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7・魔法が解けたら-2
「さっき食ってたじゃないか……」
と、季節外れの冬のハエがよろよろと飛んでいるみたいな声で、僕はやっと振り絞った。
紅蓮は大きな目をぱちぱちとした。
「え?」
「だ、って……会社で、お前」
「あ、もしかして、買出しに行ったとこ見てたのか?
」
なんだよ声かけろよ水臭いな、とやはり罪悪感など微塵もない顔で、ケンタッキーを台の上に置く。
「ありゃあ会社の連中のぶんだ。客のワガママのせいで九時過ぎまで待ちぼうけ食わされることが確定したもんでな、暇だから買いに出たんだよ」
げんなり顔から、にっ、と口角を上げて、
「まあ、俺は楽しいパーティが待ってるから、何も食わんかったがな」
だからもう俺はらぺこだあ、と、コートを脱ぎつつ、後ろを通りすぎていく。
……。
……。
つまり――僕の嫉妬は――何だったんだろう。
びっくりしすぎて、言おうとしていた文句や恨み言がきれいさっぱり吹っ飛んで。とんでもない勘違い野郎のこの僕に、一体全体どんな顔ができただろう。
「冬弥も遅かったんだろ? 飯、ありがとな。シチューいいなあうまそうだ。俺、シャンパン買ってきたから、あとで飲もうな。あ、そうだケーキは買えたか?」
ひぐ、と、喉から変な音が出た。
ハンガーにコートを掛け終わった紅蓮が、はたとこちらを振り向いた。
そして――ぽろぽろと、涙をこぼしはじめた僕の顔を見て、見たこともないくらい慌てはじめた。
「ど、どうした? ん?」
ばたばたと寄ってくる。少し背を曲げ、目線の高さを合わせられるのが子供にされているようで、ああ僕は、本当に子供じみていたと思って、次から次から涙がこぼれた。嗚咽をこらえてしゃくりあげる僕を前に、おろおろとする紅蓮を見ると、もう辛くて悲しくて悔しくて、ほっとして、心の底からほっとして、僕はもう本当にだめだった。
魔法になんかかかっていない。
こんなのがいっときの勘違いであってたまるか。
「ケーキ、売り切れてたか? 残念だったな。予約しとけばよかったな。でもシチューとチキンがあれば充分クリスマスっぽいから平気だぞ。ほら、シャンパンもあるんだぞ?」
これはもう、完全に、あやされている。真顔を保とうとしたら変な力が入って逆に顔が歪んでいく。不細工が更に不細工になる。ひっ、ひぃ、と変な声をあげて涙を堪えきれず鼻水まで垂らそうとしている僕の頭へ、紅蓮はぽんと手を置いた。わしわし、と撫でつけた。風に吹かれて冷たくて、でも、大きくて、ひどく温かい手。
「泣くほどのことじゃあない。な?」
鍋の火だけ消して、胸の中に飛び込んだ。
その瞬間、紅蓮の、厚くて熱い体が、く、と緊張したのが、とんでもなく怖かった。
けれど、もうこれ以上、自分の気持ちを誤魔化しきれない。
「紅蓮。どうしよう。僕、君のこと好きなんだ」
口を開くだけで、考えるまでもなく、気持ちがぽろぽろとあふれだしていく。
「クリスマスも正月も一緒にいたいんだ」
紅蓮の、震えるような長い長い息の音が、頭の上を通りぬけていく。
胸に顔を埋めていたから、紅蓮がどんな顔をしていたか分からない。想像もつかなかった。想像するのが怖かった。けれど、君なんだ、と言いたかった。僕を最初に勘違いさせたのは君なんだ。君が優しくするから。君が照れたりするから。僕が勘違いして、こうやってつけあがっている。
僕がゲイじゃないとか、多分、紅蓮にとって些細な問題ではない。けれど、吊り橋を渡る前から、僕はずっと、自分でも気づかなかったけれど君のことばかり考えて、そうだったんだ、ずっと、ずっと。
長い、長い、沈黙があった。戸惑っているような様子が、服越しに伝わってきた。そう都合よく行かないかもしれない。けれど簡単に離してやるもんかと、ぎゅ、と相手のワイシャツを握りしめて、僕の中に、こんなに他人に執着できる素質があったのかと、いっそ僕自身が感心する。
夢の中でしてくれたことが、まるで嘘みたいに。
おそる、おそる、びくついた、震える手が。極めてぎこちなく、僕の背に触れ、ゆっくりと、抱き寄せて、抱きしめた。
「……本当に、俺でいいのか?」
弱った声音に、隠しきれない幸福の滲んだ、聞いた中で一番頼りのない声で。溶かすような吐息と一緒に、紅蓮は僕に問いかける。
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