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第8話 七十センチの隙間
アキラとの生活は、ほぼすれ違いだった。
朝起きると、アキラはすでに身支度を済ませていて、玄関でスニーカーの紐を結んでいる。「朝飯は?」と聞くと、「コンビニで買って食べる」と言って、貴樹の顔も見ずに出て行った。
学年が違うこともあって学校で会うこともなく、貴樹が夕食を済ませて風呂から出た頃に帰ってくる。「あんまり夜遊びすんなよ」と声をかけても、「遊んでないよ」と答えるだけで、直ぐに由紀の部屋に籠った。
いきなり訪れた時の図々しい印象はすぐに消え、言い過ぎてしまったのではないかと反省し始めた頃だった。
「なあなあ、あの二年の転校生って、陸上部の新しいマネージャー?」
始業前の教室で、テニス部を引退した男子が、陸上部の小湊に聞いた。
「違う」
小湊が不機嫌そうに答える。
「毎日来てるって、後輩が言ってたぜ」
「勝手に来てるだけだし、俺たちには関係ないよ」
「そういや、片倉のケツを追いかけ回してるって言ってたなあ。まあ、アイツがモテるのは解るけどさ、ついにそっちの方の追っかけができたってことか?」
「さあな」
「だけど、あのビジュアル、可愛くない? いいじゃん、見てるだけなら目の保養になるっていうかさあ。読モっぽいし、スカートの下、想像しちゃわない? ちょっとモチベーション上がったりしてさ」
小湊は無視したが、「可愛い」という言葉に、他の男子が食いついた。
「ああ、あいつだろ。派手なショートのプリーツスカート。うちの弟二年なんだけど、化粧もしてるらしいぜ。あれでOKなんて、うちの学校、自由すぎるよな」
「俺は、いいと思うけどな。見に行ったもん、俺も。後輩からそいつの写真がメールで送られて来たから、わざわざ二年の教室まで。そしたら、これが結構イケるんだわ。もうビックリ」
「弟も言ってた。あれならヤれそうだって」
下品な話題に、近くの席の女子が、無言でキッと睨む。
「冗談だよ。冗談だよ、なあ」
お粗末な下ネタが落ちとなってしまった二人の男子は、気まずそうに話題を変えた。
離れた席の貴樹の耳にも、彼らの話は自然と入ってきていた。
『二年の転校生』『陸上部』『片倉』という気になるワードに、『派手なショートのプリーツスカート』がダメ押しして、ふと閃く。
始業式の前日、貴樹が、放課後のグラウンドで目にした少女はアキラだったのではないか。
その後も、少女はグラウンドにいた。
スタンドから見下ろすグラウンドで、少女は俊介にくっついて回っていたが、その姿を認めたくなくて、貴樹はトラックの俊介にしかレンズを向けていなかった。
そういえば、少女の姿は、アキラがいつも着ている服と似ているような気がする。
今更ながら己の観察力の無さに、貴樹は溜息をついた。
だが、彼らが話題にしているのがアキラだとしたら、『ヤれそうだ』などという言葉を放置しておくわけにはいかない。
ただの幼馴染とはいえ、家で預かっている以上、アキラに関する責任は貴樹にある。万に一つもトラブルがあろうものなら、「アキラちゃんを守るのは、あなたの務めでしょ」と、玲香が憤るのは目に見えていた。
貴樹は、まだ機嫌悪そうに男子たちの会話を無視している小湊を盗み見た。
彼は一年から同じクラスだったが、話をするどころか、偶然目が合っても不愉快そうに顔を背けるような相手だ。仲の良い友達からの質問でさえあの態度なのだから、貴樹が話しかけても教えてくれるとは思えない。
かと言って、アキラのことを俊介に聞くというのも躊躇われた。
もしも、放課後毎日一緒にいることを嬉しそうに話されたら、それだけで気分が塞ぎそうだ。アキラが引っ越して行く前のことを懐かしそうに思い出されるのも癪だった。
昼休みのチャイムが鳴るのを待って、貴樹は、二年生の教室に向かった。一階の売店に行くのに別のルートを通るだけだと、自分の行動に妙な理屈をつける。他人のフリをする事に同意した手前、アキラを気にしている姿など見られたくはなかったが、学校での様子を知らなければ、アキラ自身に注意するよう促すこともできない。
