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第20話 温めあっても
夜、風呂から上がると、玄関の上がり框に惣菜の入ったタッパが積み重ねられていた。
キッチンでは、旭が、カゴに山盛りのブロッコリーを茹でている。大型のヘッドホンをして、もはや鼻歌とは言えないほどの音量で、女性アイドルのキーの高い歌をシャウトしていた。
「片倉のおばさん、来たのか?」
片方のヘッドホンを外して貴樹が聞くと、「知らなーい」と、リズムをとりながら旭は答えた。
玲香が家を出て行ってから、時折、裕子から惣菜が差し入れられる。いつもは声をかけて置いていってくれるから、ヘッドホンで聞こえなかったのだろう。旭が失礼なのは今に始まった事ではないが、自分が礼を失した人間だと評価されては今後の付き合いに差し障りがでる。
貴樹は、濡れた髪をさっとタオルで拭き、ひと言礼を言いに隣家に行った。
「おばさん、新堂です。さっきはすみません。風呂に入ってて、おばさんが来てくれたの気づきませんでした」
玄関先からリビングに向かって声をかけると、部屋着姿の裕子が出てきた。
「あら。今日は、俊介が持って行ってくれたのよ。タカちゃんに話があるからついでに持っていくって。まだ帰ってきてないみたいだけど、どこに行ってるのかしらね」
「そうですか。じゃあ、探してみます。いつも、沢山有難うございます」
「気にしないで。半分は店の残り物なの。出来立てでなくて悪いんだけど」
「そんなことありません。おばさんの料理はどれも美味しいし、栄養のバランスも考えてもらって、本当に助かります」
本音とも社交辞令とも取れる大人びた言い方に、裕子は微笑んだ。
「そうだ。俊介を見つけたら、これ渡してくれないかしら」
裕子は、玄関脇のフックに掛かっている俊介のジャンパーを、貴樹に渡した。
「夜はまだ肌寒いものね。タカちゃんも、その髪、早く乾かさなきゃダメよ。俊介のことは、後でいいからね」
「はい。おやすみなさい」
玄関のドアを閉め、貴樹は、腕にかけていた俊介のジャンパーに顔を埋めた。
洗剤の奥に隠れた俊介の体臭が懐かしい。離れたところから写真を撮るだけでは得られない、彼の記憶だった。
嗅覚の記憶は、時に理性を置き去りにする。
無性に俊介に会いたくなり、貴樹は濡れた髪のまま、近所の公園に向かった。この近くで俊介が行く所は、そこしかないように思えた。
子供の頃は鬼ごっこするのに充分な広さだった公園も、今は狭く感じられる。
貴樹が拗ねて泣いていた滑り台は背丈より低く、ジャンプしても掴めなかった鉄棒はぶら下がると膝がつく。
俊介は、三つ連なった鉄棒の一番高い所で、膝を曲げて懸垂していた。
「熱心だな。こんな時間までトレーニングか」
俊介を見つけた嬉しさが声に表れないように、貴樹は感情を抑えた。俊介は貴樹の姿を認めると、懸垂をやめてジャージの膝についた砂を払い落とした。
「タカちゃん、どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。うちに来たなら声かけてくれれば良かったのに。何か話があったんじゃないの?」
貴樹は、真ん中の鉄棒にもたれかかった。その立ち位置に合わせるように、俊介が、少しだけ鉄棒の端に寄る。七十センチの距離は、こんな時にも縮まらない。
「話はね、まあ、あったんだけど、お客さんが来てたみたいだったからさ。邪魔しちゃ悪いだろ」
「お客さん?」と、聞き返して、思い当たった。
玄関には、旭が履いている女物の靴が脱ぎっぱなしになっていた。
「ああ、もしかして、あの靴? あれは母さんのだよ。転任してきてから急に家庭訪問とか言ってさ、勝手にウチに上がるの。酷い話だろ。勝手に出てったのに、親父の留守に勝手に上り込むとかさ。本当、参っちゃうよな」
