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第26話 大事にしたいのに
日が傾くと、物置の空気は冷んやりとした。
絶頂を迎えた時の火照った体は時間とともに鎮まり、薄暗い中で、胸板の厚い俊介の体が背後から貴樹を温める。二度と縮まらないと思っていた距離を一気に詰められて、貴樹は、やはりこれも夢なのではないかと、ボンヤリした頭で思う。俊介の胸が貴樹の背中から離れた途端、何もなかったかのように日常に戻ってしまいそうで、貴樹は前に回された俊介の両腕をしっかりと掴んでいた。
「タカちゃん、今日、ごめん」
貴樹のうなじに、俊介の湿った声が吹きかかる。
予選会のことだと察しがついた。
「今日の走り、全然ダメだったよ。あれが最後の走りだなんて、情けないよな。もっとカッコ良く走れたら、タカちゃんの被写体は俺で決まりだったかもしれないのに。あんなんじゃ、真っ先に選考から落とされちゃうな」
貴樹は、カメラバッグの中のフィルムを思い出した。
殿村には、そのまま暗室に置いていけば良いと言われたが、自宅の物置のロープに吊るして、もう一度カットのチェックをするつもりで持ち帰っていた。俊介が来るのが貴樹よりも遅ければ、彼の目に触れていたかもしれない。
俊介を傷つけずに済んだことを、貴樹は心から安堵した。
「本当のこと言うとさ、俺、ずっと俊介しか撮ってこなかったんだよ。俊介の走ってる姿だけ撮ってきたんだ」
さっき放った性的な匂いに、理性が負ける。見栄とか言い訳とか、もうどうでも良い気がした。
「紙焼きのテストにしたなんて嘘。俊介のいちばん格好良い姿を写真に残しておきたくて、いっぱい焼いたんだよ。ここに吊るしてあるのなんて、ほんの一部。棚の中には、この何倍もあるよ。だって、お前……」
貴樹の言葉ごと抱きしめるように、俊介は貴樹を包み込む両腕に力を込めた。
「俺、陸上やめなくて良かったぁ」
「陸上、辞めるつもりだったの?」
「記録が……伸びなくてさ。鷺ヶ原の陸上部で走るには短距離は無理だって、入部早々監督に言われたんだ。ハードルならまだ可能性があるかもしれないって、勧められるままにハードルを始めたんだけど、高校から始めるハンデって結構でかくてさ。最初はハードル倒しまくるし、着地失敗して転んでばっかりだし、もう無様ったらないの。部活が休みの日もこっそりトレーニングしたんだけど、それでもタイムが縮まらなくて、これじゃあ、タカちゃんに見捨てられると思ったんだよね。だからもう、いっそのこと陸上やめて、別の競技で良いところ見せないとダメかなって」
貴樹には、俊介の話の意味が理解できなかった。
見捨てられたのは、自分の方ではないか。
「俺が見捨てるって、ナニ?」
「タカちゃん、陸上をやめてからグラウンドの隅っことかで写真撮ってただろ」
隠れて撮っていたつもりだったのに、俊介にはバレていたらしい。
「何を撮影してるのかは判らなかったけど、俺が良い走りをしたら、被写体に選んでくれるんじゃないかって。グラウンドで走り続けてたら、俺のこと、レンズ越しでも見ててくれるんじゃないかって思ってさ。フォーム直したり、一つでも多くの大会で選手に選ばれるようにって、ハードルに転向したりしたんだけどね」
「俺のせいだったの、ハードルに転向したの?」
「違うよ。タカちゃんのお陰で、俺は、好きな陸上を今まで続けてこられたんだって。言っただろ、タカちゃんに見られていることが俺のパワーになるんだって」
確かに、予選会の前に公園で会った時、俊介は、「見ていてくれたら、ちょっとは良い成績が出せそうな気がする」と言った。
だけど……。
「でも、俊介、さっき、別の競技に変わろうとしたって……」
「まあ、最悪ね。タカちゃんの気を引くには、そういうことも必要かなって思っただけ。ほら、タカちゃん、怪我の後、陸上部やめて、高校もさっさと一人で決めちゃっただろ。怪我の原因は俺だから避けられても仕方ないとは覚悟してたけど、このまま離れ離れになったら、もう、俺のことなんて隣の家の幼馴染くらいにしか思ってくれないんじゃないかと思ってさ。子供の頃はあんなに一緒にいたのに、過去の存在にされたら寂しすぎるだろ。でも、俺に被写体としての価値があれば、タカちゃんは離れて行ったりしないんじゃないかって……。都合のいい考えだって、解ってはいるんだけどね」
二人は、互いの姿を追っていた。近づきたくても近づけない。なのに、離れることもできなくて。それぞれがバトンを握りしめながら、半周先を走る相手を追って、一本のトラックを走り続けていたのだ。
いや、逃げずに追いかけ続けてくれたのは俊介だけかも知れない。
練習しても記録が伸びず、他の部員たちにも冷めた目で見られ、それでも走ることをやめなかった。俊介が走り続けてくれていたからこそ、貴樹は同じトラックの上を追いかけることができたのだ。
「だから、怪我は俊介のせいじゃないって……」
詰まりかけた声を、貴樹は必死で振り絞った。
今度こそ、わずかな誤解もないように、俊介に伝えなければいけない。