アキラの教室の前の廊下からさり気なく中を覗くと、一カ所だけ人だかりができていた。
「アッキー、このリップ、可愛い!」
「使ってみる?」
「いいの?」
「いいよ。塗ってあげる」
「やったー!」
女生徒たちの輪の中から楽しそうなやりとりが聞こえてくる。もしかしてと、「アッキー」とやらが見えるところまで移動すると、声の主は、案の定アキラだった。
隣の席に座った女子の顎を片手で支え、もう一方の手であざやかにリップラインをなぞる。
「いいなあ」「私も塗って」「次、私ね」と、他の女子からも声が上がり、アキラの周囲には華やかな雰囲気が漂っている。
転入早々、クラスメイトに囲まれていることに驚きつつ、下らない戯言に惑わされただけなのだと、貴樹は胸を撫で下ろした。クラスで孤立していなければ、良からぬことを考える男子もそうそう近づけないだろう。
ひとまず安堵して売店に行こうとした時、一人の男子がその輪を割って入ってきた。
「アキラー。俺もリップ塗ってー」
アキラの肩に腕をまわし、唇を突き出す。教室にいる他の男子が、チラチラとアキラの反応をうかがっているように見えた。
「何なんだ、あいつ……」
アキラの肩に体重を預け、顔を接近させる男子に、貴樹は自然としかめ面になる。
なのにアキラは、その腕を撥ねつけようともしない。
貴樹が気を揉んでいると、アキラが「ダメだよ。それじゃあ、間接キスになっちゃうでしょ。これは女の子たちの。ねえー」と、女子の笑いを誘った。
「何だよ。ずりーな」
男子は口を尖らせて文句を言うが、肩の上の腕を退けることなく、女子の話題に入っていく。
貴樹は、こういう時の対処方法を知らなかった。
異性の幼馴染としては、どんなアドバイスをすべきだろうかと考えるが、一度も女子と付き合ったことがない貴樹には、どんなに考えても答えが出ない。答えが見つけられないから何かと気がかりで、事あるごとにアキラのクラスの前を通った。
だが、男子が馴れ馴れしい態度をとっていたのは初めて様子を見に行った時だけで、その後は、女子の輪が大きくなっていくだけだった。アキラは、常にその輪の中心で、ファッション雑誌を見ながらアドバイスしたり、リップクリームやハンドクリームの貸し借りをして笑っている。そのうち、杞憂に過ぎなかったのだと貴樹は気にするのをやめた。
自分のクラスに戻ってくる途中、いつもの癖で俊介の教室を覗く。
窓際の彼の席はポッカリと空いていて、チェックのクロスで包まれた弁当箱らしきものが置かれていた。
無意識に俊介の姿を探して教室を見回していると、背後から声がする。
「タカちゃん」
校内で、貴樹をそう呼ぶ者は他にいない。
久しぶりに聞いた声がくすぐったかった。
嬉しさを隠して振り向くと、パンを手にした俊介がクラスメイトに囲まれていた。
その中の一人が俊介の肩に腕をまわし、胸から腰を彼の背中にぴったりと密着させている。ことさら親しさをアピールしているように見えて、彼が意味もなく貴樹を見る視線に、何故か敗北感すら覚える。
「俺のこと、探してた?」
「いや、別に……」
俊介の楽しそうな声にも苛立って、つい無愛想に答えてしまう。
その間も、俊介のパンを奪おうとする者、脇腹を突いて「食い過ぎだろ」と笑う者、尻に膝蹴りを入れる者と、賑やかな行為は続いた。
居た堪れずに「じゃ」と踵を返すと、「重いって」と、俊介は肩にまわされた腕を無造作に外す。じゃれ合っていた仲間たちは、尚も俊介の背中や腹を小突きながら、漸く教室へと入って行った。
ふたり残された廊下で、俊介がゆっくりと歩みを進めてくる。
一歩、二歩、三歩……。
大きなストライドでトラックを駆け抜ける時とは比べ物にならないくらいの小さな歩幅。
もっと、もっと来いよ。もう一歩。もう一歩……。
だが、俊介の足元を目で追う貴樹の心の声は届かない。
