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第24話 ただひたむきに

 予選会の日は、絶好の撮影日和だった。  貴樹は、一週間前からフィルムカメラに持ち替え、俊介の走りを追った。久しぶりに使ったフィルムカメラだったが直ぐに手に馴染み、被写体のスピードに合わせられれば、連写も問題なさそうだった。  撮影ポイントをチェックするため早めに家を出ると、門扉の脇に旭が立っていた。旭のなかでは同居の秘密はまだ有効のようで、人目に付かない塀の陰なら、貴樹の文句もかわせると考えたらしい。  「一緒に行こうよ」  いつものファッションに、幾つものタッパを詰め込んだ紙袋を抱えている。  「ピクニックじゃないんだぞ」と、貴樹が嗜めると、「だって、作りたかったんだもん」と、旭は口を尖らせた。  「今日は、多分、片倉のおばさんも来るぞ。冷凍食品の詰め合わせなんて、恥かくだけだからな」  「そうしたら、タカちゃんに食べてもらう」  「断る」  「タカちゃん、冷たーい!」  旭は、近所の様子を窺いながら、競技場に向かう貴樹の後ろをついて歩いた。  スタンドは、各校の陸上部員たちや選手の応援団などで既に半分近くが埋まっていた。  上の方からトラックとスタンドの位置関係をチェックしていると、貴樹を呼ぶ声がする。トラック間近の特等席から、孝介が手を振っていた。  「随分良い場所確保したな」  孝介に話しかけるが、彼の視線は旭に向いている。  「おばさんは?」  何を話しかけても孝介は答えない。そのくせ、貴樹のジャンパーの裾をやたら引っ張る。「何だよ」と言いかけて、旭を紹介して欲しいと言われていたことを思い出した。  「こいつ、俊介の弟の孝介」   孝介に親戚だと言ってしまった手前、旭の名前は出せない。  「孝介くん、よろしくね」  旭も自分では名乗らずに、孝介に手を差し出した。その手を両手で握って、孝介は恭しくお辞儀する。  「ナニ緊張してんだよ」  貴樹が頭を小突くと、「してないよッ」と、孝介は乱れた髪を丁寧に直した。  「じゃあ、俺、向こうに行ってるから」と、撮影者用の指定席を指さすと、両側から腕を掴まれる。孝介の方は、明らかに目が助けを求めていた。  「お前が紹介しろって言ったんだろ」  小声で文句を言うが、孝介は「だって……」と恥らうばかりで、貴樹の腕を離そうとしない。  無理やり振り解こうとした時、裕子が戻ってきた。  「タカちゃん、来てくれたのね。俊介が喜ぶわ。タカちゃんにカッコ悪い姿見せられないって、張り切ってたから」  「そうですか」  満更でもない気持ちを簡単な相槌で隠すと、隣で旭がむくれている。  貴樹は、「おばさん、こいつ……」と言いかけて、旭をどう紹介すべきか迷った。幼い頃の旭と晶を知っている裕子に、その場しのぎの嘘が通用するとも思えない。戸惑っていると、裕子の方から、「あなたが、アキラちゃんね」と、旭に声をかけた。  「話は玲香さんから聞いてるわ。大きくなったわねえ。もう学校には慣れた?」  「はい。俊介くんには、よくして貰ってます」  「そう。あの子にできることがあったら、何でも言ってね。さあ、ここに座って」  裕子は多くを聞かず、旭に隣の席を勧めた。  母はおばさんにどこまで話しているのだろうか。  まるでこの場で会うことを知っていたかのように、裕子が旭に接していることが、貴樹には腑に落ちなかった。根回しをするなら、自分にこそ話すべきなのに、どんな場面でも貴樹だけが蚊帳の外だ。  「まあ、今更だけどな……」とぼやきながら、貴樹は、撮影者専用に区切られたスペースに向かった。  撮影スペースにはスタンドのアール部分が当てられていて、想像していたより自由に動けそうだった。学校のスタンドと違って、直接フィールドには降りられないが、前方は低めに造ってあり、選手の頭の高さくらいまでは、目線を落とせる。  ローカルのテレビ局のシールが貼られたプロ仕様のビデオカメラや、新聞社の腕章をしたカメラマンたちの間を抜け、貴樹は、ひとまずポジションを確保した。  トラックにレンズを向け、俊介の走りをイメージして、スタートからゴールまで想定するスピードでカメラを動かしてみる。最後のコーナーを抜ければ、レンズを遮るものは何もない。大会プログラムでは、俊介は外側から二番目のコースを走ることになっているから、ワンショットのカットが撮影できるか微妙だが、他の選手が画面に入ることで競り合う雰囲気も撮影できるだろう。  ハードル競技が始まるまで、貴樹は、他の走者で腕を慣らした。  ハードル競技の前に行われた短距離の走りは流石に早い。