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拾得物保護
羽毛布団に埋もれて目が覚めた。
見知らぬ天井。明るい寝室にはネイビーのカーテンが掛かっている。
人が3人は並んで眠れそうなベッドにはグレーのシーツカバー。落ち着いたモダンなインテリア。
どれも記憶になくて辺りを見渡せば、枕元に洋服が畳んでおいてある。
「おはよう、洗ってあるよ。起きたら地下まで下りてきてね。冬雪」とメッセージ。
地下も何もここはいったいどこで、何階なんだろう。
久しぶりにぐっすり眠れたようで、身体は軽いし、頭は冴えている。けれども、昨晩の記憶は朧気だった。
足元に揃えられていたスリッパを引っ掛けて、おそるおそる寝室から抜け出せば、廊下の先に階段を見つけた。その階段をそろりそろりと降りていく。
「へ~、そこからの登場とはずいぶんと珍しいお客様だ」
降りた階段の先にバーがあった。天井高く並べられたお酒をバックライトが照らしている。
「おはよう、あゆむ君。よく寝てたね」
男の人が2人。バーのなかにいる人も、その前のスツールに座る人も私服だった。
「あの、僕。その」
「今日、お休みなんでしょ。とりあえず座れば?」
バーのなかの人が言えば、横に座る人がそっと椅子を引いてくれる。
断る言葉も見つからなくて、とりあえず椅子に掛けてみる。
「冬雪。どうしたの、この子」
「昨日、拾った」
「拾った?」
「そう、お店の前で」
「へ~、またずいぶんと毛色の違う」
「あの!」
自分抜きで進んでいく会話に声を張り上げる。
ぴたりと動きをとめた2人の視線が歩夢に集中する。
「僕、昨日のこと何も覚えてないんですけど」
意を決して言えば、バーのなかにいた冬雪は弾けるように笑い出した。
「覚えてないの? ほんとうに、ぜんぶ?」
「はい」
顔から火が出そうだった。スツールの上で気持ちが小さくなる。
「なかなかやっかいな酒癖だね。気を付けなよ~?」
冬雪が明るい調子で話すからますます混乱する。
昨日の自分はいったい何をやらかしたんだろう。
「あの、昨日の僕はどんなご迷惑を」
「ん~、ないしょかなぁ。昨日のあゆむ君と僕だけの秘密ということで」
「ごめんなさい!」
「いいよ、謝らなくて。僕も楽しませてもらったから」
にこりとした笑顔にそれ以上、何も言えなかった。美人の笑顔って有無を言わせない迫力がある。
「それで、ご注文は?」
その一言で空気が変わった。深層の湖みたいに澄んだ瞳に見つめられて、身動きができない。
縋るように隣に座る司を見れば、その瞳は優しく細められる。
「困ったときは、おまかせでもいいんだよ?」
耳馴染みのいい声に緊張が溶ける。
「おまかせで」
言えば、冬雪の唇は弧を描いた。
「おまかせね。うん、普段よく飲むものは?」
「エナジードリンクはよく飲みます。あとミルクの入ったコーヒー」
「ふ~ん、あの砂糖の塊を飲み物と分類するのはすごく抵抗があるんだけど」
冬雪の前に三角形のカクテルグラスが置かれる。
「特別に角砂糖を1つ、いれてあげるよ」
爪の先まで美しい指が丁寧にカクテルグラスにリキュールを注いでいく。
「やっぱり祝いのお酒はシャンパンでしょ」
「気障だね、冬雪」
無数の泡が立ち上る金色の液体は、イルミネーションのように輝いて見えた。
「お誕生日おめでとう、あゆむ君」
「いただきます」
おそるおそる持ち上げて、グラスに口をつける。シャンパンなんて初めて飲むから味の予想もつかなかった。舌先に痺れるような苦み、それからレモンの香りが鼻を抜ける。
「どう?」
試されるように細められる瞳になんと言っていいのか分からない。
アルコールは甘いジュースとは違う。アルコール特有の複雑な味がする。甘いような苦いような喉を通過するときに一瞬の抵抗があって、それから豊かな香りがする。
「たくさん味がします」
「ああそうだね、そうかも。コックしてるんだって?」
「そんな話もしてましたか?」
「してくれたよ、他にもたくさん」
「へんなこと言ってませんでしたか?」
「それは、秘密」
掴みようのない雲のようにするりと会話を躱される。
「味の変化も楽しめるお酒だからよく味わって? 昨日のお酒は忘れちゃいなよ。僕が上書きしてあげる」
カッと頬に熱が集中する。酔うには早すぎるのに、動悸がすこし早くなったような気がした。
