15 / 32

3・聖母の鳥-7

「偶然だな! どっか行くつもりだったのか? 電車止まってて行かれんだろう」 「え……いや……」 「俺は今日は早めに切り上げられたから、隣の駅まで着いてたんだ。だから歩いてこれた、ラッキーだったな。まあ思ったより降り出して結構濡れちまったけどな」 「それ、ラッキーって言わないよ」  さっき不幸で憐れんでいた男がラッキーを自称している。  ああ。笑えてきてしまった。僕がけらけら笑って、つられるように紅蓮が笑うと、駅舎の中でくたびれている人たちがこちらへ視線を向けてくる。  西田に見せてやりたい、この堂々とした馬鹿を。人と違うからってなんの屈折も持たない、晴れ晴れとしたこの笑顔を。  多分、ついさっきまでの自分だったら、恥ずかしくなってそそくさ立ち去っていただろう。けれど、なぜか、このあっけらかんとした友人といるだけで、僕は自分の愚かさを忘れていられる。 「なんで傘買わなかったんだよ」 「行けるかなって思って……」 「買って帰ろう、僕も一本しかない」 「いや、いいよ、もうびしょんこだし、びしょんこで傘買うの恥ずかしいだろ」 「びしょんこの男が雨に打たれてるのと並んで帰る僕の身にもなれよ」  がっはっは、と大声で笑う。  結局このあいだみたいに相合傘をして帰った。これはもしかしてずぶ濡れの奴と歩くよりずぶ濡れで傘を買うより恥ずかしいんじゃないかとも思ったが、隣で肩をぶつけてくる奴があんまりにも愉快そうで、肩がびしょびしょで冷たくて笑えるので、笑えるから、まあいいか。  足元を見ながら歩いていても、斜め上か降ってくる笑い声だけで紅蓮の表情が想像できる。不幸に見舞われても幸せそうと言うか,不幸を不幸とも思っていないって顔。楽天家、脳天気ともちょっと違う、紅蓮はどんな状況も楽しめるのだ。 「スーツ、クリーニングに出さないとな」 「というか、お前よかったのか? どっか行こうとして駅にいたんじゃなかったのか」 「あ、あー」 「家着いたら車で送ってやろう。飲み会か? 珍しいな」  まるで自分のことのように嬉しげに話す。どうしてこんなに楽しそうなのだろう。彼の目を通してみる世界には笑えることしかないんだろうか。僕のした恥ずかしい行動も笑い話になるならいいかと、恥を忍んで打ち明けてみることにした。 「迎えに来てたんだよ、君を」  返事はない。相槌をためらうような間があった。あれ、と思いながら僕は続けた。 「傘持ってってなかっただろ? だから迎えに来たんだけど、でも僕も馬鹿だから傘一本しか持ってなくて……」  思っていたような笑い声が降ってこなかったので、顔をあげてみる。  紅蓮は、きょとんとしていた。長い睫毛を瞬かせて、じっと僕を見下ろしていた。なのに僕が顔をあげると、びっくりしたように前を向き、唇をもごもごとさせて――さっと顔を赤らめた。  寒いから、なのか? 「そ、そうかあ」  がはは笑いとはまるで違う、照れてはにかむようなとろんとした笑い方。彼はぽりぽりと頬を掻いた。 「優しいな、お前。ありがとな」 「……あ、うん」  僕もさっと顔を下ろした。また足元を見ながら歩きはじめた。いつにないぎくしゃくとした沈黙が二人の間に流れて、あれ、とまた思う。けれど、不思議と胸がぽっぽと熱くて、そう悪い沈黙でもないと思えた。

ともだちにシェアしよう!