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【8000アクセス記念】LOVEらぶ歯ラブし

 彼が利き手を怪我したと聞いて焦った。骨は折れていないようだが、あまり動かないほうがいいのではないか。  食事は肉や野菜を細かくしておけばスプーンやフォークで難なく摂れたようだが、歯磨きがやりづらそうだった。彼といえば小麦色に焼けた肌に映える白い歯だ。虫歯をしたことがないらしく、綺麗な歯並びをしていた。それを思うと、歯磨きを満足にできないことが惜しく思われる。 「歯、俺が磨いてやろうか?」  風呂には付き添うつもりだが、彼は風呂前に歯を磨く。湯船に湯を入れてきた俺はテレビを観ながらゆったりしている後姿に声をかけた。 「え?いいよ。恥ずかしいだろ、フツーに」 「その手で磨けるのか?」 「おん」  俺という人間は過保護だった。ただ口の中を洗うだけの作業を後ろから見詰める。鏡に映る彼の後ろで、俺は亡霊みたいだった。 「何してんの」  彼が振り返った。オレンジ色の歯ブラシが軽快な音を立てている。俺は歯間ブラシやマウスウォッシュや舌磨きも使っているが、彼は歯ブラシだけなのだから歯並びがいいというのはいいことだ。俺は少し牙みたいに八重歯が目立つ。 「腕が疲れないか?」 「ちょっとやりづれぇかも?」 「貸せ。俺がやる」 「まぁ、磨き残しあると困るの、オマエだもんな」  生々しい話をここでされるとは思わなくて、俺は露骨に狼狽えてしまった。 「そういうつもりじゃ……いいや、腕が治るまでは、危ないからしない」 「盛り上がったらな?」  そう、危ないのは。――って……違う!彼は俺が戸惑うのを面白がっていた。先に余裕を無くすのはお前のほうなのに。いいや、確かに俺が先に余裕が無くなることはあるけれども。  彼は歯磨きを終えて口を濯いだ。それを何度か繰り返して、俺のほうに向く。白い歯を見せられたのだろう。けれど俺は赤く濡れた粘膜にぎくりと戦慄した。小さな口を大きく開いて、それを下品だと思っていた価値観はいつの間にかひっくり返っていた。今は安堵し、そして…… 「きちんと磨けたのか、俺がチェックしてやる」  俺は動揺を悟られなかった。硬さ問わずなんでも食べるが、頼りない顎を掴んで引き寄せる。転びそうなところを俺にしがみついて保ち堪え、鼻先がぶつかりそうになる。 「バカたれ!首の骨折れるわ」  素直な顔がほんのり赤く染まって、嘘の下手な目が彷徨う。俺に惚れ直すときの仕草だ。 「夜、いいか?優しくする。腕には」  椿が落ちるような頷きを、胸に感じた。 *** 「俺」さん、訊いてばかり。 2023.4.7

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