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第一章「アトリエ」 アトリエ(完)

 まさか、バーカウンターの真裏にキッチンがついているなんて思わなかった。 「僕の友達が日本に来たときくらいしか使わないんだけど、どう? 使えそう?」 「こんな立派なキッチンがあるとは思っていませんでした」  業務用の冷蔵庫、中央の作業台、ステンレスの流しなどは自分の職場のものと遜色ない。 「いやぁ、高かったよ。業務用。でも、揃えたくってさー。僕、料理しないけど」  ちゃんと店舗の設計やってる友達に頼んだんだよ、届け出だせば営業できるくらい本格的な場所が欲しくて。 「お店にはしないんですか?」 「うん、僕は誰でもいいってわけじゃないから。でも、レシピを考えるときに家じゃ雰囲気でないでしょ? 実際にパフォーマンスするのも家じゃないしね」  当たり前のように冬雪は言うけれど、すごいことだと思う。  自分とは違う、レベルの高いところで仕事しているんだなぁと、素直に尊敬する。 「ほら僕の話はいいから、好きに使って」 「お借りします」 「僕は上にいるから何かあったら電話して。ディナーは17時からでいい?」 「はい、大丈夫です」  服装は借り物だし、エプロンはしているけれどコック服ではない。でも、冬雪の言う通りで、家庭用じゃないってだけで気が引き締まる思いがする。  頭のなかで思い描いた完成例をうまく再現できればいいなと思う。  今日、仕入れた食材なら大丈夫という自信はあって、気持ち丁寧に仕込みを始めた。 「おせちって言うから完全に和食にするのかと思ってた」 「冬雪さんが取り扱うお酒が洋酒だから」 「へ~、僕に合わせてくれたの?」  コクリと頷くと、冬雪の笑顔が向けられる。 「嬉しいなぁ。じゃあ、個室で食べようか」 「個室があるんですか?」 「あるよ~。可愛い子を口説くのに必要でしょ?」  シャンデリアに絵画、壁面にはワインセラーがあった。絹糸が刺繍された白いテーブルクロスに黒い椅子。 「あゆむ君が洋風にしてくれたし、ワインにしようかなぁ。白と赤、どっちが好き?」 「よくわからないです」 「そうか、そうだよね。ワインもはじめて?」 「はい」 「ふふ、あゆむ君のはじめてたくさんもらっちゃって悪いなぁ。じゃあ、白にしようね。たぶんはじめてなら白のほうが飲みやすいから。甘いのでいい?」  返事の代わりに頷けば、「座って待っててよ。グラスとってくる」と手を振られる。 「あの手伝います!」 「いいの。料理作ってもらったけど、あゆむ君はお客様だから」  陶器のお皿、カラーナプキン、磨かれたカトラリー。  いつか母さんにプレゼントしたいと思った光景がそこにはあった。  落ち着かなくて膝を擦り合わせる。  もし、叶うなら自分の作った料理が並んでいるといいと思った。  いつも自分のために我慢して、育ててくれているとわかっていたから、美味しいと喜んでくれた料理を磨きたいと思っていた。  たった1年なのに、そういう大切なことを忘れてしまっていたような気がする。 「お待たせ」  冬雪は片手で器用にワイングラスを2脚もって戻ってきた。  キャップをソムリエナイフで外すのも、コルクを抜くのも、目の前でやってもらうのは初めてだった。コルクを嗅ぐ仕草も手慣れたもので、すべてに魅了される。 「これは、いいのに当たったかも。嗅いでみる?」  果実のような甘い香りがブワッと香ってきて、嫌な匂いがひとつもしない。 「コルクでわかるんですか?」 「いや、わかんないよ。やっぱり飲んでみないとね。でも、参考にはなるかな。状態が悪いワインを選んじゃって、美味しくないワインだって思われるのは嫌だからさ」  グラスに注がれるワインは黄金色をしていた。華やかな香りは、それだけで楽しめる。 「テイスティングする?」  そんなのちっとも分からないから首を振れば「じゃあ、注いじゃうね」と追加される。 「じゃあ、乾杯しよう」  グラスとグラスが重なった。  ひと口、口に含めば豊かな風味が広がった。 「美味しいです」 「ほんと? よかったぁ。あんまりイタリアのワインって食中酒って感じでもないんだけど、僕は好きなんだよね~」  食事の邪魔をしないように、控えめでいて上品なといったワインを求められることも多い。けれど、それだけで華やかというワインが冬雪は好きだった。 「じゃあ、僕もいただくね」 アボカドとサーモンをペースト状にして二層のムース状にしたテリーヌ。これは初日の出をイメージした。季節野菜のピクルス。飾り切りをしてキュウリは竹に、人参はウメに見立てた。鯛のカルパッチョ。カプレーゼ。ローストビーフ。物珍しいものは作ってないけれど、彩りにはこだわった。 「すごいね、飾り切りになってる」  シェフは「食材で遊んでいるようで好きじゃない」って言ってたけど、歩夢は好きだった。  りんごのうさぎさん、ウインナーのタコさん。子どものときから変わらない、そのひと手間が嬉しかった。  基本に忠実に、でもアレンジは必要だと思う。水牛のチーズと言われてもパッとしないし、味も触感も歩夢にはその良さが分からない。 「あ、これ酸っぱくないね。美味しい」  きゅうりのピクルスを口にしていた冬雪に、歩夢は笑顔を見せる。 「すし酢を使うといいですよ。原材料があまりはいっていないやつ、それからお雑煮つくるのに出汁をとったので、それも」  料理に正解はないから、自分が美味しいと思った組み合わせを無限に試せる。  お気に入りの調味料に、黄金比率、何よりも豊かな食材は美味しいを保証してくれる。  短時間だったけれどしっかり味は染みていた。我ながら美味しくできたと思う。冬雪が選んだ華やかなワインにも負けてない。噛みしめる度に酸味や甘みが楽しめて、それをワインでさっぱりと洗い流す。相乗効果で、よりお酒も食も進むようだった。 「今日はそんなに酔ってないね。初日は疲れてたから、二日目はいろんなお酒飲んだからかな。もしかしたら、あゆむ君そんなにお酒弱くないのかもね」 「僕、今日のことちゃんと覚えていたいんです」 「いいね」  美味しいワインに、美味しい食事。 それから、美味しいねって言いあえる相手がいて、食事の時間を共にする。 「僕も職業柄いろいろなところで食事をするけれど、あゆむ君の料理すごく好きだよ」  心にじんわりと染みていくようだった。 「うちの子になる?」  何気ない風に言われた言葉だったけれど、歩夢にとってはかけがえのない言葉だった。都会に出てからずっと必要とされたかったし、自分の料理を食べて欲しかった。 「甘えてもいいですか?」 「いいよ」  即答してくれるから、情緒が追い付かない。  いま自分がしたいこと。優先したら足りないものがいくつもあるけれど、冬雪はぜんぶを持っていて、欲しかった言葉も居場所も提供してくれる。 「あの、僕。冬雪さんのこと好きなんですけど、それでも側に置いてくれますか?」  誤魔化すことなんてできないと思った。膨れ上がるように、毎分毎秒、冬雪のことが好きになっていく。 「まさか、あゆむ君から告白してくれると思わなかったな」  突然押し掛けて、図々しく居座って、絶対に迷惑なはずなのに冬雪の返事は明るかった。 「僕の恋人になってくれるの?」  キスはワインの味がした。

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