その距離、約七十センチ。
いつからか、俊介は手を伸ばしても届かない距離までしか近づいてこなくなっていた。クラスメイトのように、顔を近づけて話すこともスキンシップでふざけ合うことも無い。その意味が明らかになるのが怖くて、貴樹はまともに目を合わせられなくなっていた。
七十センチの空間に、春先の乾いた空気が吹き過ぎる。
「タカちゃん、俺に用があったんじゃないの?」
教室の中の俊介を密かに探していたことを見咎められた気がして、「べ、別に……」と否定するだけなのに間が空いた。
「そっか。孝介が、タカちゃんがウチに来たって言ってたから、その事だと思ってたんだけどな」
そこまで言われて、とんだ勘違いだったことを痛感する。
「ああ。そう、その件ね。ええーっと、実は、たまたま撮った写真を良いって言ってくれる人がいて、その人がコンテストに出したらどうかって勧めてくれたんだけどさ。それで、その、被写体の許可が必要みたいで、さ……」
何度か練習した言い方を思い出しながら、俊介の様子をうかがうと、「もちろん、良いに決まってるだろ」と、彼は親指を立ててOKサインを出した。
「待て待て。俺、何も言ってないだろ」
「えっ、俺じゃないの、その被写体?」
「いや、お前、もだけど……。他にも陸上部の写真を色々撮ってて、まだどれにするかは決めてないから……」
貴樹は、予定していた言葉を最後まで出し切った。
「それなら、俺を撮りなよ。最高の写真になるように走るからさ」
照れもせずに口にする俊介を思わず凝視してしまい、冗談じゃないことに赤面する。
「バッ、バッカじゃないの。こういうのは、被写体の自然な姿を撮るから観る人が感動するんであって、良い写真が撮れるように走るなんて本末転倒だよ。プロが広告用の写真を撮るのとは訳が違うんだからさ。そんなの、コンテストに出したって仕方ないだろ」
普段考えもしない尤もらしい言葉が、貴樹の口から溢れ出した。言ってしまった後で、自分のためだけの写真を撮るチャンスを逃したことに気づくが、もう遅い。
「そうか。じゃあ、写真が決まったら言ってよ。被写体に渡りをつけるからさ」
俊介の誠実な笑顔に胸が痛んだ。プライドを傷つけられた言葉にいじけることもなく、貴樹の頼みを聞いてくれようとする。いっそのこと、「俺じゃないなら、被写体に直接言えよ」と拗ねてくれたらつまらない嘘を撤回することもできるのに、それさえままならない。七十センチの距離は、もう永遠に縮まらないのではないかとさえ思えてしまう。
「うん。頼むよ」
やっとそれだけ言って教室に戻ろうとした時、「シュンちゃん!」と、不機嫌な声がした。
廊下の向こうで、アキラが仁王立ちしている。
俊介が「よおっ」と声をかけると、アキラは広いストライドで歩いて来て、貴樹との間の七十センチの隙間にスッポリと収まった。
そして、貴樹の存在など見えないかのように俊介に向き合い、パンと牛乳を差し出す。
「シュンちゃん、おばさんのお弁当だけじゃ足りないって言ってたから、おやつ買っておいた」
「そんなこと気にするなよ」と言いながらも、俊介は笑顔で受け取り、二人から視線を逸らした貴樹を気にかける。
「タカちゃん、覚えてるかな? こいつ、……アキラ。鷺ヶ原に転校してきたんだ」
「えーっ、タカちゃんなの? うわーっ、懐かしいーっ!」
俊介に肩を押されて、貴樹の方を振り向いたアキラが、わざとらしく喜んで見せた。正しいリアクションに迷っていた貴樹は、「へえー、転校してきたんだ」と、話を合わせる。アキラが、俊介にも居候していることを隠してくれていることにホッとしていた。
「こっちに越して来てからずっと、練習に付き合ってくれてるんだ。申し訳ないからいいって言ってるんだけどさ」
困ったように、俊介が頭を掻く。
やはり、俊介の後を追っかけている二年の転校生とは、アキラのことだったのだ。
「毎日、部活に行ってるの?」
貴樹が遠回しに確かめると、「だって、シュンちゃんのトレーニング手伝いたくて転校してきたんだもん」と、アキラは鼻にかかる声を出した。
