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第14話 呼吸を荒くして

 バイト用に履いていったローファーが、スーツとのバランスを微妙に崩す。  置いていっても良いと言われたスーツを着たまま、貴樹は高校のグラウンドを目指した。  日曜日の夕方。そろそろ部活が終わる時間だ。俊介の撮影はできなくても、初めてのスーツ姿に彼が何かしら反応してくれるのではないかとささやかな期待をした。  グラウンドに近い裏門から入って、スタンドに上がる。トラックに置かれたハードルを、部員たちが用具室に運び込んでいた。沈みかけた夕日の逆光で目が眩む中、急いで二百ミリのレンズをカメラに装着するが、俊介の姿は見当たらない。そのうち、赤く染まったフィールドには誰もいなくなった。  もう部室に戻っているのだとしたら、部室棟に近い正門から帰るだろう。正門の前で待って、たまたま通りがかったと言うのは白々し過ぎるだろうか。ゆっくり歩けば、家に帰る道の途中で追いついてくれるかもしれない。  方針を変更してレンズを外そうとした時、俊介がフィールドに出てきた。隣には、スカート姿の旭が、ピッタリとくっついている。  反射的にカメラを構えた。限界までズームすると、レンズの中で旭と目が合った。  俊介と並んで歩いていた旭は、急に立ち止まり、彼の両腕を掴んで向き合う。  スタンドからは俊介の背中しか見えない。その陰から旭が恥じらったような笑みを見せたかと思うと、ファインダーを覗く貴樹に向かって、俊介の腕の脇からベーッと舌を出した。  「旭の奴ッ!」  貴樹の目論見は、あっけなく崩れる。  このまま俊介を追ってスーツ姿を見せたところで、旭に揶揄われるのが落ちだ。  貴樹は、カメラを仕舞ってスタンドを下りた。  帰り道の信号待ちで、全面ガラス張りの本屋の前で立ち止まる。全身を映してみると、殿村が撮った写真ほど、スーツは体に馴染んでいない。  あれは、やはり殿村の撮影技術あっての写真だったのだ。  「見られなくて良かったかもな」  そう嘯いて、沈んだ気持ちを無理に振り払う。古い街灯がジジジッと音を立て、夕闇に気持ちごと押し潰されそうな貴樹の足元を照らした。  家の前の通りまで出ると、孝介が貴樹の家の門扉の中を覗き込んでいるのが見えた。  「何か用か?」  貴樹の声に驚き、小さな体がピクッと飛び跳ねる。  「……タカちゃんさあ、この間の人って、恋人?」  つい数カ月前までランドセルを背負ってたくせに、ませたことを聞く。  「この間って?」と聞き返して、旭のことを言っているのだと思いついた。旭が初めて家に来た日、孝介は男だとも知らずに見惚れていた。  「何で、そんなこと聞くんだよ?」  「ええーっ……。だって、タカちゃん家に女の子が来るの、初めて見たから」  やはり、孝介も女子だと思っていたのだ。  「孝介、あいつのこと、気になるんだ」  「ち、違うよ。違うけどさあ、誰なのかなあと思って……」  「親戚の子だよ。用があって来ただけ」  「今度、いつ来るの?」  「さあね」  「好きな人とか、いるのかな?」  孝介が、初々しく頰を赤らめる。  気になる相手が自分の兄に告白したと知ったら、彼はやっぱり傷つくだろうか。  「いるんじゃないの」  貴樹は冷たく言い放った。  孝介は、「誰? どんな人?」と、しつこく食い下がってくる。  ついさっき、グラウンドで見た光景が蘇った。  俊介の両腕を掴む旭。その恥じらった笑み。嫌がりもしない俊介の背中。あの時、二人は何を話していたのだろう。  抑え込んだはずの怒りが不意に沸き上がってくる。  「俺が知るかよッ」  そう突き放すと、貴樹は後手に門扉を閉め、そのまま物置へと向かった。  ロープに留めた数十枚の俊介の写真から、最も仕上がりの良い写真を一枚引き抜き、胸に押し当てる。  そうしているだけで、怒りで沸騰した血液が体の隅々を駆け巡って行った。  軽い震えに立っていられなくなりそうで、黒いスーツの上下を脱ぎ、床に敷いたフロアマットの上で膝立ちになる。  再び写真を胸に抱くが、ワイシャツの上からではもどかしく、肌着の下に滑り込ませた。  競技場のトラックを疾走する俊介が、自分のカメラだけに美しいフォームで収まっているはずの俊介が、写真の中で呼吸している気がする。  その呼吸をもっと感じたくて、胸元から鳩尾へ、更に、膨らみ始めたボクサーパンツの中へと差し入れる。  ロープに吊るされた何枚もの同じ姿の俊介に見下ろされながら、股間にあてがわれた俊介の息づかいを想像する。フィニッシュラインを切った直後の荒い呼吸が、ダイレクトに伝わるようだった。  俊介を独占し、大事な場所に押し付け、貴樹の体の下僕にする。  彼を汚したいわけではない。彼の尊厳を傷つけたいわけでもない。ただ、ひと時だけ、自分のものだと錯覚したかった。  フィルム写真を現像している時とは比べ物にならない背徳感に、貴樹の腹の奥が膿んでいく。  膿んだまま、勃ち上がり切らないもどかしさの中で、夢の中のような悦びをひたすら持続させていた。

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