなり何なんだ!」  伊緒に向かって意味不明に怒鳴りつけているはずの男が、指を差したその先を振り返る。すると、そこにはスーツ姿の、やけに背の高い男が立っていた。 「いきなり? しつこく付きまとってるのはそっちだろ」 「ま……」  冷えた声を出したのは、斑目だった。まるでゴミでも見下ろすような恐ろしい顔で、男のことを睥睨する。 「こんなことをして、許されるとでも……っ!」  醜く叫ぶ男に向かって、殺気を撒き散らした斑目は、物凄い顔で一歩を踏み出した。大きな足が、男の股間のすぐ手前を思いっきり音を立てて踏みつける。 「ひっ……け、警察に言うぞ!」  裏返った声を出した男を見下ろすと、斑目は唸るように言った。 「この人に下品な言葉をかけるな」  言って、ぐい、と力強い斑目の腕が、伊緒の肘のすぐ上を持ち上げ、己の方へと引っ張る。男にされても嫌悪感しか感じなかったのに、斑目が相手だと、甘い疼痛があった。こんな状況なのに、いけないことを考えている自分を、伊緒は内心で叱り、余裕をなくした男を追う斑目を押し止めようとした。 「駄目だ、止せ! こいつに関わるな……」 「この人に手を出すなら、その前にまず俺が相手になる」  斑目は人が変わったような凶暴な顔をして、ダン、とアスファルトを踏み鳴らし、蹴飛ばした。伊緒をずるずると引きずりながら、斑目は男に向かって長い脚を踏み出した。男は見たところ、殴られた形跡はなかったが、斑目の気迫に怯え、髪を振り乱して四つん這いのまま後ずさった。刹那、髪が横にズルッとズレたのを見た伊緒は、唖然とした。 「あ」 「ひいっ……!」  しかし、斑目に気圧された男は、それに気づかない。斑目が男の懐から何かを取り出し、さらに威圧を加えようとした時、伊緒はハッと正気に返った。男は失禁の跡に湯気を立てながら、必死で斑目の視線を避けようとしはじめる。周囲を見回すと、何かの撮影だと思い込んだ人々が、スマホを持ち上げ、失禁する男の様子にカメラを向けはじめたことに気づいた。  伊緒は急いで斑目の手首を掴んだ。 「逃げるぞ、斑目……!」 「あっ……」  ヅラがズレた男は、ほうほうの体で人混みの中へと逃げようとしていた。伊緒はそれを視界の端に捉えながら、斑目の手首を掴み、逆方向へと走り出した。  繁華街の中央通りに出ると、アスファルトを蹴り、駅までの道をひた走る。角を曲がると、見回りに出ようとしているらしき、交番の警官とすれ違った。ジングルベルの陽気な音楽が鳴る中、斑目の乾いた温かな手に、不意に力が込められる。人混みをかき分け、駆け抜け、白い息を吐いて、過去を置き去りに走り去る。  まるで逃避行だと思いながら、伊緒は何かが吹っ切れていくのを確かに感じていた。

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