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第13話 愛情のピーク
殿村から電話が来たのは、初めて会ってからひと月近く経った頃だった。
スタジオを訪ねた翌週に、事務の女性から三カ月間の休日のスケジュールを尋ねるメールが届き、特に予定が入っていない旨を返信すると、スケジュールを空けておいて欲しいと、何日か指定された。
バイトを断るにしても、俊介の写真だけは返してもらわなければならない。そのためには、殿村と会う必要があったが、何度電話しても繋がらなかった。都合が良い時に電話が欲しいと留守電を残すのも不遜な気がして、そのままズルズルと時間が経ってしまっていた。
電話口の殿村は、時間を惜しむように早口だった。
「連絡できなくてゴメンね。ここのところ、ずっと忙しかったもんだから。それで、バイトのスケジュールの件、メールが行ったと思うんだけど、よろしくね。本当はもっと早くお願いしたかったんだけど、僕のスケジュールがなかなか空かなくてさ。初めのうちは、アシスタントより僕と一緒に現場に入った方が良いと思ったもんだから。とりあえず、次の日曜日、うちのスタジオに来て。時間は、あらためてメール入れるね。あとは、ええーっと。必要なものはメールで知らせるってことで、良いかな?」
ここまで聞いて断れるほど、貴樹の心臓は強くない。ここに至るまで状況に流され続けて来たことに後悔しながらも、「はい……」と答えるしかなかった。
翌週、指定された時間にスタジオに行くと、「じゃあ、それに着替えてくれる」と、殿村は、ラックに吊るされているスーツを指差した。
「結婚式の仕事の時は、これがユニホームだと思ってよ」
自身も白いワイシャツに黒のスラックスを履き、ネクタイを締めている。
父親や教師のくたびれたスーツ姿とは異なり、随分スタイリッシュに見えた。着る人間によって、こんなに印象が変わるものかと思いつつ、貴樹も着替える。ネクタイは、結び方を知らない貴樹がネットで調べているのを見て、殿村が結んでくれた。
「おっ、いいねえ。へえーッ、丈もピッタリだ」
背広のボタンを留めた貴樹を見て、殿村はスマホを取り出した。貴樹を白い壁の前に立たせ、何枚か写真を撮る。
「履歴書の写真は任せてよ。進学でも就職でも、一発合格の写真、撮ってあげるから」
殿村は、今撮ったばかりの写真を次々とスワイプして見せてくれた。
全身のサイズと胸から上のサイズの写真が、絶妙なサイズ感で撮られている。天井と壁面に常設している数灯の照明だけで、しかもごく普通のスマホなのに、そのまま証明写真にできそうだった。
だが、被写体が問題だった。
着慣れないスーツは、サイズはピッタリでも借り物感が否めない。冠婚葬祭用のスーツなのか仕立てがしっかりしていて、着ている本人より立派に見えた。そのうえ、呆れるほど覇気のない顔に、貴樹自身、苦笑せざるを得ない。
「殿村さんに撮ってもらうなら、もっとしっかりしないとダメですね。こんな顔してたら、どんなに写真が良くても受からないです」
「そのうち慣れてくるよ。初めてのスーツにしては上出来さ」
殿村は、スマホの画面をタップして操作を終了し、仕事の話に移った。
その日の仕事は、新進気鋭の起業家の結婚式だった。披露宴と二次会を兼ねたガーデンパーティー形式で、出席者は三百名ほど。
殿村は新郎新婦を中心に式次第に関わる全てを撮影するのだが、出席者の数が多過ぎて網羅するのは不可能に近い。そこで、出席者の写真に漏れがないようにフォローすることが、サブカメラとしての貴樹の仕事だった。
「最初はみんな進行を見守っているだけだから、引き気味のカットで良い。興が乗ってきたら、できるだけ寄り気味のグループショットにして。貴樹くんがイメージする百パーセントの表情は難しいかもしれないけど、出席者の気持ちが感じられるカットが欲しいかな」
殿村は簡潔に撮影のポイントを説明し、山道でも余裕で走りそうなランクルで会場に向かった。
