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6・吊り橋-1

 ――抱かれる夢を見てしまった。  抱かれる、と言っても、別に性的な意味じゃなくて。抱きしめられて、ベッドで一緒に眠るだけの夢。二人で向かい合って横になって、僕は紅蓮の腕の中にいて、そっと胸に顔を寄せると、いつもの煙草の匂いが少しする。  僕はいつの間に煙草の匂いを好きになっていた。煙草の匂いは紅蓮の匂いだった。だからベランダで吸ってくれなくてもよかったのだけど、網戸越しにならじっと顔を見れるから、それができないのも寂しい。でも最近は外が寒いからって言って紅蓮が窓まで閉めてしまうので、やっぱり寂しい。中で吸ってもいいと言ったけれど彼はダメだって聞かないのだ。匂いとかじゃなくて、副流煙が悪いからって、僕の健康の心配なんかして、真面目だな。優しいな。  そんなことを考えて、ぬくい腕の中でうとうとしてると、わしわし、と頭を撫でられる。その手は大きくて、その手つきは心地よくて、僕はとろけるように幸せで、ひとつのまっすぐな、飾りけのない感情が、膨らんで、膨らんで、膨らんで――弾けないまま、目が覚める。  目が覚めても、僕の心は、まだ吊り橋の上だった。  吊り橋理論って似非科学みたいだけど、実際の心理学者によって提唱されたちゃんとした学説でもある。揺れる橋を渡ることで生じる緊張感を、脳が恋愛感情と勘違いする、ってやつだ。つまりは、誤認で、錯覚。だから僕の脳にあるこの誤認で錯覚も、雪か魔法みたいにそのうち解けて、なんであんなこと考えてたんだろ、って呆けるときがくる、はず。  でも今は、この感情が、すごく心地いい 。  ーーおはよ、冬弥。  って挨拶されるだけで、こんなに心がふわふわして。  ーー朝飯うまかったー! 弁当もありがとな、おかげで仕事納めもがんばれそうだ。  些細なことにくれる感謝に、いつもの三倍も舞い上がって。  ーー行ってくるな。冬弥も気をつけて学校行けよ。  洗濯物干してるベランダまでわざわざ顔を出して声をかけてくれる気遣いに、胸がきゅうとして、死にそうなほどどきどきして。  たまに友人たちと色恋の話になる。僕は人と付き合ったこともなんかない。でもいつも分かったような顔をして話を聞いていた、人に恋をする感情くらいは、理解してると思っていた。こんなのは、知らない。こんなきらきらしてあたたかいのに苦しくて張り裂けそうなんて、知らなかった。知らなかったのに、僕の心はもうこの感情でいっぱいで、この感情が今まで自分になかったなんて信じられないほど、僕の大部分を占めている。知らなかったなんて嘘みたいだ。あいてることにすら気づいてなかった心の穴にすぽっとはまったみたいにしっくりくる。浮つくだけじゃない、心地よくて、まるで温かい湯船に浸かって揺れているような。  馬鹿だな、脳のバグみたいなもんなのに、ただの勘違いなのに――勘違いなのがさみしいなんて。いつか魔法が解けるのが怖いだなんて。  電車とバスを乗り継いで大学へ向かっている間にも、魔法はまだ解けない。  大学まで辿り着いても、まだ解けない。いっそ昨日のことを思い出して、また鼓動がうるさくなる始末。 「若宮さん、昨日はありがとうございました」  実験機器の不調を訴えた後輩にぺこぺこと頭を下げられた。お礼です、と言って、ご丁寧にラッピングされたチョコレートまで贈ってくれた。クリスマスプレゼントじゃん、と増野が笑う。異性の女の子にクリスマスプレゼントを貰ったら、後輩と言えちょっとくらいドキッとしてもよさそうなのに、元よりどきどきしているから全然どきどきしなかった。セクハラにかすりもしない応対ができたと思う。これは錯覚に感謝だった。  顕微鏡を覗きこみ、クサキリテントウの死骸の足を開かせながら、ずっと考えていた。僕はあいつと暮らしはじめて、だんだん幸せになっている気がする。少なくとも既に不幸ではなくなっている、気がする。幸運のおすそわけをもらっているのか、吸い取っているのか、清められているのか。あのテントウムシのペンダントは結局見つからないままだけど、身に着けていなくても本当に、僕にひっついているのかもしれない。  このゼミに入って、研究のために、たくさんテントウムシを殺したのにな――と、ふと思った。  網で採って、毒ガスの充満した瓶の中に放り込んで、たくさん殺してしまったのに。  それでもまだ、僕にひっついてくれているのだろうか。なんだか都合がよすぎる気もする。あのペンダントは、一体どこに消えたのだろう。

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