「冬雪のつくるお酒は美味しいよ。ここで飲んだら他で飲めなくなるかもしれないけれど」
「お店をされてるんですか?」
「いいや、ここは言うなれば実験室みたいなものかな。僕はアトリエって呼んでるけど」
年上の大人に囲まれて、次々とカクテルが注がれる。聞き上手な2人に促されて歩夢ばかりが喋らされているような気がした。
目の前に提供されるカクテルは、美術品のように美しいのにどれも歩夢の好みに合う。
理性がぐずぐずに溶かされて、甘えた自分が顔を出す。
大学に行かなかったから人よりはやく社会人になった。できないのは自分のせいだけど強い風当たりにずっと曝されてきて、さみしい気持ちがずっと心の片隅にあった。
母さんをひとり田舎に残してまで都心で就職したのに、いまは田舎が恋しくて仕方がない。
「僕、1年間フライパンにすら触れなかった」
与えられた仕事は早朝から昼までの仕事だった。
山のように積まれた野菜を確認して、冷蔵庫にしまい、仕込みを始める。野菜の皮を剥き始める頃に先輩たちが出勤してきて、ランチタイム中はずっと皿洗い。
「料理の仕事してるって言えるのかなってずっと不安で」
調理場内には絶対的なヒエラルキーがあって、サラダの担当やパスタの担当、グリルの担当で力関係が違う。メインを作れるのは実力を認められたコックだけの特権で、クエストを順番にクリアしてレベルアップしないと挑めないような、遠い先に自分の思い描いていた料理人の姿はあった。
「大きなところほど変わらないよね」
下積み。修行。
自分の実力を認めてもらいたくても土俵にすら立たせてもらえないジレンマ。
「僕じゃなくてもいいんです、きっと」
その野菜洗ったの僕ですとか、切ったの僕ですとかそういうことがしたくてコックを目指した訳じゃない。自分の作った料理を「美味しい」と言いながら食べて欲しかった。
「辞めたいの? 仕事」
「無理ですよ。この間もシェフと先輩が揉めて1人飛んで、ずっと人いないです」
「辞めれるよ。退職願書いて辞めたいって言えば有休消化も余ってるだろうし、2週間くらいで今の現場から抜けられるよ。俺、弁護士だしなんなら退職代行もできるけど」
司が助け舟をだすが、それにも首を左右に振っている。
「でも社宅だし、お金も」
「気になることが住まいとかお金で、未練がいまの職場にないなら辞めちゃいな?」
「でも1年しか勤めてないし」
「いいんだよ、1年でも。僕なんて就職したことない。ずっと自由業だしね」
「冬雪は獲ったじゃない、世界」
「世界?」
「そう、カクテルでね。僕はあゆむ君とは逆でたくさん作らされたよ。レシピ見れば分かるだろって忙しい店だったし、日本じゃなかったけど」
「それでレシピ通りなんてつまらないって帰ってきたんだろ? 日本に」
「若かったしね~、僕だけのオリジナリティって極めてみたいじゃない?」
2人の会話を眺めていると胸が熱くなっていく。
「僕、嬉しかったです! 好みとか普段飲んでいるものとか聞かれて、僕のためにつくってくれるんだって」
人の数だけある味の好みに臨機応変に対応してくれる。味が濃いのが好き、塩加減、卓上でアレンジもできるけれど、シェフのレシピに絶対的な正解がある調理場では逆らう声はない。
「僕もそういう料理が作りたい」
「いい夢だと思うよ」
注がれたシャンパンに、背中を押された気がした。
マルシェ
「舐めたい」
「ダメだよ」
「なんで?」
「可愛い顔してもダメ。あゆむ君どうせ覚えてないでしょ」
冬雪の言葉を聞かずに手を伸ばせば、両腕をギュッと掴まれる。
「どうしてそんなにエッチしたいの」
「好きだから」
「エッチが?」
「冬雪さんが」
素面の歩夢がそんな大胆にアプローチしてくるとは思えない。
今夜も絶対酔っていて、記憶がないと言われるに決まっている。
「昨日、手を出しちゃったから信憑性ないかもしれないけど、ゆきずりの相手とワンナイトって僕は好きじゃないよ」
歩夢の身体を丁寧に洗い終えて、パスタオルで包み込む。
歩夢の白い肌が真っ赤に色づくのも、ビクビクと身体を震わせながら何度もお腹を汚す様子も可愛かったけれど焦る気持ちはまったくない。
「でも2晩続けて甲斐甲斐しくお世話してあげたので、これは僕へのご褒美ね」
悪ふざけで購入した面積の少ない下着に歩夢の足を通す。
「ふふ、可愛い」
柔らかいお尻は丸見えで、歩夢は大人しく着せ替え人形になっている。
