4 / 18
第一章「アトリエ」 アトリエ(完)
まさか、バーカウンターの真裏にキッチンがついているなんて思わなかった。
「僕の友達が日本に来たときくらいしか使わないんだけど、どう? 使えそう?」
「こんな立派なキッチンがあるとは思っていませんでした」
業務用の冷蔵庫、中央の作業台、ステンレスの流しなどは自分の職場のものと遜色ない。
「いやぁ、高かったよ。業務用。でも、揃えたくってさー。僕、料理しないけど」
ちゃんと店舗の設計やってる友達に頼んだんだよ、届け出だせば営業できるくらい本格的な場所が欲しくて。
「お店にはしないんですか?」
「うん、僕は誰でもいいってわけじゃないから。でも、レシピを考えるときに家じゃ雰囲気でないでしょ? 実際にパフォーマンスするのも家じゃないしね」
当たり前のように冬雪は言うけれど、すごいことだと思う。
自分とは違う、レベルの高いところで仕事しているんだなぁと、素直に尊敬する。
「ほら僕の話はいいから、好きに使って」
「お借りします」
「僕は上にいるから何かあったら電話して。ディナーは17時からでいい?」
「はい、大丈夫です」
服装は借り物だし、エプロンはしているけれどコック服ではない。でも、冬雪の言う通りで、家庭用じゃないってだけで気が引き締まる思いがする。
頭のなかで思い描いた完成例をうまく再現できればいいなと思う。
今日、仕入れた食材なら大丈夫という自信はあって、気持ち丁寧に仕込みを始めた。
「おせちって言うから完全に和食にするのかと思ってた」
「冬雪さんが取り扱うお酒が洋酒だから」
「へ~、僕に合わせてくれたの?」
コクリと頷くと、冬雪の笑顔が向けられる。
「嬉しいなぁ。じゃあ、個室で食べようか」
「個室があるんですか?」
「あるよ~。可愛い子を口説くのに必要でしょ?」
シャンデリアに絵画、壁面にはワインセラーがあった。絹糸が刺繍された白いテーブルクロスに黒い椅子。
「あゆむ君が洋風にしてくれたし、ワインにしようかなぁ。白と赤、どっちが好き?」
「よくわからないです」
「そうか、そうだよね。ワインもはじめて?」
「はい」
「ふふ、あゆむ君のはじめてたくさんもらっちゃって悪いなぁ。じゃあ、白にしようね。たぶんはじめてなら白のほうが飲みやすいから。甘いのでいい?」
返事の代わりに頷けば、「座って待っててよ。グラスとってくる」と手を振られる。
「あの手伝います!」
「いいの。料理作ってもらったけど、あゆむ君はお客様だから」
陶器のお皿、カラーナプキン、磨かれたカトラリー。
いつか母さんにプレゼントしたいと思った光景がそこにはあった。
落ち着かなくて膝を擦り合わせる。
もし、叶うなら自分の作った料理が並んでいるといいと思った。
いつも自分のために我慢して、育ててくれているとわかっていたから、美味しいと喜んでくれた料理を磨きたいと思っていた。
たった1年なのに、そういう大切なことを忘れてしまっていたような気がする。
「お待たせ」
冬雪は片手で器用にワイングラスを2脚もって戻ってきた。
キャップをソムリエナイフで外すのも、コルクを抜くのも、目の前でやってもらうのは初めてだった。コルクを嗅ぐ仕草も手慣れたもので、すべてに魅了される。
「これは、いいのに当たったかも。嗅いでみる?」
果実のような甘い香りがブワッと香ってきて、嫌な匂いがひとつもしない。
「コルクでわかるんですか?」
「いや、わかんないよ。やっぱり飲んでみないとね。でも、参考にはなるかな。状態が悪いワインを選んじゃって、美味しくないワインだって思われるのは嫌だからさ」
グラスに注がれるワインは黄金色をしていた。華やかな香りは、それだけで楽しめる。
「テイスティングする?」
そんなのちっとも分からないから首を振れば「じゃあ、注いじゃうね」と追加される。
「じゃあ、乾杯しよう」
グラスとグラスが重なった。
ひと口、口に含めば豊かな風味が広がった。
「美味しいです」
「ほんと? よかったぁ。あんまりイタリアのワインって食中酒って感じでもないんだけど、僕は好きなんだよね~」
食事の邪魔をしないように、控えめでいて上品なといったワインを求められることも多い。けれど、それだけで華やかというワインが冬雪は好きだった。
「じゃあ、僕もいただくね」
アボカドとサーモンをペースト状にして二層のムース状にしたテリーヌ。これは初日の出をイメージした。季節野菜のピクルス。飾り切りをしてキュウリは竹に、人参はウメに見立てた。鯛のカルパッチョ。カプレーゼ。ローストビーフ。物珍しいものは作ってないけれど、彩りにはこだわった。
「すごいね、飾り切りになってる」
シェフは「食材で遊んでいるようで好きじゃない」って言ってたけど、歩夢は好きだった。
りんごのうさぎさん、ウインナーのタコさん。子どものときから変わらない、そのひと手間が嬉しかった。
基本に忠実に、でもアレンジは必要だと思う。水牛のチーズと言われてもパッとしないし、味も触感も歩夢にはその良さが分からない。
「あ、これ酸っぱくないね。美味しい」
きゅうりのピクルスを口にしていた冬雪に、歩夢は笑顔を見せる。
「すし酢を使うといいですよ。原材料があまりはいっていないやつ、それからお雑煮つくるのに出汁をとったので、それも」
料理に正解はないから、自分が美味しいと思った組み合わせを無限に試せる。
お気に入りの調味料に、黄金比率、何よりも豊かな食材は美味しいを保証してくれる。
短時間だったけれどしっかり味は染みていた。我ながら美味しくできたと思う。冬雪が選んだ華やかなワインにも負けてない。噛みしめる度に酸味や甘みが楽しめて、それをワインでさっぱりと洗い流す。相乗効果で、よりお酒も食も進むようだった。
「今日はそんなに酔ってないね。初日は疲れてたから、二日目はいろんなお酒飲んだからかな。もしかしたら、あゆむ君そんなにお酒弱くないのかもね」
「僕、今日のことちゃんと覚えていたいんです」
「いいね」
美味しいワインに、美味しい食事。
それから、美味しいねって言いあえる相手がいて、食事の時間を共にする。
「僕も職業柄いろいろなところで食事をするけれど、あゆむ君の料理すごく好きだよ」
心にじんわりと染みていくようだった。
「うちの子になる?」
何気ない風に言われた言葉だったけれど、歩夢にとってはかけがえのない言葉だった。都会に出てからずっと必要とされたかったし、自分の料理を食べて欲しかった。
「甘えてもいいですか?」
「いいよ」
即答してくれるから、情緒が追い付かない。
いま自分がしたいこと。優先したら足りないものがいくつもあるけれど、冬雪はぜんぶを持っていて、欲しかった言葉も居場所も提供してくれる。
「あの、僕。冬雪さんのこと好きなんですけど、それでも側に置いてくれますか?」
誤魔化すことなんてできないと思った。膨れ上がるように、毎分毎秒、冬雪のことが好きになっていく。
「まさか、あゆむ君から告白してくれると思わなかったな」
突然押し掛けて、図々しく居座って、絶対に迷惑なはずなのに冬雪の返事は明るかった。
「僕の恋人になってくれるの?」
キスはワインの味がした。
ともだちにシェアしよう!