窮地に追い込まれて、つい要らないことまで口をついて出る。だが嘘をついてでも、旭が同居していることは知られたくなかった。
もし俊介にバレたと知れたら、旭は学校から帰っても俊介にくっ付いて離れないだろう。そうなれば、「僕だけを見て欲しい」という旭の野心は、ますます実現に近づいてしまう。それは、子供の頃に嫌というほど経験していた。
そしてあの頃と違うのは、貴樹が拗ねたからといって、俊介が迎えに来て慰めてくれるほど、二人が幼くないということだった。
「そうか。おばさんのか。だったら、挨拶すれば良かったな」
俊介の笑顔が少しだけ引きつって見える。
また何か間違ってしまった気がしてギュッと手を握ると、ジャンパーのファスナーが夜気で冷たく手のひらに刺さった。
「これ、おばさんから」と、俊介に手を伸ばしかけてやめる。この手が胸元に届いたら、その分、俊介がさらに離れていってしまう気がした。
貴樹は、俊介が寄りかかっている鉄棒の脇にジャンパーを引っ掛け、「で、俺に話って、何?」と沈黙しそうな空気を破った。
ジャンパーの行方を目で追っていた俊介は、「ああ、うん」と、思い出したように答える。
「予選会の日が決まったんだ。コンテストに出す写真が決まってないなら、撮影のチャンスかなと思ってさ。ほら、去年も来てただろ。手すりの間みたいなところから、すげえ格好で撮影してなかった?」
貴樹が撮影していた場所のことまで覚えている俊介に、貴樹は目を丸くした。その戸惑いを、俊介は別の意味で受け取ったようだった。
「ああ、もしかして、もう決めちゃった?」
「いや、まだ決めてない」
「それなら良かった。予選会なら、良い走りをする選手は大勢いるからさ。タカちゃんも、良い写真が撮れるんじゃないかな。……って、ますます俺のライバルが増えちゃうけど」
俊介は、「アハハ」と力なく笑い、足元の砂を蹴った。砂に混じった小さな石ころが、公園の砂利の上を転げていく。
「来てよ、タカちゃん。俺、これが最後の公式戦になるかもしれないけど、タカちゃんが見ててくれたら、ちょっとは良い成績出せそうな気がするんだよな」
貴樹は、「記録が伸び悩んでいる」と言った、旭の言葉を思い出した。いつもは弱音など吐いたりしない俊介の背中が縮こまって見える。
今のタイムでは県大会まで進めないと不安になりながらも、走る事をやめない俊介が堪らなく愛おしい。
「そんな事、言うなよ」
気づいた時には、鉄棒に引っ掛けたジャンパーを鷲掴みにして、俊介の肩にかけていた。
その瞬間、俊介の体がピクッと緊張する。それでも、離れることはできなかった。
貴樹は、ジャンパーの上から俊介の広い背中を摩った。それが、体だけでなく心までも温めてくれることは、自身が経験していた。
「マッサージ。たまには良いだろ」
貴樹の言葉に、俊介は拒絶の素振りを見せなかった。摩り続けると、強張っていた筋肉が徐々に弛緩していく。
「あったかくない?」
「あったかいよ」
「俺の、なけなしのパワー、注入してんだからな」
「それ、最強だな」
「それは……、言い過ぎだろ」
「いや。タカちゃんは、俺のパワーの源だからさ」
「バッ、バッカじゃないの」
嬉しすぎて、乱暴な言葉で誤魔化した。俊介の言葉の真意がどうであれ、今のひと言で充分だった。
「タカちゃん、マジであったか……冷たッ」
急に、俊介の背中が緊張する。鉄棒の上に乗せた彼の腕に、貴樹の髪から垂れた雫が落ちていた。
「あっ、悪い」
首にかけていたタオルで拭こうとすると、そのタオルを俊介が奪う。
「悪い、じゃないよ。タカちゃん、髪、乾かしてないだろ。もっと、ちゃんと拭かないと……」
貴樹の頭にタオルが被せられる。前髪の隙間から見上げると、俊介は、両手をタオルの上に乗せる直前でフリーズしていた。
口元をキュッと結んだ俊介と、目が合う。
独りよがりな期待が、貴樹の鼓動を強くする。
このまま、触って……。
俊介の苦悶にもとれる表情を見つめながら、貴樹は念じた。