「ほら、風邪ひきたくないでしょ。今日は大人しく寝ようね」
隣接された寝室に歩夢の手を引いて誘導する。悪いことをしている気分だ。
無垢な青年は雛鳥みたいに自分に懐いている。
「おはよう」
今日もまた見知らぬベッドで目を覚ました。
「ごめんね、あゆむ君が美味しそうに飲んでくれるから飲ませ過ぎちゃった。身体は大丈夫?」
ベッドのうえで自分のではないパジャマを着ている。袖のところが折り返されていて、目の前には冬雪が微笑んでいる。
「あの、僕また」
「昨日のことはどれくらい覚えてる?」
「あんまり」
間髪入れずに言えば、冬雪はまたクスクスと笑った。
「いやぁ、小悪魔だなぁ。どうしようね、ほんと。悪い大人になった気分」
冬雪の手が頬を撫でて、一気に体温が上昇する。
昨晩、ずっと見惚れていた。美しい指先がカクテルを生み出す様子は、まるで魔法みたいだった。
「覚えていないところ悪いんだけど、約束は守ってもらうよ」
ぱちりとウインクを送られて心臓がはねる。酔っぱらった自分はどんな約束をしたんだろう。
「僕の服、貸してあげるね」とクローゼットの前に引っ張られていく。
「あゆむ君サイズどのくらい? 28インチ?」
完璧に把握されている。一昨日も昨日も着替えさせてもらっているのだから、そのときだろうが、それにしても素晴らしい観察眼だと思う。
「そうです」
「これサンプルなんだけど、履いてみてよ」
手渡されたのは黒のスキニージーンズで知らないブランドのロゴがついている。
「デザイナーの友達がいつも3サイズくらい送ってくるんだよね。履いたらSNSで宣伝してねって」
オーバーサイズのニットを重ねられて「ここで着替えてもいいけど、恥ずかしいなら脱衣所で着替えておいで?」と優しく頭を撫でられる。
指差された先に洗面台があって、洋服を両手で抱えて小走りで移動した。
二晩連続、あんなに積極的なアプローチを受けたのに、本人はすっかり忘れてしまっている。パジャマを脱いだのだろう歩夢が、洗面所で大きな声をあげるのに吹き出しながらキッチンへと移動した。
「あの、僕の、あの」
ニットの裾を引っ張るように掴みながら歩夢が顔を出す。そんなことしなくてもお尻まですっぽり隠れるサイズなのに、なにを気にしているのだろうか。答えは分かっているけれどあえて楽しむ。
「ラインが響かなくていいでしょ?」
真っ赤になった歩夢にタンブラーを手渡す。
「朝ごはんは向こうで食べようね」
「どこ行くんですか?」
歩夢がシートベルトをしたのを確認して、車を発進させる。
「んー、行けばわかるよ」
時刻はまだ7時前を指していた。ずいぶんと早起きだ。
いつもだったらとっくに働き始めている時間。冬の朝は陽射しも弱くて、社内に流れるポップな洋楽や座り心地のいい椅子に沈み込む。
「タンブラーの中味、コーヒーだからさ。飲んでみてよ」
冬雪はいつもの眼鏡はかけていなかった。慣れた様子でハンドルを操作するのを、飽きもせずに眺めてしまう。
「いただきます」
コーヒーをよく飲むのは本当だが、朝コンビニでエナジードリンクを買うついでに缶コーヒーを買うに過ぎなかった。電車を待つ間、湯たんぽ代わりにしてパーカーのポッケでぬくぬくと暖をとる。
飲むころにはすっかり冷えて、味はあるのにどこか薄いコーヒーを気付け薬みたいに一気に煽る。
だから、こんな芳醇な香りを楽しむこともなかったし、熱々のうちに口をつけることもない。
「チョコの香りがします。でも甘くない」
思ったことをそのまま口にして、冬雪の顔を一心に見る。
歩夢の大きな瞳が丸くなるから、冬雪は満足そうに微笑んだ。
「100点のリアクションだなぁ。可愛いよ、あゆむ君」
ストレートな物言いに頬が熱くなる。
「美味しいです」
消え入りそうな声で呟けば、「お口に合ってよかった」と軽い調子で返された。
車は首都高を沿岸部に向かって走っていた。ビル群が遠ざかり、空が広くなっていく。
こうやってどこかに連れ出されるという経験もほとんどしたことがなくて落ち着かない。
学校の行事で課外学習に出掛けたのが最後だろうか。
耳馴染みのいい音楽に、運転席にはいま頭のほとんどを占めてしまっている気になる人がいる。恋に落ちるのは一瞬というけれど、こんなにもすぐに心奪われてもいいんだろうか。
車が着いたのは農産物の直売所だった。
「2日から営業してるんですね」
