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16.幸せのため5

 ここで頷いたら、きっと愛する主人の元から離される。彼の傍で、彼が大人になっていく姿を見ることが出来なくなる。  それは、それだけはーー嫌だ。どうしても嫌だった。今まで中条家の命令に逆らったことなんてあっただろうか。“はい“と一言返事をしたら良いだけなのに、どうしてもその一言が出ない。  しかし、これは七海のエゴであって晴太郎のためにはならない。晴太郎のため、彼の幸せな未来のためーー。  何度もそう自身に言い聞かせる。晴太郎のため。主人が成功して、幸せになるため。自分が隣にいたら彼は間違いなく苦労する。世間からの強い逆風の中、色々なものと戦いながら人生を歩んで行かなければならない。  でも、もし自分が隣にいなかったら。七海が居なかったらーー彼は苦労することもないし、悩む事もない。  ぐっと奥歯を噛み締めた。受け入れろ、幸太郎の言う事を。受け入れて、晴太郎の前から姿を消す。たったそれだけで、大切な人の幸せが確約される。  なんて、なんて簡単なことだ。  全ては主人のため、晴太郎のためーー。 「......……承知、いたしました」  ーーこれで良い。これで良いんだ。  目の前にいる幸太郎の顔が直視できなくて俯いた。膝の上で握った手が震えていた。無意識に力を入れすぎてしまっていたようだ。 「そう……それで良い」  幸太郎は満足そうに言った。 「七海……っ」 「ちょっと待て、七海……! おまえ、本当に良いのか……?!」    しんと静まり返った会議室の中、紗香の泣き出しそうな声と珍しく感情の篭った黒木の声が聞こえた。滅多に大きな声をあげない黒木が、立ち上がって幸太郎に向かって意を唱える。 「幸太郎様、どうか考え直してください! こいつが、今までどれだけ晴太郎坊ちゃんのために尽くしてきたか……! あなただって、ちゃんと分かって……」 「口を慎め、黒木」 「ですが、高嶋さん……!」 「黒木」  ぎろり、と高嶋が刺すような視線で黒木を制する。何か言いたげな顔をしていたが、黒木はぐっと堪えて椅子に腰を下ろした。  七海は驚いていた。見た目とは裏腹に無口で穏やかな黒木が大きな声を上げるなんて。泣きそうになるほど自分たちのことを想ってくれる紗香と、絶対的な上司に意を唱えようとしてくれた黒木。普段から世話になっていたが、本当に彼女たちには頭が上がらない。  そんな家族想いな彼女たちの声も幸太郎には届かない。誰も意を唱える者が居なくなった今、いよいよ彼は七海に冷酷な判決を下す。 「では、七海。おまえの従者としての任は解く。今まで、よくやってくれたな」 「……はい」

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