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第17話 見られたくない
何も考える気になれずベッドに伏せていると、階段を駆け上がってくる足音が聞こえて、突然、部屋のドアが開く。
「タカちゃん、薬箱どこ?」
旭が、左手の小指を押さえてジタバタしている。
「ノックくらいしろよ」
「いいでしょ、男同士なんだから。あっ、もしかしてエッチなことでもしてた?」
「してないよ。っていうか、こういう時だけ男を持ち出すな」
貴樹に男だとバレてからというもの、旭は家に帰ってくるなり化粧を落とし、ジャージに着替えた。初めて見た時はそのギャップに驚きもしたが、細身で端正な顔立ちは、女装していようといまいと変わらない。
少しだけハスキーでボーイッシュな女の子。
晶がこんなふうに成長していてもおかしくないだろう。「違うのは性別だけ」と言った旭の言葉が、あながち偽りとも思えなかった。
「ねえ、指切っちゃったんだよ。早く、薬箱貸して」
「リビングだよ。だから、無理すんなって言ったのに」
仕方なくベッドから起き上がり、リビングに向かう。
「冷凍食品にしたんじゃなかったの?」
「だって、シュンちゃん、カロリーコントロール始めたんだもん。揚げ物とか食べないし、付け合せのおかずだけじゃスカスカでさ、もっといろんな種類があればいいのに」
「それで煮物でもつくろうとしてたのか」
キッチンを覗くと、調理台のまな板の上に、野菜の残骸が無様に転がっていた。
「バナナとか蒸かし芋とかにしとけよ。腹持ちいいし、包丁使わなくて済むだろ」
テッシュで包まれた指の傷を見て、「一応、水で洗っとけよ」とシンクに水を出す。
「何で、そんなとこ切るかな。左手はネコさんって、教えてもらわなかった?」
戯言を言うと、「誰に?」と聞き返された。
「家庭科の授業で習っただろう。味噌汁作るときにじゃが芋切ったりしてさ」
「そうだっけ……」
「さては、サボったな。まあ、家庭科なんてグループで得意な奴しか料理しないもんな」
「うん……」
気の無い返事をする旭に、貴樹は、リビングのキャビネットから薬箱を出してやった。
「血、止まらない……」
旭が情けない声を出す。
こんな奴だっただろうかと、貴樹は子供の頃の記憶を手繰り寄せた。
思い通りにならないと、直ぐに俊介に泣きつく。双子とは不思議なもので、どちらかが泣き出せば、もう一人もそれに続いた。
だが、俊介が傍にいない時の旭は違う。
確か、旭が自転車の練習をしている時だった。その日は、風邪をひいたか何かで晶はいなかった。
旭は、転ぶたびに俊介の名前を呼んで、抱き起こしてくれるのを待つ。俊介も、それを当然のように繰り返した。
暫くして、汗をかき始めた旭を見て、「タオル持ってくる」と、俊介がその場を離れた。「ちゃんと練習続けてろよ」という言いつけを守って、旭はペダルに足をかける。だが、二、三回漕ぐと、やはり倒れてしまう。貴樹が、「あっ」と、駆け寄ろうとすると、旭は何食わぬ顔で立ち上がった。「大丈夫?」と声をかけるが、転んだ姿を見られたくないとでもいうように顔を背ける。
俊介には甘えるくせに、貴樹には対抗意識を露わにする。それは、再会してからも変わっていない。
それなのに、たかが指を切ったくらいで貴樹に弱さを見せるのが、どこか腑に落ちなかった。
貴樹は、ティッシュを何枚も重ねて傷のある第一関節をぐっと握ってやった。
「指を上に向けて掴んでろよ」と、旭に向けると、彼は、「うん……」と、大人しくキッチンの椅子の上で体育座りをした。メンズのジャージが、しょげ返った細身の体を更に小さく見せる。
「なあ、何で、俺の前でだけ、ジャージ着てんの? 俊介の部活の手伝いするなら、スカートよりジャージの方が動きやすいだろ。体育の授業だって、ジャージになるんだろう?」
「やだよ。似合わないもん。こんな格好、シュンちゃんに見られたくない」
旭は、ほっぺたを膨らました。そこだけは、子供の頃の仕草そのままだった。
気に入らないことがあると、ほっぺたを膨らませてふて腐れる。俊介は、その顔に弱かった。
「俊介は、見た目で人を判断したりしないぞ」
「そんなの、解ってるよ。でも、シュンちゃんには、ちょっとでもキレイな僕を見せたいんだもん」
