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「十倉 くん、悪いんだけど……今日も残業、頼める?」
「申し訳ありません課長。本日は、所用がありまして」
「……あ、そう……。大丈夫だよ、お疲れー」
「はい。では、お先に失礼します」
残業持ち込みマシーン(俺命名)こと、課長の依頼をさらりと躱し、俺はいつぶりかもわからないほど久々に定時で退社した。俺がオフィスを後にする背後から「嘘、あの仕事人間の十倉さんが定時に帰ったわよ」「ほんと、僕も驚いちゃったよ」などと、課長を含めた数人が口々に噂している。うるせえ、全部聞こえてんだよ。
別に、仕事人間のつもりはなかった。家に帰ってもすることが無いなら、終電まで仕事をこなしていた方が有意義だと思っていただけで。
趣味らしい趣味も無い。当然交際相手も居ない。と言うかこれについては必要としていなかった。他人と関わることは、俺にとってひどく煩わしいことだったから。我ながらつまらない人間だと思う。でも、それで良かった。
「(あいつ、ちゃんと出て行ったかな)」
いつもよりずっと人が多くて、明るい街の中を行く電車内で、俺は今朝無理矢理振り切ってきた少年のことを思い出していた。
あのまま話を聞き続けていたら、俺にとって良くない言葉を聞いてしまいそうな気がして、逃げ出した。せめて最初に考えたとおり、警察に送り届けるくらいのことはするべきだったと今更悔やむ。
普段の終電帰り以上に重い気のする足を引きずり帰宅する。見遣った自室の窓から漏れる明かりが無いことに、当たり前のことなのにひどくほっとした気持ちにさせられる。そうして、俺はドアの横に取り付けられているポストに手を突っ込んで、固まった。……鍵が、入ってない。
考えるより先にドアノブに手を掛けた。開いている。扉が外れるんじゃないかってくらい乱暴にそこを開け、入ってすぐの壁にある電気のスイッチを押す。点かない。すると「ひゃっ」という小さな悲鳴が下から聞こえ、思わずそちらを向く。視界に飛び込んできたのは、玄関先に座り込んで情けない顔をした白い少年。
「おまっ……まだ居たのかよ……」
「す、すみません……その、出て行く前に、また倒れたりしないように、少しだけ充電させていただこうと思ったら……ばちんって音がして……」
言われて視線を上げると、なるほどブレーカーが落ちていた。だから電気が点かなかったのか……。
と言うかこいつブレーカー知らないのか? と思いながらスイッチを元に戻す。それに合わせて室内が明るくなったことに、少年が目を丸くしているのを見て、彼がこれまでどんな暮らしをしていたのか、ほんの少しだけ気になった。
「……そういや、今充電って言ったか?」
「あ、はい。ここに、プラグが付いているんです」
そう言うと、少年は着用しているシャツの裾から手を入れ――不可抗力で一瞬目に入った下半身は、何も身に着けていなかった気がした――尾てい骨の辺りから、するするとプラグの付いたコードを伸ばす。……マジかよ。
「……お前……本当に、人間じゃないんだな」
「はい。どちらかと言えば、家電でしょうか」
少年が、くすりと笑う。冗談を言うユーモラスさも持ち合わせているらしい。自虐にしか聞こえないが。
「……でも、後続の型はこんなもの要らないんですよ。ぼくはプロトタイプなので、ちょっと燃費が悪いんです」
「ふうん……」
彼の話を聞いていて、疑問が生じた。充電用のプラグを持っているなら、何故エネルギー切れを起こして倒れる羽目に陥ったのだろう。それに「お腹が空いた」と俺に襲いかかり、まあその……精液、を飲んだ理由も知りたい。
俺が彼に問うより先に、後者の疑問は解消された。
「本来であれば、精液――ヒトの平均射精液量である三・五ミリリットルの摂取で、三日間は活動出来るように設計されていたのですが……ぼくの場合、消費エネルギー量調整のための箇所に欠陥がありまして。一日ちょっとでエネルギーが枯渇してしまうんです」
「……大丈夫なのかよ、それ」
「そのための追加パーツなので……」
少年が指先で摘んだコードをゆらゆらと揺らす。ロボット工学的な分野には明るくないが、本人がそう言うのなら、そうなのだろう。けれど、彼が自身を「セクサロイド」と称する以上、誰かに使用されることを目的として生み出されたということになる。仮にもそのような存在が、そんな雑な作りで良いのだろうか。
すると、俺の心を読んだかのように、少年がその疑問に答えた。
「……ぼくは、所謂“商品”ではないんです」
薄く浮かべられた笑みは、ひどく自嘲を孕んでいて、見ていて居心地が悪くなる。何か言おうと俺が口を開きかけた時、それを遮るみたいに、きゅううう、と間抜けな音が俺たちの間で響いた。
「……一応確認するが、今のは……」
「…………ぼくの、お腹の音、です……」
そういえば充電しようとしていたと言っていたな……。だが、先程コンセントにプラグを挿した際にブレーカーが落ちた、と言っていたことを考えると、彼に必要なだけのエネルギーをこの家から得るのは、不可能ではないだろうか。
少年が、何か言いたげな顔で俺を見上げている。まずい、途轍もなく嫌な予感がする。
「……とりあえず先に言っておくわ。嫌だ」
「まだ何も言ってませんよ!?」
「断る! 絶対ろくなこと言わないだろお前!」
「そんなことは……! ただ……もう一度、精液を摂取させていただけないかと――」
「ほら見ろ!!」
それのどこがろくでもなくないと言うのか! また俺に、あんな醜態を晒せと言いたいのだろうかこいつは……!!
「どこの世界に「精液ください」って言われて「はいどうぞ」なんて答える奴が居るんだよ!!」
「ど、どうしても、ダメ、ですか……」
捨てられた子犬のような目で俺を見つめてくる少年。やめろ、そんな顔をするな。正論を述べているはずなのに、自分がとんでもない悪人になったような気分になる……!
「……腹が減ってるだけなら、俺相手じゃなくてもいいんじゃないのか」
「違います!!」
いきなり大声を出されたことに驚き、思わず目を見開いて固まった俺を見て、途端に慌てた様子になる少年。そんなに力いっぱい否定するほどの、理由があるというのだろうか。
「……あの、その、違くて……。ぼく、誰でもいいって訳じゃない、です……」
シャツの裾を握りしめ、少年は俯いている。
下劣な想像になるが、彼のように容姿の整った少年が、今のシャツ一枚という扇情的な格好で夜の街に出て行ったなら、きっとすぐに欲に塗れた連中から声が掛かることだろう。単純に活動エネルギーだけを欲して、そのためだけに精液を必要とするなら、それで事足りる。けれど、そうではないというのなら。
「……あのさあ、俺、ああいうことされんの嫌いなんだ。……昔の、嫌なこと思い出すから」
俺は、少年にちゃんと聞こえるように、しゃがみ込みながらそう言った。「嫌い」の辺りで、華奢な肩が一度、びくりと跳ねた。
「…………だから、これで最後、にしてくれ」
その言葉を聞いた瞬間、少年が弾かれたように俯けていた顔を上げる。瞠られた目は真ん丸で、まるで満月みたいだと思った。
「…………いいんですか……?」
「……お手柔らかに?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、少しふざけた調子で笑ってみた。
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