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モーニング
「ちゃんと言えた?」
仕事帰りに真っ直ぐ、冬雪のアトリエに向かった。冬雪は案の定、アトリエで試作品を作っているみたいだった。「ただいま」も言わずにそのお腹に縋りつくように、抱き着く。
「言えました」
「そっか」
様子のおかしい歩夢に、冬雪は何も言及することはしなかった。冬雪の匂い、落ち着く。
感情がジェットコースターのように昇りつめて、でも言葉にはしなかった。
「お前の声初めて聞いた。お前、喋れたんだな」
辞めると、シェフに伝えたときに真っ直ぐな瞳でそのようなことを言われた。
「短い間でしたが、お世話になりました」
感情を必死に抑えて持ち場に戻る。
シェフの焼く、ビーフステーキが好きでした。真っ黒なお皿の上で、妖艶に映える赤は美しかった。ドリップしないくらいには焼かれているのに、その表面は艶々として光を反射する。
噛み締めれば黒胡椒の香りと、それから溢れる肉汁で口福に誘われる。
歩夢はお皿を洗うだけだったけれどメインを乗せる重厚な黒い皿はマッシュポテトすら残っていない。
こだわりの強い寡黙な人で、スーシェフとはウマが合わないようだった。
辞めると伝えた。シェフは普段と変わらなかった。
ただ、「そうか」と低い声が落ちてきて、そうしてあっさり退職は受理された。
「歩夢、お疲れ様。よく頑張ったね」
冬雪は歩夢が欲しい言葉をくれる。息苦しかったのに、途端に空気が晴れるみたいに息が吸いやすくなる。優しく髪を撫でられて、その心地よさに甘えた。
先輩といっしょに住んでいた社員寮のマンションからは、年始が明けてすぐに出た。
冬雪が車を出してくれて、助手席でチョコレートの香りがするコーヒーのタンブラーを受け取った。日よけに薄い色のサングラスをかけた冬雪は見惚れるほど格好良くて、何度だって惚れ直す気持ちになる。多幸感が上回って、さみしい気持ちが霧散する。
勤務先に行かなくていいのに、有給消化中だから就職活動するって訳でもない。
はやく動き出さなきゃって思うのに、「ゆっくりすれば~」と冬雪には言われている。
「そういえば、冬雪さんはどんなお仕事されてるんですか?」
「僕~? そのうち、分かるよ」
そうやってはぐらかされて、サンルームでモーニングを囲む。
オムレツにサラダ、それからお歳暮のハム。お散歩がてら買いに行った焼き立てのトーストに、コーヒーは冬雪が淹れてくれた。
冬なのに陽射しは暖かくて、穏やかな時間だった。
「あ、珍しい人からレスついてる」
タブレットをいじっていた冬雪は画像投稿サイトのフォトグラムを開いているようだった。
「冬雪さん、フォロワー400万人いるんですか!」
「いや~すごいのは僕じゃなくて、僕の友達ね。友達がタグ付けしてくるから芋づる式に」
見ている間にもそのレスにハートが押され続けて、どんどんレスが増えていく。
「もしもし、司? ハハ、相変わらず情報早いね~」
そうしていたら、冬雪のスマホが鳴った。相手はどうやら司のようで、その様子を眺める。
「え? どこって家だよ? そう、作ったのは歩夢くん」
「アハハ、そればっかりは本人に聞いてみないと。ほんっと、甘いよね~司は」
会話は盛り上がっていて、歩夢は邪魔をしないようにそっと席を立つ。今のうちにお皿を片付けようと、白いプレートを重ねていたら腕を掴まれた。
「ねぇ、歩夢。ちょっと特別なディナーコース作ってくれない?」
冬雪の瞳に真っ直ぐに見つめられて、断る理由を歩夢は持っていなかった。
「春馬さんですか。すみません、僕うとくて」
冬雪さんから渡されたCDを慎重に裏返す。
「僕と司の後輩で、まぁ司の恋人でもあるんだけど。こいつがね~、まぁ食わなくて」
パッケージに映る青年は確かに細いというよりはむしろ、薄かった。
「司はもっと太らせたいみたいなんだけど、ずっと苦労してるよ」
「好き嫌いが多い方なんですか?」
「いや、というより興味がないみたいなんだよね。そんな、春馬からコメントがきたってわけ」
そうやって見せられた画面には「おいしそうだね」という返信がついている。その返信についたハートや返信はファンのものなのだろう。「ハルマくんが食に興味を!」「え、フユキさん1人前今すぐラスベガスまで届けてください」「ハルマくんがおいしそうといった今日を記念日にしよう」なんていうコメントがついている。
「そんなもんだから、司からね。歩夢にご依頼が、バレンタインディナーつくってくださいだって~」
冬雪の言葉に固まる。理解が追い付いていない。
「あ、こっちにもレスついた。僕も食べたいだってさ~、ほらおせちのやつ」
そうスライドされた画像はこの間のおせち料理の写真だった。
「嬉しいです。お口に合うか分かりませんが、頑張ります!」
キラキラとした瞳が輝くのを、冬雪はうっそりと見つめた。
「歩夢ならそう言ってくれると思ったよ」
「なに作ろうかな。バレンタインってことはデートだろうし、張り切りたいなぁ。ところで、春馬さんの好きな食べ物って知ってますか?」
「バターロールかな」
「ばたあろうる」
カレーとかハンバーグみたいな、いわゆる料理の名前がでてくると思っていたから、その答えがすんなりとは入ってこなかった。
「むしろ、それしか食ってるとこみたことないや。譜面捲りながらね、ときどきモグモグ食べてたよ」
今回のお客様は、なかなか手強いかもしれない。
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