「男にキレイも何も……」と言いかけ、旭の真剣な目を見て口を閉じた。
「それにさ、シュンちゃんには着替えるところとか見られたくないし……」
旭が恥じらう。
その気持ちは、貴樹にも理解できた。
好きな相手を前にして、それまでの素の自分を見せられる者など恐らくいない。
貴樹が俊介を意識し始めた頃もそうだった。
精通があった日の翌日から、貴樹は、更衣室で着替えるタイミングをずらした。トイレに行くと言って暫く籠ったり、シャワーを短時間で済ませたりして、できるだけ更衣室に一緒にいないようにした。
もし、貴樹よりひとまわり大きい俊介の上半身の裸でも見てしまおうものなら、皆のいる前で粗相をしてしまうのではないかと不安だった。
その頃はまだ、自分の体をコントロールする術を知らなかった。
また俊介の夢を見てしまうのではないかと意識するほど、彼は夢に出てくる。
リレーのタイムが縮まったと、貴樹に握手を求めていたのがハグになり、背中に回されていた手が、腰のところまで降りてくる。貴樹が吐息を漏らすと、その手は尻を掴み、執拗に揉みしだき、するりと割れ目を滑り降りる。
「ダメ、だよっ……」
今まで出したことのないような声が、喉の奥から漏れる。それを遮るように、俊介は唇を塞ぐ。
もう子供の時のキスではない。歯の隙間から熱い舌が畝りながら侵入してきて、上顎と下顎を舐め回す。
「俊介ッ!」
夢の中で叫んで、目が覚めた。
下着もパジャマも濡れていて、貴樹は、真夜中の洗面所でこっそりと手洗いした。その乳白色の粘液を見る度に、自己の潜在意識と向き合わされる羽目になった。
「もう、止まったみたい」
過去の記憶に体が反応しそうになった時、貴樹は旭の声に呼び戻された。
「じゃあ、絆創膏、ここに置いとくから」
絆創膏の箱を取り出して、薬箱を片付けに行こうとすると、「貼ってよ」と、旭が指を突き出す。
「ガキかよ」
「自分じゃあ、やりづらいでしょ。近くにいるんだから、貼ってくれたっていいじゃない」
またほっぺたを膨らませて、貴樹を見上げた。
まっすぐに伸ばされた指は、まるで女の子のように細い。
体が華奢なら、好きだという気持ちも受け入れられるものだろうか。
絆創膏を巻きつけながらふと思い、貴樹は、自分の五指を伸ばしてみた。ごつくはないが、身長に比べて大きな手は、どう見ても男にしか見えない。
「なあ、フラれたらどうするの?」
「えっ?」
唐突な質問に、旭が首を傾げる。
「いや、何でもない」
部屋に戻ろうとすると、「ねえ」と、再び旭が呼び止めた。
振り向くと、調理台が目に入った。まな板の上の野菜がそのままになっていることに気づく。
「片付けは俺がやっとくから、そのままでいいよ。明日はバナナでも買って行け」
貴樹は、廊下に向けた足をキッチンに戻す。甘えついでに弁当作りを頼まれるのだろうと思ったが、見当違いだった。
「また、早とちりするし……。そうじゃなくてさ。その傷のせいなの、陸上やめたの? 左足の傷、怪我の跡なんじゃないの?」
足の甲に残る小さな二カ所の傷跡を、意外にも、旭は目ざとく見つけていた。
日常生活の中では、もう気にも留めない傷。それなのに、俊介の中では、まだしこりとなって残っているらしい。
中学二年の全国大会まで二週間を切っていた日。左足の甲のあたりに、突然痛みが走った。ひと月ほど前から違和感があったが、地区大会を突破した喜びがそれに勝っていた。
走ることが好きで、練習熱心な俊介は、「俺たち、もっと速くなれるよ」と、一本走る度に腰を下ろしてしまう貴樹に手を差し伸べる。いつも二人で遊んでいた子供の頃に戻った気がして、嬉しさのあまりついその手を取った。
五本走ってへたばった貴樹を、その日も俊介は「もう一本!」と練習に誘った。そして、六本目を走ってバトンを俊介に渡そうとした時、ピキッと体の中から音がして、貴樹はその場に倒れこんだ。難治性の疲労骨折だと診断され、数日後、足にボルトを入れる手術を受けた。
それから直ぐに、部活は辞めた。
それは怪我のせいではない。リハビリすれば走れるようになると医者は言ったが、もう走らないと決めた。大会前に離脱した貴樹には、戻ったところで居場所がないように思えた。それに、タイムが落ちた貴樹を見て、俊介が自分自身を責める気がした。それならいっそ辞めてしまった方が、俊介の気持ちが楽になるのではないかと考えた。
