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蜘蛛の絲 ※
monogatary.comからの転載。
お題「わたしが美しいと思った景色」
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アゲハチョウがひらめいていた。長いこと、そこに留まっているように見えた。羽搏きながら。
虫など気持ち悪いだけなのに、アゲハチョウはそのはステンドグラスめいたその模様が目を惹く。けれど、それにしても何かがおかしい。風は吹いていないのに、羽搏きながら留まっている。この暑さに、虫もやられてしまうのだろうか?
よく眺め、そうして分かった。蜘蛛の巣に引っ掛かっていたのだと。もう救いようはない。棒切れで蜘蛛の糸を引き破ったところで、その翅は傷み、死にゆくだけだ。自然界の恐ろしさだった。同時に、俺の目の前で磔にされたアゲハチョウは美しかった。
暑い日の帰り道だった。汗が噴き出て、俺ももうそこには留まれなかった。
どうして俺は、一瞬、アゲハチョウの側に立ったのだろう?俺は蜘蛛ではないからだ。アゲハチョウが美味しいものだという観念を持てないからだろう。或いは、俺に譲れない被害者意識が染み付いているからだろう。もしくは弱者意識か……
いいや、いいや、最初に見つけたのが蜘蛛ではなく、アゲハチョウだからだ。そうだろうか?美しいほうに感情移入してしまう程度に、俺はまだ失望を知らないからではなかろうか?
そして蜘蛛のほうが美しいといえるほど、俺は虫には興味がなかった。色のあるほうに惹かれてしまう。本能なのだろうな。孔雀にしろ、雉にしろ。
ああ……オスだ。
窓の外にアゲハチョウが飛んでいた。それをぼんやり目で追っていた。
俺は金色に染まった田園風景を一番美しいと思っていた。自然界に存在する金色の限界だと思っていた。だが、一番などはすぐに塗り替えられるものなのだ。そうだ!一番など、すぐに……
力が抜けてしまった。窓の外のアゲハチョウは力強く飛んでいるのに。低空飛行で、何となく、あれはもう老いている個体なのだろう。短い命なのだろうな。あれがまだ卵の頃には、きっと俺も幸せだった。幸せではなかったな。幸せだと今、気付いた。終わりの始まりを喜んでいた。今となっては。
固いものが床に叩きつけられた音を聞く。振り返ると包丁だった。赤く染まっている。戸惑った。掌には鋭い痛みがある。
恐ろしくなった。誰に?自分にだ。
俺は蜘蛛になってしまった。ベッドには、彼が寝ていた。寝ている……はずだった。俺を捨てた彼が。
アゲハチョウの踠く姿が脳裏に浮かんだ。所詮、俺は蜘蛛側なのだ。醜く、どす黒い腹のうちを抱えて。けれど美しくて、最低だった。
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2023.8.20
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