市場が休みだから、こういうところも休みなのかと思っていた。
「さて、あゆむ君は僕に何を作ってくれるのかなぁ」
頭の上に冬雪が覆い被さってきて、言われた言葉にハッとする。
「約束ってそれですか?」
「美味しいお酒をご馳走になったので僕、お礼したいです! ってね。可愛かったよ」
可愛い可愛いって気軽に言うけれど、言われる度に、もしかして気があるんじゃないだろうかって期待しそうになる。
「冬雪さんの好きな食べ物ってなんですか?」
「豚骨ラーメン」
「とんこつラーメン」
意外過ぎて復唱すれば、「毎日食べるよ。袋めんのやつ」って返される。
「夜はお酒飲んで満足しちゃうから食べないんだけど、そうすると朝すごいお腹空いてるんだよね。だから朝ラーするのがマイブームかな」
お歳暮でもらった高級なハムとかいれちゃってね、いや~美味しいんだよねぇと楽しそうだ。
「それは冬雪さんがお酒を飲むからアルコールの分解に、イノシン酸と糖が欲しくなってるだけです! ラーメンは美味しいですけど、毎日それはよくないです」
「昨日も、同じこと言われた」
昨日の自分もこんな風に説教まがいなことをしてしまったんだろうか。
自分だってエナジードリンクを毎日飲んでるって言ったときにはやんわりと注意されたくせに、すっかり忘れている。
でも、お世話になった冬雪さんに何かを返したいという気持ちはあって、それが好きな料理なら、何でも作ってあげたいと思った。
「僕、頑張ります」
「楽しみだなぁ」
眼鏡のない素顔の破壊力には、まだ慣れない。
息を呑むくらいキレイな碧眼に魂を抜かれたように魅了される。
見惚れていたら「ほ~ら、行くよ」と手を引かれて、繋いだまま施設のなかに入った。
広めにとられた通路には色とりどりの野菜が並べられていた。窓のない調理場で蛍光灯に照らされる野菜なら毎日見ていたのに、広い窓のある場所で日に照らされている野菜はいつもよりずっと輝かしいものに見える。
「すごい」
感嘆の溜息がでた。すっかり野菜に夢中になる。
スープ用のトマトとかサラダ用のトマトとか決められていない。どんな料理に使ってもいいという自由さは、当たり前のことなのにずいぶんと久しぶりの感覚だった。
どれもこれも魅力的に見えて、自然と浮足立つ。
「野菜みてこんなに喜んでくれる子は初めてだなぁ」
「状態もすっごくいいです。冬雪さん、なに食べたいですか?」
「僕に食べさせたいもので」
ずるい答えだとは思うけれど、だってそのほうが楽しいじゃないと冬雪は続けた。
作ってもらいたいものを作ってくれるのも嬉しいけれど、自分を想って作ってもらうというのはまた格別だ。
歩夢は大きな瞳を丸くして、「わかりました。頑張ります!」と返事をする。素直でいい子だなぁと感じる。
比較的に身体の小さな歩夢が買い物かごを持つと、かごが大きく見える。
「持とうか?」と尋ねれば「僕、こう見えて結構力持ちですよ!」とその細い腕を曲げてみせるから心がギュッとなる。仕草まで可愛い。
集中したように口元に手を当てながら歩き回る後ろを、健気についていく。
「どう? なに作るか決まった?」
「おせちにしようかなぁと思います。お正月だし」
「いいね、お雑煮も食べたい」
「じゃあ、シメはお雑煮にしましょうか」
低い位置から向けられる瞳が、優しく微笑まれるからつられて笑顔になる。
司といい、司のパートナーの春馬といい学生のころからやけに落ち着いていて、笑顔を振りまくタイプではなかったから歩夢のような表情が豊かな子は新鮮だった。
「嫌だな~、僕はスマイルを大事にしているのに」って春馬に言えば、「冬雪は心が笑ってないことあるよね」って指摘されたことがある。ごもっともだったから、長年の付き合いっていうのは恐ろしいと思ったものだ。
かごにたんまり野菜が詰められて、レジへと視線を動いたのを見てかごを取り上げる。
「え、あの!」
「払わせてよ。年長者としてはこういうときは格好つけたい」
そういうことしてくれなくても、ずっと格好いいのに、お酒も車も家も、大きく年は変わらないだろうに冬雪はずっと大人だ。
朝はランチも兼ねて直売所に併設されたレストランで食べた。
新鮮な野菜が使われた軽めのコースは彩りもきれいで、素材の味を活かした優しい味がした。
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