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第16話 わかれ道
終礼で配られた進路相談票を見つめたまま、時間だけが過ぎる。名前を記入したまま放っておいたボールペンのペン先が乾いていた。
目ぼしい大学は幾つか頭の中にあったが、絞りきれずにいた。目的が明確になっていないのだから、それは当然のことだった。
俊介はどうするのだろう。今度こそ、別の進路を選択することになるのだろうか。
心の準備はできているはずなのに、微かな期待が貴樹の覚悟を鈍らせる。
自分ひとりで考えたところで答えが出るわけもない堂々巡りに疲れ、貴樹は、窓の向こうに見える真っ暗な隣家を眺めた。
中学三年になったばかりの頃、貴樹は俊介に志望校を聞かれた。
教室の中から顔だけ覗かせて、廊下を歩いていた貴樹についでのように聞いてきた俊介に、彼は、私立の進学校である鷺ケ原高校を受験するつもりだと答えた。
その頃には、俊介への想いが強くなりすぎて、苦しさでどうかなりそうだった。自分の中に別の自分が生まれてしまったようで、常に何かと葛藤している。傍にいたいのに、それも叶わず、すれ違うだけで苦しくなる。それなら、いっそ離れてしまおうと思った。離れてしまえば苦しさから解放されて、元の自分に戻れると信じていた。
志望校を告げた時、俊介は、驚いたようにただ貴樹を見つめていた。
テストの成績が学年で中の下くらいに位置していた俊介には、到底入れる高校ではない。しかも、私立を目指すことが簡単に許されるほど、その時の柴山家の経済状態に余裕はなかった。鷺ヶ原高校は、俊介の選択肢としてはあり得ないはずだった。
だが彼は、県大会で敗退すると、陸上に当てていた時間の全てを勉強にシフトした。
その頃の俊介を、貴樹は知らない。トラックから姿を消し、塾通いに専念する彼を、たまに学校の廊下で見かける程度だった。
この生活に慣れてしまえば、俊介への想いもやがて消えてしまうのではないか。好きだという気持ちは自分の勘違いだったのではないか。いつかまた、ただの幼馴染に戻れるのではないかと、願いにも似た思いで、貴樹はひたすら時を過ごした。
そして、合格発表の日。鷺ヶ原高校の大きな掲示板の前に、俊介はいた。
人違いであって欲しいと、貴樹は願った。
震える足で、漸く掲示板の端に辿り着く。反対側の端にいる俊介に気づかないフリをして、自分の受験番号からかけ離れた数字をひたすら追った。自分の番号に近い数字に辿り着く頃には、その人影も消えてくれるだろうと思った。
そして、合格の証をそこに見つけた時、疎らな受験生たちの間から、「タカちゃん」と、名前を呼ばれた。
「また一緒だな」と俊介に笑いかけられ、約半年振りに目にしたその顔に、喉がつかえ、心臓が痛んだ。彼のいない毎日が、とてつもなく寂しかったのだと、貴樹は、涙が零れそうになるのを必死で堪えた。
これからも、ずっと傍にいたい。
その時は、確かにそう思った。
それなのに、ふと気づくと俊介は微妙な距離をとり、いつの間にか顔を合わせることさえなくなっていた。いつまでも埋まらない距離に、ジレンマだけが募っていく。
どこかでケリをつけなければならないのなら、高校三年の今がその時なのかもしれない。十五歳では整理できなかった気持ちも、今なら自制できるかもしれない。
そのためにも確かな答えが欲しかった。
次の一歩を踏み出すための、俊介とは異なる道。いつの日か、ただの幼馴染に戻るための、今が人生の岐路だ。
俊介の部屋に灯りがついたのを見て、貴樹は部屋を飛び出した。
片倉家のチャイムを鳴らすと、出てきたのは孝介だった。貴樹の顔を見ると、「何か用ですかぁ」と、ふて腐れる。旭のことで怒鳴ってから、謝るタイミングを失くしたままだった。
「ごめん。悪かったよ。ちょっと色々あって、孝介に八つ当たりした。謝るよ。だから、機嫌直して。ねっ。それよりさあ、入学祝い、考えた? 遠慮しないで、何でも言ってみろよ。どんな願いでも叶えてやるからさ」
つい調子に乗ってそう言うと、孝介はたちまち耳を赤くした。
「……じゃあ、タカちゃんの親戚の女の子、紹介して」
「いや、それは……」
「どんな願いでもいいって言った」
「まあ、言ったけどさ……」
「ウソつき」
機嫌をとるつもりが、状況は悪化する。
「解った。今度、遊びに来たら、孝介に紹介してやるよ。ただ気難しい子でさあ、あいつが来たい時にしか来ないから、それは勘弁な」
「……うん。でも、来たら絶対教えてよ。絶対だからね」
「解った解った」
今更、あいつが男だったとは言えない。
嘘の上塗りは承知で、この場はやり過ごすことにした。
「ところで、俊介は? 部屋の電気が点いたみたいだったけど」
「ああ。それ、僕。兄ちゃんの代わりに写真探してた」
「写真って、この前言ってた?」
「うん」
「俊介、どうして今頃、そんな写真探してるのかな」
「ずっとだよ。ずっと前から、思い出したみたいに時々探してる。……ねえ、タカちゃんは、もう走れないの?」
