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逃げよう

 シャワーの栓を開いて湯を出した。温かくて心地いい。瑛斗はシャワーを浴びながら、昨晩のことをぼんやりと回想していた。 『ほんと、瑛斗は可愛いいな』  優しく笑う相良の顔が浮かぶ。 『離したくなくなる』  朝日が浴室の天窓から差し込んで、その相良の笑顔を掻き消していく。光が眩しすぎて、瑛斗の記憶にある昨夜の出来事を全て浄化してしまうような錯覚を覚えた。それと同時に、瑛斗の体に絶え間なく降り注ぐシャワーが、瑛斗が忘れないようにと体に刻んだ相良の跡をも流してしまう気がして、とっさに栓を止めた。 「あれ? 瑛斗、もう終わり?」  その声に、ビクッと体が僅かに震えた。振り返ると、裸の相良が浴室に入ってきたところだった。 「一緒にシャワーしようと思ったのに」 「……俺、ちょっと寝不足で頭フラフラだわ。もう出るな」 「大丈夫か?」 「ん……」 「そしたら、寝室で待ってて。瑛斗の服、もう用意してあるから」 「うん……あ、そう言えば、俺の荷物って……」 「ああ、スーツケースは昨日の内にホテルからこっちに運んでおいた。多分もう、玄関前に置いてあると思う」 「そうか……ありがとう」  相良が入って来たのが、栓を止めたあとで良かったと思った。もし今、相良の体に触れたら、これ以上相良の傍にいたら、離れられる自信がなかった。  逃げよう。  寝室へと戻り、ソファの上に置いてある洗濯してくれたらしい自分の服を急いで着た。バックパックを持つと、足早に寝室を出た。だだっ広い家ではあったが、なんとか昨日の相良が通った道順を思い出しながら、玄関に辿り着くことができた。  相良の言ったとおり、瑛斗のスーツケースが玄関脇に置いてあった。その近くで待機していた何人かの使用人が一斉にこちらを向く。 「中嶋様、おはようございます」 「お食事は?」 「あ、あの、すみません。急いでいるので、このまま出ます。あの、本当に色々とお世話になりました。親切にしていただいてありがとうございます」 「あ、でも、葵様からご朝食を用意するようにと……」 「すみません。本当に急いでるんで。相良……あ、葵さんにも宜しくお伝えください」  一気に話してスーツケースを掴み、使用人たちが口を挟む暇も与えず逃げるように屋敷を出た。そのまま、後ろを振り向かずにどんどんと道を進む。  これしか方法がなかった。これ以上は一緒にいられなかった。朝を一緒に迎えることがこんなに苦しいなんて思わなかった。  朝の光が強すぎた。夜の闇であんなに濃い時間を過ごしても、闇は光にほんの一瞬で負けてしまう。消されてしまう。現実に戻されてしまう。  あの甘い時間は幻だったと、嘘だったと現実を突き付けられているようで、耐えられなかった。  忘れたくない。一晩の出来事だったけれど、一晩だけだったけれど、自分が好きだと思えた相手なのだから。記憶に留めておきたい。綺麗な甘い思い出として。  あのまま一緒にいたら、自分はどんどん醜くなってなにをするかわからなかった。我が儘を言って、相良を困らせたくもないし、幻滅もされたくもなかった。  一晩の情事なのだから。そのルールどおり、後腐れなく離れなければならない。

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