だが今にして思えば、それは、貴樹の勝手な思い込みだったのかもしれない。
「怪我が原因で辞めたわけじゃないよ。言ったろ。そんなに好きじゃなかったんだって、陸上。辞める理由を探してたら、タイミングよく怪我しちゃっただけ」
椅子の上で小さく体を丸める旭に、貴樹は適当な答えを返した。
「それでタカちゃん、全国大会に出られなかったんだ」
「チームには迷惑かけたよね。でも、速い選手は他にもいたからな。そいつらにとっては、チャンスだったんじゃないの」
精一杯の悪態をついてみる。
「あっさりしてるよね。っていうか、冷めてるよ」
旭が、自転車の練習で倒れた時と同じように目を背けた。
「タカちゃんて、昔からどんなことでもサラッとできて、僕たちが悪戦苦闘してるのを横目で見てるっていうかさ。自分は何でもできるから、お前らの好きにすればって余裕かましてるってカンジ? 遊びもおやつも、何が好きとか嫌いとか、絶対自分から言い出さなかったよね。それで、シュンちゃんが聞いてくれるのを、いつも待っててさ。あれって、わざとシュンちゃんの気を引く作戦だったわけ?」
「はあッ?」
「僕はイライラしてたよ、タカちゃんを見て。……シュンちゃんは、よく付き合ってるよね。自分だけあっさり部活辞めて、全然未練なんてありませんって涼しい顔してさ。一緒に全国狙ってたメンバーが勝手に辞めたら、普通怒るよね。口きかなくなっちゃうんじゃないの。なのに、隣に住んでる幼馴染ってだけで、タカちゃん、タカちゃんってさ。ほんとっ、不思議なんだけど」
「俊介の気を引いて取り込んだのは、そっちだろう」という言葉が、喉元まで出かかる。
だが、旭の言うことも一理あるように思えた。
俊介が、今も自分と一定の距離を置こうとするのは、まだあの時のわだかまりのせいかも知れない。
「……シュンちゃん、記録、伸び悩んでるよ。他の部員とも、何か壁があるし……。そういうの、タカちゃん、知ってるの?」
旭に問い詰められても、何も答えられなかった。
レンズの中の俊介は、美しいフォームで駆け抜けていく。貴樹は、その姿をただ追っているだけだ。そこに、俊介の悩みは写し出されない。
鷺ヶ原に入学した時、陸上部の先輩が、貴樹と俊介をそれぞれ勧誘した。
貴樹は怪我で陸上を辞めたことを理由に断った。新入生の中には、貴樹がリレーの選手だったことを知っている他中学出身の陸上部員もいたが、勧誘を断ったことを知ると、無視するようになった。同じクラスの小湊もその一人だ。
県内でその名を知られていた俊介は、貴樹以上に期待されていたはずだった。
だが彼は、入部後、直ぐにハードルに転向した。
短期間で成果が出せるはずもなく、俊介を陸上部に勧誘した上級生からは、さぞ冷たくあしらわれたことだろう。そして三年生になった今も、風当たりは強いままなのではないか。俊介は記録が伸びない苛立ちや、他の部員との軋轢と闘ってきたのかもしれない。
貴樹には、写真に写し出されない俊介の痛みを、想像することしかできなかった。
「僕がお弁当作ったって、全然ダメなんだよ。シュンちゃんったらさ……」
旭が、途中で貴樹の顔を盗み見る。
「何?」
「何でもないよ。ほんとッ、腹立つッ」
癇癪を起こし、旭は大きな足音を立てて階段を上がって行った。
「何なんだよ、あいつ。腹が立つのは、こっちの方だって言うの。結局、俺が全部片付けるんじゃないか」
気分に任せて散らかったキッチンを放っておける性格ではない。皮が剥かれ不揃いに切られた野菜をそのまま冷蔵庫に入れるわけにもいかず、貴樹は、旭の代わりに煮物をつくることにした。
旭が買ってきた野菜の中から、俊介が好きそうなものを幾つか選び、市販の出汁で煮る。その間に、買い置きの卵で玉子焼きを作った。
空のタッパをテーブルの上に置き、煮物と玉子焼きが冷蔵庫の中に入っていることをメモに残す。
「何してんだろ、俺」
片付いたキッチンを見て、貴樹は頭を振った。
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