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4・境界線-4

「もしかしてゲイなの? って思ってさ……一緒に住んでるって言うし、これ、デキてるかも? って」  突き立てられた槍で、体の中を掻き回されるような。  時間が止まったような気がした。視界に映っていた雑多な色が消え、さあと血の気が失せて何も考えられなくなる。どうしよう。どうしたらいい。悪気がないのは分かってる、あのときみたいに笑って誤魔化せば済む話だって分かってる、でも、あのときと違うのは。隣には紅蓮がいて。否定出来ないこいつがいて、僕が笑って誤魔化せばきっと傷つくこいつがいて、逃げたいと思う、手を取って走り出せたら、でもそんなことできなくて、僕にできることは、こいつを守るために僕にできることは、――ぐるぐる回って追い込まれた僕が西田に食ってかかるのを、 「――アッハッハ! まさかぁ!」  押しとどめたのは、紅蓮の笑い声だった。  豪快な笑い声が、理学部棟一階廊下へカンと響く。現実を失ったような僕の気持ちを引き戻す、あまりに聞き慣れた笑い声。違う違う、と笑いながら紅蓮は片手をぱたぱたと振った。あくまで自然な動作で、あくまで自然な否定だった。表情に焦りも怒りも怯えもなく、ただ、涼しいまでの笑い顔で、 「ただの友達だよ、ゲイじゃない。ま、転居祝いのセンスがないのは否めんがな」  そう言って、自分自身をも否定する。  ――言わなかったからなあ。困らせるだろうから人には言わないことにしてるんだ。  居酒屋で打ち明けてきたときの、あの飄々とした、ちょっと出来すぎていたくらいの飄々としたあの顔を思い出して、僕はなんだか泣きたくなった。 「おっまえさぁ……」  何も言えない僕のかわりに、隣で聞いていた増野が不快感をあらわにする。露骨に空気が変わったことに西田も勘付いたらしく、調子のいい顔をひっこめた。 「お前、いまどきそれはサッムいわあ。そういうイジり方は小学校で卒業しとけよ」 「す、すんません」 「バァカ、竹本ゼミの聖域から立ち去れ」  僕と紅蓮にもへこへこと頭を下げて素直に立ち去っていく西田。良い奴なんすけどバカで困るんですよねえ、と背中を指しながらフォローして、にかっと増野は笑ってくれた。  当番までまだ時間があったので一旦別れて、紅蓮を連れてポスター発表を見て回る。突き刺さった穂先が抜けていないみたいに疼いて、全然頭に入らない。自販機のコーナーに差し掛かって、紅蓮がコーヒーを奢ってくれた。壁際に突っ立って飲みながら、喧騒の中で、紅蓮は僕に笑いかける。 「冬弥にも学生っぽい友達がいるんだな。当たり前か」  頷いた。今、どんな気持ちなんだろうと色々想像を巡らせると、怖くて顔をあげられない。 「増野くんだったか? 良い友達に恵まれてるな。もう一人の方はイケメンだった」 「ごめん、紅蓮」 「ん?」 「う、嘘……吐かせて」  自分がゲイではないと、自分を否定させられるのは、一体どんなにか辛いことだろう。  紅蓮は一瞬ポカンとしてから、ハハ、と笑った。それからちょっと得意げな顔をして、大きな背中を丸くして僕の顔を覗き込んでくる。 「『デキてない』のは本当だし、『冬弥がゲイじゃない』のも本当だぞ。どうだ、俺は嘘を吐いたか?」  ぽん、とひとつ、励ますように背中を叩かれる。どうして僕が励まされているのだろう。 「俺こそ、気を遣わせちまって悪いな」  眉を下げて、微笑む。少し寂しげに。  君は少し優しすぎるよと、言いたくて、言えなかった。紅蓮は僕の知らない場所でこんな場面を幾らも超えてきたに違いなかった。知らずにいることはなんて残酷なんだろう。『ゲイだったらよかったのに』とさっき考えていた僕の胸が、苦しいと悲鳴をあげている。

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