「だったら、俊介の家に泊まれよ」
夜遅くに帰ってきたアキラに、貴樹は不満をぶつけた。
唐突な接続詞に、「何が、『だったら』なの?」と突っ込むところだが、アキラは、それが転校の理由のことだと察している。
「行けるもんなら行きたかったよ。シュンちゃんの方が頼りになるし、タカちゃんみたいに冷たくないし……。でも、仕方ないでしょ。タカちゃんのお母さんが保護者代わりになるってことで、転入が認められたんだから」
「はあッ?」
また、ですか。また勝手に安請け合いして、自分は何もせず俺に押し付けるんですか。
怒りを通り越して、呆れるより他ない。
「そこまでして俊介の傍にいたいのか?」
「そう、だよ……」
「親がよく許したな」
「許した、っていうか……もう、諦められたんだよ」
「そりゃそうだろう。幼馴染の部活を手伝うために転校するなんて。そんなこと許す親、いるわけがない。それに、俊介は三年だぞ。全国大会まで進めたとしても、せいぜい夏までだ。その後は、受験勉強か就活真っしぐらだよ」
「だからだよ。シュンちゃんの走りが見られるの、あと少しじゃない。去年は、県大会までしか出てなかったみたいだし。一年の時は、多分、ダメだったんでしょ。高校卒業したら、きっと、もう、シュンちゃんの走る姿見られなくなる」
アキラは引っ越した先で、俊介が出場した大会の結果をチェックしていたようだった。
「タカちゃんは、いいよね。ずっとシュンちゃんの近くで、あの走りを見てきたんでしょ。だから、シュンちゃんが競技から離れることになっても、何とも思わないんだよ。小さい頃から足が速くて、いつも皆の先頭を走ってて。ヒーローだったんだよ、シュンちゃんは。今でも、本当は凄い選手なのにさ……」
「そんなこと、解ってるよ!」
貴樹の心にずっと刺さったままの棘が、いきなり痛みを放つ。
誰よりも解ってる。
皆のヒーローだった俊介を、一介の陸上部員にしてしまったのは、多分、貴樹自身だ。
「ねえ、タカちゃんは、どうして陸上を辞めたの? 中学の時のリレー、良いところまでいってたのに」
アキラの声は穏やかだった。その分、貴樹の胸を自責の念が締め付ける。
中学の頃、貴樹と俊介は四百メートルリレーの選手だった。
一年の頃から頭角を現していた俊介は、直ぐに全国大会の選手に抜擢された。三年生に混じって次々と好記録を出す彼は、地方新聞に期待の星として紹介され、高校のスカウトがグラウンドに来ることもあった。
二年になると、貴樹も全国大会の予選会である地区大会の選手に選ばれた。第一走者、第二走者を三年生が務め、小柄でコーナーが得意な貴樹が第三走者を、俊介が第四走者を務める。
それまで幾つもの大会で、フィニッシュラインを先頭で走り抜けてきた俊介にバトンを渡せることは、貴樹にとって最高の誇りだった。
コーナーを抜けると見えてくる俊介の背中。バトンパスの安定感。ぐんぐんと他を引き離す力強い走り。その姿を最も間近で見られるのは、第三走者である貴樹の特権だった。
だがそれも、わずか数カ月のことだった。
中学二年の夏前に貴樹は陸上を辞め、俊介の記録更新もそこで途絶えた。
「陸上は、俊介に誘われて始めただけだからな。高校の運動部なんて、冗談じゃないね」
誰かに尋ねられた時のために用意していたくだらない言い訳を口にする。
「それにウチ、一応、進学校だぞ。スポーツで上を目指すなら、入学しないだろう、普通」
「そうだよね。なのに、シュンちゃん、どうして鷺ヶ原に入ったんだろう」
それは貴樹も知りたかった。
だが、その答えに期待してしまう自分がいて、また浅はかな勘違いなのではないかと思うと、俊介に聞けずにいた。
「さあね。……まあ、そんなに応援したいなら良いんじゃないの。アキラの好きにすれば」
俊介への後ろめたさを、貴樹は、アキラへの寛容さにすり替えた。
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