途中でフレームから外れ、何度も断念する。だが、「俊介がハードルで助かった」などと安堵したのも束の間だった。  ハードル競技の一、二組。トップの選手を追うがフレームの中央で捉えることができない。だんだん焦ってきて、カメラを持つ手が冷たくなる。  心臓がうるさいほど拍動した。  それは、上手く撮れないのではないかという不安だけではない。日頃、学校のトラックで追っている俊介のスピードと、歴然とした差を感じたからだった。  「これが最後の公式戦になるかもしれない」と言った俊介の言葉が実感を伴う。  手から噴き出してくる汗を綿パンで拭くと、三組目がトラックに入ってきた。  俊介がスタートラインに並ぶ。  貴樹は、俊介にピントを合わせた。  走る前のルーティンで肩や首を回し終えると、彼は正面を見据えてその時を待つ。  「On Your Marks」  スターティングブロックに、足がかかる。  「Set」  腰を上げた。  パンッ!  乾いたピストルの音で、一斉にスタートが切られる。  スタートは悪くない。  外側のレーンはコーナーで距離が長くなる分スタート位置が前方になり、途中まで内側のトラックの選手より先を走っているように見える。そのタイミングも狙っていたのだが、俊介は早々に追い越された。それでも、フレームから外れないように連写を繰り返す。  俊介の爪先がハードルに当たった。ガシャンという重たい音が響く。ややリズムを崩しながらも、彼は跳び続ける。躓きそうになっても、一瞬も止まることなく。ひたすら目の前のハードルに挑む。内側のコースの選手に次々と追い抜かれても、この先、公式戦を走るチャンスはないかも知れないと感じていても。片倉俊介は、ただひたむきに走る。  「頑張れッ、頑張れッ」  貴樹は、心の中で叫んでいた。  走り続けていて良かったと。胸を張れる競技生活だったと。貴樹の故障のことなど過去の出来事に過ぎないと。俊介には、何の悔いもなく笑顔でフィニッシュを切って欲しい。  だが、俊介が最後のコーナーを回って直線に入った時、他の選手たちは、既にフィニッシュラインを越えていた。否応無く見せつけられる圧倒的な差。  俊介は、県大会出場のための標準記録を突破することができなかった。高校での陸上選手としての活動が、終わりを迎える。  貴樹は、フィールドで座り込んでいる俊介を、望遠レンズから覗いた。今直ぐにでも迎えに行ってやりたいが、部外者がフィールドに降りることは許されない。  いつもなら競技後の俊介を撮影することはないが、これが最後かと思うと、一枚でも多く記録せずにはいられなかった。とはいえ、情けない格好の彼を撮影するつもりはない。  膝に手を置いて何とか立ち上がり、控え室に向かう俊介をレンズで追う。筋肉のついた肩が下がっている。顔をタオルで拭っているのが、斜め後ろの角度から見えた。  選手生活を終えた直後の、走りきった男の顔を見た気がして、思わずシャッターを切る。  その時だった。  スタンドの近くにいた選手がフレームの左右から同時に入ってきて、両手でハイタッチした。俊介の姿は、互いの記録を讃えあう二人の腕の間にスッポリと収まる形になった。  「そんな……」  偶然に撮った一枚が、敗者と勝者のコントラストをつくる。  デジタルカメラなら直ぐに削除してしまうのに、それもできない。手前の選手が入らない場所に移動したが、俊介の姿はもう見えなかった。  貴樹は、競技場を出て殿村のスタジオに向かった。  良い写真の一枚でも撮れていれば、選手生活最後の餞にでもなる気がした。慰めの言葉が下手な貴樹が俊介にできることは、それしかないように思えた。  事務所の中に設えられた暗室には、封をしたままの現像液や定着液のほか、新しいスポンジや温度計などの備品まで揃えられていた。  貴樹が恐縮すると、殿村は、「仕事じゃあ、デジタルで撮ってデータで渡すことが多いから、最近あまり使ってなくてね」と、その理由を話し、「良ければ、僕も入ろうか」とサポートを申し出てくれた。  だが、貴樹は、「フィルムの現像だけでも一人でやらせて欲しい」と我を通した。ネガに写された最後の一コマを、殿村に見られたくなかった。  現像、停止、定着、水洗いと、予定通りの工程を終えたフィルムを、暗室内に吊るされているクリップで挟む。  フィルムの端を摘んで写し出されたカットを頭の方から見てみると、俊介の走りは思ったよりも良く撮れていた。紙に焼いてみないと何とも言えないが、ピントも合っていて、構図もそれほど悪くない。他のコースの選手たちと競っている雰囲気も出ている。  ただ最後のカットの印象が、その前の全ての走りを圧倒的に凌駕していた。  「貴樹くんは、もう決めたの?」  