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バレンタインディナー

「どうしたの? 何かトラブル?」  辞めた職場の同僚から電話があった。 「なぁ~歩夢。戻ってこいよ~」 「え~、やだ」  堂々と話せばいいのに、歩夢はベランダの窓にわざわざ寄って冬雪に背を向けた。  ほどけた口調で話す歩夢が可愛くて、聞き耳を立てるつもりはないけれどなんとなく集中してしまう。 「何かあったの?」 「あったっちゃあるし、ないっちゃないんだけどさー。まぁ、ほら人的トラブルは日常茶飯事みたいなところあるから」 「あ~、そうかも」 「ランチタイムの皿洗いだけでも戻ってこね~?」 「どうして? 大学生が受験期間でバイト増やせるって話じゃなかったっけ?」 「その予定だったんだけどさ~、バイトちゃんたちが歩夢くん居ないならあんな地獄わざわざ働きたくないってシフト出してくんなくてさ~」  歩夢の働いていたお店は繁盛店で、特にランチタイムはお客様の食事時間に制限があるぶん、目まぐるしい忙しさだった。  予約ベースでコースが決まっていないぶん、注文が偏ることも多く、そうするとキッチン内の空気が一変する。グリルに注文が集中し過ぎたら「そんなに早く肉が焼けるか」って明らかに料理の提供スピードにばらつきが出始めるし、パスタに集中しても「なぁ、知ってるか? ゆで麺機にいれられる数は決まってんだよ」ってホールの人間が責められる。料理が遅れてもお客様の休憩時間を動かすことはできないし、板挟みになるのはホールの人間だ。  バイトちゃんたちいわく、「歩夢くんが唯一の癒しだったのに!」「デシャップに天使がいるってことだけがモチベーションだったのに!」ということみたいだ。 「歩夢くん、優しいんですよ。オーダーが偏ってると、今日は早めに声掛けしたほうがいいよ」とか「ペルファボーレってなんですかとか質問しても教えてくれるし」「シルバーとかそのままでいいよ、あとやっておくから」って、「なにより、シルバー磨くの手伝ってくれる!」なんていう怒涛の歩夢賛歌を聞かされたらしい。 「更にはシェフが休みの日にさ、スーシェフがグリルはいったんだけど冷蔵庫の配置変わってたらしくてさぁ。ドピークにバットひっくり返してぶちぎれちゃって」 「あ~、シェフが左利きだからシェフが休みのときは朝の納品チェックのときに入れ替えておくんだよね」 「やっぱり、お前かよ」 「あはは、なんか懐かしいな」 「なぁ~、戻ってこいよ~。歩夢~」 「やだ」  そうして同じやりとりを繰り返す。  いなくなって、初めて気が付くことってある。  その場所にいたのは誰でもよかったわけじゃなくて、確かに歩夢がいたのだから気が付かないうちに先回りの優しさの恩恵を受けていたりする。 「電話、職場から?」  歩夢の電話が終わったタイミングで声を掛けた。 「あ、すみません。こんなところで長々と」 「ぜんぜん、いいよ。おいで」  両手を広げると、歩夢は素直にソファーに座る冬雪の腕の間に収まった。そうして優しく抱き締められる。 「歩夢はよく頑張ったね」 「聞こえてましたか?」 「ちょっとだけ」  洗い場とキッチンスペースは離れているから、シェフたちは知らなかったのかもしれない。歩夢の気遣いや仕事は、確かにキッチン内に行き届いていたこと。 「ねぇ、歩夢?」 「はい」 「敬語じゃなくていいからね」 「や、でも」 「ちょっとずつ、ね?」 「はい」  誰よりも大事にしてあげたいと思った。 「どこに連れていかれるのかと思っていたけど、冬雪の家なの?」 「そうだよ」  このためだけにハイヤーを呼んだ。春馬の手をとって車から降りるのを手伝う。その薄い肩にコートを被せて、甲斐甲斐しく世話をする。  あの春馬が、食べ物に興味を示してくれたってだけでお祭りなのだ。こんな好機を見逃すつもりはないし、恋人として、パートナーとして、その期待には全力で応えたい。  慣れ親しんだ階段をすこし緊張しながら降りる。アトリエの入り口は、今日も許された人にしか開かれない。 「いらっしゃい」  扉を開ければ、冬雪が出迎えた。 「冬雪どうしたのそんな正装で」 「うん、気合入れたの。春馬、おかえり」 「うん、ただいま」 「明けましておめでとう」 「おめでとう」  春馬と新年の挨拶を交わしていたら、司から声が掛かる。 「冬雪、今日はありがとう」 「いいよ。僕も、可愛い恋人を見せびらかしたいしね」  春馬が司の隣を選んだ日から、当然のように2人は一緒にいる。  学生のころから知っているから、そんな2人に眩しいような気持ちがある。 「その自慢の恋人は?」 「うん、いまは集中しているから。あとでね」  そう言って、個室の扉を開く。 「とっておきのサービスをしてあげる」  冬雪の笑顔は見慣れたものだけれど、こんな心から楽しいみたいな瞳を見るのは久しぶりな気がする。  すこし驚いて後ずされば、司にぶつかった。難なく受け止められて、背中を押される。 「いこうか」  司を振り返れば、司の瞳があまりに優しく自分を見ているから、すこし気恥ずかしくなる。 「うん」  そうだ。今日は久しぶりに日本に帰国して、それから久しぶりの司とのデートだ。  