式場は、高級住宅街にあるチャペル付きの瀟洒な洋館で、出席者のテーブルはテニスコートが何面か取れそうなほど広い中庭に設えられていた。
新郎新婦が式場入りするところから撮影を開始する殿村と離れ、貴樹は、続々と会場に到着する出席者たちにレンズを向ける。
事前に渡された出席者リストにチェックを入れながら、式が進むごとにとにかくシャッターを切った。漏らさずに撮ることが優先すべき仕事だと思うと、被写体のベストショットを探っている余裕はなかった。
新郎新婦がお色直しで席を外すと、出席者はそれぞれの席に戻り、配膳された食事を次々と平らげていった。漸く人心地ついたとでもいう間延びした空気が会場を包む。さっきまでのよそゆきの顔が解れ、物を食べるためだけに口元の筋肉が動く。夫婦で出席しているテーブルは、その傾向が顕著で、誰ひとりとして話をする者はいない。
結婚など想像したこともないが、夫婦にとってのメインイベントであろう結婚式が終わったら、その後、二人はどうなるのだろうかと、貴樹はふと思った。
紆余曲折あって結婚したとしても、それが二人にとっての幸せのピークだとしたら、父と母のようにその後の関係性は変わってしまうのだろうか。愛する人との関係が、何かを契機にピークアウトしてしまうのだとしたら、それがもう二度と会えなくなるような関係になってしまうのだとしたら、最高潮の幸せなど寧ろ恐ろしい気さえする。それならば、ささやかで良いから、一生断ち切れることのない関係でいたい。
これまで漠然と思い描いてきた未来を正当化しながら写真を撮るうち、殿村が望んだ出席者の気持ちが感じられるカットというのが何なのか解らなくなっていく。解らないながらも式の進行に追い立てられるように撮り進めているうちに、式はお開きとなった。
スタジオに戻り、撮影データをパソコンにアップする。
最新のパソコンがサクサクとデータを吸い上げるが、作業の進捗状況を知らせるバーはなかなか進まない。
「頑張ったなあ」
撮影枚数の多さに、殿村が驚きの声をあげた。
「使える写真が撮れているのか心配で、ちょっと多めに撮っちゃいました。デジタルカメラで良かったです」
「全くだ。僕もデジタルには感謝してるよ。初期の頃、陰影の出方が違うとか、エッジが立ち過ぎるとか文句を言ってた自分の頭を叩いてやりたいって、時々思う」
殿村は、窮屈そうなネクタイを一気に解き、ワイシャツの腕をまくった。仕事から解放された男の素顔が露わになる。腕にはしっかりと筋肉がつき、貴樹の父親と同世代とは思えぬ若さが漲っている。
「あの……殿村さんは、母とはどんなお知り合いなんでしょうか?」
不躾な質問だったのか、殿村が目を見開いて貴樹を見た。
「あっ、すみません。変な意味じゃないんです。ただ……」
貴樹の言葉を遮って、殿村はクククッと笑った。
「変わらないなあ、玲香さん……。貴樹くん、僕のこと、何も聞かされずに来たわけだ」
「はい……。名刺渡されて、ここでバイトしなさいって……」
「もしかして、バイトの内容も?」
「はい……」
「そうかあ。そりゃあ、不安だよなあ。いやあ、頑張った頑張った」
申し訳なさそうに答える貴樹の肩を、殿村は労うように優しく叩いた。
「僕は、玲香さんの大学時代の写真部の後輩でね。って言っても、入学早々、自分探しの旅に出て留年しちゃったからで、年は同じなんだけど」
「写真部だったんですね、ウチの母……」
「えっ、そこから?」
「はい。母親、あんまり喋らないんですよね、自分のこと。それに、言葉が足りないっていうか、話が断片的で」
「解るわあ。大抵の話が業務命令みたいな感じでさ。ポイントしか話さないから、後で皆があたふたするっていう……。あった、あった、そういうこと。思い出したよ。そうか、それじゃあ、この間の説明だけじゃ足りなかったわけだ。いやあ、すまなかったね」
「あ、いえ……。でも、務めが果たせていたのかどうか……」
不安を口にした貴樹に応えるように、作業終了のデジタル音が鳴った。
