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夜凪 ※
monogatary.comからの転載。
お題「睡眠不足の理由」
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夜に子供の泣き声が聞こえても、意に介してはいけない。世間は冷たいか?そして俺も、その氷山の一部か?
いいや、正当化は止そう。いずれにしろ同じことだ。不覚悟であることは。生まれたからには背負わなければならない税金、"業"というやつの前で。
俺の真後ろにある扉は軋んでいた。心なしか、向こう側から叩かれ過ぎて撓 んでいるようにも感じられる。蝶番 に"俺として"の寿命を委ねているものだし、いいや、そんなことをしなくても、その異常なノックだけで俺は"俺として"の人生を終えられるのかも知れなかった。
不眠について特別な訓練など受けていない俺を壊すことは、つまり容易い。眠気はない。とうに脳が壊れてしまっているという点に於いて、あの扉の奥にいる者と大した差はないのだろう。あとは壊れるだけなのだ。
ドアが壊れてしまえばいいと思う。そうしたら、目を瞑るべきか否かを迷わずに済む。
希望を捨てさせない本能を持ってしまったことが、命を持った存在に科された絶望なのだ。
そして本能的な希望と、理性によって求めている絶望の揺らぎがまた俺を削り取る。"結局は身体に帰結する"。あの扉の奥の怪物が、愛した人であったとしても、眠らない頭はもうそんなことは忘れて、切り捨てて、目を瞑るべきか否か、舌を噛み切るか否か、自ら開けてやるべきか否かを論じているのだから。
あれは彼であって、彼ではない。"身体に帰結する"?彼ではないと断じたのはその精神性についてのくせに。
げんきんなものだ。俺については己の身が可愛くて、彼については精神性で見限って。あれは彼ではない、彼に取り憑いた化物だと。
この幾日も絶え間なく続くノックと子の泣き声は、ある種の救いなのかも知れなかった。絶望だと錯覚できる希望が持てている。絶望した気になっている。それでいて、あの怪物を倒せる気もした。同時に、彼の肉体を終わらせてしまえば、二度と彼の精神を取り戻すことはないのも知っていた。
理性と感性の狭間に閉じ込められている気分だ。これが野生か。
俺に選択させず、早くあの扉をぶち破ってくれればいいのに……
うつらうつらとする。もう眠るべきだ。けれど……
眠り……そうだ、それを自分で得る方法がある。甘美なネムりが……
俺は靭 やかに撓 る扉の把手に手を伸ばした。
開けてやれば、彼がそこに立っている。鋭い牙を剥いて、長い爪が振りかぶられて、―
***
2023.4.23
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