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5.夜の校舎-2

 世界における幸せの総量が決まっているとは思わない。だけど、あるタイミングで一人一人の幸福度を比較したときに相対的に見てどの位置か、というのはあると思う。他の人が幸せになったら自分の取り分が減るわけではないにせよ、他人が幸せになるだけ、相対的に見ると自分は不幸せに近づいているという考え方だ。だから、大勢の人がいつも以上に幸せを感じるようなイベントごとがある日には、そのイベントに乗じれない人は相対的に不幸せになってしまうと考えられるのではないか。……例えば、クリスマスイブ、とか。  去年のクリスマスイブもそうだったよな、と、実験機材の吐き出した異常値を睨みながら、僕は深く深く溜息をもらした。  年末年始ってのは休みだが、卒論や修論をやっている人の多くにとっては、追い込みの時期だ。この時期にまだ実験データを取っているような追い込まれている人にとっては特に。去年追い込まれてたよなあ、と懐かしく振り返る。クリスマスに増野と二人、異様なテンションで貫徹したことをいい思い出とは呼びたくないが、まあ実際いい思い出だ。  地獄のクリスマス貫徹を乗り越え院生になって迎えた今年のクリスマス。僕は追い込まれていなかった。追い込まれているのは僕ではなく、一個下の学部四年生だった。良い子なんだが、どうも機材との相性が悪くていつも半泣きになっているような子で、よく僕や増野のところに泣きついてくる。「なんかエラーが出るんです」。今日もそうだった。そして二言目が、こうだった。「今晩、友達と約束があって、どうしても行かなきゃいけないんです」。  本当に友達か? 彼氏なんじゃないのか?  言えるわけがない。セクハラで吊し上げられてしまう。安請け合いした僕も僕だが、対処にこんなに時間がかかると分かっていれば、先に帰っていいよだなんて増野に言わなかったのに。  実験室はブラインドが閉まっているので様子はよく分からないが、外が真っ暗なことは分かる。時計の針はもう二十一時を指していた。顔見知りのメーカーの人に電話をかけてもみたものの、休みに入るから対応は年明けになると言われた。先生さえいつの間に帰宅していた絶望的な状況で、一人で粘ってようよう原因究明に漕ぎつけたのは、褒めらるべきだ。あとは、今回しているPCRが終了して、結果に異常なしと確認すれば、家に帰れる。  紅蓮には帰りが遅くなると連絡しておいた。紅蓮も今日は遅くなると言っていたし、飯がなくて途方に暮れてるってことはないはず。でも流石にもう帰ってるかな。あの子は今頃彼氏とディナーかな、ディナーも終わってラブホテルか、ああいや友達だったっけ……と恨みがましいことを考えそうになり、頭を振って追い払った。別にあの子は悪くない。  夜の大学は、ひっそりしている。廊下も消灯されていて、灯りのついている部屋もぽつりぽつりだ。追い詰められる時期とはいえ、クリスマスイブに遅くまで残って勉学に励もうなんて馬鹿はそうそういないらしい。  二年連続、薬品臭漂う実験室でのクリスマスイブ。幸福度が下がるのも致し方なし。今頃みんな家族や友人、恋人同士で集まって、幸せな夜を過ごしてるんだろう。何度目かの溜息をつく。これだから冬は嫌いだ。ひとりでいるのが好きなくせに、人恋しさが募ってくる。家族が欲しくなる、誰かに会いたくなる。そうだな、――紅蓮だな。紅蓮に会いたいな。会って、がんばってるなって、ちょっとでいいから褒められたい。  はあ。またため息。終わらせて帰れば会えるじゃないか。帰ったらいっぱい愚痴を聞かせよう。立ち上がって、窓へ寄った。紅蓮のことを考えていたから、あいつがホワイトクリスマスになるんじゃないかと言っていたのを思い出したのだ。  ブラインドを指で開いて、駐輪場の方を覗いてみる。幻想的な雪なんて降っていなかった。ひどく物悲しい街灯の下に、ほんのちょっぴりしかない自転車と、僕の停めた原付が、ひっそりと佇んでいるだけだ。  と、その原付に、背中を丸めて近寄っていく人物がいる。 「……え?」  心臓が早鐘を打った。冷え切った窓に顔を寄せて大きな背中をじっと見つめた。黒いコートを来た男は、原付のナンバープレートを確認して、あたりをきょろきょろと見回している。それから、理学部棟の入口へ、こちら側へ、ふいと顔を向けた。  ――紅蓮だ。

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