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第19話 ヒーローの嗚咽

 貴樹がカメラを持ち始めたのは、陸上を辞めてからだった。  全国大会を前に怪我をして入院した日の夜のこと。面会時間が終わろうとしている頃に、俊介は病室に来た。  「ごめん。俺のせいだ。俺が無理に練習させたからだ。タカちゃんのこと、ちゃんと見てれば気づいたはずなのに。走れなくなったらどうしよう。ごめん。ごめん。ごめん……」  貴樹のベッドに縋り付き、俊介は涙と鼻水でシーツに大きなシミをつくった。  「俺の不注意だよ。俊介のせいじゃない。それに、この程度の怪我、スポーツやってたら誰でもするって、病院の先生が言ってたよ」  貴樹がどんなに否定しても、俊介は謝り続ける。看護師が、面会時間は終わりだと帰るように促しても、泣き止まない。子供の頃からヒーローで、誰かが落ち込んでいると明るいムードで盛り上げてくれる俊介が、壊れた操り人形のように頽れている。それが自分の怪我のせいかと思うと、貴樹は正視できなかった。  「俺、一人になりたいから、帰ってくれない」  冷淡な気持ちがなかったとは言えない。  ベッドで泣く俊介の姿を見て初めて、貴樹は選手としての自覚の無さを痛感し、無限の自己嫌悪に陥った。その時はただ、陸上に関わる全てのことから目を背けたかった。  「なあ、もう帰れって」  ベッドに頭を擦り付ける俊介を、力いっぱい引き剥がす。  やっと頭を上げた俊介は、グシャグシャに濡れた顔で意外そうに貴樹を見つめた。そして、「本当に、ごめん」と、太ももに額がつくほど頭を下げて、漸く立ち上がった。  「もう来るなよ」  貴樹の突き放した口調に、俊介の顔がたちまち歪む。  しまったと思った時には、もう遅かった。  俊介は背中を向けたままジャージの袖で顔を拭い、振り向いてもう一度深々と頭を下げた。その顔を上げた時、彼の目はもう貴樹を見ていなかった。  退院後、貴樹は松葉杖をついてグラウンドに行った。  新しいメンバーが入ったチームは走順も変わり、バトンパスの練習をひたすら繰り返していた。それが思うようにできていないことは、貴樹にもひと目で解った。  上級生は、貴樹の姿を見つけると目を逸らし、盗み見るように落ち着きのない俊介を、「集中しろよ」と叱責した。  貴樹は、その日のうちに退部届を出した。トラックでの輝きを一切失い、肩を窄める俊介の姿を見るのが辛かった。  全国大会の成績は散々だった。第三走者の上級生から渡されたバトンを第四走者の俊介が落とし、タイムは出場チーム中最下位。三年生が引退し、俊介を中心にリレーのメンバーが組まれても、タイムは落ちる一方だった。  翌年の県大会では敗退。それ以降、陸上関係者以外にも知れ渡っていた俊介の名前が、地方紙に載ることはなかった。  全ては自分のせいだと、貴樹は思った。  俊介と走れるのが嬉しいというだけで、セルフコントロールできなかった。泣いて謝る俊介に、優しい言葉の一つもかけられなかった。結果的に、俊介に罪の意識を植え付け、ヒーローの座から引きずり下ろしてしまったのだ。  もう俊介に合わせる顔がなかった。  俊介の方も、貴樹が部活を辞めて以来、家に夕食を食べに来なくなった。  練習で忙しいのだろうと良いように解釈し、互いのためだと、貴樹は自分に言い聞かせた。  だが、子供の頃からいつも傍にいた幼馴染の顔が見られなくなる寂しさは想像以上だった。  夢に出てくる俊介の顔はいつも泣いていて、いつか見た夢のように、貴樹に近づこうともしない。  貴樹は、俊介の笑顔が見たかった。ヒーローのように、颯爽と走る姿が見たかった。  安い一眼デジタルカメラと二百ミリの望遠レンズを買い、教室からひと気がなくなった放課後、中学校の校舎の窓から、トラックを走る俊介をレンズ越しに覗いた。  そうやって残りの中学生生活をやり過ごし、卒業間近に俊介が同じ高校に合格したことを知った時、あと三年間だけ、レンズを覗いていようと思った。この先続く長い人生のわずか三年だけ、別れを猶予されたのだと解釈しようとした。  貴樹にとってカメラは、俊介を見つめ、俊介を撮影し、その写真を一生の宝物にしておくためのものだった。  撮りたいものは、俊介以外、何もなかった。

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