その念が通じたのか、俊介はタオルの上から貴樹の頭を押さえつけ、「くぅっ」と聞き取れないほど小さな呻き声を上げて、濡れそぼった髪を拭き始めた。
貴樹は、「やめろよ」と、言葉だけで抵抗してみせる。
「俺はガキじゃないぞ。そんなこと、自分でできる」
「できてたら、濡れた髪でこんなところに来ないだろ。ガキと一緒だよ」
俊介の悪言に、頰が緩んでしまう。
俯いた視線の先で、俊介のフラップサンダルの爪先が、貴樹のコンフォートサンダルと向かい合っていた。気づかれないように徐々に右足を前に出し、サンダルから僅かに飛び出した親指に触れてみる。俊介は貴樹の髪を拭くことに集中していて、足先の微妙なタッチまでは感覚がないらしい。少し触れては、見つかるのを恐る子供のように、素早く足を引っ込める。ただそれだけのたわいも無い悪戯に貴樹の心はときめいていた。
この時間を終わらせたくなかった。
髪に触れる俊介の指の動きが心地良すぎて、「もう良いよ」のひと言が言い出せない。髪全体を拭き終えているはずの俊介の手も、同じところを何度も往復していた。
「寒くない?」
沈黙が妙に照れ臭くて、貴樹は口を開いた。
「ごめん。タカちゃんは寒いよな」
俊介は手を止めて、肩にかけていたジャンパーを貴樹にかける。
「いや、そういう事じゃなくてさ」
そう言いながらも、貴樹は、体を包み込む俊介の匂いと温もりに甘えた。
「タカちゃん、昔から寒がりだったもんな」
「そんなことないだろ」
「覚えてないの? 春休みになっても、まだ寒いって、外で遊ぶの嫌がっただろ」
「ガキの頃の話だろ」
「あっ、でも、手つなぎ鬼はやったよね」
「そうだっけ?」と、貴樹はとぼけた。
忘れるはずがない。
旭や晶と一緒に、手つなぎ鬼をした。
俊介は、自ら鬼を志願し、皆を逃す。そして近くに誰がいても、必ず貴樹を追いかけた。貴樹も、全力で走ることはしなかった。俊介に早く捕まえて欲しくて、彼の顔を見ながら遊具の周りをクルクルと回るだけだった。
いとも簡単に貴樹を捕まえた俊介は、「待ち伏せしようよ」と、旭と晶の目を盗んで、公園と隣家の生垣の間に隠れた。なかなか捕まえてもらえない彼らが、「シュンちゃーん、どこー」と叫び出すまで、二人きりで隠れる。
その間、二人は手をつなぎ、息を潜めていた。何をしたわけでも、何を話したわけでもない。ピッタリと寄り添った温もりにただ包まれていた。
あの頃は、それだけで充分幸せだった。
だが、その時期はとうに過ぎている。
時の流れとともに変わっていく関係を受け入れなければならない。
七十センチの距離が一気に縮まっただけで満足しなければならないのだ。
「いつまでも、こんな事していられないよな」
貴樹はそう呟いて、ジャンパーを俊介に返した。
「俺は大丈夫だって。タカちゃん、着てなよ」
「俺が着て帰って、お前が風邪でも引いたら、おばさんに何て弁解すれば良いんだよ。俺、おばさんには、良くできた高校生って思われてるからさ、多分。印象、悪くしたくないんだよ」
「こんな事で、タカちゃんの印象は変わらないよ。ウチは皆、タカちゃんのこと好きだからさ」
「何だよ、それ……」
俊介の言う『好き』に深い意味は求めない。求めなければ落胆することもない。
俊介の背中に触れた手のひらの、微弱な電気が走るようなむず痒さと、俊介が髪を拭いてくれた指の感触は、離れても体に残っている。暫くは、想像の中で思い出せるだろう。
少しだけ、ただの幼馴染に戻れた気がする。
なのに俊介は、公園を出ると、また貴樹と距離をとった。
並んで歩く貴樹が何気なく近寄ると、一、二歩、車道側に離れていく。そのくせ貴樹が歩道側に一、二歩離れると、その分近寄ってくる。
一瞬だけ交差した鉄道のレールが分岐点を経て再び並走するように、二人は等間隔のまま家への道を無言で歩いた。
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