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「……あれ」
アパートの前に人が居る。なんだろう。
はしゃぐミヅキを窘めながら歩いていたら、思いの外帰宅に時間が掛かり、すっかり陽は沈んでしまっていた。加えて、ちょうど近くの街灯の明かりが届かない位置に居ることもあり、残念ながら立っている人物の顔までは見えない。その人物から少し離れた位置に、なんだか高そうな気配のする黒っぽい車が停まっている。
妙な雰囲気を感じながらも、俺とミヅキは立っている人物の前を通り過ぎようとした――が。
「やあやあ、お帰り~! デートは楽しかったかい?」
底抜けに明るい声が俺たちの間に割って入り、それは敵わなかった。
男の声だ。どこかで、聞いたことがあるような……?
「っ!」
ミヅキが急に、俺の腕を抱く力を強くした。少し痛みを感じるくらいに。思わずそちらを見ると、彼はひどく怯えた様子で、体をかたかたと震わせていた。
ゆっくりと俺たちの前を歩いて、街灯の明かりが届くところまで男が移動する。ようやく彼の顔がはっきりと見え、それと同時に俺は息を呑んだ。
「二度目まして、かな? 十倉遼太郎くん」
「あ、なたは……」
彼の顔には見覚えがあった。俺の会社と提携予定の企業。そしてミヅキが逃げ出してきた場所、マキナ・カンパニー。そこの若き社長である、神宮寺成哉 その人だった。
本社で商談をした時と、雰囲気がかなり違う。あの時も気さくでこそあれ、これほどまでに軽薄ではなかった。でも。
「(イマイチ掴み所が無えのは変わんないな……)」
ミヅキが怯えているのにも納得した。彼が俺の、いや俺たちの前にこうして現れた理由はひとつだろう。
「……ミヅキを、連れ戻しに来たんですか」
「話が早くて助かるよ~。……ふうん、随分素敵な名前をもらったんだね。ねえ、0号」
びくり、とミヅキの華奢な肩が大きく跳ね上がる。こんな彼の姿は初めてだ。
「……その様子を見ると、まだ“適合”しちゃってる訳じゃなさそうだし、大人しく帰るつもりはない? 君には歴とした契約者が居るの、わかってるでしょ?」
気になる単語があった。だが、俺が疑問を口に出すより先に、ミヅキが神宮寺に反論を始める。
「お、お断り、します……! ぼくはもう、この人と一緒に居るって決めたんです! 絶対に離れません!」
俺の腕にぎゅっとしがみつき、必死の形相で叫ぶミヅキ。しかし、神宮寺はそんな彼の様子を一笑に付すると、俺の方を向いた。
「だってさ~。うちの子はこう言ってるけど……君、どうする?」
「え?」
「この子を買うのか、って」
大仰な動作で肩を竦め、芝居がかった様子で朗々と話し始めた神宮寺は、自身の背後に停められている黒塗りの車を指差した。
「あそこに停まってる車は、うちの会社のなんだ。メルセデス・ベンツS600ロング。まあ君がその値段を知っていようといまいと、今はそんなに重要じゃないんだけど……その子はね、あの車より高いの。良い家建てられちゃうくらいのお値段だよ!」
嫌な、言い方だと思った。ミヅキを、ただの「物」としか見ていないような言い方だ。
高級車の相場なんて知りもしないが、俺の今の月給では、支払うのに何十年も掛かるだろう。だからどうした。ミヅキの金銭的価値と、今ここで震えながら抵抗している彼の気持ちに、一体どんな関係があるっていうんだ。
そんな俺の思考を読んだのか、神宮寺は独りでうんうん頷きながら、話を続けた。
「それくらいの額をポンと出してさ、そこまでしてその子が欲しいって人が居るんだよ。そしてボクはその人と売買契約を交わしてる。……今更君が、どうこう出来るようなものじゃないの」
「やめ……やめてください! 遼太郎さんは悪くない! 何も伝えずに転がり込んだのはぼくなんですから……!」
容赦ない神宮寺の口撃に、何も言い返さない俺を見兼ねてか、ミヅキが間に割って入った。
確かに、今初めて聞いたような内容が散見したのは事実だが、俺が口を挟まなかったのは、反論の余地が無かったからじゃない。たぶん、この話には本質がある。きっとそれは――。
「0号。今は君と話してるんじゃないよ。……尤も、ボクが本当に言いたいことには、もう気づいてるみたいだね、十倉くん」
そう言って神宮寺が柔らかい笑みを浮かべる。人好きのしそうな笑顔だ。まあ、目の奥は笑っていないようだけれど。
「十倉くん。君は――他の誰かから奪い取ってでも、この子を欲しいって言える? 形振り構っていられないくらい、この子を愛してるって、言える?」
言葉が喉に張り付いてしまったように出てこなくなって、どのくらい経過したのだろう。俺に寄り添うミヅキの顔を見ることが出来ない。
「……どうだい? 十倉くん」
「…………わから、ない」
たっぷり考えた挙げ句、出せた答えがそれだった。
腕に掛かっていた力が緩み、代わりに、袖口を軽く引かれる感覚。
散々躊躇ったのち、ようやく俺は、彼の方を向くことが出来た。
「ミヅキ……」
こんな時でも変わらず澄み切って美しい瞳は、真っ直ぐに俺を見つめて、それから、ゆっくりと瞼の裏に隠れる。ミヅキはゆるゆると首を横に振った。まるで「仕方ない」とでも言うように。
本当は嘘でも「愛してる」と言えば良かったのかもしれない。愛してるから手放せないと、言えば良かったのかもしれない。でも、出来なかった。
即物的なもので飾り立てた嘘で、こいつに向き合いたくなかった。混じりけの無い好意へ、同じだけ正直なものを返すのなら、「愛してる」なんて言葉では事足りなかったんだ。
「……話にならないね。……三田村」
「はい」
神宮寺の声掛けひとつで、今までどこに控えていたのか、黒スーツに身を包んだ大柄な男が現れる。
三田村と呼ばれたその男は、迷い無い足取りでこちらへ近づいてくると、力なく俺の袖口を掴んでいたミヅキの腕を取り、そのまま自身の方へと強く引いた。
「ミヅキ……っ!」
黙って引きずられていく彼に向かって、咄嗟に伸ばした手を、割り込んできた神宮寺が阻む。
「ダメだよ。今の君には、そんな資格は無い」
ひどく硬質な声が、俺の胸に深々と突き刺さるような心持ちだ。
腕を引かれながらも、俺を振り返るミヅキ。濡れている丸い瞳が、街灯のぼんやりとした明かりを反射し、悲しげに揺れる。小さな唇が、何か言い掛けて、開いては閉じる。スローモーションのような光景の中、ともすれば聞き逃してしまいそうなくらい微かな声で、ミヅキが俺の名を呼んだ。
「……遼太郎、さん……っ」
消え入りそうなそれが俺の耳に届く頃には、彼はもう黒塗りの高級車の中に押し込められていた。その後を追うように、神宮寺が俺の前から立ち去っていく。
車の助手席に乗り込む寸前に、彼がこちらを一瞬だけ、振り返った。
「ひとときの夢だったと思いなよ。……君みたいな人間には、過ぎた夢だった、ってさ」
後部座席のスモークガラス越しにうっすらと視認できる、俺の方を何度も何度も振り向くミヅキの姿。走り出した車が角を曲がり見えなくなっても、俺は暫くその方向を見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。
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