「俺は、お前と走るのが楽しくて、お前が、『もう一本』って、俺の手を取ってくれるのが嬉しくて、自分の体の異常に目を背けてたんだよ。手術した後も本当は走れたんだ。でも、前みたいなタイムが出なくなったら俺のポジションに誰かが入る。そういうの、見るのが辛くって、陸上部をやめたんだ。お前を好きになってどうしようもなくなって、現実から逃げようとしたんだ。俊介は闘ってたのに、俺は……俺は、自分の方から逃げたくせに、お前が視界からいなくなるのが寂しくて……カメラで盗み見るような真似しかできなくて……なのに、なんで俺が……俺が俊介を過去の存在にするなんて、そんなこと、できるわけないだろ……」
ひと言も漏らさず、きちんと伝えなければならないと思えば思うほど、嗚咽がそれを遮ろうとする。耐えきれずに、貴樹は、俊介の胸の中で背中を丸めた。
「タカちゃん、こっち向いて」
「やだ……」
「涙、止めてやるから」
「泣いて、なんか、ない……」
項垂れた貴樹の頬を、俊介の大きな手が撫でる。
「濡れてる」
「鼻水、だから……。寒くて、鼻水、出たんだよ……」
「じゃあ、舐めてみようか。そうしたら、涙か鼻水か判るだろう」
「バ、バカッ」
俊介の動きを封じようと見上げる貴樹の顔が、涙と鼻水でグチャグチャになっている。
俊介は、手元にあったティッシュで貴樹の鼻水を拭った。その残骸が、別の体液を含んだものと混ざって、貴樹に恥じらいをもたらす。
「俺、子供みたいじゃないか」
「子供の頃は、こんなことさせてくれなかっただろ。何でも一人でできて、世話を焼きたくても焼けなかったよ。俺の前で泣いたのも、あの時一回きりだった」
俊介の両手が、貴樹の頬を包んで引き寄せる。
「今でも、俺の一番はタカちゃんだよ。そのショウコ……」
貴樹の目尻に残る涙を唇で吸い上げ、そのまま涙の跡を辿って貴樹の唇へと下りてくる。
今度は、貴樹も目を閉じた。
軽く閉じた唇の隙間から、俊介の舌が入ってくる。いつか夢で見たキスに、貴樹は薄く唇を開いた。
だがそれは、一瞬のことだった。
「ああ、ダメダメ」と、俊介が体を離す。
「これ以上やったら、もう競争だけじゃ済まなくなる」
俊介のジャージの股間が、膨らみ始めていた。
「何だよ。キス魔のくせに、キスする度にデカくして。誰彼なくサカってるなよ」
現実に引き戻された寂しさが、俊介への誹りとなった。
「俺、キス魔じゃないし、誰にでもサカってるわけじゃないよ」
「旭には?」
「するわけないだろ。あいつはただの幼馴染だって……。あっ、タカちゃん、やっぱり旭にヤキモチ妬いてたんだな。タカちゃん、そんなに俺のこと好きだったんだあ」
「バッ、バカッ。ンな訳ないだろ。……そうだ。お前さっき、俺に触るの我慢してたとか言ってなかった? お前こそ、俺のこと大好きだだろ」
照れ隠しで言ったつもりが、俊介は「そんなの決まってるだろ」と真顔になる。
「俺、ずっとタカちゃんとのこと考えててさ。その……タカちゃんのこと想像してナニしてたから……体が勝手に反応しちゃうんだよ。だから、二人でいる時はできるだけ近づかないように注意したりしてさ……。マジで、気持ち抑えるの大変だったんだからな。タカちゃん見て反応したら、軽蔑されて、タカちゃんの記憶から一生抹殺されかねないだろ」
俊介が七十センチの距離を取り続けた理由が、あまりにも想定外で体の力が抜けそうになる。
貴樹は、「何だよー、そうか、そうだったのかー」と、声をあげて笑った。
「笑い事じゃないよ。俺にとっては真剣な悩みだったんだからな」
「ごめん。そうだよな。解るよ、その気持ち。俺も、俊介でヌイてたから……」
嬉しくて、貴樹もつい白状してしまう。
「あああ、くそっ、想像しちゃっただろ。俺が必死に抑えてるの、解らないかな。俺、タカちゃんのこと、大事にしたいんだよ。勢いに任せるみたいなことしたくないんだ」
「何だよ。俊介が言い出したんだろ」
「もう無理。もう知らない。イヤなら、力づくで俺を止めるしかないからな」
俊介が、力いっぱい貴樹を抱き寄せた時、突然、物置に明かりが点いた。
「もう、いいかな」
ジャージ姿に素っぴんの旭が立っている。
二人は、持ち前の反射神経の良さで体を離した。
「お、お前、いつから……」
「安心して。二人の下ネタなんて、人に話す気ないから」
狼狽する貴樹に、旭は事も無げに言った。
「ねえ、お腹すいた。タカちゃん、何か作ってよ」
「何だよ、今日に限って。いつもはコンビニ飯とかで済ませてるだろ」
「今日はいろいろあったから、美味しいもの食べてストレス解消したいの」
「味音痴なんだから、何食べても一緒だろ」
「タカちゃん、そういうこと言うんだ。今、二人がここにいるのって、誰のお陰か解ってるよね」
旭は腕を組み、仁王立ちで二人を見下ろす。
俊介が大きな溜息をついた。貴樹は、俊介との関係が急展開せずに済んだことを心のどこかで安堵した。
「タカちゃん、俺も手伝うよ」
「いいよ。俊介、疲れてるだろ。何か食べたいものある?」
「肉かな。それと、タカちゃんの玉子焼き」
「じゃあ、買い物行かないとだな」
「一緒に行くよ」
「うん」
腰をあげる二人に、旭が語気を強める。
「それとぉ、僕の前でイチャイチャするの禁止ッ!」
「はいはい」
貴樹と俊介の声がハモった。
外は、とっぷりと日が暮れていた。
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