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5.夜の校舎-3
黒いコートを来た男は、原付のナンバープレートを確認して、あたりをきょろきょろと見回している。それから、理学部棟の入口へ、こちら側へ、ふいと顔を向けた。
――紅蓮だ。
「なんで……」
震える唇から思わず独り言が漏れる。それから、ハッとして、慌てて実験室を飛び出した。
既に消灯されている廊下、階段を駆け下りる。痛いほど心臓が鳴っていて、歩き慣れた階段を踏み外しかけた。どうしてこんなに高揚しているのだろう。これしきのことで。これしきのことで?
ひとりぼっちのクリスマスイブに、同居人が、迎えにきてくれた、これしきのことで?
施錠されたドアの前で困り顔をしていた紅蓮が、駆け下りてきた僕を見、ぱっ、と顔を華やげる。その顔を見た途端、真っ暗な理学部棟のエントランスに、光が灯るような心地がする。コートの下はスーツのままだった。家に帰らず、こっちに寄ってくれたのだろうか。
「遅くなるって連絡してくれてよかったよ。危うくチキンを買って帰るところだった」
開錠するなり、差し入れだぞ、ほれ、とコンビニ袋を手渡される。中身は肉まんだった。
「クリスマスパーティは明日だな」
心臓が暴れてる胸が、いっぱいいっぱいで、頷くのがやっとだった。
実験室では飯が食えないので、ゼミ室へ逃げ込み、そこで二人で肉まんを食らう。部外者を入れていると知られたら怒られるので、ひそひそ声で話をした。こんな日にがんばってるみたいだから、たまには迎えに行ってやろうと思ってな。自分だって残業してきたくせに、ちっとも疲れを見せない彼は笑う。
「原付どうしよう」
「電車でも来れるだろ? 明日は電車を使えばいい。朝早くてよければ送ってやるし」
「紅蓮、車で会社行けるの?」
「仕事納めの日くらいはいいだろ」
会話が止まるごとに、しん、と音のするような静謐に満たされる。どきっとするような静けさ。思わず耳をそばだてて、紅蓮を見た。目が合った。紅蓮も耳をそばだてていることがなんとなく笑って、声を殺してくつくつと笑った。
ゼミ室を施錠して、真っ暗な廊下を、実験室へ向かう。紅蓮の革靴が一歩進むたびに、コツン、コツンと澄んだ音が暗闇の向こうまで響きわたる。
「夜の学校って、ちょっとどきどきするな」
「うん……」
――僕も、していた。ちょっとどころじゃない。心臓が口から飛び出すんじゃないかってくらい、手と足が一緒に出るんじゃないかってくらい。いつもの大学が、学祭のとき以上にいつもの大学じゃなく見えて、そして、そろそろと隣を歩いている友人の存在を、実際に触れてるんじゃないかってくらい、肌に感じ取っている。
誰かに見られたら怒られるから、とか、オバケが出そうで怖いから、とかじゃない。
明らかに僕は、夜の校舎を、この人と、隣あって歩いていることに、特別にどきどきしているんだ。
ふわふわとした変な気分で、施錠していた実験室を開ける。壁沿いに所狭しと並ぶ試料や機材を物珍しげに紅蓮が眺めている間に、試料を取り出し、分光光度計で濃度を確認する。異常値はなかった。作業は終了だ。うまくいった、と報告すると、紅蓮は僕の手元や扱っている機械を覗き、目を白黒させる。
「お前、賢いんだなあ」
「機械が使えるから賢いってことにはならないよ」
「よく分からんが、凄いよ。見直したぞ、冬弥」
ぽん、と頭に手が乗せられた。
大きな手が、わしわし、と短い髪を混ぜくるように、僕の頭を撫でてくる。
――なんだろう、変な感覚、嬉しいような、切ないような変な感じが、ぶありと体の内側に広がった。
「ご苦労さん。よく頑張ったな」
顔をあげると、優しい顔で、微笑まれて、なんだか目の前がちかちかとする。
そう、こうして、ほしかったはずだ。ねぎらってほしくて、褒めてほしくて。なのに、なんだろう、これは。なにか、へんだ。
どっ、どっ、どっ。と。音がするのが、心臓の音だと、少し遅れてから気付く。うるさいくらいに暴れてる心臓はどうにかなっちゃったのではないか。脳がケサランパサランに置きかわったくらい意味も分からずふわふわとしたあと、ぶあ、と全身が燃え上がって、びっくりした。顔面にかあっと血が駆けのぼり、あっ、と思って、慌てて顔を反らした。
胸が苦しい。恥ずかしくて切なくて嬉しくってもっとほしくて、僕は、なんだか泣きそうになる。
その夜、久々になかなか眠れなかった。吊り橋理論、吊り橋理論、と暴れる心臓に言い聞かせた。だって、そうじゃなきゃ、こんなのどうやっても説明がつかない。
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