殿村が、千枚を優に超える写真の中からランダムにデータを開く。クリック音が鳴る度に、貴樹の不安が大きくなった。
ひたすら写真を開き続ける音に耐え切れず、「あのぉ……」と言いかけた時、殿村が振り向いた。
「ちょっと、惜しかったかなあ」
「すみません……。やっぱり、僕じゃ、ダメでしたよね」
「いや、初めての割には良く撮れてるよ。構図もいいし、狙いも悪くない。ただ、シャッターのタイミングが惜しいかな。被写体の感情の波が下がるあたりで撮ってる気がする。まあ、高校生じゃあ結婚式に参列する機会なんてそうそうないだろうから、タイミング掴むのが難しかったかもしれないな。ああ、それとも、初めての撮影で緊張しちゃったかな」
「そう、ですね……」
結婚に否定的な感情を見透かされまいと思うと、あやふやな返事になった。
「こういうのは、経験を積めば自然と撮れるようになるよ。被写体に同調して感情の波に一緒に乗ってみたらもっと良い写真になるんじゃないかな。次からは、そこも意識してみてよ。……あっ、次も来てくれるんだろ」
「僕で大丈夫でしょうか?」
「もちろん。あのハードルの写真が撮れたんだから、もっと良いカットが撮れるさ」
考える余地もなく成り行きで始めたバイトだったが、次も来て欲しいと言われて安堵する。断ることばかり考えていたのは、自分が使えない人間だと烙印を押されることを恐れていたからかも知れない。
漸く緊張が解けて、貴樹は大事な要件を思い出した。
「殿村さん、お願いがあるんですが……」
「何かな」
「あの写真、実は結構気に入ってて……」
貴樹が「返して欲しい」と言い出す前に、殿村は俊介の写真を引き出しから取り出した。
キャビネ版の写真が、シンプルだが品のある天然木のフレームに収められている。机の上に置いておいた時は、乾いた直後だったので、印画紙のままの状態だったはずだ。
「これ……」
「ん?」
「フレームに入れてもらったんですか?」
「うん? あ、ああ……。どう? グッと映えるだろ。そのまま飾っておけば良いよ」
「ありがとうございます」
自分の為だけの写真だったはずが、フレームに収まり、殿村の評価を得たことで、少しだけ立派に見えた。
その後、次回の撮影の打ち合わせを終え、私服に着替えようと背広のボタンを外しかけた貴樹を、「ちょっと、そのまま」と、殿村は止めた。
「もう一度、撮らせてよ」と、貴樹を壁の前に立たせ、式場に行く前と同じようにスマホで撮影する。
「いいんじゃない。朝撮った時より、スーツが馴染んでる」
殿村は、「ほら」と、画面を見せた。
「顔つきも変わっていると思わない?」
「そう、でしょうか……」
式場に行く前の気負いがなくなったためか、肩が下がって多少はスーツが馴染んで見えるのかもしれないが、貴樹には顔つきの違いまで判断できない。それでも、今日一日の成果だと褒められているようで嬉しかった。
「もっと似合うように、バイト頑張ります」
「うん。期待してるよ」
「それで、このスーツ、クリーニングしてお返しすればいいですか?」
あらためて背広のボタンに手をかけて聞くと、「いや」と、殿村は首を横に振った。
「これは貴樹くんのだから、返す必要はないよ」
「でも……」
「言っただろ、ユニホームだって。そういうのは、だいたい支給されるものなんだよ」
「でもこういうスーツって、安くないですよね。僕、礼服って持ってないので、バイト料で買い取らせてください」
貴樹が提案すると、殿村は手を振るアクションまでつけて断った。
「ダメダメ。若者は、そんなこと気にしちゃダメだよ。……ま、まあ、クリーニングはまだいいんじゃないかな、次の仕事が入ってるし。持って帰るのが面倒なら、置いていっても良いよ」
そう言って、さっさと作業用のパソコンに向かう。
貴樹は、「それなら、ありがたく頂戴します」と、殿村の背中に一礼した。
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