乾いたフィルムをビューワーで確認しながら、殿村が聞いた。  彼は、暗室からなかなか出てこない貴樹が、現像に失敗でもしたのではないかと心配して、ライトボックスやビューワーを準備して待っていた。  「最終的には、紙に焼いてからにしようと思ってます」  「因みに、候補は?」   貴樹は、最初のコーナーで他の選手より体一つ抜きん出ているカットと、全員に抜かれた後、俊介が最後のハードルを越えるワンショットのカットを指差した。  「なるほどね。まあ、悪くはなさそうだけど……ラストのカットは?」  殿村は、喜び合う選手の奥で肩を落とす俊介のカットを指した。  貴樹の不安が的中する。  殿村に見せる前にラストカットをハサミで切り落としてしまおうかとも考えたが、それさえ思い切ることができなかった。  「これは、偶然撮ってしまったカットで。……何というか、自分がイメージしているカットとは余りにかけ離れていて……コンテストにはちょっと……」  「写真の大半は、偶然の産物だよ。特に、スポーツ写真の場合はね」  「そうかも、しれませんけど……」  「幼馴染の彼に、君の意思だと思われたくない、ってことかな……」  「それは……」  写真は怖い。自分の視点が画像として残ってしまう。  以前、「良い写真には撮影者の意思が映し出される」と、殿村は言った。貴樹には、このカットが良いとは微塵も思えないが、殿村が何かを感じ取っているなら、それは誤解だ。言葉で与えてしまう誤解以上に、画像として残ってしまったものを弁解するのは難しい。  「このカットは、誰にも見せるつもりはないんです。多分、あいつの最後の大会になるから、全てを撮っておくつもりでシャッターを押しただけなのに、ほんとに偶然……」  「手前に人が入ったのか……」  「はい……」  「僕なら、偶然の幸運だと思うけどなあ。でも、そうだよな。君は、ドキュメンタリー写真じゃなくて、彼を撮っているんだもんな」  殿村は、さも残念そうに呟いた。  「……玲香さんには見せるの?」  「いえ、母に自分の撮った写真を見せたことなんて一度もないですから」  「じゃあ、最初に見たあの写真は?」  「知らない間に、勝手に持って行かれたんです」  「なるほどなあ」と、深く頷き、殿村はクスクスと思い出し笑いをした。  「前に、僕、自分探しの旅に出て留年したって言ったでしょ。あれ、きっかけは玲香さんなんだよね」  「ええっ?」  「『あなたの写真は何を撮りたいのか解らない』って真顔で言われて、なんかムキになって海外を放浪したんだ。で、撮ってきた写真を鼻高くして見せたら、『私に見せて満足してる場合?』って、ハッパかけられて。結局、その時の写真が写真集になって、今、僕はカメラマンとしてここにいるっていう。……玲香さん、そういう話もしてないよね、きっと」  「聞いてません……すみません」  「いやいや。それも、玲香さんらしいんだけどね。今思うと、当時の僕は、彼女に褒めて欲しかったんだと思うんだ。どんなことでもいいから認めて欲しかったんだな。ほら、玲香さんって、愛想はないけど、嘘をつかないだろ。あの頃は、最も信頼できる人だったんだと思うよ。……だからね、彼女が写真一枚持ってきて、貴樹くんにバイトをさせたいって言った時、二つ返事でOKしたんだよね」  「やっぱり、バイトの件って、母からお願いしたことなんですね」  「あッ、ごめん。聞かなかったことにして」  「口止めされてるってことですか?」  「うーん、口止めっていうか、彼女の中では、言う必要のないことって感じなんじゃないかな。バイトのきっかけはつくるけど、やるかどうかは貴樹くん次第、みたいな感じ? いや、ただのテレ隠しかな。実は、貴樹くんのスーツを用意したの、玲香さんなんだよね。あと、ハードルの写真をフレームに入れたのも、多分、彼女だと思う」  バイトの報告をした時、スーツを用意してもらったことも話したはずだ。代金を払ったほうがいいか相談すると、「高校生が気にすることではない」と言われた。  どこまで隠し事をしているのか、貴樹にはもう訳が判らない。  「僕が言うまでもないけど、玲香さんは眼力があるよ。それ故に、人当たりがきつくなることもあるけど、ここぞという時に誰よりも頼りになる。まあ、そういう意味じゃあ、『コンテストの写真くらい自分で選べないの』って、小言言われるかもな」  「そうですね。『あなたは、どれにしたいの?』って、聞かれると思います」  貴樹は、その答えが、既に自分の中にあることを確信していた。

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