冬雪に椅子を引かれて、その椅子に座りこむ。自然と椅子を押されるタイミングの良さに確かな実力を感じる。 「冬雪ってホールの仕事もできるんだね」 「まぁ、一通りは」  王冠の形に折られたカラーナプキンを膝に掛けて、司と向き合う。司は会食も多いからこういうことも慣れているんだろうけれど、春馬は畏まったお食事会から逃げ続けているから落ち着かない。すこし緊張もしてきた。  冬雪の家でよかった。これで周りに他のお客様がいたら、確実に逃げ出していた。 「今夜は4品だから安心して? 飲み物はおまかせでいい?」 「考えてあるんだろ?」  司の声に、冬雪は悪戯に笑う。 「もちろん」 「春馬はどうする?」 「僕もそれでいい」  普段はぜんぜん飲まないけれど、司もいるし、冬雪の選ぶお酒だから安心できる。  まぁ、きっとそれも想像通りなんだろうと思う。だって、テーブルにはすでにカクテルグラスがセットされている。  はじまりはノクターンから。  前菜は三角グラスを使った。  冬雪とのはじめての出会いだ。角砂糖が溶けていって、立ち上る泡がイルミネーションみたいだった。  それを再現した。コンソメのジュレ、それからアボカド、エビ、カニやリンゴもはいっている。ドキドキした気持ち、甘くて酸っぱくて、苦くて、でも口中に広がる香りに一気に引き込まれた。  2品目はサラダだ。初めてのデートだ。車で連れていかれた先はマルシェだった。色とりどりの野菜が輝いて見えた。どれもこれも主役のように誇らしくて、それをブーケに見立てたサラダをつくった。  3品目はもうメインで、食べやすいものにしようと思った。誰もが大好きで、そうして食べることにあまり興味がない人にとっても馴染みのあるもの。  牛のランプ肉をほろほろに煮て、ビーフシチューをつくった。好物だというバターロールも添えて。  4品目はデザート。せっかくバレンタインなんだから、ハートのかたちにした。チョコレートのムースに真っ赤なイチゴのコンポート。赤ワインで煮込んだから、これはいわば冬雪との共作のつもりで考案した。  どれだけ時間をかけようと、食事の時間は2時間もあれば終わる。  広げていた調理道具を元通りに片付けて、作業台の拭き上げまで終わらせて歩夢はようやく一息つくことができた。  気持ちだけ身なりを整えて、ようやくキッチンから顔を出す。 「あの、どうでしたか?」  バースペースに冬雪を見つけて声を掛ける。 「直接、聞いてみたら?」  冬雪に手を引かれて個室まで連れていかれる。緊張が過ぎて、心臓が口から出ちゃうんじゃないかって思った。  扉は開かれて、本日のお客様と対面する。 「びっくりした。ずいぶんと可愛い子が」 「紹介するね。僕の恋人の歩夢くんです」  CDジャケットで見た顔が、目の前にあった。 「あの、お口に合いましたでしょうか?」 「ぜんぶ、キミが作ったの?」 「はい」 「ひとりで?」 「はい」  心臓が痛くて、新しいコックコートの胸を握りしめる。 「すごく美味しかったよ。僕、ひさしぶりにあんなに食べた」  返ってきたお皿がキレイだったから、食べてくれているってことは分かっていた。でもこうして口にしてもらうことで、ようやく実感できる。 「よかった」  安心したら、溢れるように涙がでた。 「僕、コース料理ひとりで作るの初めてで。ぜんぶ、食べてくれて」  自分の夢のひとつだった。それが、叶った。  自分で考えたコースを自分の手で作りたかった。そうして「美味しい」と思ってもらえたら、いいなって思い描いていた。  冬雪が抱き寄せてくれるから、余計に安心してしまって涙が溢れてくる。 「歩夢くん、ありがとう。春馬があんなに食べるなんて思わなかった」 「メインにバターロールでてきたのは笑ったなぁ。あんなにオシャレな前菜やサラダがでてきたのに普段見慣れたものがかしこまって出てくるんだもん」  しかもすっごい美味しかったし、あれどこのパンなの? 涙で滲んだ視界の先で、ウソのない春馬の言葉が沁みていく。 「僕がいちばん好きなパン屋さんで」 「今度、教えてよ」 「はい」  いつも食べているバターロールなのに、今日はぜんぜん違った。  司が「よかったな、春馬。バターロールだ」って言うから、もうダメで、声をあげて笑ってしまった。  普段は味わってってつもりもなくて、ピアノの上で作業みたいに放り込んでいるものなのに、バターロールの甘さとビーフシチューのかすかな苦みや濃厚さにも合っていて、更には冬雪の選んだ赤ワインとも長年の相棒ですってくらい調和していた。目の前には司がいて、「美味しいね」って言い合える。 「はじめて食事の時間が楽しいって思えたかも」  素直に伝えれば、歩夢の表情が綻ぶみたいに笑顔になった。 「好きなひとといっしょに食べる食事は格別ですから」  孤食はさみしい。どうしても母が帰れなくて、自分ひとりで食事をするとあまり美味しさを感じなかった。母と一緒に食べる時間が大好きで、その幸せを知ってもらいたい。 「歩夢くん、ごちそうさま」  すべての努力が報われた気がした。

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