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第二章「バレンタインディナー」 ホワイトデーコンサート(完)
頭上には豪華なシャンデリア、足元に敷かれた絨毯はふかふかとしていて革靴の音を吸収する。慣れない場所に緊張が増していく。
「歩夢、しゃんとして。大丈夫だよ、最高に格好いいから」
細められる視線に嫌でも意識してしまう。そもそもは、冬雪が悪い。
「会場近くにホテルをとったから、そこで着替えようか」
ホテルまでは冬雪が車を出してくれた。後部座席には2人ぶんのスーツが吊るされている。
記念日でもないのに、こんな部屋もったいないですよって言えば、「だって、ホワイトデーだよ?」とだけ返された。
最上階近くのツインルームは、太陽に近くて開放的な大きな窓からは澄んだ青空が広がっている。
「着替えさせてあげるから、僕さきに入っていい?」
いつもいっしょに入るのに、その日は冬雪が先にシャワーに入った。初めて訪れるホテルの部屋で、気もそぞろにベッドの片方に腰掛ける。
数分もすれば冬雪は部屋に戻ってきた。備え付けのバスローブがよく似合っていて、大人の色香にクラクラする。
「ほら、歩夢もはいっておいで」
くしゃりと髪を撫でられて、その指の感触に酔う。
「はい」
すでに濡れたシャワールームは、さっきまで冬雪が使用していたことを容易に思い起こさせて、もっと落ち着かない気持ちになった。浮かれた頭を冷やそうと勢いよく頭から水を被る。なんとか気持ちを落ち着けてバスローブだけ纏って部屋に戻れば、すでに冬雪はスーツに着替えていた。その立ち姿から、目が離せなくなる。
「おかえり」
カフスボタンをつけていた冬雪が顔をあげる。完成された美しさはまるで絵画のようだった。
「ねぇ、歩夢。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
低く甘い声が鼓膜を震えさせる。それだけで、催眠にかかったように思考力が低下する。
「はい」
「スーツの下に、これ履いてくれない?」
パッケージの上からリボンでラッピングされていたのは、メンズ用の下着だった。
「こんなに素敵なスーツを着ているのに、僕のプレゼントしたエッチな下着を履いてるんだって思ったら、どれだけ周りが歩夢を変な目で見ていても我慢できる気がするから。ね? お願い」
口を噤んで、返事の代わりに受け取った。
「ここで、履いて?」
下に何も身につけていなかったから、そのまま履いた。冬雪の顔は見れなかった。バスローブの裾がはだけてしまっていたらどうしようと少し脳裏をよぎったけれど、深く考えないようにする。せっかく沈めたのに、また期待してしまう。
「ありがとう」
冬雪が両手を広げるから、その腕のなかにすっぽりと収まる。
「ねぇ、歩夢? せっかく新しいスーツを着るんだから汚しちゃダメだよ?」
いつもとは違うトワレの匂いに包まれた。
「冬雪」
聞き覚えのある声が冬雪を呼んだ。顔をあげると、目の前に司が立っていた。
「歩夢くんも来てくれてありがとう」
「ああ、司。ご招待どうもありがとう」
「招いたのは春馬だけどな。俺も冬雪たちと一緒に観るよ」
見知った顔に少しだけ胸を撫でおろす。それから弾かれたように、司に向き直る。
「あの、これケークサレなんですけど、野菜のパウンドケーキみたいなもので、常温で大丈夫なので」
手に持っていた紙袋を司に受け渡す。
「パウンドケーキ? 野菜の?」
「はい、差入れというかお口に合うか分からないんですけど。冬雪さんが、栄養価が高いやつがいいって」
「いいね。助かるよ」
「片手でも食べられるものなので、そのままピアノ弾いちゃうと汚れちゃうかもしれないからおしぼりも」
「お気遣いどうもありがとう」
「いえ、その」
しどろもどろに話すのに、急かすことなく話を待ってくれる。
「今日はありがとうございます」
「うん、あとで春馬に伝えておくよ」
案内された席は、2階席の1番前の席だった。
音が上に伸びていくクラシック音楽は、2階席のほうが音の聞こえがいいからという春馬の計らいだった。
春馬が登場すると会場の空気が一気に変わった。細い身体からは想像できないようなダイナミックな演奏で繊細な指先は鍵盤のうえを縦横無尽に動き回る。
時に激しく、時には穏やかに。澄んだ音色に包まれる。
「ありがとうございました。最後の曲は僕のオリジナルソングです。素敵なディナーに誘ってくれたパートナーに、それから食事を提供してくれた友人に感謝の気持ちを込めて」
間違えると容赦なく叱られた。
小さな指はまだ鍵盤を抑えることが難しくて、でも言い訳なんてできなかった。
「ごめんなさい」を繰り返して、できるまでの時間が続く。
母は精神的に不安定なことが多くて、入院することもあった。
「練習しておくように」という言いつけを守って、ひとりでも毎日ピアノに向かう。
バターロールは隣に住んでいたおばあさんがよく焼いていた。
「どんな子が弾いてるのかと思ったら、こんなに可愛らしい演奏者だったのね」
「すみません、うるさかったですか?」
「あなたのピアノを聞きながらパンを捏ねるのが好きなのよ」
庭のフェンス越しに会話をする。
「ねぇ、よかったらもらってくださらない? ちょっと失敗しちゃったんだけど」
手渡されたバターロールはまだ温かかった。
「夕飯食べられなくなったらお母さんに怒られちゃうものね。1つだけね」
「おいしいです」
「表面がすこし割れちゃったの。ねぇ、またもらってくださる? 素敵な演奏のお礼に」
表面が割れてしまったり、底が反れてしまったり。「難しいわ」っておばあさんは困ったように笑っていたけれど、春馬にとっては唯一心が休まる時間だった。
バターロールは失敗の味。でも、温かくて美味しかった。
失敗することが何よりも怖かった。けれど「失敗しちゃったわ」って言いながら、加水してみたりバターの量を増やしてみたり試行錯誤を繰り返すおばあさんと会話するうちに、少しだけ失敗することの恐怖を克服した。
だから、あの日。
司に連れられて招かれた冬雪の家で、バターロールが出てきた日。
主役みたいな顔して出てくるもんだから、びっくりした。
ビーフシチューとも、ワインとも、ハーモニーを奏でられるのよって教えられたみたいだった。
あのときの気持ちを音楽にした。
作曲者の書いた譜面に身体を差し出す媒体になるのではなく、自分で五線譜を埋めていく。
正解のない自由な音楽。
「春馬、お疲れ様」
コンサートは無事に終了した。ソファーに手足を投げ出して目を瞑っている春馬に声を掛ける。
「うん、どうだった?」
「あんなに楽しそうに演奏している春馬を初めてみたよ」
「ああ、うん、そうかも。すごい楽しかった」
自分の演奏に満足することなんてなくて、完璧だったかどうかの自己反省が始まる。演奏後の春馬は殊更、神経質でこうして楽屋に気軽に訪れることを許されているのも司くらいのもんだ。
「僕って案外、ピアノ弾くの上手だね」
「そうだな」
高校の音楽室。初めて出会った日のことを思い出す。あれからもう、10年が経過していた。
「ねぇ、司。僕、お腹空いちゃった」
「いいもん、預かってるよ」
「誰から?」
「歩夢くんから」
手渡された紙袋を覗き込んで、春馬が無邪気に笑う。
「ねぇ、歩夢くんってさ。生地といっしょに焼いたら僕なんでも食べるって思ってそうじゃない?」
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