陸上を辞めてから、恐らく誰もが聞けずにいたことを、孝介はストレートにぶつけてきた。
「走れるよ。多分、孝介よりずっと速い」
「本当に?」
「本当に。何で、そんなこと聞くんだよ」
孝介は目を伏せて、親指の爪を弄りだす。
「……ずっと前に、兄ちゃんがお母さんに話してるの聞いたんだけど、タカちゃんが走れなくなったのは、自分のせいだって……それで、泣いてて……今でもたまに、中学の時の賞状見たりしてて……でも、写真は見つからないみたいで……。だから、タカちゃんがまた一緒に走ったら、また一番になって、兄ちゃんは悪くないって、証明できると思うんだ」
頼りなげな孝介の声が、うっかり飲み込んだ鉛のように、食道を塞ぎながら降りていき腹の中で重みを増す。
あの時、俊介にきちんと説明しておかなかったことが悔やまれた。
いつも大事なところで間違えてしまう。間違えて、謝るタイミングを失って、そのまま時が流れていく。後悔も痛みも有耶無耶なまま、ふたりの間に漂う霞のように停滞し続ける。
「俊介は、全然悪くないよ。俺が練習嫌いになっただけ。だから一緒に走っても、もう一番は取れないな」
「そうなんだ……」
納得しきれていない様子で頷く孝介に、「そうだよ」と駄目押ししていると、鉄の門扉が開く重たい音がした。
「兄ちゃんだ。タカちゃん、今の話、兄ちゃんには内緒だからね」
孝介は、貴樹にそう耳打ちして二階に上がって行った。
「ただいまあ」と、玄関のドアを開けたトレーニングウエア姿の俊介が、上がり框に座っている貴樹を見て、一瞬、体を硬直させる。
「タカちゃん、来てたんだ」
戸惑うような笑顔でスポーツバッグをきつく握りしめたまま、立ち止まることなく貴樹の横をすり抜けていった。
「おかえり。遅くまでトレーニングしてるんだな」
「うん。まあね」
玄関の脇に設えられているキッチンに直行した俊介は、冷蔵庫から出した牛乳をコップに注いで一気に飲んだ。喉仏が上下するのが見えて、貴樹は目を逸らす。
「ウチに来るの、久しぶりだな」
俊介はシンクにもたれたまま、玄関の貴樹に話しかけた。
「そういえば、コンテストに出すって言ってた写真、どうした?」
「ああ、まだこれから」
「うまく撮れてなかったら、俺、タカちゃんのために走るから、いつでも言ってよ」
「だから、それは……」
「解ってる。誰を撮るか決まってないし、自然な走りが撮りたいんだろう。でも、思ったようにいかないこともあるだろうしさ。そういう時には、俺が走るってことだよ」
「……うん」
嬉しさと申し訳なさで、まともな返答もできない。
「で、今日は、どうかした?」
牛乳を飲み終えても、俊介はキッチンから離れようとしない。大声を出さなければ話せないというほどの距離ではないが、少なくとも歓迎されている空気ではない。
「なあ、進路相談票もらった? 皆、大学とかどうやって決めるのかなあ。俊介は、もう進路とか決めてるの?」
我ながら、ずるい聞き方だと思う。知りたいのは、俊介だけなのに。
「公立で探してるけど、まだ何も決めてないよ。俺は、高校で金使わせちゃったし、大学なんて行かずに働くつもりだったけど、母さんが行けって言うんだよね。せっかく進学校に入れたんだから、これからでも勉強頑張れば良いんじゃないかって。だから、公立で入れそうなところを探すことになるかな」
俊介は優しい。人の期待を裏切れない。
ましてやそれが、ひとり親の願いなら尚更だろう。
「タカちゃんは?」
「俺も、まだ全然……」
そう答えながら、頭には別の疑問が浮かんでいた。
旭の期待にも応えるつもりだろうか……。
あれから二人がどうなったのか、クラスでも話題になることはなく、それらしい噂は貴樹の耳にも入ってこない。
「そう、いえばさ。旭、じゃない、アキラが告白したんだって? うちのクラスで話題になってたぞ」
「ああ、それね……」
「俊介、人気があるからなあ、男子からも女子からも」
「そんなことないよ」
「でも、部活を応援するために転校するって相当だよな」
「そうだね」
相槌を打つだけの俊介に、焦ったくなる。
「で、どうすんの?」
「……タカちゃんはさあ、……タカちゃんなら……」
そこまで言って、俊介は言葉を呑み込んだ。
先を促すように見つめる貴樹を見て、「いや、何でもない」と背を向ける。問い詰めた自分の愚かさを、貴樹は呪いたくなった。
「断るに決まってるだろ」
そう断言するものと、どこかで高を括っていた。その理由が何であれ、貴樹にはそう言って安心させてくれるものと思っていた。
「誰彼なく好かれるってのも、困ったもんだな」
意図せず吐き捨てるような口調になり、貴樹は慌てて付け足した。
「疲れてるのに、邪魔して悪かったな」
力無く立ち上がる貴樹に、俊介は背中を向けたまま、「いや」とだけ答えた。
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